chapter3
それから数日後。
いつものように僕は、遠くから彼女を眺めていた。今日は出掛ける事もなく、彼女は自室で読書に耽っているようだった。カメラ越しにそんな彼女の様子を観ながら、僕も先日彼女に勧められた本を読んでいた。
そして夕飯を食べた後も普段は自室のモニターで彼女の様子を眺めているのだが、今日は妹が宿題を見てほしいとごねるので、仕方なく付き合ってやる事にした。おかげで部屋に戻れたのは、日付が変わる少し前だ。
今日は例のアニメが放送する日でもないので、彼女はもう床に就いているだろう。楽しみを1つ奪われた……そう思いながらも、もはやそれが日課となっていた僕は、ベッドに入る前に半ば無意識のうちにモニターの電源を点けていた。
「…………あれ?」
思わず声に出る。異変にはすぐに気が付いた。……彼女が、いないのだ。
彼女はどんなに遅くても19時には帰宅し、すぐに入浴する。そして家族と夕飯を食べ、リビングで22時までテレビを観、その後部屋で本を読んだりした後に23時には就寝している。つまり22時以降、彼女が部屋から出る事はないはずだ。少なくとも僕がカメラを仕掛けてからは、一度もなかった。
時計を見ると、現在23時52分。……どういう事だろう。トイレにでも行ったのだろうか。そう思ったが、念のためGPSで彼女の位置を調べてみた。
彼女は……厳密には彼女のスマートフォンは、だが……今、家の外にいる。しかも動いている。この方角は、駅前の繁華街だろうか。ますます分からない。彼女はよく遊びに出掛けるが、夜遊びをするような子ではないはずだ。困惑したが……それはすぐに期待へと変わった。
これは、僕が待ち望んでいた展開ではないか。
僕が観たかったもの。彼女の非日常。普段どおりではない、彼女の行動。彼女は今、事件に巻き込まれつつある。もしくは、事件を起こしつつある。彼女が彼女であるが故に、彼女だけに関わる事が許される、彼女を彼女足らしめるような事件に。
こうしてはいられない。GPSで分かるのは、彼女の現在位置だけだ。彼女の身に何が起こっているのか、そこまでは分からない。盗聴器を使ったところで、実際に観る事が出来ない以上得られる情報量には限界がある。何よりずっと待ち望んでいたものだ、機械越しなどと言う無粋な真似はせず、生でそれを見届けたい。
ならば僕がとる行動はただ1つ。今すぐ彼女の元へと向かわなければ。この目で、この耳で、この身体で、彼女の物語を観るために。
玄関から靴だけを取り、部屋の窓から外へ出た。
幸い僕がGPSを見たのは、彼女が家を出た直後だったらしい。繁華街へは彼女の家からよりも僕の家からの方が近い事もあり、彼女よりも先に目的地に着く事が出来た。やはり繁華街なだけあり、こんな時間でも人通りが多い。老若男女、様々な人が行き交う。そんな中でも僕は、すぐに彼女を見つけられた。
GPS様々だ。パスワードとIDさえあれば、たとえ赤の他人でも現在位置を知る事が出来る。ずいぶんとストーカーに優しい社会になったものだ、と思った。
夜の街を歩く彼女は、しかしいつものように地味な服装だった。なんとなく派手な格好をしている彼女を想像していたため、勝手に拍子抜けしてしまう。ただ1つ、彼女が持っているギターケースが気になった。
彼女はギターを弾くのだろうか。ロックが好きなので、そんな趣味があっても不思議はないが……今まで一度もそんな姿を見た事はない。と言うより、あのギターケース自体、初めて見た。
……ギターを買いに来たのだろうか。いや、そんなわけはない。僕の方が先に街に着いたくらいだ、こんな短時間で買い物を済ませられるとは思えない。そもそもこんな時間に買いに来る意味が分からない。移動をしているうちに、日付はとっくに変わっている。
とりあえず彼女を追っていると、彼女は公衆トイレに入っていった。……さすがにトイレの中までは着いて行けない。少し離れた所で、スマートフォンを弄るフリをして彼女が出るのを待つ事にした。
……30分ほど経っただろうか。彼女はまだ出て来ない。ずいぶんと遅い。女性のトイレは時間が掛かるものなのだろうか、などと下種な事を考え出した頃、ちょうどトイレから出てくる人影が見えた。
ただ、残念ながらそれは彼女ではなかった。髪は長い金髪で、ここから見ても分かるくらいに濃く派手な化粧だ。肌も露出が多く、夏とは言えこんな時間では肌寒くないかと思ってしまう。
いわゆる「ギャル」と呼ばれるような人だろう。年齢はそう離れていないだろうが、彼女とは似ても似つかない──
……いや、待て。ちょっと待て。
髪や化粧、服装は変える事が出来ても、顔つきや体格までは簡単に変えられるものではない。あれは……間違いない、彼女だ。彼女が化粧をし、着替えた姿だ。
驚いた。一瞬ではあるが、完全に騙された。こうも完璧に、他人になり切れるものなのか。まさか彼女が、あんな格好をするとは……メイクとは恐ろしいものだ。
いや、あれはもはやメイクとは言わない。変装とでも言うべき領域だ。あのギターケースには、恐らく着替えや化粧道具が入っていたのだろう。
彼女の変装技術もだが、変装した事自体にも驚いた。わざわざ変装をすると言う事は、よほど他人には知られたくない何かがあるのだろう。これはいよいよ、僕が望んでいた事が起こるに違いない。高鳴る胸を押さえつつ、僕は改めて彼女を追った。
彼女は居酒屋など夜店の看板を眺めながら、ぶらぶらと歩いている。たまに1つの看板をじっと見つめる事はあったが、店に入ろうとはしないようだ。この辺りこの時間帯だと、どうしてもアルコールをメインに取り扱う店しかない。隠れて飲酒をするつもり、と言うわけではなさそうだ。
……追っているうちに、違和感を覚えた。彼女は姿だけではなく、歩き方や仕草までもがいつもとは違っていたのだ。他の人からしてみれば些細な変化ではあろうが、彼女をよく観ている僕には明らかに様子がおかしく見える。
僕だから気付けた。僕以外の者が今の彼女を見ても、それがよく知る彼女と同一人物だとは夢にも思わないだろう。それほどまでに彼女は、変装までもが完璧だった。……いや、だからこそおかしいのだ。
何故それほどまでに完璧な彼女の変装を、僕に見抜く事が出来たのか。彼女なら、もっと上手くやれたのではないか。ならば僕に気付かれた以上、あの変装は「完璧」とは言えないのではないか。……そう思った。
……一通り街を見て回り、やがて元の公衆トイレの前まで戻って来た。そして彼女は、今度は壁にもたれつつスマートフォンを取り出した。一体何をしているのだろう……。
気怠げにスマートフォンの画面を眺めている様子は、誰かとの待ち合わせのようにも見える。しかしこんな時間にこんな場所で、誰と待ち合わせると言うのか。そもそも待ち合わせる相手がいるのだろうか。
しばらくすると、ふらっと現れた3人組の男が彼女に声を掛けた。見た事のない、知らない人たちだ。僕が知らないと言う事は、彼女にとっても知らない相手であるはず。しかしそのわりには、やけに親し気に話していた。
……ナンパか。普段の格好ならばともかく、今のあの格好ならば、遊んでいると思われても仕方ない。ましてやこの時間、この場所だ。むしろナンパしてくれと言っているようなものだ。
「……………………」
そこまで考えて、ふと気が付いた。彼女は、ナンパされるのを待っていたのだろうか。
なるほどそれならば合点がいく。普段の彼女ならその容姿に佇まいも相まって、彼女をよく知らない者からすればある種声の掛けにくい空気もあるだろう。だが今のような、遊んでいるような格好なら、ナンパをするような連中からしてみてもいくらか声をかけやすく感じるのではないか。
店に入らず看板を眺めていただけなのも、恐らくそのためだ。「御馳走するから一緒に飲もう」、そう言えばナンパをされる側にも分かりやすいメリットがあるため、する側としてもより声を掛けやすくなる。つまり彼女は変装してから今まで、むしろ相手を誘っていたと言う事になるのだろう。
数分ほど話し込んだ後、男たちは彼女から離れて行った。彼女は手を振りながらそれを見送っている。どうやら彼らは、彼女のお眼鏡には適わなかったらしい。
その後も何人かの男に声を掛けられていたが、彼女はその誰にも付いて行こうとはしなかった。彼女なりに、何か基準でもあるのだろうか。
……じれったい。このままでは、何もなく夜が明けてしまう。
彼女がわざわざ変装をしてまで夜の街に出、そしてナンパをされるのを待っている。それは確かに僕がまだ知らなかった彼女の一面であり、驚きでもあったが、主人公が引き起こす事件と呼ぶにはまだ弱い。
せっかくここまで来たのだ、せめていつもの明日には繋がらないようなイベントの1つでも起こって欲しい。……そう思っていたまさにその時、彼女は何かに気付いたように駆け出した。
その先には、やはり男の姿。今までと違うのは、それが何人かのグループではなく、またナンパをするようには見えない、1人でいる生真面目そうなスーツ姿の男であると言う事だ。彼女はそのスーツ姿の男と、笑ったり、怒ったり、困ったような顔をしながら、ころころと表情を変えて楽しそうに話している。
そして満面の笑みを浮かべたかと思うと、男の腕に抱き着いて、そのまま歩き出した。
来た……! ついにイベントが発生した。僕は2人に気付かれないよう、しかしこの人混みで見失わないよう、慎重に距離を取って後を追った。
2人を追っているうちに、居酒屋やカラオケ店が多く見られる所から、少しずつ風俗店やラブホテルの看板が目立つようになってきた。つまり2人は、そういう所へ行こうとしていると言う事だ。ナンパ待ちどころではない……これはもしかして、援助交際というやつではないだろうか。
様々な想像、妄想が脳裏を過ぎる。仮に彼女が援助交際をしていたとして、何故あの彼女がそんな事をしているのだろうか。単純に、金のため? 快楽のため? それとも、何か止むを得ない事情があって? ……いずれにせよ、「普通」じゃない。
いかなる行為、行動にも、必ずその理由がある。そしてそれが「普通」ではないのなら、必ず「普通」ではない理由があるのだ。そうだ、それを僕はずっと観たかった……!
行為そのものに興味はない。彼女がいつ、どこで、誰と行為に及ぼうが、僕には関係ない。重要なのはそれがあったと言う事実と、その理由。彼女が何を考え、何を目的にしているのか、僕の興味はそこだけにある。
だからせめて、2人が建物に入るところまでは見届けなければならない。そう思って後を追っていた、のだが……。
「!?」
彼女は突然、男の腕を引いて路地裏へと入って行った。しまった……やられた!
慌てて2人が消えた所まで走る。すれ違う人と肩がぶつかろうが、無視した客引きに暴言を吐かれようが、気にしていられない。このままでは見失ってしまう。2人が建物に入る、決定的な瞬間が見られない。これでは単にホテル街を歩いていただけに過ぎない!
やっと2人が入っていった場所までたどり着いたが、如何せん路地裏は入り組んでいる。おまけに夜も更け、表通りの街明かりも届かないので非常に薄暗い。当然ながら、そこに2人の姿はもうなかった。
なんて事だ……せっかくイベントが発生したと言うのに、それを見届ける事が出来ないなんて! 完全に油断していた……!
……いや、ここで諦めるわけにはいかない。ここで見逃してしまえば、次はいつ訪れるか分からない。ここはなんとしても、2人が建物に入る前に見つけ出さなければ。幸いこちらにはGPSがあるので、大まかな位置は調べる事が出来る。
僕は路地裏に入