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鉄の味がする。
獣の味がする。
生臭い臭いがする。
ドロドロとした食感が口の中を覆っている。
「・・・・・一体、何が?」
誰もいない公園の砂場で金太は一人たたずんでいた。
目の前には深く濁った血の水たまり、先ほどまでいた筈の犬の姿は消えている。
「まさ、かね?」
口からはなんとか否定の言葉を出せたが、全身に付着した大量の血と、獣特有の臭い。
そして何より口いっぱいに広がる鉄の味と、ドロドロした食感を否定することは出来なかった。
「僕が、食べたのか?」
先ほどまでの体に穴が空いたような空腹感は既になく、確かな満腹を体はうったえている。
「ははは、あんな大きな犬を、それも生で食べちゃうとか、本当に化け物じみてるね」
自らをあざけるような笑い。
しかし人間離れした事は、今日一日で嫌というほど体験していた。故に今の金太は、冷静さを失うことはない。
「とりあえず腹は膨れたみたいだし、これからの事を考えないとね」
空腹によって失われた冷静さを取り戻し、今の状況を一から考え直してみる。
「朝起きたらなんでか分からないけど化け物になっていた。母さんはそれを見て気絶」
金太の顔が引きつる。一からの一の時点でまずあり得ないようなことが出てきたからだ。
「僕はそれを見て怖くなって逃げ出した。・・・・・・朝起きたままの恰好でね」
漸く自分の失敗に気づいたのか、あわてて金太は走り出すと公園の中に設置されていたトイレの中へと逃げ込んだ。
「はあ、それから警察官につかまって」
思い出しただけで腹が立つ態度の警察官だった。もしも次あった時には何をしでかすのか自分でも分からないほどである。
「おっといけない。あんまり黒いことを考えてると、また何かしでかすかもしれないからね」
慌てて金太は思考の矛先を変えていく。
どうやらある程度は自分の体についての仮説が立てられたのだろう。
口を漱ぐように手洗い場の蛇口に口を付け、大きく水を飲み込んだ。
「美味いな~。水ってこんなに美味しいんだね」
いつもと変わらないはずの水の味が、変わってしまった金太にとっては嬉しかった。
「ちょっと脅してから逃げ出して、公園に至って少し現実逃避を始める」
空腹から解放された金太は、今の状況が夢などではない現実であると理解できる。
「・・・・・夢だったらよかったのにね。本当に」
鏡に映る血まみれの自分を見ながらそう言った。理解はできても納得は出来ないのだ。
「後は犬を見たと思ったら、急に美味しそうに見えてきて、今に至ると・・・」
金太は口を閉じた。
そして暫く何かを考えるようにその場を歩き回ると、急に動きを止め、鏡を見る。
「変われ!」
金太の姿が変わった。あの醜く、忌み嫌った化け物の姿へと。
「な~んだ。一応僕の命令を聞くんだね、この体は」
改めて自分の姿を見回すが、やはり気味の悪い化け物である。
この姿を見ても誰も金太とは分からないだろう。
「そうだ! 普通にしてたらこの姿が僕だとは分からないし、僕が化け物だってことも分からないんだ!」
重要なことに気がついて、金太は喜ぶように声を上げながら人間に戻る。
「母さんだって夢でも見たんだよって強引にごまかせば何とか・・・・・。ならないよね」
しかし今朝自分が行ったことを思い出して、金太は再び意気消沈した。
姿だけならば誤魔化せるかも知れない。それは母親だけにしか見られてはおらず、誤魔化せないこともないからだ。
しかし自分が生み出した破壊の後は誤魔化せない。
金太は今朝自分の家の床を溶かし、壁を砕いたのだ。
「僕一人で壁と床を、母さんに見つからないように直すなんてむりだよね」
金太の頭からは完全に元の生活に戻ろうという考えが消えていた。
もしもここで母親を誤魔化せても、いつ何かの拍子に化け物だと周りの人間にばれるのか分からないからだ。
そのような緊張した生活など望んでいないのである。
「結局逃げるしかないか」
金太はまだ自分の力を把握した訳ではないが、人間など比較にならないほど強い力だということは理解できる。
それをうまく使えば逃げることも容易いだろう。
「でも、このままで逃げるのもな~?」
今の金太は何も持ってはいない。このまま逃げたのでは、不測の事態に対応できるか分からないのだ。
「やっぱり、お金は必要だよね」
金太の頭の中に暗雲が立ち込める。
金は現代社会における力の象徴である。それさえあれば社会にある、ありとあらゆるものが利用できるからだ。
だが今の金太はそれを持ってはいない。いないのならば、
「奪えばいいってね」
凶悪な笑みを浮かべた金太は、町の銀行を目指して走り出した。
それから暫くして、金太の住む町の銀行にて。
その銀行は地域でも大きな銀行である。平日であるにも関わらず多くの人が性別、年断を問わずして訪れており従業員たちはその対応に追われていた。
「は~、今日も客が多いですね」
若い男の従業員はそう言って書類を机に置く。その顔からは疲労が見て取れた。
「そう言うな。客が多いことはうちにとっては良いことだ」
今度は先ほどの男よりも少し年を取った男が答える。
どうやらこの男も同じ銀行の従業員のようだ。
「いや、分かってますよ。でもこうして、刺激がないとやっぱりだれてくるっていうか」
「銀行に刺激を求めるな。分かってて就職したんだろ?」
「まあ、給料は良いですから」
若い男は気だるそうに客を見回す。
特に理由はないが、暇を紛らわそうとしているのだ。
「ったく、最近の若いやつは、これだからいかん」
「そんなこと言いましても先輩、今時給料以外に何を求めろって言うんですか?」
如何にも若者らしい疑問だ。しかしそれを諌める者はいない。皆が仕事に追われているからだ。
目の前の年上の男、先輩従業員だけがその言葉を聞いていた。
「甘いな」
「え?」
「お前は甘いんだよ。こんな職場でも、工夫すれば楽しみ方はいくらでもある」
「そうなんですか?」
怪訝そうに尋ねるが、先輩従業員は不敵に笑った。
「はっはっは。まずはあれだ、あの女の子を見ろ」
「あ! 可愛い」
先輩従業員がこっそりと腕を伸ばした先には一人の可憐な少女が佇んでいる。
その見た目は麗しく、美少女とよべるだろう。
「俺の見立てだが、あの子は良いところのお嬢さんだな」
「まじっすか!?」
「ああ、そばに男が二人控えている」
彼女の隣には屈強な体つきの男と、少し線が細い男が立っている。
二人はまるで可憐な少女の姿を隠すように、少女の前後に控えていた。
「おお、確かにそうかも」
「だろ? でだ、あそこにいる親父が見えるか?」
「グラサンした人ですよね?」
「ああ、あれはおそらくヤクザだな」
「何でそんなの分かるんですか!?」
「そんなの分かるか! 妄想にきまってるだろ!」
カッコよく、しかし声が小さくぼそぼそとカッコ悪い子を先輩従業員は言った。
それを聞いて若い従業員は鳩が豆鉄砲をもらったような顔をする。
「え?」
「こうやってだ、客がどんな存在で、何の為にこの銀行を訪れているのか妄想すること、それがこの職場での楽しみ方なのだよ」
「・・・・・・そうですか」
完全に呆れてしまった若い従業員は、興味をなくしたようにもう一度客を見回す。
「・・・・・あの~先輩?」
「なんだ? 話はこれだけだから、お前も仕事に集中しろ」
「いや、そうじゃなくてあれは何ですか?」
「あれか?」
二人が怪訝そうな視線を向けたその先には、一人の男が立っていた。
いや、正確な性別は分からない。まるでテレビや漫画から出てきたような鎧、侍の鎧をヒーローらしくデザインしたようなそれで全身を覆っているからだ。
「・・・・コスプレマニアじゃないか?」
先輩従業員はそれだけ言うと、再び仕事に集中することにした。