置手紙
多目的教室での、数Ⅲの授業。
いつものように早めに移動を終えて、定位置を陣取る。窓際の前から三番目の席。いろんな意味でベストポジションだ。
無事席を取れたので、寝るために机のなかに教科書を突っ込む。
クシャッ
何かがつぶれる音がした。
見てみると、一枚のメモ用紙。
そこに書いてあるのは、簡潔なひとこと。
『空、キレイだね!』
「だれ?」
誰とも知らない相手に愚痴をこぼし、頭を抱えた。
とりあえず机の中に戻し、見なかったことにしておく。
いつも通り、授業前に昼寝の準備を開始する。
曇りひとつない窓を抜けてくる、ギラギラとした夏の陽光をカーテンで遮り、むき出しの腕に頭を預け、そっと目をつむった。
気付けば授業は始まっていた。
……さて、何をしたものか。
授業内容は塾で既にやった内容で、しかも塾の先生の方がよほど分かりやすい。話を聞く意義を見出だせない。そうなるとやることは、昼寝か、読書か、妄想か。
あいにく起きたばかりで眠気はない。読む本は教室に置いてきた。とりとめのない妄想は得意とするところではあるが、ほぼ毎日ともなるとネタが尽きてくる。
結果、手持ち無沙汰になるわけだ。
ふと、先程のメモ用紙が頭に浮かぶ。
机の中から取り出す。文字は丸め。書き手は女子だろうか。
空を見上げれば、憎らしいほど晴れ上がった真夏の蒼穹。
興が乗ったので、ルーズリーフを切り出し、つらつらと文字を書き付ける。
『あんただれ』
二つにたたみ、机の中に放り込んだ。
思いの外長いこと寝ていたようで、それで、今日の数Ⅲの授業は終わった。
そして次の数Ⅲの授業。
机の中には、この前とは別のメモ用紙が入っていた。
『ん~、“そら”とでも呼んで。
ここから見える景色、キレイだよね~』
一旦メモも教科書も仕舞い、机の上に突っ伏す。ケーキのイチゴは、最後まで残しておく性質なのだ。
そうしていれば授業はつつがなく始まり、いつものように暇をもて余す。
さて、返信をどうしたものか。
この前の切れ端を引っ張りだし、つらつらと思い付くことを書いてみる。
『そら、ね。
思いの外綺麗だよね。この景色。
「甍の波」なんて言葉を
こんなところで実感することになる
とは思ってなかった。
byツチ』
呼び方を訊き返されることを見越して、先に呼び方を提示しておく。
あとはまぁ、適当だ。本当に海のように見えて感動した覚えのある、瓦が陽光を反射した景色―――甍の波のことを書いてみた。
ちょっと丁寧に紙をたたんで、机の中に放り込む。
ちなみに次のメモにはこう書いてあった。
『カッコのなかなんて読むの?
どういうもの??』
その後もメモのやり取りは続いた。
「光陰矢のごとし」とはよくいったもので、そうこうしているうちに、センター入試が目前に迫ってきている。
センター試験が終わってしまえば、授業も二次試験向けの特殊な時間割りに変更されてしまい、こうしてやり取りすることもなくなってしまう。
最後から二つ前の授業。この奇妙な文通をこのまま終わらせてしまうのが、なんとなく惜しくなっていた。
『そら、あんたってどんな人?
会ってみたら、面白そうだな』
気がつけば、手元の紙に、そのようなことを書き付けている。
少し迷ってから、それをそのまま机の中に仕込んだ。
窓から差し込む陽光も、夏場の容赦ないそれから、冬らしい、柔らかなようでいてその実、思ったよりも鋭いものへと変わってしまっている。
昼寝をするには直射日光だと少しキツいのが、この時期の悩みだ。逆にカーテンを閉めると寒い。
窓の曇りが、日差しをちょうどよく遮ってくれていた。
手紙の返答はOK。卒業式のあと、この多目的教室で待つとのことだった。
それからはあっという間だった。
センターなんてものは一瞬で、その結果を踏まえた公立大学の選定もすぐだ。
そして卒業式当日。
卒業証書を受け取り、クラスでちょっとした集まりを終えてから、多目的教室へ向かう。
階段を、一歩一歩登ってゆく。登りきったそこが、多目的教室。
会うのに緊張しないと言えば嘘になる。しかしそれと同じほどの期待が、鼓動を速めてやまなかった。
磨りガラスの入った戸を開けると、びっしりと結露し、向こうから指す陽光によってキラキラ輝く窓を背景に、一人の人が……。
「……もしかして、ツチ……さん?」
「……そらさん、なんだ」
立っていたのは優男風のイケメンだった。
予想外の事態に、思考が停止する。
茶色い髪に、着崩した制服。性別以外は、概ね予想通りだ。
……そんな、的を射ているようで外したことを考えていると。
「まさかツチさんが女子だったなんてね~。ビックリしちゃった」
そらが、そんなことを言い出した。
「心外な。そっちこそ、あんな丸い文字と可愛い言葉遣いで、まさか男子だったとはね」
「それ言うならそっちもじゃん。あんな錐みたいに鋭い文字とそっけない言葉遣いで、まさか女子なんて! 詐欺だ!!」
恐らくお互いに、相手の性別を勘違いしており、頭がうまく働いてない。会話が空回る。
「「……はぁ」」
同時にため息が出た。
「「かぶすな」」
全く同じタイミングで、全く同じことを言う。
……無性に笑えてきた。向こうも笑っている。
「こんなことってあるんだねぇ」
「互いに性別を誤解するってなかなかないよね」
このまま接点をなくすのが、ますます惜しくなった。だがケータイの連絡先を交換するのは、なにか面白くない。
……………………。
「文通しようか」
結論はこれだ。
「大学には行くんでしょ」
「うん、受かれば京都にね」
「そう。こっちは東京だからさ」
「うわぁ~、都会!」
「京都に言われたくない。……ともかく、その距離だと独り暮らしじゃん。下宿先の住所さえわかれば、文通ができる」
「あぁ~、置手紙から普通の手紙に進化させるんだ! 面白そう!!」
「んじゃ、そういうことでね」
「うん。ありがと!」
「……あんたとのやり取り、そこそこ楽しかったよ」
「えぇ~、そこそこぉ~? こっちはめっちゃ楽しかったよ! また手紙でよろしく!!」
緩やかに、時間が流れてゆく。
「あ、そういえばさ」
そらが言い出す。
「結局、イラカの波ってなに?」
こめかみを押さえた。
「見えるかな……」
窓に歩み寄り、結露した水滴を一気に拭き取る。
「おぉぉぉ!!」
そこに広がっていたのは、まさしく甍の波。
傾きかけた太陽の光を瓦が反射し、いちめんに小さな光が散っていた。
その様は、ダイヤの小粒をいちめんにばら蒔いたかのようで。
瓦であるにも関わらず、本当に波立っているように見えた。
「……運が良かった。なかなか見られない」
ぼそりと呟く。
もっともそらは、景色に見とれて聞いていない様子だったが。
道は別れる。……交わったのかすら怪しい道だが、それでも縁は残った。
なんともないひと切れのメモから始まった、偶然窓際の同じ席に座った他人同士の物語。