推しの空気になりまして
校舎前で、天使とすれ違った。
あ。いい匂い――。
そうか。かわいい子は体臭までもかわいいのだ。
素敵な気づきをありがとう、神様。
今日一番幸せな気持ちで振り返る。
たくさんの生徒が行き来する校舎前に敷かれたレンガの道を歩く、一人の天使。その背中があった。
彼女は同じクラスの天野のばらちゃん。金髪ロングの美少女だ。とにかく顔がいい。
あまりにもかわいいのばらちゃんに対して、同性の私が向ける感情は、嫉妬でも羨望でもない。
のばらちゃんは、私の推しだ。
シスターのように目を細めて微笑み、スッ、と両手を合わせる。
神様。私は、あの子の周りを漂う空気になりたい。
「尊い――」
それが私の最後の言葉になった。
☆
――気がつくと、推しの空気になっていた。
彼女が愛用しているシャンプーの、ローズフローラル的な香料をかすかにまとった空気になって、何度も何度も彼女の気管支に吸い込まれていた。
なんだこれ。夢か?
しかしほっぺをつねることさえできない。空気だから。
私たちは教室にいた。のばらちゃんは他のクラスメイトと同じように、おとなしく自分の席に座っている。みんなやけにテンションが低い。
「皆さん。大事なお知らせがあります」
ひどく深刻な表情の先生が、黒板の前に立っていた。
「昨日、清水 はやてさんが校内でケガをして、病院に運ばれました」
その名前こそ、紛れもなく私の本名だ。
クラスメイトたちの視線が、教室後方左端に集まった。窓際に配置された、日当たり良好な好物件が私の席である。
今、そこは空席であった。
「落ちてきたバケツが頭にぶつかったんだって」
「まだ目が覚めないんだって」
「大丈夫かな……」
「はい、静かに!」
ぱん、と先生が鳴らした手の音で、クラスメイトたちの声のさざなみが小さくなる。
「何か知っている人は、報告に来てください」
そんな感じで、朝のショートホームルームは終わった。
先生が教卓から離れると、生徒たちも解放されたように動き始める。そんな中、自分の席についたままうつむいているのばらちゃん。憂いを帯びた表情も尊い……。
のばらちゃんを包み込んだまま感動していると、のばらちゃんの席の周りに女子生徒たちが集まってきた。私の体が拡散されてしまう。
「のばら、大丈夫?」
「仕方ないよ。目の前であんなもの見ちゃったら」
あんなものとは失礼な。こっちだって好きで幽体離脱したんじゃねーよ。
「気にしないほうがいいわ。ねっ」
「それより、昨日のテレビ見た?」
クラスメイトは薄情なようだ。
仕方ないか。私は、推しの空気になる前から、空気みたいな人間だったから。
「私……」
のばらちゃんのぷるぷるなピンク色の唇が動く。
「お見舞いに行く」
え……えぇ〜っ!?
どうしよう! のばらちゃんが私のお見舞いに来ちゃう! 気の抜けた(下手したら魂が抜けてる)顔を見られちゃう!
と慌てても、空気なので手も足も出ず。放課後になると、のばらちゃんは宣言通り、花屋さんで花束を買って、私が入院しているという病院に来てしまった。
「早く元気になってね、はやてちゃん」
病室のベッドに寝ている私に話しかけ、聖母のような微笑みを浮かべるのばらちゃん。やめて! 尊すぎて召されちゃう!
意識がないとはいえ、こんな笑顔を向けられて、微動だにしない私(の体)が信じられない。
のんきに寝てんじゃねーぞこのタコ! お礼を言わんかい!
☆
次の日。私はただ推しだけを視界に入れて、学校での一日を過ごした。
放課後になると、のばらちゃんはホウキとちりとりを持ち出して、廊下の掃き掃除を始める。真面目か? 感動しすぎて湿度あがってきちゃった。
「ひっくしゅん!」
舞い上がったホコリで、のばらちゃんがくしゃみをする。
あっ――
という間に、私が広範囲に拡散した。空気だからね、仕方ない。
「のばらに水やりしようとして、うっかり落としちゃったバケツが、まさか全然関係ないヤツにぶつかるなんてねー」
むむ?
気になる会話が聞こえた。
空き教室の中で、ヤンキー女子三人組が話し込んでいる。
「黙っとけばバレないっしょ」
大胆不敵にキャハハハと笑う三人組。
私はともかく、のばらちゃんを狙うとは……許せん。
理科の先生によれば、音は空気などを振動させることによって伝わるらしい。
私は三人組の声の振動をまとい、それを職員室まで運んだ。職員室の中に、ヤンキー三人組の悪のたくらみが響き渡る。デカい声でしゃべったのが運の尽きだな。
「この声……」
デスクワークしていた生徒指導の先生が顔を上げる。あとはお任せします。
なるほど。空気は存外チートみたいだ。
☆
当然のようにのばらちゃんの部屋に上がり込み、ベッドで眠っているのばらちゃんに一晩中吸ったり吐いたりされていると、いつの間にか夜が明けていた。静かな部屋に目覚まし時計の音が鳴り渡る。のばらちゃんの白魚のような手が目覚まし時計に叩きつけられた。
おおう。意外と勇ましい。だがそれがいい。
「ん~……」
のばらちゃんがベッドから起き上がり、伸びをする。ベッドから起きてくると、カーテンを開けて、ベランダに出た。そして、胸いっぱいに空気を吸い込む。
「空気がおいしい!」
おそまつさまでした!
のばらちゃんが朝の支度をする間、私は空気清浄機で身を清めた。空気なりの身支度だ。推しに吸われる以上、ハウスダストとかウイルスとかは可能な限りシャットアウトしなければ。
自転車をこぐのばらちゃんについていき、のばらちゃんと一緒に改札を通った。駅のホームで電車を待ちながらスマホをチェックするJKのばらちゃん、かわいい。朝から供給過多すぎんよ。
電子掲示板が電車の通過を予告する。ホームの向こうから電車がやってきた、そのとき。
スマホを見ているのばらちゃんの背中を、誰かが押した。
「あ――」
危ない!
私は即座に突風となり、のばらちゃんをホーム側に押し返す。
ごう、と風を巻き上げて、電車が通り過ぎた。
きょとんとした顔で尻もちをついているのばらちゃん。黒いキャップをかぶった男が、舌打ちしながら人ごみをかき分けて走り去る。
天使と見まがう美少女な上に、両親がめちゃくちゃお金持ちなのばらちゃん。どうやら殺し屋に命を狙われているようです。
仕方ない。ピーチ姫しかり、美少女はさらわれたり命を狙われたりするのが仕事だもんね。
下校の途中。ビルの屋上から放たれたライフルの凶弾からのばらちゃんを守るため、突風となってのばらちゃんを包み込む。
「きゃ!」
ふらついたのばらちゃんのこめかみの真後ろを通り抜けた弾丸が、ブロック塀の一部を砕いた。
そんなことより、私のせいでのばらちゃんのスカートがめくれてしまうトラブル発生。
YES推し事NOタッチ!
しかし、空気なので閉じられるまぶたがない。
「もう……エッチな風さん」
エッチでごめん。でも、恥ずかしそうな顔も推せる。
それにしても最近ののばらちゃん、命を狙われまくってるなー。車にひかれそうになったし、川で溺れさせられそうになったし、ワニのエサにさせられそうになったし……他にもいろいろ。でも毎回私が助けてるので、かわいいのばらちゃんは今日も元気なのでした。まる。
「クソッ! 外でやると、なんかダメだ!」
しかし刺客のみなさんも、そろそろアカンことに気づいたようです。悪の一味が運転する黒いワゴン車の中からお送りしています。
ワゴン車が、住宅街を横切る道路で止まりました。車の隣を歩くのは……のばらちゃん!
ワゴン車の後部座席から二人の男が降りて、のばらちゃんを羽交い絞めにする。させるか!
「な、なんだ!? 風のせいで、ドアが閉まらねえ……!」
「何やってんだノロマ! 誰かに見られたらどうする!?」
しかし、私もしょせんはJK。台風並みの威力でドアを遮ったけど、男5人の腕力にはかなわなかったよ……。
手足を縛られ、口をガムテープでふさがれて、車の後部に転がされるのばらちゃん。逃げて! のばらちゃん超逃げて!
「SPがついてるわけでもねえのに、手こずらせやがって……」
「何か憑いてるんじゃねえか? このターゲット……」
息切れした5人の刺客が車を走らせる。たどり着いた先は山奥の廃工場だ。
5人はのばらちゃんを椅子に縛り付け、彼女の足元に時限爆弾を置いた。
「へへっ、あばよ」
暴れるのばらちゃんを放置して、刺客たちが立ち去ろうとする。
させるか!
私は5人の刺客の周囲から空気を奪い、酸欠状態にして彼らを倒した。最初からこうすればよかったな。
暴れていたのばらちゃんが、椅子ごと倒れる。その視線の先にあるのは、割れたガラス片だ。
私がガラス片をのばらちゃんの方に寄せてあげると、のばらちゃんはびっくりした顔で3秒くらい固まっていた。けれどすぐに我に返り、手足を縛るロープをガラス片で切る。
もう時間がない。のばらちゃん超逃げて!
しかし……のばらちゃんは、泥で汚れた顔に必死な表情を浮かべて、刺客たちを引きずって廃工場の外まで運んでいった。
もう、この子ったら……もう。どこまでも天使。
私にできることと言えば、少しでものばらちゃんの負担が減るように、追い風になってあげることだけだ。
廃工場に取り残された時限爆弾が、爆発した。
真っ赤な炎が窓をぶち破り、噴きあがる。のばらちゃんに襲い掛かろうとしたふらちな熱風は私が押し返した。
無事に5人の刺客を救出し、ぜえぜえしながらしばらくうつぶせになっていたのばらちゃんは、刺客が持っていたスマホで警察に通報した。立ち上がり、ふらつきながら歩いていく。
「ううっ……帰り道が分からないわ……」
刺客のスマホでマップを開けばええんやで……と思ったけど、私は空気なのでアドバイスできない。
「仕方ないから、占いで……」
のばらちゃんはそこらへんに落ちていた木の枝を地面に立て、木の枝が倒れた方向へと歩く。
上昇気流になって空へとのぼり、のばらちゃんのおうちの方角を確認した私は、そよ風になって、木の枝をそちらの方向に倒した。
「あっちね」
そうです。
――数時間後。
制服も、白雪姫みたいに真っ白な肌も泥だらけになってしまったけれど、のばらちゃんはちゃんと警察に保護されて、家に帰った。
お風呂上がりののばらちゃんが、自分の部屋に戻ってきた。
パジャマ姿! まぶしすぎて目が! 目があああ! あっ、目は無いんだった。
のばらちゃんが、不意にぐるりと部屋の中を見回す。探し物かな?
「誰か、私のそばにいるの?」
…………。
「ずっと……守ってくれていたのよね」
…………………………。
部屋の壁にかかっているカレンダーを、ちょっとだけめくりあげる。
それを見て、のばらちゃんが微笑んだ。
「ありがとう……」
空気にもかまってくれるのばらちゃん、マジ天使。
……でも。
私がただの空気みたいなクラスメイトだったときも、のばらちゃんは、そうやって笑いかけてくれたよね。
何の形にも表現できてないけど、あのときから、ずっと。
私、のばらちゃんが大好きだよ……。
「あなたとお話できたらよかったのに」
それなら、私……
普通の女の子に、戻ってもいいかな。
☆
「のばら、ごきげんよー」
「ごきげんよう」
靴箱から上履きを取り出していると、小鳥のさえずるような声が聞こえた。
「はやてさん!」
名前を呼ばれ、そちらに顔を向ける。
「ごきげんよう!」
「ご、ご、ごきげんよう」
まるで友達に会ったように親しげな笑顔で近づいてきたのばらちゃんは、固まっている私のそばで、ローファーを自分の靴箱に入れた。代わりに取り出された上履きがガラスの靴に見える。
「もうすっかり元気そうね」
「はい……おかげさまで」
上履きのつま先でトントン床を叩き、小さなかかとを上履きに収めたのばらちゃんが、顔を上げた。
ふわっと甘い匂いが漂う。
いい匂いだ。
「……ジャンプー、変えました?」
「気づいてくれたの? 嬉しい」
「ふへへ……」
私はのたのたと上履きを履き、横目でチラッとのばらちゃんを見やる。
もしや、待っててくれている……?
「ね。一緒に教室まで行きましょう」
「いいんですか」
「もちろんよ」
なんと。
驚くべきことに、のばらちゃんと教室までデートすることになってしまった。全米が泣く。
何を話せばいいんだろう。くっそ、こうなると分かってたら一週間前から話題を考えてきたのに。
5分足らずのデートコースが半ばに差し掛かったところで、のばらちゃんが「あ、そうそう」と立ち止まった。カバンをごそごそ漁って取り出したのは、パステルピンクのA4ノート。
「はい、どうぞ。はやてさんが休んでいた分のノート」
丸っこい文字でのばらちゃんの名前を書き込まれたそのノートを、卒業証書みたいに受け取ってしまう。
ノートまでいい匂いだ。
私は、両手で持ったノートを、ぎゅっと抱きしめた。
「戻れて、よかった」
「?」
「なんでもないです。……ありがとう」
のばらちゃんは、かわいい笑顔を向けてくれた。それはそれは、まぶしい笑顔を。
やっぱりこの一言に尽きる。
推しは尊い。