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「なんだよ此、此が僕なのか」
なんとか口から出た言葉はそれだけだった。
鏡に映るのは有田金太という見慣れたはずの人間の顔ではないなにか、化け物の姿である。
「ははは、最近の若者って目が三つあるんだね」
まず目についたのは目である。明らかな異形の怪物であるにも関わらず、その目だけは人間と変わりがなかったからだ。
でこに三つめの目がある以外はだが。
「生まれたての赤ん坊って、ピンク色の肉の塊みたいだよね」
皮膚は人間とは違う何か、醜いピンク色をしている。それは人間の皮膚が剥かれたときに覗く、肉の色そのものだった。
全身が溶けている様にも錯覚してしまう、ラインの安定しない体は、ピンク色のグロテスクさをいっそう引き立てている。
直立二足歩行なのが唯一の救いだろうか。
「凄い歯だな。これなら一生虫歯には困らないよね」
自分自身の歯に触れながら金太はそう言った。
顎まで裂けた口から覗く歯はとても鋭い。ワニすらも裸足で逃げ出し、触れただけで虫歯菌すらたやすく切り裂かれてしまいそうなほどである。
「髭が伸びてるね。まるでライオンか中東の危ないおじさんみたいだよ」
顎の下や頭の側面そして本来ならば髪の毛が生えている筈の部分からは、ピンク色のウネウネとしたきみの悪い触手のような何かが生えている。
頭部から生えたそれと顎から生えたそれとは、側面を通して一つに結び付き、さながらライオンの鬣の様に見えない事もない。
しかし、本人の意識とも無関係に蠢くそれは、鬣と呼ぶには余りにも醜くグロテスク、不気味な存在である。
触手の先端から覗く、口のような何かが、よりいっそう触手の生物らしさを引き立てている。
「まいったな。この鏡壊れてるよ。何だか遠い異世界の何かを写す魔法の鏡になっちゃってるよ」
まるで他人事のように金太は呟いた。いや、他人事のように呟くしか無かったのだ。
もしも鏡に写ったそれが自分自身だと認めてしまえば、自分自身が本当に自分自身だと思えなくなってしまう。その事を本能的に感じているからだ。
「僕は普通の鏡がほしいんだけどね~」
たたかれる軽口は震えていた。自分を騙すのも限界に近づいているのだ。
そんなときに崩壊は容易く訪れる。
「そんな、此が本当の僕なのか」
なんてことはない切っ掛け、時間の流れが軽い麻痺状態に陥っていた金太の認識能力を回復させたのだ。
どれだけ自分を騙し、誤魔化してもそれは所詮表面だけのもの、本質的な恐怖を覆い隠せる訳が無いのである。
「gaha!」
瞬時に襲い来る吐き気と目眩。遂には堪えられなくなって吐き出してしまう。
「ハア、ハア。酷い臭いだ」
この世の物とは思えない臭いに、金太は自らの皮膚に触れる事もいとわず鼻を摘まむ。
すぐ目の前に近いた指先にも小さな口のような何かが生えている。
その事に嫌悪感を覚えながらも金太は自ら吐き出したものを見た。
「うそ、でしょ?」
そして瞬時に後悔することとなった。
金太が吐き出して、母親のすぐ近くに落ちたそれは、金太の部屋の床を溶かし、そのしたの鉄骨を溶かすだけに留まらず、地面すら抉り大きな窪みを作っていたからだ。
その光景は金太に自らが見た目だけでなく、中身まで化け物になったと理解させるには十分だった。
「gyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」
獣の様に叫ぶ金太。
そして自らの頭をひたすらに壁にぶつけ始める。
「戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ!」
呪文の様に、嘆く様に叫ぶ叫び声は金太の中に通じたのか、体に変化をもたらし始める。
「! 戻れる、のか?」
醜く膨張した金太の体が、激しく唸り始める。
肉が肉を食らうかの如く被さりあい、ひとつのまとまって絞られている。
それを何度も何度も繰り返し、収まった時には金太の姿は元に戻っていた。よくみなれた、ありふれた人間の姿にである。
「ははは、なんだよ、戻れるじゃないか」
緊張の糸が解れたのか、金太はその場で尻餅をつくと暫く動かなくなった。
しかし突然立ち上がると壁に掛けていた鏡を殴り付ける。
「やっぱり、本当に人間に戻ったわけじゃないんだね」
金太が殴り付けた鏡は鏡のみならず、後ろにあった壁すらも巻き込んで砕かれていたのだ。
自分が人間ではない化け物であることの、これ以上ない証拠である。
金太は再び動かなくなった。
「逃げないと。どこか遠くに」
不意に立ち上がると、それだけ呟いて金太は逃げるように自分の部屋を、そして家を飛び出した。