すばらしいえんそうか
ぱちん。
「ちぇ、また逃げられた」
彼は、眠れずにいた。
開いた窓からは風はなく、蒸し暑い夜だった。強めに回る扇風機も、部屋の熱気をかき回しているだけだった。汗と湿気を吸って重くなったタオルケットが、余計に暑苦しさを感じさせていた。
寝返りを打つばかりでなかなか眠れないのは、暑さのせいだけではない。
いつの間に迷い込んだのか、一匹の蚊が部屋を飛び回っているからだ。ときおり、耳元を羽音が漂って、そうなると刺されてもいないのにかゆくなったような気分になる。眠るどころではなかった。
羽音がするたびに見当をつけて、不埒な闖入者を叩き潰そうとする彼だったが、空しく手を打ち鳴らすに終わってしまう。それで一旦は静かにはなるが、しばらくするとまた、蚊は耳元をうるさく飛び回る。
何度もそれを繰り返して疲れ果てた彼は、蚊の退治を諦めた。
「もういいわい、食われても知るか! 寝よ」
蚊の音に煩わされないように、タオルケットを頭までかぶって寝ようと試みる彼だったが、暑さを我慢しきれずに、顔を出してしまった。
と、そこへまた蚊の羽音が聞こえてきた。
くたびれていた彼は、もうどうにでもなれ、とばかりに抵抗せずじっとしていた。
しかしそうしていると今度は、それほど耳障りだとは感じなかった。それどころか、微少に音の高さが変わったように聞こえた。そう思う間にも、蚊は、さらにいろいろな高さの音を出しはじめる。
様々な羽音はやがて旋律に変わっていき、気がつけば弦楽奏のように鳴り響いていた。
それはとても素晴らしい演奏だった。聞いているうちに先ほどまでのイライラした気持ちは解きほぐれ、強張っていた体の力もゆっくりと抜けていく。
そうしていつの間にか、眠りに落ちていた。
朝の日射しのなかで、心地よい睡眠から目覚めた彼は手と足のかゆみに気づいて、ポリポリとかきながら起き上がる。
赤くなった肌は、蚊に刺されたあとがくっきりと残っていた。
「これが、演奏会のお代ってわけ?」
悪態をつくように呟くが、決して悪い気はしなかった。不思議な夜の出来事ではあったが、とにかく素晴らしい演奏だったのだ。
耳の奥の余韻に浸りながら、ベッドから立ち上がった彼の目の前を、一匹の蚊がふらふらとよろめくように飛び過ぎようとしていた。
ぱちん。
反射的に打ち鳴らされた彼の手を、蚊はかろうじてすり抜けた。
「拍手なら」
と、彼の耳元で蚊は言った。
「演奏前にもたくさんいただきましたよ」
夏の一夜の物語です。