chapter4
酷い夢を見た。
手にはまだ、血のにおいがこびりついているような気がしてならない。
何度も払いのけた。手だけでなく、全身が返り血に赤く濡れても、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も払いのけた。
それでもあの男は、名前も知らないあの男は、僕にすがってくるのだ。痛い、苦しい、死にたくないと、万感の思いを僕にぶつけてくるのだ。
そして、僕は思う。「早く死ね」と。
怖い。どうすれば良いのだ。どうしろと、僕に何が出来ると言うのだ。何も出来やしない、僕には何も出来ない。だからすがらないでくれ。僕に助けを求めないでくれ。もうやめてくれ、許して……! 僕が何をしたって言うんだ!
触るな、近寄るな、動くな。何もするな、そこにいるな。目の前から消えてくれ、いなくなってくれ、早く死んでくれ。早く。早く死ね。死ね、死ね、死ね、死んでしまえ……!
恐怖と困惑と悲哀で頭がぐちゃぐちゃになり、脳がミンチになったかのような錯覚に襲われ、自分でも何がなんだか分からなくなって……。
それらの感情は混ざり合って1つに溶け、やがて「殺意」と言う名の黒に染まった。
彼女は笑う。その時を、待っていたかのように。笑いながら、その手に持った赤い塊を振り翳す。
そして、まるで聖母のような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、男の後頭部めがけそれを振り下ろすのだ。
何度も振り下ろす。
何度も。何度も。何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、何度も!!
……酷い夢を見た。
…………本当に?
本当に、アレは、「酷い」夢だったのか?
「……………………」
身震いするような寒気で目を覚ました。顔を拭うと、手がびっしょりと濡れている。寝汗をかいていた事に気付いたのは、その後だった。
汗に体温を奪われてはいたが、不思議と体調は悪くない。しかし、昨日の事を思い出そうとすると、頭がぼうっとする。もやがかかったかのように、何も考えられなくなる。……何が、あったんだっけ。
はっきりと思い出せるのは、昨日の……厳密には、今日の夜。日付けが変わるほど遅い時間に、街を出歩いていた彼女を追っていた、と言う事。
髪も、顔も、服装も、何もかもが違っていたが、あの金髪の少女は彼女だった。金髪で、露出していて、まるで別人のようだった、あの少女は間違いなく彼女だった。彼女はわざわざ変装をしてまで夜の街を出歩き、そこで1人の男に声をかけていた。それを見て僕は、「彼女が援助交際をしている」と思ったんだ。
彼女と出会ってから今まで、ずっと待ち望んでいたもの。彼女の狂気。「異常」なまでに完璧である彼女が隠していた、本性。それを目撃する事が出来ると思い、僕は狂喜した。
彼女の「普通」ではない行動に「普通」ではない理由を期待して、その事実を立証するため、2人がホテルに入るところを見届けようとした。一度は見失いかけたが、それでも追いかけて……。
そして……そして、その後……。
「…………っ」
頭が痛い。駄目だ……思い出せない。決定的なその瞬間を、僕は間違いなく観た……はず、なのに。どうしてもその瞬間だけが思い出せない。次に思い出せるのは、その後の光景だけ。
赤く濡れた僕の手。優しく微笑む彼女。そして、……男の、死体。
「……………………」
扉の向こうで妹が何か言っている。時計を見ると、時刻は午前7時20分。こんな時にでもいつも通りの時間に目を覚ました事に、人体の神秘を感じずにはいられない。
……学校へ行かなくては。彼女と、話をするんだ。
「どう? ここなら普段、誰も来ないの」
昼休み。彼女に連れられやって来たのは、学校の敷地内の片隅。体育館の裏だった。
「屋上にも行ってみたんだけど、あそこは駄目ね。結構汚いの。アニメや漫画だったら、綺麗な屋上でお昼ご飯って言うシーン、よく見るのにね」
「……………………」
汚い以前に、屋上は施錠されて生徒は立ち入り禁止の場所になっているはずなのだが……しかし、そんな事をいちいち指摘していられるような精神状態ではなかった。
「どうぞ、座って。椅子もテーブルも定期的に拭いているから、汚くないわ」
脛の辺りまで伸びた雑草が生い茂る中、妙に綺麗に整えられた箇所がある。彼女が昼食を摂るため、わざわざ整備したらしい。
使わなくなった古い椅子と机、どこから持ってきたのかパラソルまで置いてある。まるでカフェテラスだ。恐らくずっとここに放置され雨ざらしになっていたであろうそれらは、しかし彼女の言うとおりさほど汚れているようには見えなかった。
「ちょっと前に観たアニメでね、中庭に椅子とテーブルを勝手に置いてた女の子が出てたの。それの真似」
なるほど確かに、ここは十分にアニメらしい光景だ。「アニメなら屋上で」と彼女は言ったが、僕にとってはここも非常に居辛い……「普通」ではない空間だった。
きっとここは、彼女と、彼女に相応しい恋人の、2人だけの場所になるべきはずだったのだ。しかし僕は彼女の恋人にはなれないし、なるつもりもない。そのせいだろう、この「他人の大切なものを、その人の知らぬところで勝手に壊してしまった」かのような、引け目を感じてしまうのは。
「……それで? 話って言うのは、何?」
彼女は「いつものように」にこやかに話す。……昨日、あんな事があったばかりだと言うのに。
「告白でもされるのかしら、私。少し、ドキドキしてきたわ」
「そんな風には見えない。……それに、悪いけど告白するのは僕じゃない。君の方だ」
そんな彼女を見ると、やはり昨日のアレは夢でしかなかったのでは、と思ってしまう。
普通は、こんな風に笑えるはずがない。……そう、「普通」ならば。
だが、彼女は「普通」ではない。彼女は「異常」だ。その事を、僕はよく知っている。だから、昨日のアレは、夢ではない。現実なのだ。
「私が君に、告白? 凄い自信ね。そう言うのが好きな子って、あまりいないと思うけど。個人的には、恥ずかしいけど勇気を出して、って感じの方が好きよ」
「そういう意味じゃない、昨日の事だよ。僕は昨日の事、君が昨日何をしていたかの話が聞きたい」
「昨日の事? ……昨日の、『何』の事?」
「はぐらかさないでよ。昨日の夜の事だ」
あくまでにこやかに話す彼女。それはきっと、いつも通りの彼女なのだろうが……僕にはそれが挑発しているように見えて、少し苛ついてしまう。彼女に対し苛つきを覚えるなんて、初めてだ。
「はぐらかしてなんてないわ。昨夜は、色々な事があったから。どれについて訊きたいの?」
「色々な事?」
「色々な事」
色々な事……そう、昨日は本当に色々な事が起こり、僕はそれを観ていた。僕はそれらを、すべて観ていた。
「……話をするつもりはある、と思っていいんだね」
「訊かれた事には答えるわ。なんでも訊いて?」
「なんでも訊くつもりはない。僕が一番聞きたいのは、最後の……一番、最後の事だ」
「最後? ……ああ。私が、人を殺していた事?」
どくん。自分でも聞こえるくらい、心臓が高鳴った。
「……ずいぶん、あっさりと認めるんだね」
「見られちゃったしね。と言うより……観て欲しかった、から」
「見て欲しかった?」
「そう、観て欲しかった。君に私が殺すところを、観てもらいたかった。君に観てもらえないと、意味がなかったから」
「……どう言う事?」
僕に殺人現場を見て欲しかった? 意味が分からない。それに、それなら僕をそこに呼びつけた方が確実なはずだ。僕が彼女のストーカーをしていたから観る事が出来たが、もし僕が彼女のストーカーでなければ、僕より先に他の誰かに見られてしまう確率の方が圧倒的に高い。
いや、先であれ後であれ、僕が見る可能性なんて全くのゼロだ。あんな時間、あんな場所に、僕がたまたま通りかかる事など、まずないのだから。
そう思っていると、彼女は突然腹を抱えて笑い出した。
「あはっ……あははははっ! ねえ、君、ひょっとしてまだ気付かれてないと思ってた? まだ自分が、『普通』だと思われてるって思ってた?」
「……え」
「部屋に忍び込んで、カメラまで仕掛けてるって言うのに? さんざん人の話を盗聴してたって言うのに? それでもまだ、バレてないと思ってた!?」
「…………!?」
「あははははははっ! バレバレなんだよ! 全部お見通しなの、とっくにバレてたの! 君が私の、ストーカーだって事くらい!」
……バレてた? 全部、気付かれていた!?
「あははは、はぁ……はぁ……もう、笑わせないで。こんなに笑ったの、本当に久し振り……ぷぷっ」
「……い、いつから? いつから、気付いてた?」
「わりと早くから。そうね……少なくとも、下校中に家まで付いて来られていたのは知っているわ」
「最初からじゃないか!」
思わずツッコんでしまう。僕が彼女の家まで付いて行ったのは、本当に最初。「ストーカーをするなら、まずは住所の特定」と考えての行動だ。何が「わりと早く」だ……つまり本格的なストーカーを始める前から気付かれていたと言う事じゃないか。
彼女を甘く見ていた。そうだ、彼女は「普通」ではない。異常なまでの「完璧」なのだ。僕如きが簡単に出し抜ける相手ではなかった。……とは言え、まさか最初から気付かれていたとは。
「でも……なんで? なんで君は、僕の事に気付いていたのに、なんでもないような顔をしていられた?」
毎朝彼女と挨拶を交わした。彼女と本の貸し借りもしていた。僕が冗談を言えば、彼女はいつだって笑ってくれた。彼女の冗談に笑わされた事もあった。僕のストーカーに気付いていながら、どうしてあんな風に笑顔で……他の人と接する時と同じように、話が出来たと言うのか。
「最初は気味が悪いと思っていたわ。正直言えば、ね。でも、実際に何かされたわけでもないし……されるとも思わなかったし。変な話、信用していたんだと思う。君の事」
「信用……?」
自分のストーカーを、信用。……ああ、駄目だ。「普通」じゃない。「普通」はストーカーなんてされたら、その相手を信用なんて出来るわけがないのに。だから僕は、彼女にだけは気付かれないようにとしていたのに。
「異常」な彼女に何を訊いても、「普通」じゃない答えしか返って来ない。「普通」の僕には、理解出来ない答えしか返って来ない。
「ええ。信用。……それでね、ふと思ったの。 『この人は、私の本当の顔を見ても、それでも私のストーカーでいられるか』って」
彼女の顔から笑みが消える。……口元だけは変わらず笑っていた。口元だけは笑ったまま、しかし目だけが生気を失くし、無機質な光を灯していた。
「目が笑っていない」。小説なんかじゃよく見る表現。ただ、それを現実に見るのは初めてだ。こんなにも……こんなにも、違和感のあるものなのか。
いや、これはもはや、違和感などと言う言葉で済ませて良いものではない。……異形。怪異。そう言った方が相応しいのではないかと、そう思うくらいに……今の彼女は、人間離れした空気を発していた。
……誰だ、これは。何だ、これは。僕の目の前にある“これ”は、一体何だと言うのだ……?
「……君の、本当の顔?」
「ええ」
「1つ、訊きたい事がある」
「どうぞ」
「君は、何故……あの男を、殺したの?」
「『殺したかったから』」
殺したかったから。殺したかったから、殺した。さも当然のように、彼女“のようなもの”はそう言った。
「理由なんて、ないわ。『殺したかったから』殺した。肌を出した格好で声を掛けて、油断していたところを、殺したの。簡単だったわ」
殺したかったから。……つまり、彼女があの男を殺したのは、「手段」ではなく「目的」。殺したと言う事実が、結果であり理由であると言う事だ。
「ナイフで首を切った。後ろから、ナイフで首を切った。と言っても、漫画みたいにすっぱり切れるわけじゃないわ。切ったと言うより、刺したと言った方が近いかもしれない。首の頸動脈周りは筋肉も分厚いから、簡単には切れないの」
もちろん、理由があれば許されると言うものでもない。殺人は、あらゆる国、あらゆる時代、あらゆる社会、あらゆる文明……その全てにおいて、禁忌とされている罪だ。
「血もね、実際はそこまで出るわけじゃないのよ。手術みたいに上手く切れば綺麗に噴き出すけど、私もそこまで上手くやれるわけじゃないから。傷口が大きすぎると、傷口自体が邪魔をして血流を遮るから、勢いはかえって弱くなるの」
だが……それにしたって、「そうするしかなかった」「それ以外に方法がなかった」と言った背景があれば、少しはその殺人者にも、同情の余地くらいはあっても良いものだろう。
「それでも、かなりの量が出るんだけどね。切った瞬間に即死、と言う事もないから、意識を失うまでの間、それはもう苦しい思いをしたんじゃないかしら」
しかし彼女は違う。「殺したいから殺す」。目的もなく、理由もなく、意味もなく。それは、あまりにも……あまりにも、非人道的すぎるじゃないか。あまりにも……邪悪じゃないか。
あまりにも……「異常」じゃないか。
「素晴らしい」
彼女の声ではない。今の言葉は、僕が発したものだった。
素晴らしい……なんて事だ。ああ、やはり目の前にいる“これ”は、彼女だった。
彼女は、僕の予想を遥かに超えていた。「普通」じゃないとは思っていたが、まさかここまで狂っているとは思っていなかった。それでこそ彼女だ。それでこそ主人公だ。これこそが僕が求めていた、いやそれ以上のものじゃないか!
「君は最高だ。最高だよ。もっと君を観ていたい。これからも、これまで以上に、もっと、ずっと観ていたい! そう思うよ!」
僕の宣言に、彼女は再び優しげな笑みを浮かべる。そしておもむろに立ち上がり、僕に向かって手を差し出して来た。
「いいわ。分かった。それなら、観せてあげる。君が観たいものを。君が求める光景を。私は、これからも人を殺し続ける。君にだけは、それを観せてあげるわ」
彼女の手を握る。温かく、柔らかい。この手が、人を殺した。そしてこれからも、殺し続けるのだ。
殺したいがために。
ただ殺したいがために。
殺したいというためだけに!
そこには目的も理由も意味もなく、ただただ殺す。そしてそれを、僕は観る。僕だけが観る。例えるならそれは、好きな作家が自分のためだけに新作を書き下ろしてくれるような。好きな役者が自分のためだけに劇を演じてくれるような。そう言った贅沢感、充実感、幸福感が、そこにはあった。
「……それで。その代わり、って言っちゃなんだけど」
ぽつり、とこぼすように、彼女は俯きながら言った。
「お願いがあるんだ。……聞いてくれる?」
「お願い?」
……なんだろう。僕なんかに、彼女のために出来る事などないと思うが。せいぜい、この事を誰にも言わないでいる事くらいだ。
「黙っていて欲しいって事なら、心配はいらない。誰にも言うつもりはないよ」
当然だ。この事が知られてしまえば、彼女は逮捕されてしまう。そうなれば、もう彼女の殺人を観る事が出来ない。僕にとっても彼女にとっても、誰にも益のない事だ。
そう思ったのだが、どうやら彼女のお願いと言うのは、それとは別の事らしい。首を横に振っている。
「違うの。そうじゃなくて……あのね」
「…………?」
らしくもなく、彼女は言い淀んでいる。そんなに言い難い事なのだろうか。
「君のために僕に出来る事なんてほとんどないと思うけど、出来る事ならなんでもする。いいよ、遠慮なく言って」
「……そう? それじゃあ……ね」
ふう、と一息ついてから、彼女は口を開いた。……今気付いたが、少し顔が赤い気が
「私と、付き合ってくれる?」
「……………………」
……………………。
「は?」