魔法少女ぴりりん
“ここに鬱蒼とした森がある”
そう記されているのをご覧になって、あなたはなにを思い浮かべるだろうか。
わたしは鬱蒼とした森を見たことがない。
わたしは森を見たことがないわけではない。むしろ頻繁に見ているほうではないかと思う。今もこうして窓に目をやればほらすぐそこに。
あるいはわたしが今まで見た森の中には、鬱蒼とした森、と記すべき森があったかも知れない。しかしわたしはいかなる森を眼前にしたときも「これは実に鬱蒼とした森だなあ」などと思ったことはない。それでも「鬱蒼とした森」の意味はわかるし、こうして書くこともできる。
ことばにとっては、意味にだけ意味があるわけではない。字面であったり音であったり、あなたに印象を与えるすべての事柄が重要な情報だ。あなたの自覚無自覚すら問わず。
あらためて記そう、ここに鬱蒼とした森がある。
森にはひとりの少女が棲んでいる。名をぴりりんという。ふざけた名だとお思いであろう。その印象も重要だ、当然のことながら。
ぴりりんは魔法少女である。魔法少女は魔法を用いて無償で人を助ける。
ただし人助けにはちょっとした手続きが必要となる。
ひとつ例を見てみよう。
ぴりりんの住む森はとある王国の領内に位置する。
国土の大半はぴりりんが住むのと同じような森に覆われている。主産業は農業および林業である。
国土を貫く河川は枝分かれと落合を繰り返しながら隣国につづいており、かつては水場をめぐる争いが絶えなかったというが、この日この時、隣国との関係は良好なものとなっている。
良好な関係を築いた王は、外交に長け、機知に富み、慈愛深く、清濁併せ持つ権謀術数の使い手であった。民はみな、この偉大な王の在位する時代こそわが国の黄金時代であり、われらは千年にひとりの偉大な名君を戴いていると深く確信していた。
ただしこの王にはひとつの巨大な欠点があった。
寝起きがすこぶる悪いのだ。
それは生半可なものではなく、自分で招集をかけた議会であってもまず間に合わない。だいたいにおいて寝室で惰眠をむさぼっている。午前の招集ならば午後になるとみてまちがいなく、ならばと招集を午後に変えてみても、やはり起きてはこない。深夜に目覚めて家臣一同くたびれ果てたところにひょっこり姿を現すのが相場だ。
小姓のひとりが王の平均睡眠時間を割り出しそれに掛けることの三倍を猶予を取って、翌日の議会を翌々日にと進言してみれば、王は一週間眠りっぱなしの態度で応じる。信頼と安定、ハイクオリティな惰眠である。
かといって、どうせ今日も寝坊であろうとサボタージュを決め込んだ辺境伯などは、その日に限って定刻どおり現れた王の不興を買い、政敵の讒言もあってさらなる辺境の地へと封じられた。仄聞するところによれば、この辺境伯は思うところあってのちに僧となった。
つまり、より厄介なことにこの王は、ごくまれに目覚めが良いのであった。
ではいっそ議会日程の猶予をさらにおおきく取って、ひと月後にしてみてはどうだろう、といったあたりで誰もが思い当たる。
その場合、王は一年も二年も眠ってしまったりするのではないか。
さすがにそれはべつな問題が発生する。玉座が空っぽになるのはいかにもまずい。権力の空白期間に奸臣が跋扈し不届き者の専横がはびこり、宮中は混乱、地方は離反、近隣諸国が大義名分をでっちあげ侵攻してくる、というのが国家の滅亡パターン大本命であることは、歴史に学ぶ者なら誰もが知っている。
ならば寝坊くらいは大目に見るべきであろう。多くの家臣がそう決め込んだ。
もはや慣例となった、王の目覚めを待つなんだかわからない時間をすごす議会場は諦めの空気に支配され、国家の中枢を担うおじさんたちは、骨牌遊びや益体のない噂話に華を咲かせた。
「いやこのようなことはおかしい。毎朝誰かが王を起こしにゆくべきです」
そんな中、こう提言したのはこの国随一の知恵者、サンヨウ翁である。
みなしばらくぽかんと呆けていたが、このじじいは今、抜本的解決策を示したのではないかとひとりが気づき、ひとりがすぐに気づけるようなことなのだから、要領の悪さに定評のあるごく数名をのぞいて、みなが順に気づいていった。気づかぬ者も気づいたふりをして、それは名案、賢老の慧眼には舌を巻くばかりです、とおべっかにまみれた賛同を送った。
こうしてサンヨウを中心とした王起こし計画が立案された。
まず王子が犠牲となった。
眠り王への目覚めのキスは誰がするべきものなのかと考えればやはり王子か、といった次第である。逆に姫やお妃ではどうかという意見もあるにはあったが、まあ眠り姫の故事に倣えば王子であろうというわけである。王はいかなるとげに刺されたわけでもないのだが、眠っているからには、解決法にはなにかしらの共通点があるにちがいないとの目論見だ。
「ア、ア、アアーッ! アアアアーーーー!! ウアアアーッ!?」
怪鳥のごとき奇声を発しながら、泣いて嫌がり激しく抵抗するのは、この国の第一王子である。家臣一同からかわるがわる説き伏せられ、最終的にぐるぐる巻きに縛り上げられたうえで、王がまします早朝の寝所へと運び込まれるさなかのことである。
賢老サンヨウ曰く、
「王族ともあろうものが、天下のご政道のためであるというのに、たかが実父とのくちづけを拒むなど言語道断。駄々をこねてはなりませぬ。退くな媚びるな省みるな。わしなら絶対いやだけど」
それに対し王子は、自身が王位を継いだあかつきには足下一同を辺境中の辺境に封じてくれる、あるいは頸を刎ねて鶏の餌にしてやるとかなんとかわめき散らしながら、早朝の王に深くくちづけさせられたという。ある当事者の言によれば、それは朝の陽が美しく差し込む寝所にあって正視に堪えぬ地獄絵図であったといい、それ以上の詳述は避けたい、とのこと。
しかしそれでも王は目覚めなかった。
その日の王は四時間半の寝坊の果てに謁見の間に姿を現し、顔色をなくした王子をみとめると、優しく気遣いの言葉をかけたという。この王子はのちに自ら廃嫡を申し出、さらにそののち僧となった。
家臣たちはこのようなちいさな失敗にめげることなく、王起こし作戦は次々と立案され、実行された。
道化にどんちゃん騒ぎをさせる、シーツと枕をはがしてみる、王を寝台から落としてみる、頭から水をかぶせてみる、あるいは酒をかぶせてみる、屎尿を煮詰めた高純度のアンモニアをかぶせてみる、法螺貝と鬨の声で戦場を再現する、ついでに槍で突いてみる、特殊な拷問具で足を挟んでみる、特殊な拷問具で口蓋から肛門まで電流を流してみる、などなど。
そのうち、ひとつだけ効果のみとめられるものがあった。
侍女に寝台の横から声をかけさせる、という単純なものである。
王は「今起きる。起きるっつってんだろ」と言い放ったかと思うや侍女を蹴り飛ばし、しばし間をおいて覚醒した。
侍女は死んだ。即死であった。
王はその日の議会に間に合うと、どうせ今日も目覚めさせられやしまいとたかをくくって議場で酒盛りをしていた不届きな家来に対し、無慈悲な辺境送りを申し付けた。この家臣もやはりのちに僧となった。
賢老は推察した。
侍女のささやきで王が目覚め、そして侍女が蹴り殺されたのは、王が幼いころに母堂を亡くしておられるからであり、甘えと反抗期が齢五十をすぎて総まとめでやってきたのであろう。王に長らくお仕えして、この程度のことも見抜けないわしの目は節穴であった。これからは侍女にガンガン起こさせようではないか。
そう説明されると家臣一同はなんだか納得したような気分になった。そして速やかに行動を開始した。大規模な侍女の徴募が始まったのである。
王都各所に立て札が立てられた。
高給確約、三食昼寝付き、初心者歓迎、実働一時間、王宮からの絶景を眺めつつ優雅にスキルアップ、働きやすい職場です。
この謳い文句に希望者は殺到、求人倍率は二千を超えた。
王の寝起きの悪さは市井にも鳴り響いてはいたが、寝坊王による迷惑よりは治世による恩恵のほうをおおきく受け止めていた国民たちは、おおむね王室を敬っていたからである。無論、侍女とは歴とした公務員であり、就職難の時勢に人気が出るのは必定とも言える。選抜にあたっては、王の母である亡き太后殿下に似た姿、形、声音を持つ者が優先された。
新米侍女による毎朝の「王起こし」の儀には、良い点と悪い点があった。
良い点は、そのものずばり、王が起こされて起きた、ということである。王はやればできる王であった。
悪い点は、そのためにやはり侍女が蹴り殺されたということである。
二人三人と蹴り殺され、五人が六人になったころ、新米侍女たちは自らが置かれた境遇にようやく気がついた。しかし、侍女たちの間にもパワーバランスというかヒエラルキーというかキャッスルカーストがあり、つまるところ王起こしは新米の仕事とされている。逃げ出す新米が続出したが、片端から捕らえられ王の寝所送りとなった。そしてことごとく蹴り殺された。遺族には職務中の不幸な事故として説明され、雀の涙ほどの見舞金が送られた。
侍女業界におけるキャッスルカースト上位のお局勢は当面の安心を勝ち取り胸を撫で下ろしたが、それでも見る間に侍女の数は不足した。なにせ一日一殺である。お局勢は手練手管を駆使して自らの順番が回らぬよう手下どもに働きかけたがそれでも到底間に合わぬ。侍女ヒエラルキーにおける政治的妥協点が見出せない場合などは、侍女たちの控えの間は即席キャットファイトの会場と化した。負ければ王起こしである。爪を立て牙を剥く女たちの戦いは熾烈を極めた。
負けた者は泣きはらし喚き散らしたが、王の寝所に送られるや涙も嗚咽も止まり、次には心臓を止められた。これが泣く子も黙るというやつか、と多くの者が思ったが、笑い事ではない。次はおのれの番であるやもと思えば笑いは引き攣りあぶら汗は滝の如く流れ出る。
次に動いた侍女勢力は、お局勢ほどには容色も衰えておらず、未だ香気を保っていた中堅勢である。
彼女たちは、人事や出納を司る城の男どもを手当たり次第に篭絡し、城内の風紀をいささか乱しながら、さらに大規模な新米の徴募を確約させた。もっとも人の口に戸は立てられないもので、侍女の事故死という名の不審死は王都を中心にすでによく知られるようになっていたから、求人倍率はまたたく間に一を割り込む状態となっていた。
しかし中堅勢には二の矢があった。おのれの肉体を駆使しそれに付随する醜聞を用いて議会に掛け合い、一度徴募に出願した者は地の果てまで追い詰められる法を発布させた。最初期に倍率二千倍で徴募に応じた女たちはことごとく新米侍女とされたうえで王宮に軟禁され、意に沿わぬキャットファイトを経て王起こしの犠牲となった。
それでも新米の数が減ってゆけばいずれ自らの番が回ることは明白である。中堅勢による第三の矢として奴隷制の復活が俎上にまろび出た。この段階でようやく王家の家臣のひとりが、貴族精神を発揮し、踏みとどまる。
「奴隷制はひどくまちがっており、たいへんけしからん。そのようなものを復活させてまで王を起こすなど決して赦されず、奴隷に頼るくらいなら王は眠ったままでけっこうである。目覚めを待てばよいだけの話だ。われわれはこれまでそれなりに上手くやってきたではないか。人の道に反するくらいなら王も国家も必要ない」
この家臣は国家反逆罪の容疑で捕らえられ財産は没収、議会による最終勧告が発令されたのち、はりつけとなった。十字架にて発せられた最期のことばは王と国家に対する忠誠および呪いの文句であったという。刑吏はこの罪人を念入りに槍で突き、罪人の一族郎党は路頭に迷った。ろうとうだけに、ろとうに。
侍女たちの暗躍から家臣の磔刑に至る一連の出来事に思うところのあったサンヨウ翁によって、折衷案が提示された。
なにも毎日定時に王を起こすことはない。国家にとってしかるべき日時にのみ侍女を蹴り殺させればよい。そうすれば、ひと月にひとりふたりか、あるいはもっとすくなく済むやも知れん。順番は、すでに夜な夜な行われている侍女同士の格闘で決めさせれば不公平感もなくなる。頭数が足りなくなるのは彼女らが正規の侍女待遇だからであり、もっと広く門戸を開けば、口減らしを望む民はそれなりにある。かといって奴隷待遇でもなく、あくまでこちらが場所ふさぎを引き取ってやる形にすればよい。これを派遣侍女とする。このようなことは、わざわざ明示せずとも国がツーと言えば民はカーと応えるものなのだから、具体的に明言することもない。幸か不幸か、王自身はまだおのれの所業に気づいてはおらん。王に対しては、事故で亡くなった侍女たちを国家の母として祀るべきであると進言しようではないか。これで人身御供の色も薄らぐ。混乱は収まりわが国は健全な国家に戻るであろう。
一同はサンヨウの深甚と知恵に感嘆し、その日のうちに草案をまとめあげ、具体的な内容は曖昧にしたうえで王に追認させた。国家にとって理想の母とは毎朝わが子を命がけで起こすような母であり、そのような母は偉大であるというようなキャンペーンも開始され、各地の寺子屋で重点的に教育されることとなった。
哀れなのは侍女たちである。
彼女らは一度王宮に入ったならば外部との接触もご法度とされ、もはや助かる見込みはなくなった。お局勢も中堅勢も、もちろん派遣侍女と呼ばれた新米たちも、みな等しく悲嘆にくれた。キャットファイトの会場は、国庫から非公式に金が出され、それなりのものが設えられた。リングは多くの女の血と汗を吸い、王の寝台は多くの女の血と涙を啜った。
侍女たちは祈った。ロープの反動でラリアットをかます間に、祈った。華麗な空中殺法が決まるさなかに、祈った。締め技で落とされる刹那に、祈った。明日の朝には王を起こしにゆかねばならない憂鬱のうちに、祈った。
どうかこのような理不尽極まりない仕打ちからわたしたちを解放してください。
このなんだかわからない仕組みに巻き込まれる不幸を、わたしたちにも、他の誰にも、味わわせないでください。
不幸になるべきなのは、不幸を作り出す人間のほうではないですか。
侍女の親族も祈った。帰らぬ娘を、姉を、妹を、その無事を。
もしもどこかに、聞くもののない願いを聞くものがいるのなら。
いるのなら。
ことここに至って、ようやくこの話ははじめに戻る。
つまりぴりりんが召喚されるのである。ぴりりんは鬱蒼とした森の家に棲む魔法少女であり、無償で人を助けるために存在している。
ぴりりんが喚び出されたは、王都のいずこかの地下にあるとされる魔法結社である。
その一室、背の高い燭台には消えかかった蝋燭があり、うっすら照らし出された円卓を囲うのは、フード付きの厚手のローブを纏った老人たち。十かそこらの人数だ。薄暗くて表情は読み取れないものの、両手に刻まれた皺からはかなりの高齢であることがうかがえる。石造りの部屋は狭苦しいが、やせ細った老人たちに気にする様子はない。
「この夜だ」
老人のひとりが口を開いた。
「ついに、侍女たちからの不平が万の位を数えた」
自意識にまみれた者特有の発声で、よどみなく口にする。
「神聖な数字である」
べつな老人も同じく、きわめて演技がかった口調で応じる。
「ぴりりん、おまえが喚ばれたのはかかる仕儀によってである」
またべつな老人がこう言って、視線をめぐらせた。円卓から離れて立ち、老人たちを睥睨しているのはひとりの小柄な少女。
ぴりりんである。
ぴりりんは魔法少女であるので、頭髪はそこらじゃちょっとお目にかかれないような、むきだしの原色をしている。他人のみてくれをどうこう言いたくはないが、お世辞にも美しいとは言えぬ娘だ。もっとも、ぴりりんは美少女戦士ではなく魔法少女であるので、美少女である必要は特にない。魔法を使う少女、それで充分だ。とある事情により、それは必然ですらある。ぴりりんは、てらてらひらひらした安手の衣装を身に纏い、杖を手にしている。杖は歩行の助けにも人を打ち据えるにも用を成さぬほど短く、ハートと星がモチーフになった飾りがあしらわれ、これは魔法を使うためのものであろうと誰の目にも察せる。
「王を討ち果たしなさい」
重々しく命じたのは円卓の上座、老人たちのうちのまたべつなひとりである。
始終にこにこしていたぴりりんは、満面の笑みで元気よく「はあい!」と答え、薄暗い地下を抜け地上に駆け出る。結社の地上階にはダミーの家屋となっており、それは暗く閑散とした裏道にある。このあたりの治安は最悪に近いが、戸口に立てかけてあるほうきはあまりに薄汚く、盗む者もない。ぴりりんはほうきを手に取りまたがると、慣性も重力も無視した挙動で、すすいと夜空に飛び上がり消えていった。
その日、王は眠れずにいた。寝所には明り取りの窓がひとつあり、王はそこから夜空を見上げ、月を肴にワインを呷っている。
満月であった。王はたわむれに、優美さの欠片もない無骨な詩を詠じ、詩人の真似事をしている自分を嗤ってみたりしていた。
寝起きが悪い者は寝つきも悪いのであろうか。いやちがう。王とて苦悩していたのである。近ごろはすこぶる寝覚めが良いかわりに、寝惚けが失せれば寝室に決まって血痕があるのだから、そこからなにか恐ろしいことを推察せざるを得ない。
城の者たちがなにやら画策しているのは感づいていた。これについて家臣たちにやんわり問いただせば、やんわりと不明瞭な答えが返ってきた。謀反の可能性は常に疑っているが、疑念を持つことをあらわにはできぬ。なにごとも深くは訊けないのが王と家臣というものの関係性であって、王はちかごろ、古来より繰り返された王者の孤独というものを理解できた気がしていた。聡明な王の、聡明であるがゆえの苦悩であった。
この日は苦悩の中でぼんやりとした不安にとらえられ、眠り王は眠りに就けずにいたのであった。
どうだろう、わたしの国は良い国だろうか。近頃は城に人の出入りが多いが、城下ではわたしのところまで上げられないような訴えで満ちていないだろうか。こまごまとした不平が積み重なって倒れた国もある。わたしは益体もないお追従に耳を貸してばかりで、声なき声や切なる訴えを見逃してはいないだろうか。
民の安寧あってこその王家である。
そう、民の安寧あってこその王家である、という姿勢なきころの王家はだいたい不幸だったという。専制と暗殺の歴史だ。かつてこの地に国を持ったころの祖先たちは、血塗られた道を辿った。不明を恥じぬ王は強権を振りかざし、王城は政争の舞台となり、腐敗がはびこり、民は飢え、飢えた民を抑えるための強権がますます求められた。そんな負の連鎖が徐々に……ほんのごくわずかずつ解消され、これからも解消されてゆくのだとして、わたしはそれに一役買った側であるだろうか。本当に?
わからない。自信なぞ、なくともあるふりだけはせねばならん。上に立つ者として。
それでもひとりのときは不安に苛まれる。わたしは国どころか、家庭内のことすらままならぬ男だ。
廃嫡を申し出た王子は元気でやっているだろうか。王子にとっては祖母に当たる、わたしの亡き母上の菩提を弔うためにと出家したが、便りのひとつも寄越さないのは国を捨てた者の疚しさか。あるいはわたしに、もしくはこの国に至らぬところがあり、愛想が尽きたか。息子は人知れず世を儚んでいて、わたしはそれに気づきもしなかったのか。
仕送りだけは送り続けねばならん。いつか断られても、たとえ音信普通であったとしても。親子なのだからいつかきっと通じ合える。それが今すぐではなくとも。
ふと、月に影がかかる。
雲はない。
鳥か。蝙蝠か。ドローンか。いやそのどれでもない。
王が窓辺に寄り視線を廻らせば、ほうきにまたがった人影が城の上空を翔けているのが見えた。
影はちょうど旋回をやめ、こちらめがけて真一文字に突っ込むコースを定めたところであった。
ほうきの先端が一瞬きらり輝くと、王が寄り添っていた窓枠は砕け、人影はその隙間を縫って王の寝所に降り立った。侵入者の手にする杖は冷たく輝き、ひやりとした空気が王の頬に触れる。足元の石畳が、濡れているかのように光を反射する。
寝所に少女がいる。にこにこと微笑んで、まっすぐ王を見据えている。
王はこの少女が魔法少女であることを鋭く察した。伝説にあったとおりのいでたちに、手にする杖はきらきらと周囲の空間を照らしている。
伝説。
この国に伝わる魔法少女の伝説は、死神と同義だ。王は多くのことを瞬時に悟り、曲者、と叫ぶことすらせず、目の前の少女を凝視する。ああ、やはりわたしは多くの不平を見逃していたか、と王は思った。わたしは死ぬのか。裁かれるのか。
少女は手に持った杖をかかげる。ハートと星の飾りのついた杖。
「えーい、ネコになれー」
ぴりりんが命じると、杖の輝きがいや増し、室内はまばゆい光に満たされ、果たして王は一匹のネコとなった。王とネコとの体積の差も質量の差も自己同一性も一顧だにしない、それはまさに魔法であった。
翌朝、呪われた仕事を割り当てられた新米侍女が、王の寝所に入る。
親しい仲間に涙と遺言を遺してありとあらゆる覚悟を決めた侍女は、寝台に寝こけている雄猫を見た。探すのは気が進まなかったが、それでもいくらか探してみても、王の姿は見当たらなかった。
王の突然の失踪に王城は大騒ぎとなり、失踪が完膚なきまでに真実であることが認められると、多くの者が首をかしげた。王はいずこへと去ったのだろうか。
ここでまたしてもサンヨウ翁が推論を述べた。
王はきっと侍女を蹴り殺さねば起きられぬ自分に気づいたのだろう。そしてそれを気に病んでいた。王は清廉な人物であったから、これはなかなか堪え難い。国との関わりを絶つと決め、おおかた人目を避けて僧になったのであろう。廃嫡された王子と同じだ。あるいは王子と同じ僧院に入ったのやも知れん。カエルの子はカエルなのだから、そういうこともある。それにしても、誰にも相談ひとつせず国政の混乱を顧みないとは、もともと王の器ではなかったのではないか。そもそも朝っぱらから人を蹴り殺すようなやからに、ろくなやつがいるはずもない。
家臣一同は深く納得した。
いずれにせよ王は二度と姿を現さず、公式には「おかくれになった」とだけ発表された。まちがってはいない。非公式には病死したものとして扱われ、国は喪に服し、国葬は大々的に催され、第二王子が新たに玉座に就き、先王の遺業にふさわしい墓やら像やら碑やらがひと揃い揃えられたところで落ち着いた。先王は、寝武と諡された。
新しい王は凡夫であったが、人を蹴り殺さずとも起きられるという、真に偉大な人物であった。侍女たちの大半、特に派遣侍女のすべては職を失うことになったが、それでもその全員が、おのれの命が脅かされなくなったことを喜び、キャットファイトのリングは忌まわしき記憶とともに破却された。
ローブをまとった老人たちはぴりりんの活躍におおいに満足し、魔法の力と結社の意義を声高に謳い、自意識にまみれた政治談議に華を咲かせ、最後にぴりりんを褒め称え、森に帰るよう促した。
ぴりりんは「はあい!」と元気よくお返事をし、地上に出るやほうきで飛び立った。
しかし方角がちがう。鬱蒼とした森の住処をまっすぐ目指すでなく、昼日中にあって、市街の上空をぐるりとひと回りしてから方角を見定めると、町外れ目がけて飛ばした。あまり人目につくことは結社の掟に反するが、気にする様子もない。ただやたらと急いているようだ。街に接した河川目がけてほぼ垂直に急降下すると、秘密の場所へとふんわり降り立った。牧草地にひっそり佇む、しばらく使われた形跡のない、ちいさな納屋である。中からひとりの少年が姿を現した。
ぴりりんには恋人がいたのである。
恋人は、ぴりりんに誅殺された先王にとっての第三王子に当たる、美貌の少年であった。廃嫡され僧となったのが第一王子であり、王位を継いだのが第二王子であることはすでに述べたとおりである。
第三王子はきわめて善良な人物であった。多くの民が第二王子よりも彼を王に据えるべきであると思っていた。しかし彼は兄を立て、すすんで身を引いた。それを聞いた人々は、賛辞を惜しまなかった。
彼は草花を愛し原発に反対していた。人々はそれにも賛辞を惜しまなかった。
聡明さは父に似て、しかし寝起きは良く、朝な夕な詩を吟じ、それを聴く女たちをあまねく魅了した。人々はそれにも賛辞を惜しまなかった。
演習においては勇猛果敢で、屈強な男たちも彼に惚れ込み、有事の際は彼のために死ぬことも厭わぬと誓い合った。人々はそれにも賛辞を惜しまなかった。
かつて隣国の王からぜひともわが養子にとの申し入れがあったが、彼は父に問われるまでもなく丁重なお断りを申し述べ、人々はそれにも賛辞を惜しまなかった。
ただしこの王子にはひとつの悪癖があった。ネコをエアガンで撃つのである。
先代が存命のころこれを見咎めたことがある。王子はストレス発散のためであると弁明した。
世が世なら臣民の先触れとして夷狄と矛を交える身でありながら、父上という名君を持ったがために太平の世を謳歌する暮らしが、私にこのような振る舞いをさせるのです。私とて乱世を望む者ではありません。ただ、この身の内に宿る王家の血が、戦神の末裔たるこの血が、私にこのような振る舞いをさせるのです、とだいたいこのようなことを言った。
先王がそれでも、民を想うようにネコたちの気持ちも考えるようにと強く咎めると、王子は押し黙り、ぶるぶるとふるえ、ぽたぽたと涙を零した。先王は意表を突かれた。美丈夫と称えられ誰にも泣き顔を見せたことのなかったわが子の、その涙に、哀れみを覚えた。先王は、多少の乱行には目をつぶるべきであると、そっとしておくことにした。この悪癖を思春期にありがちなあやまちであると考えたのである。
もちろん今となっては後悔しているにちがいない。先王にはもはや咎めることができない。なにせ、エアガンで撃たれる側なのだから。
それはそうと納屋での逢引である。
「ぴりりん、ちょりーッす」
「こんにちは王子さま」
ほうきから降り立ったぴりりんが納屋に駆け込み、かんぬきを下ろすと、親しみをこめた挨拶が交わされた。
「ちょ、ま、もう王子じゃねっし。ニイが王さまんなったから王弟だし。王弟殿下。マジ、殿下って呼んでって感じ。めっちゃ殿下系。オール殿下」
「うふふ、じゃあねえ……殿下!」
「イイネ! もっかい呼んでみそ」
「でーんか(はぁと」
「フヒヒ……サーセン」
非合法地下組織である魔法結社の仕事人・魔法少女ぴりりんと、偉大なる先王・寝武の末子たる王弟殿下。身分違いの恋に溺れるふたりは、このように逢瀬を重ていたのである。
「いやもう超ひさびさじゃね? つかおれ最近マジいそがしーっつか、パパン死んでわやくちゃっしょ? わかるっしょ? あんま会えなくてメンゴメンゴ」
「大丈夫ですよ^^」
「上のニキもお坊さんになるっつって家を出てっちゃったしさぁ、なんか国とか傾くんじゃね? ってみんな言ってっから。マジやんなる。おれがそんなことならねーよーにするっつの。がんばるっつの。どうおれかっけー?」
「かっこいいですよ><」
夢のような時間が過ぎる。
ただ語らうだけでも身の疲れは霧消し、明日を生き抜く活力がみなぎる。
若いふたりにはおおっぴらに会う時間も場所も、そしてなにより立場がない。
王弟殿下は、ぴりりんが魔法少女であることを承知している。伝説の死神。この国の子どもたちが寝物語に聞く、世の理を超えた存在。ただし目の前の少女ははにかんだ笑顔がいじましい、ただの純朴な娘だ。いつだってその手を取り、いっしょに流れる雲でもぼんやり眺めていたい。肩を並べて芝居小屋で笑いあいたい。
ぴりりんが父の仇であることを知らぬとは言え。
出会いは一年ほど前にさかのぼる。
その日、ぴりりんはひと仕事終えたところであった。飲んだくれの亭主に対する不平を、わずか半年、ひとりで百万回積み上げたご婦人のため、魔法を用いて宿六を酒瓶へと変えたのだ。その酒瓶は、飲んだくれの知己であるべつの飲んだくれによって一息に飲み干された。結社が強く推奨するところの、実にエレガントな仕事ぶりであった。
ところが、式次第を見届け、いざ帰ろうという段になってほうきが見当たらない。下町ですら盗難の心配もないほど薄汚れたほうきである。あれがなければ帰れない。目を離したのが拙かったか。魔法で失せ物を探すなり、あるいは具現化させるなりするべきか。いや、自らのために魔法を使うことは結社の掟で禁じられている。しかし徒歩で帰れば多くの人の目に留まる。それもまた結社の掟的には具合がよろしくない。
どうしたものかと逡巡し、今にも泣きそうな顔で佇んでいると、見知らぬ少年に声をかけられた。
「ちょ、ま、その服、めっちゃイケてんね。マジマジ。パンク入ってね? どこ買い? パルコ? 四プラ?」
ぴりりんはもちろんそのときも、魔法少女の正装である斬新な色彩のひらひらしたおべべを身にまとっていた。しかしどちらかといえば少年のいでたちのほうがおかしい。鋲のついた蛇皮のジャケットを半裸に直に羽織って、髪の毛を逆立て、肩にはなにかの楽器を担いでいる。
「あれもしかすんと魔法少女? こマ? 初めて見んしー! あ、これ落ちてたけどきみの? サーセン」
少年の手には薄汚れたほうきがあった。
ぴりりんは、自分のことを街のみんなには内証にしてくれるようにと懇願し、ほうきを拾ってくれたお礼のためと称して、再び逢う約束を取り付けた。それはもちろん結社の掟に反していた。が、なぜだか思い止まれなかった。少年は快諾した。
再会のときぴりりんは、少年がこの国の王子であることを知った。ときおりお忍びで城下を散策しているのだという。時には下々の者に交じって、弦を爪弾き歌い合い、酒を酌み交わし、その暮らしぶりを確かめるのだという。ぴりりんもおのれの仕事や結社のことを打ち明けた。
誰にも言えぬことを抱えた者同士、王家の掟と結社の掟に縛られた者同士の語らいは、なにかしら通じ合うものがあり、これはふたりにとって得難いひとときとなった。
そうしてふたりは付き合いを始めた。
一年がたち、この日この時、ぴりりんと少年はわらぶとんの上に寝そべって、納屋の天井を見上げている。
梁の上にはネズミがいて、ときおりちうと鳴く。納屋に差し込む陽はすでに赤い。
「ごめ、従者待たせてっからそろそろ行くわ」
王弟殿下は半身を起こすとそう言った。
ぴりりんは答えず、小首をかしげながらすこしだけ微笑む。
「そいやさ、おれん馬車、新しくなったんだけど、めっちゃすげえよ。はえーしひれーし。ぴりりんも乗したいわー。ぴりりん、ドライヴしたい? 今度ドライヴする? ドライヴスルー、シェーキふたつ、なんつってなんつって」
ぴりりんはうふふと笑う。
少年を見送るといよいよ暗くなった室内で、ぴりりんは身支度を終え、表に出る。一面に広がる牧草地の彼方には、宵の闇とひとつながりになった鬱蒼と茂る森。ぴりりんは納屋にしっかり鍵をかける。王子と……いや王弟殿下と、ぴりりんだけが持つ鍵である。これが密会のための鍵などではなく、二人のおうちの鍵なら良いのに、といつか殿下が言っていた。
ぴりりんはほうきにまたがる。魔力を用い、浮かび上がる。森へ向け、消える。
王弟殿下はぴりりんと会えない日を、ネコをエアガンで撃つことによって過ごした。王城で飼われているものはすっかり殿下を警戒するようになっていた。その中にはかつてこの国の王だったネコもいて、なんらかの事情により、とりわけよく撃たれた。王子は予定が空けば城下へお忍びに繰り出し、街なかで適当なネコを見繕うと例の納屋まで連れてゆき、飽きるまで撃ちつづけた。
結社からの次の呼び出しは、早かった。
「この夜だ」
あのしわがれた声が聞こえる。
「ついに、ネコたちからの不平が百万の位を数えた」
自意識にまみれた者特有の発声で、老人のひとりが口を開いた。
「神聖な数字である」
べつな老人も同じく、きわめて演技がかった口調で応じる。
「ぴりりん、おまえが喚ばれたのはかかる仕儀によってである」
王都のいずこかの地下にあるとされる魔法結社。その円卓の間。室内を照らすのは消えかけの蝋燭だけで、灯明にぼんやりと浮かび上がるのは、卓を囲う、ローブをまとった老人たち。
今日のぴりりんはいつもと比べいっそう醜く、それでいて黒目がちな眼だけはらんと明るく、「王子を討ち果たしなさい」の声に、おおきく元気よく「はあい!」と答え、地下を出るなりほうきにまたがり、漆黒の夜空に飛び立った。
ぴりりんとの秘密の場所、逢引のための納屋で、王弟殿下は討ち果たされた。
「あれーどうしたんすかぴりりん、今日感じちがくね? どこだろな、わかった、ちょい髪切った? こゆこと気づく男はモテんだってさ。エヘヘ。ぴりりん以外にモテてもうれしくねっけど。あ、おれ今かっけえこと言った? どうよ? どうよ?」
軽口に反応せずに殿下をまっすぐ見据えたぴりりんが「ネコになれー」と間抜けな声で叫ぶと、杖の先のハートと星とが輝き、せまい納屋の中は雷光より激しくまばゆい光に照らされた。
ぴりりんの恋人は一匹の愛くるしい獣の姿となった。カエルの子がカエルであれば、ネコの子はネコであるのが道理、ではある。
ぴりりんはつづけて魔法を用い、手元に一丁のライフルを召喚した。AK-47。畜生となった恋人の愛銃と同一の型であり、その筋の者御用達の一品だが、ただし空気圧ではなく炸薬で弾丸を飛ばす実銃である。ぴりりんはすばやく腰だめで狙いをつける。
元王弟殿下はにゃあというひまもなく自分になにが起きたのか理解することもなく、AKのフルオートマチックの乱射を浴びて、六畳もない納屋が硝煙の匂いに満ちるころには、細切れたくしゃくしゃの肉片と化していた。
結社はぴりりんからの報告にひととおり歓喜し、自意識にまみれた政治談議に華を咲かせ、ぴりりんを褒め称えると帰宅を促した。
この日のぴりりんは寄るところもなく、鬱蒼とした森の家へとまっすぐ帰っていった。ぐちゃみそになった元王子、元王弟殿下のネコの死骸は、森の家の庭に埋めた。
新王の名によって、王弟殿下もまた病死したと広く国民に報され、国葬が催され、王族に相応しい手続きで祀られた。
王都では、立て続けの王族の不幸に、これは隣国の陰謀であるとの噂が立った。発信源は定かではない。王城であるとも、井戸端会議であるとも言われる。おそらくはその両方であろうし、出所がどこであるかはさして重要ではない。問題は、陰謀というトピックスであるとか、どこに行ってもよく聞く話というものは、人間には真実であると誤解されやすく、実際おおいに誤解されたことにある。
つまるところこうである。
「陰謀がある。陰謀があることに異を唱える者の陰謀である」
そもそも隣国とは過去に不幸な歴史があり、先祖代々つづいてきた水場をめぐる争いは、たまたま外交に長けた先王に中断されただけであって、先王亡き今、争いは再開されるべきなのではないだろうか。かつて隣国の王が、夭逝した王弟を養子に迎えたがっていたのは、そこらへんにも関連があるのではないか。
ひとりそう思う人物がいたなら同程度のことは誰でも思うものであって、実際多くの人物がそう思った。ただし多くの人物に思われることに多くの根拠があるとは限らない。無根拠を根拠に隣国への不信は煽られ、国境付近の緊張は高まり、両国を行き交う商人の荷馬車は襲撃され、弔問に訪れた隣国の使節は、王都の民に白い眼で見られ石つぶてをぶん投げられたことを、自国へ取って返すなり正直すぎるほど正直に報告した。
となれば当然隣国のほうでも不信は高まるのであって、使節への無礼に対する激烈な遺憾の意を表明するとともに、一文一文に皮肉を混ぜ込んだ外交文書を作成したりした。それは両国の民における靴の形のちがいや頭髪の多寡など、内容的にはどうでもよいことであったが、それなりの読解力を持つ者が読めば読むものを苛立たせ、誤字脱字多くして、ついでに縦読みすれば「尻毛を煮る」などと意味不明な文言が浮かび上がったりするものだった。
議会に参加した家臣たちはこの文書におおいに腹を立てたが、立腹にまかせた品のない反撃は思いとどまり、くだんの文書を最高機密扱いにし、城の地下にある使用禁止の個室便器の裏蓋に貼り付けるにとどめた。
民は文書を目にすることはなかったが、隣国の抗議文書の存在だけは噂として広まった。噂は爆発的に尾ひれをつけて泳ぎだし、辺境の地へ到達するころには異形の怪物と成り果てた。文書の公開を要求する民や、自国の弱腰姿勢を非難する者が現れた。単細胞は激昂とともに、冷笑家はためいきとともに、ことの経緯を見守った。
王都のいずこかの地下にあるとされる魔法結社では、老人たちによる、世の不平の数を数える儀式がヒートアップしていた。
隣国への不平はすぐさま万の位を数え十万の位を超え、早晩百万に到達するであろうことは火を見るより明らかであった。ところが隣国からの不平がそれに猛追をかけ、まさに追い越さんとしているのである。不平を感知する役目を果たすのは結社の一室に詰める巫女たちであったが、とある巫女はトランス状態のまま一晩で三十万を数え上げたのち、泡を吹いて卒倒した。また別な巫女は五穀を絶ち水垢離で身を清め、いちいち煩雑な数字を挙げることなく「隣国からの不平は五十三万です」と言い放った。
誅殺の命が下ればいつでも出立できるようにと早めに召喚されたぴりりんは、地下に一室が与えられ、留め置かれていた。一張羅の衣装を洗濯することもできず、厠に行くにも断りを入れねばならず、ここ数日、暇を持て余しまくって手持ち無沙汰に過ごしていた。
薄暗い部屋の中、遠くの喧騒を耳に、ある晩むくりと起きだしたぴりりんがたわむれに杖をかざすと、星とハートを象った飾りから魔力が漏れ出て、王弟殿下との思い出の日々が室の石壁に映し出された。
ありし日の殿下は血色よく、ネコの姿をしておらず、優しげな声音とともにあったが、どれもこれもせま苦しい納屋での逢引の場面ばかりだ。
もっとなにかないものだろうか。美しい出来事はなかったろうか。と、見る間に映像が増えて、石壁を色とりどりの情景で埋めてゆく。
新しい馬車でのドライブ。
ふたり連れ立って晴れた日の渓流沿いを駆ける。
湖のほとりでバーベキュー。
傾きかけた日を背に街道を引き返すうち、見知らぬ人物とレースになる。
もちろん殿下が勝つ。
映像のなかのぴりりんがなにごとかを言うと、それに応じた殿下がにっこり微笑む。
むちろんぴりりんも、いつもどおり始終微笑んでいる。
ただしその頬には赤みが差している。
それは夕日のせいだろうか。
月が出る。
星が降る。
殿下は今日はお城に戻らない。
ぴりりんも、鬱蒼とした森の家には帰らない。
どれも存在しなかった場面だ。
架空の思い出を眺めるうちに、ぴりりんのうふふ笑いが真顔になる。
これは誰のための魔法だろうか。ぴりりん自身のためだろうか。結社の掟では自分のための魔法は禁じられている。
いや。
ため、とはなんだろうか。
なにが誰のためになると、どこの誰にわかるのだろうか。現に、ぴりりんは涙を流していた。これは悲しみの涙だろう。悲しみは自分のためにあるものだろうか。そうかも知れない。それでも、ぴりりんがどう思ったかは誰も知らない。
遠く円卓の間から、老人たちの嬌声が聴こえている。どうやら賭け事でも始まっているらしい。どちらの国からの不平が先に百万に到達するか、攻防は一進一退のようで、怒号とため息が嬌声の合間合間に差し込まれる。
騒音に興を削がれたかのように石壁の映像がちりちりと霧消すると、ぴりりんは、控えの室の入り口に、ひとりの小使が立っているのに気がついた。
いつからそこにいたのだろう。
ぴりりんが、涙に濡れた真顔を取り繕うようににっこり微笑むと、小使の少年はお辞儀だけをしてさっと円卓の間に駆けていった。
小使が到達すると老人たちのどんちゃん騒ぎが止んだ。
小使は隣国の魔法結社からの通達を携えており、老人たちに命じられて、少年は明朗な声でそれを読み上げた。
「時下ますますご清祥のことと存じます。二国間の緊張が高まりまくる昨今、わたくしどもとしましては、このまま農閑期が訪れたならば二国間の衝突は必至の情勢であると見ております。その前に、おそらく今晩中にも百万に到達するであろう不平にもとづき、御社によって魔法少女が動くことになりましょうが、ところで国家に対する不平とは、いったいなにを討ち果たせばよいのでしょうか。いったいぜんたい、よくわからないところがございます。国のトップを懲らしめればよいよいな気もいたしますが、王家と謂えどその責任は有限であり、討ち果たしさえすれば不平が消えるというものでもないように思われます。現に、このたびの二国間の不和はそちらの結社による王族の誅殺に端を発すると、こちらでは認識しております。そこでわれわれとしては、双方の国から代表する魔法少女を立て、代理戦争を提案するものであります。魔法少女同士による決着を以てしても多くの不平が収まるとも思えませんが、国家を超えた力のぶつかり合いを人々が目にすれば、戦争などという浅はかな行いは気が引けるのではないかと愚考する次第であります。そちらさえよろしければ今宵、日付の変更とともに、国境の森にてお手合わせ願いたく存じます」
老人たちはうろたえた。次に憤慨した。
隣国の魔法結社は分家である、というのがこの魔法結社の認識であった。元々あちらの結社は過去に喧嘩別れした一派が隣国のいずこかの地下に作り上げたものであり、つまりはこちらが本家、元祖、真打、家元である。それがなにを生意気に、対等なつもりで代理戦争などと。宣戦布告などと。
そもそもわれわれの結社はいかなる国家にも与するものではなく、人知れず世の不平をサーチアンドデストロイするために存在する、いわば正義の徒である。民意の体現者である。国家への不平が高まればおのれの国だろうが隣国だろうが構わず懲罰を加えるのが使命なのであって、国の代表として代理戦争をしようなどとは言語道断。魔法少女は傭兵ではない。そのようなくだらない対決の犠牲になるべきではなく、魔法少女は人にその姿を見られることすら固く禁じられている。
だがしかし、と老人たちのうちのひとりが手を挙げ、立ち上がり、ローブをはためかせ、芝居がかった重低音で語り出す。
宗家の力をもって、分別のない分家に目にもの見せてくれる、というのは悪くない。無論、どちらが正当な結社であるかは論を待たないないが、物分りの悪い連中に物をわからせるには、そいつの最も得意な領分で鼻っ柱を叩き折ってやるのが一番である。なにせわれわれの所有する唯一無二の魔法少女は、唯一無二の強さを誇る魔法少女である。戦えば勝つ。勝つのなら戦うべきである。
おおそうか、そうだそのとおりだ、イイネ! イイネ! イイネ!
老人たちはおおむね納得した。早速ぴりりんを喚ぶため、今しがた通達を読み上げた小使を控えの間へと送る。しかし命を伝えられたぴりりんはすぐには応じず、厠で用を足すからしばし待つようにと小使に伝えた。
察しのよい小使は、ぴりりんがさっきまで泣きはらしていたので、それを人に見られたくないのであろうと覚った。小使は逆に、ぴりりんにしばし待てと言い置き小使たちの詰める室へと駆けた。戻った小使の手にはブリキのコップを花瓶代わりにした花束がある。ぴりりんは小首をかしげる。
「ぴりりんさんのお部屋には、お花があるとよいと思うのです。あってほしいのです。きれいでしょう。これは死んだ母のお墓に持ってゆくつもりでしたが、差し上げます。母は先頃の侍女の徴募に応じて命を落とした愚かな人でした。その愚かな人のために悪い王さまを討ったぴりりんさんは、すごいと思うのです。だから、あげます」
ぴりりんは受け取った。白い花である。
ぴりりんの微笑みはいつもと同じで、ありがとうのひとつもなかったけれど、小使は特に落胆も見せず、円卓の間へとぴりりんを促した。
「ぴりりんよ、遅いではないか。結社の一大事に暢気なことである。小水など火急のときにはかまわず漏らせ。一大事とは結社の威信をかけた戦いである。おまえは戦いの場に出ねばならん。戦いといっても、なあに、おまえは最強の魔法少女であるので、特に難しく考える必要はない。その時その場所にあって、結社の敵を討ち果たし、無事に戻ってくればそれでよいのだから、ふだんの仕事となんら変わるところはない。敵は隣国の魔法結社からの刺客であるので、向こうも魔法を用いるだろうが、おまえほどの魔力があれば勝負は数瞬で決まるに相違ない。おまえの戦いぶりに彼奴らめは思い上がりを正され、結社間の秩序は保たれる。重要な仕事である。わかったか?」
ぴりりんはやはり元気よく「はあい!」と応えた。
国境の上空に待機するぴりりんは、ひとり寒々とした夜気で肺を満たし、にこやかな笑みは絶やさないまま、かじかむ手に息を吹きかけて時間をつぶしていた。
日付が変わるまであとどのくらいか。魔法少女には洒落た懐中時計を携帯する者もあるというが、ぴりりんは持っていない。魔法で召喚すべきだろうか。いや、これから戦いがあるのだから余計な魔力は使うべきではない。
戦い。
ぴりりんが浮かぶのは上空100mほどだろうか。この高度で魔力を使い果たせばまちがいなく死ぬだろう。墜落して即死だ。戦いの舞台が空という時点で、手加減の有無にかかわらず命のやりとりになる。
命。花。
小使の少年からもらった真っ白いあれは、なんという名前の花なのか。
ぴりりんが花の名などを考えたかどうかはわからないが、わたしはそれがベゴニアであると知っている。花言葉は「親切」。なんの韜晦もないメッセージだ。ぴりりんは気づいていただろうか。
いやこのときぴりりんには、もっと考えるべきことがあった。警戒すべきことがあった。敵対する魔法少女がどのような存在であるか、想像をめぐらすべきであった。異様に楽観的な結社の老人たちのようにあるべきではなかった。命のやりとりをするのは老人たちではなく、ぴりりん自身なのだから。
敵は百を超す編隊で現れた。
たしかに、隣国の魔法結社からの提案には、一対一の勝負であるとはどこにも記されてはいなかった。
遠隔視を用いて国境上空の決戦場を見守る老人たちは、最強の、そしてこの結社唯一魔法少女であるぴりりんに、敵が何秒持ちこたえるかで賭けを始めていたが、敵の編隊の登場をみとめるや、自分たちのあまりのへらへらした態度を強く呪った。
老人たちのひとりが「卑怯だ!」と叫ぶと別なひとりが「ルール上問題はない」と反駁し、またひとりが「あれだけの魔法少女をそろえられることも結社の実力と看做してよかろう」と言えば「数より質だろ」「それ負けフラグ」「法則発動」「さすが汚い、分家汚い」とつづき、賭けの胴元は慌ててレートの調整に取り掛かった。ぴりりん敗北のオッズは1.1倍を切った。
ほうきにまたがった敵方の魔法少女たちは錐型の編隊のまま接近、ぴりりんの射程外で散開し、半球状の包囲陣形を敷いた。みなぴりりんと同じくらい年若く、ひらひらの衣装を身に纏い、飾り付けこそ不統一ながら同じくらいの長さの杖を手にしている。その杖に魔力が充填されてゆく。日付変更に合わせて魔法を放つ構えであろう。各自がほうきの軸を射線に合わせ、その先に浮かぶぴりりんに聴こえるかどうかの幽かな声で呪文を詠唱している。
ぴりりんはまったく動じず笑顔を絶やさず、日付が変わった瞬間に「はあい!」と元気よくお返事した。
真剣十代いくさ場の火蓋は切られた。
「プランクダイヴ!」
「スタータイドライジング!」
「ダイヤモンドエイジ!」
「ケーパーヴェレ!」
「カオスホテル!」
「スティールビーチ!」
ぴりりんを包囲した魔法少女たちは一斉に、充填された魔力を解放した。唱えられたのはそのトリガーとなる文言である。魔法にはだいたい、このような恥ずかしい名前がついているのである。
これには歴とした理由がある。
魔力の強度は自身の真の姿と自己イメージの乖離によって決定され、その落差が大きいほど魔力も強大なものになるとされる。自身がきわめて非力であり、かつ自己イメージがうぬぼれの太平洋に溺れられるほどだと大魔術師の素養があるということだ。逆に、鋼の肉体を持ちながら自己イメージが小動物じみている人物となれば、この場合、魔力は陰圧となるため表に出てくることはなく、外界に作用しない。
この魔法理論を提唱したいにしえの大魔術師ベテルギウスは、終生おのれをドラゴンであると思い込んでいたという。はたからは人の形をしたもやしにしか見えぬベテルギウスは、街を焼き海を割り星を砕き、しかしわれはドラゴンであるからと、霊山に篭り人肉を食して暮らしたと伝えられる。
ゆえに年若い子どもは一時的に魔力を持つことがある。平均を取れば、魔力は思春期がピークであるとされる。だいたい年齢とともに魔力は漸減し、自らの黒歴史ノートを覗き込みキアアアと叫んだ瞬間、その魔力は失われる。永遠に。
ぴりりんの強大な魔力から察するに、神か仏か、彼女の自己イメージは大魔術師ベテルギウスに勝るとも劣らないであろう。
そう、ぴりりんの魔力は強大であった。敵からの集中砲火を浴びても無傷でいられる程度には。
中空に巨大な爆炎が渦を巻き、閃光がほとばしり、大気が電離し、黒煙が高々とのぼっても、直撃を食らったはずのぴりりんはそこから微動だにせず、それでいていつもどおりにっこりしていた。
防盾魔法。ぴりりんのそれは半径10mの真球状に展開され、内部へのあらゆるエネルギーを遮断した。
魔法少女の群れが再充填を始める前に、ぴりりんの反撃がある。
ぴりりんが「ネズミになれー」と杖を掲げまぬけな声で叫ぶと、少女たちの幾人かがそのとおりとなった。げっ歯類たちはちうと鳴く間もなく地に落ちる。死ぬ。包囲網から十人が脱落した。
包囲側は慌てることなく、作戦の第二段階に入る。陣形の中央にあって、髑髏を模した杖を振るう少女が、その指揮を執る。魔法による暗号通信だろう。声を発さずとも規律正しく陣が動いた。編隊の半数がほうきをフルスロットルにして急接近する。魔法を放つ。ぴりりんはまたしても盾を展開する。
ぴりりんの防盾がいくら強力でも、その内側から魔法をかければよいだけのことだ。これだけおおきな盾なら隙間があるはず。その隙間から潜り込めばよい。間断なく魔法を打ち込み続ければ、ぴりりんは盾を維持せざるを得ない。少女たちは数に物を言わせて弾幕を張りながら、周囲にきわめて薄められた魔力を散布している。目には見えない盾の穴を求め、空間を「検索」している。
あった。ぴりりんの後方、隙間どころかぽっかりと穴が開いている。上下左右に展開していた小隊が、ぐるりと回りこむ。小隊は四人をひとつの単位として構成されており、ひとりが攻撃魔法を、ひとりが防盾魔法を、ひとりが魔力による通信と指示を、ひとりが状況に応じて他のメンバーをサポートしている。百人の魔法少女のうちネズミに変えられたのが十名、残る九十人のうちの約半数、四十八人すなわち十二小隊が迂回しながらぴりりんの背後に殺到する。
動かなかった残りの半数、ぴりりんの正面に陣取る魔法少女たちは、弾幕を張りながらもぴりりんの凶悪な魔法がいつ発されてもよいように防御を固め、背後に回った部隊に対しぴりりんがどう動くかを見守る。動くはずだ。動け。動け。動け。
動かない。
ぴりりんはその場にホバリングしたまま、盾を動かすことも、また新たな盾を張ることも、振り向きすらせず、それでいて笑みは絶やさぬまま、防盾の穴に殺到しぴりりんに魔法をかけようとした四十八人を、一瞬でトカゲに変えてみせた。トカゲたちとトカゲたちの所有するほうきは、なにが起こったのか理解することも、ひゅうと音を立てることすらもないまま、地に落ちた。
残された四十二人に戦慄が走る。無理もない。まったくなんの戦いらしい戦いもできぬまま、あっという間にその数を半分以下に減らされたのだ。
しかし指揮を執る魔法少女だけは、まったく動じていなかった。うつろな眼で、表情を変えず、新たな指示を出す。退き撃ちで弾幕を張り続け、徐々に編隊を散開させてゆく。
ぴりりんといえど弾幕の圧の中にあって防盾を動かすのは困難であり、自身も防盾に阻まれて動けず、攻撃もできない。後方の「穴」にさえ近づかなければ、ぴりりんには反撃の機会はないように見える。
一方はいつまでも弾幕を張り続けるわけにいかないものの、一方もいつまでも盾を構えてはいられない。
点と、面。
四十二対一。
先に息切れするのはぴりりんのほうだろう。仮に盾がもったとしても、数的不利は変わらない。このまま距離を取られ身を隠されでもしたら、もはや一網打尽とはいかない。四十二人の鬼を相手にしたかくれんぼ、あるいはうさぎとかめの話で言えば、今のぴりりんはかめに一服盛られつつあるうさぎである。寝ては負ける。
よって、ここは先手を打つべきだ。ぴりりんが杖を振り上げると、半透明な防盾がぱりんと割れた。眼前に迫る弾幕を曲芸飛行で回避、盾の形を失った魔力の薄片を無数の矢に変じ、敵集団に射掛ける。敵の魔法少女たちももちろんすでにこの事態を見越していて易々と避ける。
さて、ここからはほうきにまたがった魔法少女のドッグファイトだ。ぴりりんによる各個撃破が始まる。
国境付近に居を構えていた多くの民が、このいくさを見た。
天翔けるほうきの群れは長く光の尾を曳き、夜空を輝く曲線で彩った。膨大な魔力の衝突は無数の花火を思わせ、気づけば蛍光の曲線がひとつ、ふたつ、足りなくなってゆく。
夜明け前にはその数はわずかしかなく、女たちは寝不足に目を腫らし、幼いころ寝物語に聞いた魔法少女たちの死闘を見物した。すばらしい見世物に興奮しながらも睡魔に負けたわが子を抱きながら。男たちは隣の村落へと馬を走らせ、見聞きしたものを伝えた。伝えられた者もまたべつな村へと駆けた。
情報は多少の歪みを加えられながら伝播してゆき、これを王都の首脳陣が感知したのは正午を迎えたころだという。
そのとき敵方に残っていたのは、ただひとり、編隊の指揮官であった少女だ。半日のうちに、哀れな九十九人の魔法少女たちはぴりりんの駆使する変幻自在の魔法によって討ち果たされ、ことごとく地に墜落して絶命していた。あるいは絶命してから墜落した。
しかし最後に残った魔法少女だけは、幾度魔法を浴びせられようと、構わずぴりりんに突っ込んでくる。
ぴりりんが「燃えちゃえー」と叫べばその杖から火炎が放たれ、白熱した火球はくるりと敵のほうきを追跡し、相手のこめかみに鋭く命中する。ほうきのうえで姿勢を崩した敵は首から上をめらめらと燃やし、ほうきは推進力を失い、国境地帯を埋め尽くす森林に落下してゆく。しかしすぐに火は消えほうきは浮力を取り戻し、少女は真一文字に飛び上がってくる。
ぴりりんはそれをまたしても撃ち落とす。次は氷の魔法である。「えーい、凍っちゃえー」の声で放たれた冷気によって気温はみるみる下がり、敵の周囲の空気までもを凝結させる。
敵はやはり一旦は落ちてゆくが、地にぶち当たりしばらくすれば、またなにごともなかったかのようにぴりりんと同じ高度に姿を現す。
死なないのだ。
不死の魔法少女。彼女の自己イメージはゾンビであろうか。あるいは火の鳥か。
ぴりりんが敵の姿に目を凝らせば、視神経一本で繋がった両目をだらんとさせ、口元だけは不敵に口角を上げている。敵がほうきの上でのけぞり、四肢を大の字に広げ、髑髏と荊を象った杖を掲げると、中空に無数の細長い針が現れた。針は一直線にぴりりんに襲い掛かる。毒針だ。これに仕込まれた毒物がなんであるかはわからないが、さきほどの乱戦のさなか、毒針の誤射を受けた敵方の魔法少女は痙攣しながら地に落ちた。一発も当たるわけにはいかない。機動力も旋回性能でもぴりりんが圧倒的に勝っている。無数の針を難なくかわす。念のためハエタタキ状の防盾を周囲に張り巡らし、流れ弾への対処も怠らない。
しかし。
負けないが、勝てない。
ぴりりんの比類なき魔力も無尽蔵ではない。いずれ尽きる。
ただしそれは敵も同じはずだ。
おのれの真の姿と自己イメージとのズレに程度があるからには、魔力だって有限のはずなのである。
殺し続けるしかない。
魔法少女同士の戦闘において、もっとも有効な戦法は、相手をぶん殴ることでもほうきを叩き落すことでもなく、おのれの力を誇示したうえ、相手の真の姿をさらけ出すことにある。
駆け出しの魔法使いならば鏡を見せるだけで事足りる、と言われる。つまり鏡をいくら凝視しようとも尊大な自己イメージを保っていられた者だけが、魔法の道を歩き続けられるのだ。
逆に、ひとたびおのれの力に陶酔することができたなら、それは成功体験による正のスパイラルを生み、膨れ上がった自意識をさらに加速度的に膨らませることができる。結社に伝わる奥義に曰く、この現象はビッグバンと呼ばれ、名を残した魔法使いたちはみなその過程を経ているという。今ここにあるぴりりんと敵の実力から察するに、両者ともすでにビッグバンを終えてなお自己イメージを保っていることはまちがいない。
ゾンビ魔法少女はさきほどから垂れ下がっていた自分の目玉を、片方は眼窩に押し戻し、もう片方は千切りとって自らの口に運び、ゆっくりと音を立てて咀嚼した。もちろんそのあと不敵な笑みを浮かべることも忘れない。狂気の沙汰であるが、これこそが魔法の力を担保する振る舞いである。「わたしはそういうことをするやつだ」その思い込みが彼女を事実ゾンビ足らしめているのだから。その場面を遠隔視で見守る結社の老人たちも、ぴりりんの苦戦を忘れたかのように、ゾンビ少女のゾンビ的振る舞いに拍手喝采を送った。老人たちは善悪や勝ち負けの判断よりも、見世物としての質を重んじるからである。きっと相手方の結社でもスタンディングオベーションが起きているだろう。
ゾンビ少女のゾンビっぷりでぴりりんがおののけば、そこで勝負は決まる。「勝てないかも」という感覚が一瞬でもよぎればぴりりんの自己イメージはしぼみ、下手をすれば一気にただの人へと成り果てる。さてどうだろう、ぴりりんは退くか。こらえるか。進むか。自らの怯懦に蝕まれるか。
もちろん答えは決まりきっている。
つまりぴりりんはいつもどおりにっこりと、笑い続け、そして殺し続けた。
おまえはたいしたやつじゃない。おまえはゾンビなんかじゃない。おまえは強くなんかない。おまえは間違っている。おまえは誰にも求められていない。おまえの故郷は素晴らしくなんかない。おまえの結社は正しくない。おまえにはなにもない。おまえにはなにもない。おまえは魔法使いなんかじゃない。
おまえはひとりの、ちっぽけな、棒切れみたいな小娘だ。
だがわたしはそうじゃない。
どちらかがより強くそう思った。もう一方がそう思わされるように。
かけられるだけの手数をかけて、可能な限りの手段を用いて。
戦いはさらに一昼夜続き、二度目の日の出を迎えたころ、あるいは三度目か四度目か、もしかすると三百六十五度目か、もっと多くの時間の果てにか、天は裂け海は干上がり地は砕け、森だけがますます緑を茂らせてゆき、宇宙は開闢と同じ数だけ熱的な死を迎え、他にも各種もろもろの大袈裟な有象無象ののちに、どちらかが地に落ち、もう飛び上がってくることはなかった。
ぴりりんは勝利した。多くの民が夜空に繰り広げられる魔法の攻防を知り、その存在に恐怖した。ここまでは代理戦争にあたっての、結社の目論見どおりであった。
王都の密偵は宮中に詳細を報せ、その足で宮中からの指令を各地に伝えた。そしてついに、都市伝説として片付けられてきた魔法結社の実在が明るみとなった。これは結社の誤算であった。
次に明るみとなったのは、どうやら王を殺めたのも王子を殺めたのも隣国とのいざこざも、どれもこれもそれも、魔法結社のあれやこれやそれが暗躍していた、らしい、ということである。これも結社の誤算であった。
国家の真の姿と国家の自己イメージの乖離もまた、力となる。魔法こそ用いないが、まあ、魔力と権力ということばの差はあっても似たようなことはできる。
よって、次なる不満は魔法結社に向けられることとなる。
不平の数は一晩で軽く百万をオーバーした。
これに対し、魔法結社の態度は公平ではあった。これまでも善悪の判断はなさず、ただ数字だけで裁きを行ってきた。分別と愚かさを天秤にかけるようなこともしてこなかった。ひとりの不平であろうと、百万に至れば聞き入れた。隣国の分家結社との代理戦争においても、約定をたがえはしなかった。
よって、結社への不平が百万の位を数えたのなら結社をもその標的にすべきなのでは、という議論は、一応はなされた。
一応、というのは本気ではなかったからである。
話し合いはおおむねこのように推移する。
「この夜だ」
老人のひとりが口を開いた。
「ついに、民たちからの不平が百万の位を数えた」
自意識にまみれた者特有の発声で、よどみなく口にする。
「神聖な数字である」
べつな老人も同じく、きわめて演技がかった口調で応じる。
「魔法結社を討ち果たしなさい」最後に発言したのは例によって上座の老人であるが、そのままことばを継いだ。「と言いたいところだが、その標的である結社がすでに存在しなければどうだろう。死者を殺すことはできないように、存在しない結社は討ち果たせない。わしはここに結社の解散を宣言する」
おお、と円卓を囲う老人たちからどよめきが起こる。わきに佇むぴりりんはにこやかな笑顔を浮かべたまま、微動だにしない。上座の老人が続ける。
「折りよく、隣国の分家結社のほうから打診があった。先の戦いで魔法少女を全滅させられ、結社としての活動に支障をきたしているため、こちらの本家に併合してほしいと。つまり、組織再編に当たって一度結社を解散させるわけである。これは逃避でも妥協でもなく、結社の存在意義と民の不平を天秤にかけたうえでの高度な政治的判断である」
おお、その通りだ。老人たちのあいだから、ふたたび賛意を示すざわめきが起こる。なにもわざわざわれわれがぴりりんの魔法によって裁かれなくとも、不平は結社そのものに向けられているのだから、結社が無くなりさえすれば万事解決である。
われらはこれからただの人となる。魔法結社などはもう存在しない。
民が結社なき世に対する不平を百万集めるまで各々市井の人間として暮らそうではないか。
円卓の間はイイネ! イイネ! ファボ! といった賛同の声に包まれ、その全員が結社の気高さを損なわず人命の尊重をも見据えたすばらしい意見に深くうなずいた。
ただひとり、ぴりりんを除いて。
ぴりりんはいつもと同じにこにこ顔で、円卓の間につづく回廊に立ちふさがり、結社の解散によってただの人となった老人たちの、その自意識にまみれた理屈には耳を貸さず、そそくさと退出を決め込んだ老人たちの誰かれ問わず、目についた順に魔法をかけていった。
はあい!
元気のよいお返事。
骨になれー。
骨になれー。骨になれー。
みんな骨になっちゃえー。
杖先に象られた星型の飾りが本物の星と見紛う光をきらめかせ、ハート型の飾りがくるり円を描き老人たちの心臓を指すと、こきーん、老人たちはひとり残さず骸骨となってその場に崩れた。トランス状態で不平の数を数えていた巫女たちは、祈祷の姿勢のまま骸と化した。ぎゃあぎゃあ逃げ惑う小使たちももれなく骸骨に変えられ、ただし、以前花束を持ってきた小使の少年を前にして、ぴりりんの手は一瞬間だけ止まる。
はあい!
だがしかし、骸骨にはする。しなくてはならない。きまりだから。きまりだから。小柄な骨格標本がその場に残り、くず折れる。
結社の秘密基地は、出入りの業者が口を割ったことにより判明した。
業者とは、月に一度結社に出向き、消えかけの蝋燭や巫女をトランス状態へ誘引する薬物を卸している男だった。蝋燭は単なる使いさしであり薬物は実は水あめであって、まったくぼろい商売であったので、競合他社に知られるのを恐れ、男は誰に言われるでもなくその仕事のことは秘していた。家族にさえも口外しなかった。結社の無慈悲な仕事ぶりを知るにつけ、そりゃ秘密にすべきだろう、秘密結社なんだから、とも思っていた。
しかしながら、このところ街中で日に日に高まる結社への不平に怯え、城の役人が調査に乗り出したと知るや、城下を闊歩するすべての人間が警吏か密偵に見えるほど憔悴し、このたびめでたく出頭に至ったという。男による、地下組織に関わるなんてもうこりごりだよ、との弁は法廷の呆れと顰蹙を買った。
兎にも角にも、この垂れ込みによって、ただちに本物の警吏と拷問官と兵隊が秘密基地に派遣された。
そこはすでに跡地だった。発見されたのはローブをまとった人骨の散乱する、無人の、せま苦しい地下室であった。生きていたのは、真っ白なベゴニアの花束だけ。
さて。
ぴりりんはその後どうなったか。結社はなくなり彼女も存在意義を失ったろうか。森の家へ帰ったか。
いや、まだここにいる。王都にいる。宮城のあるここにまだ。
誰かの不平に耳を澄まし、善悪の判断はせず、ただただ魔法を行使する存在として。
もはや不平の数は百万もなくてよい。千でも多い。十以下でも足りないことはない。他にめぼしい不平が見当たらなければ、すぐさまぴりりんが魔法の生け贄と見定める。
もはやぴりりんはその姿を隠してはいない。ぴりりんを知らぬ者もない。王弟殿下との逢引に浮かれていたときより堂々と、国中を見晴るかすほどの高みに大きく弧を描いて、昼と言わず夜と言わず空を翔け、城下の町を、国境の村落までもを、悠々、睥睨している。
新王は在位わずか一年足らずでの退位を決した。表向きは体調不良であったが、不平の集中しやすさでいえば王の位などというものは百年連続ナンバーワンも夢でなく、保身のためには正気の判断と言える。ただし玉座を降りることへの不平、もまた存在する。新王は玉座を降りるやそのまま魔法の底なし穴に落ちて、地球の裏側に抜ける前に摩擦熱で燃え尽きた。
それを目撃して驚愕に眼を見開いていた家臣役人一同が、ぴりりんの次の標的である。当然のことながら役人や官憲のたぐいは職業柄たいそう嫌われているわけで、清廉潔白が売りの能吏ですら惨禍をまぬがれなかった。魔法によって、国家のイヌからただのイヌへと変えられ、ただひたすらわんわん吠えた。
王都には談合と癒着に長けた野良イヌがその能力を微塵も発揮することなく跋扈し、行政サービスは完全に停止した。ぴりりんは民たちの生存しにくさへの不平に対し、恐るべき魔力によって各家庭に上下水道を完備し、上空からどすんどすんと食料の配給を開始した。もちろん今や攻め込む隣国もない。隣国でも先の代理戦争と最強の魔法少女の存在はすでに周知の事実となっていたからである。
もはやどこの国の民でもない人々は、あるいはぴりりんの国の民は、三食昼寝つきウォッシュレット式水洗便所の生活を開始せざるを得なかった。
ぴりりんに対する不平はなかったのだろうか。
もちろんあった。百万を百万倍したオーダーで。
しかしながらこれは、奇天烈ないでたちと醜悪な容貌のぴりりんが不平不満と憎悪の対象となったことで、彼女の持つ真の姿と自己イメージの落差を生むだけであった。ただでさえ尋常ではない魔力はさらにおおきく膨れ上がった。
もちろん、結社の人員すらあますところなく公平無私に葬り去ったぴりりんである。自らに魔法をかけはした。
「ネコになれー」
ぴりりんはネコになった。
「イヌになれー」
ぴりりんはイヌになった。
「骨になれー」
ぴりりんは骨になった。
「星になれー」
ぴりりんは星になった。
燃えたし凍った。雷に打たれた。爆裂し分解し毒に冒され天に上げられ星座となった。だがしかし、気づけばまたいつもと同じく空を駆けている。この再生能力は、以前ぴりりんが戦ったゾンビ少女の比ではない。もはやぴりりんは、神への不平を聞けば神をも誅するだろう。いや、もうこのときすでにそうなっていたのかも知れない。神は死んだのか? あるいは多くの者がこの世の中自体を呪ったため、この世のすべてがなんらかの魔法をかけられていたのかも知れない。
ぴりりんへの不平だけが叶うことなくかえってその魔力を高めることは、いずこかから漏れた魔法結社の奥義に基づいて民にも知られるようになった。ぴりりんに不平を抱いてはいけない。この奥義を理解しないものは隣人に不平をいだかれ、誰かに不平をいだかれた者はもちろんぴりりんによって瞬時に誅殺された。
人々は鍵をかけた。もはや誰とも顔を合わせられない。会えば不平をいだかれる。
今もっともHOTな正義は他者と関わらないことになった。
「HOTとはHome Oxygen Therapy、すなわち在宅酸素療法の略称でもある。ひきこもるわれわれに相応しい、言い得て妙とはこのことだ」と書いた手紙を各戸に配って歩いたサンヨウ翁は、おまえなどは賢人を自称しているだけの残念なアホウであると多くの者に不平をいだかれ、ぴりりんの手によって、さらに残念な姿となり果てた。
人々はぴりりんを崇拝した。示し合わせることもなく、誰もがほとんど同じ形の信仰を持った。それもそのはず、不平をいだいてはいけないのなら、崇めるしかない。
ぴりりんは神である。
ぴりりんを神と崇めれば、ぴりりんは自己イメージとの落差を失うことになる。はずだった。しかし人々が窓辺からひっそりその姿を盗み見ても、天翔けるぴりりんの姿にはなんの変化もない。どこからであろうと、窓の向こうには常にぴりりんがあって、いつもにっこり微笑んでいる。ぴりりんの自己イメージは神よりすごいなにかなのか。あるいは、盗み見ている時点で信者たちの信心がいまいち足りぬのか。結跏趺坐を組みぴりりんを讃える文言をとにかく唱える。よこしまな考えを絶ち、心にぴりりん神の姿を思い浮かべる。多くの者が瞑想の中で時を過ごした。
十年が経った。
ぴりりんはまだ、存在していた。
ひきこもった民たちもまだ、生きてはいた。ぴりりんの魔法で、生活に必要なものだけは揃う。それを生活と呼べるのなら。食う、寝る、瞑想。ひたすら単調な繰り返しの中にあって、ある者には快適ですらあっただろう。
哀れなのはそこで育った子どもたちである。
ただでさえ子は親に不平をいだく。他者と関わらないことにだけ細心の注意を払いながら生きる親、子どもとすら関わろうとはしない親なら、なおさらのことだ。そして、そんな自らの不平によって、子どもたちは親を失うことになる。子どもたちは更なる孤独の中で歳を取る。
しかしながら、子どもたちが世の中の仕組みを知り、ぴりりんの存在とその力を知るころには、ビッグバンに次ぐビッグバンが当然起こる。自己イメージの肥大をとどめるものがそこにはなにもないのだから。孤独は自意識をどこまでも育てる。ぐんぐん伸びる。つまり子どもたちはみな魔法を使えるようになっている。子どもたちは魔法で連絡を取り合う。顔も名前も知らない、同世代の子どもたちと。同世代の魔法使いたちと。
わたしはその子どもたちの中のひとりである。
そしてその日が来る。
わたしのアカウントはまだ凍結されていない。ぴりりんはわたしに気づいていない。わたしは鍵をそっとはずす。
わたしの自己イメージはすでにぴりりんを凌駕している。なぜならわたしはぴりりんを記述できる。ぴりりんの住む世を。ぴりりんが君臨できた理由を。すでに、このように。今こうしてここにあるように。
まだおわかりいただけないだろうか。
わたしは「あれ」を「ぴりりん」と、「ぴりりん」を「魔法少女」であると、記述することができるのである。
わたしの自己イメージがいかほどのものか、イメージできただろうか。
鬱蒼とした森、という文字列にあなたが鬱蒼とした森を見たのなら、あなたはわたしの自己イメージの傘下にある。わたしはわたしの自己イメージに則った世界を記している。あなたはわたしの自己イメージを通した世界を見、聞き、知ってきた。
このままこの世界を最後まで記述できたなら、わたしこそがこの国の最後の魔法少女、最強の魔法使いとなるだろう。なぜならそこはわたしの世界なのだから。そしてそれはもうすぐだ。
わたしはついに表に出る。ぴりりんと戦うために。
あなたがたはわたしをデジタルネイティヴの新世代と呼ぶだろう。この戦いにしても、なんのことはない、ヒトの歴史に連綿と繰り返されてきた世代間闘争のひとつと見るだろう。わたしだってそう思う。ただしそれを認めてしまったなら、わたしにはこの先に起こることを起こせない。あなたに残す文章がなくなる。ぴりりんを神と崇めるあなたに。
わたしは魔法少女である。最後の、最強の。
よってあなたに与えられる印象はこれで仕舞いとする。
魔法を手にした子どもたちが一斉に、ぴりりんめがけて飛び上がってゆく。
炎上という現象に思うところがあって書き始めたはずなのですが、そのころちょうどドローン少年の事件があって、こんなところに着地しました。
よくわからない、というほうが正常な気がします。それでも読んでくださったかた、ありがとうございます。精進します。