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走る走る、朝日に照らされまぶしく輝く道なりを金太はひたすら走っていた。
いや、ただ走っているわけではない。本人は気付いていないかもしれないが、道の中心を走る車や原動機付自転車以上のスピードで走っているのだ。
「はあ、はあ、どこか、遠くに行かないと」
朝起きた格好のまま、着替えることさえままならなかったので金太の今の恰好は寝巻代わりに着ていたジャージにボロボロになるまで履き続けているシューズだけである。
当然そのような格好で朝の道を、それも平日に走っているのだから多くの人の目に付き望まずとも悪目立ちしてしまう。
冷静に考えればその程度のことはわかる筈なのだが、今の金太はそれすら気に留めることができないのだ。
「逃げないと逃げないと逃げないと! こんな化け物になって、まともに生きていけるはずがないんだ!」
自分が化け物になってしまったという事実と、これから向けられるであろう周りの人間、信頼してきた人間からのさけずみの目、憎悪の目。それらを思い浮かべ、金太はいっそう足を速めた。
「おい君、何をしているんだ!」
不意に声が聞こえた。
金太の声ではない声、厳しく威圧感に溢れた声である。
「誰だ?」
不意に呼びかけられた言葉に金太は足を止めると、気だるげにそう言い、最大限の警戒心を持って周りを見回した。
どうやら先ほどの声は、金太のすぐ傍にあるパトカーから聞こえてきたようである。
それを確認した金太は、顔を恐怖で染め上げる。
「・・・・・けい、さつ・・・・・」
警察官、それは日本における国家権力の一つである。他に類を見ないほどの大きな情報網を持っており、一人一人が一般人以上の力を有している。今の金太にとっては最も出会いたくはなかった存在である。
ゆえに金太は警察官という、人間に対して恐怖を抱いているのだ。
「君まだ高校生くらいだろ? 学校はどうしたんだ?」
そんな金太の様子を知ってか知らずか、警察官はパトカーから降りると問い詰めるように金太に近づいてくる。
腕時計は既に9時を示していた。平日ならば学校はとっくに始まっている時間である。
だというのに金太はジャージ姿で道を信じられないような速さで走っていたのだから、警察官に声をかけられてしまったのだ。
「ああ、その、えっとですね・・・・・」
金太の顔は真っ青であった。
どのように頭を捻っても、上手な言い訳が思い浮かばないのだ。
それ以上に、目の前にいる警察官が自分に害をもたらす存在に思えてきて、心の奥から不気味な感情が芽生え始めているのを感じているからである。
「どうしてこんな時間に、そんな恰好で道をはしってるんだ! 詳しい話を聞かせてもらえないだろうか?」
一歩一歩、確実にそして逃がさないように警察官は金太へと近づいていく。
その動きからは訓練を受けた警察官としての自信が見てとれており、金太を逃す気がないこともたやすく見てとれる。
「いや~、その、今日はクラブの朝練だったんですけどね、うっかり寝坊して制服をわすれちゃったんですよね」
「それで?」
「だから、先生に命令されてジャージ姿で制服を取りに行ってたんですよ」
「そうか」
短い言葉。しかしその声からも、目の前に迫った警察官の目からも、金太に対して疑いを持っていることは確かに分かった。
この程度の言い訳をうのみにしているようでは、警察官など勤まらないのだ。
「本当ですよ。疑ってるんですか?」
「ああ、その通りだ」
息をつく暇も与えない警察官の言葉。
金太が何かを言うたびに、すぐさま言葉を発して逃げ場を奪い、追いつめているのだ。
「君はどこの高校に通っているんだ? これから電話して、確認してもいいかな?」
「そっ、それは・・・・・」
完璧に逃げ場は奪われてしまった。
嘘の学校名を言っても電話をされればばれてしまい、本当のことを言っても電話をされればばれてしまうからだ。
八方塞がりとは正しくこのことである。
「どうした、言わないのか? それとも、言えないのか?」
意地悪な笑みを浮かべ、警察官は笑った。
だがその笑みを見て金太の中で何かがはじけてしまう。
「一応、忠告はしますね?」
「何をだ?」
怪訝そうに警察官は尋ねる。
先ほどまでの青ざめた顔から一変し、金太はとてもいい笑顔を浮かべていたからだ。
「逃げろ」
金太は足を振り上げると、力強く振り下ろした。
アスファルトが砕け、轟音とともに空を舞う。
「何!」
信じられないような光景に、警察官はかたまってしまった。
その隙に金太は走り出す。
「長生きしたかったら、相手はえらんだほうがいいですよ!」
軽口を叩くことも忘れずにだが。
「嘘、だろ?」
警察官はしばらくフリーズしてしまっていた。
「よし、とりあえずこの公園に隠れるかな?」
暫く走った後、偶然見かけた公園で金太は休んでいた。
先ほどのストレスと予想外に力を使ってしまったことで、確かな疲労を感じているからだ。
公園内の滑り台の上に腰かけると、静かに金太は目を閉じる。
「はあ、こうしてると自分が化け物になったって感じはしないんだけどな~」
軽く手を握り、再び開く。ただそれだけの繰り返し。その動作に特に違和感はなかった。
体温も、肌をなでる鉄の冷たさや風の心地よさも、何も変わっていないのだ。
「そうだ、これは夢なんだ。ちょっとリアルでファンタジーな夢なんだ」
不意に立ち上がり叫ぶ。
「おっかし~な~? 中二病は卒業したんだけどな~? それともこれはいわゆる高二病ってやつの影響?」
だれもいない公園の中心で、まるで劇の台本にあるような大げさな言い回しである。
ふざけているのではない、本人とっては大まじめなのだ。
「まあどっちでもいいか、どうせ夢なんだしね!」
暫くして叫び終えた後、金太はふと動きを止めた。
「・・・・・腹、減ったな」
空腹である。
朝起きた際にはすでに化け物の姿となっており、後はひたすら走って逃げてきたのだ。
当然だが何も口にしていないのである。
「おかしいな? 夢でも腹は減るんだね?」
腹の音は鳴りやまない。むしろ時間がたつ度に大きくなるようにも聞こえる。
「目が眩む。朝に吐き出した分と、走って消費した分が不味かったのかな?」
人間の時には感じたことがないほどの空腹が、金太を襲っていた。
既に腹の音は鳴りやんでいたが、今度は腹に穴が空いたのではないかと思えてしまう。
「ははは、化け物になって、夢の中での死因が空腹とか、しゃれになら、ない」
倒れた体は滑り台を滑り落ち、頭から砂場に突っ込んでいく。
「・・・・・・・・何やってんだろ、僕は?」
急に虚しくなって動くことをやめた。
後はただ、砂場に埋もれるだけである。
「気持ち、良いな。砂が暖かいや」
金太は静かに目を閉じたのだが。
「痛い!」
不意に頭に痛覚を覚えて金太は目をさました。
どうやら何かが頭部に齧りついているようだ。
「なんだよおい! 人の安眠を奪わないでくれ!」
飛び起きてそれをつまみ上げる。
ふわふわとした毛皮のような感触の後、激しい抵抗が腕を襲った。
「・・・・・犬?」
それは犬だった。
大きな体に黒い毛。鋭い歯には僅かに金太の髪の毛のようなものが付着している。
『ワウワウ!』
犬は威嚇するように吠えると、一層激しく抵抗して見せる。
しかし今の金太にとって、その程度は赤子が暴れているのと大差はない。
「・・・・・旨そうだね」
何事もないように犬を押さえつけ、唾を飲み込む。
「うん、凄く美味しそうだ」
再び大きな音が鳴った。先ほどまでは止んでいた腹の音である。
「食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい!」
しばらく後、人間がいない公園の砂場には大きな血だまりが出来ていた。