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2.平安編―後

 主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである」

                      (旧約聖書 創世記7:1)

                *

 陰陽師、賀茂弓周との対決は、南殿の庭先で行われることとなった。夜更けに使いの者から早朝の約束を知らされたイズは、あてがわれていた客用らしい寝室から抜け出し、時空警邏船『ノア』の船内に戻っている。目的は二つ。単純に休息と、義務付けられた経過報告リポートのためだ。

「あれあれー? エレーナちゃん? 管制塔呼び出したつもりだったけど」

 空中投影型スクリーンに映し出された美女――時空間保護警備隊『ユビキタス』事務局長に向かって、軽い調子で手を振る。本来なら新米操縦士であるイズに許されるはずもない気安さだが、対するエレーナも慣れた素振りで微笑んでみせた。

「ええ、間違ってないわよ。そろそろあなたからリポートがある頃かと思って立ち寄ってみたの。そしたらちょうど呼び出しがあったから」

「マジ? やーっぱ俺たち通じ合ってるう。ってか、エレーナちゃん俺のこと好きなんじゃないのー?」

「好きよ、とんでもなく有望で危険な操縦士としてね」

 あっさりとスルーされて、イズはむくれる。からかい甲斐があるのはシトラスのほうだと改めて思った。赤く波打つ髪を優雅に払いのけ、エレーナはイズの返事を待っている。渋々、話を続けた。

「なんだよ危険って」

「言葉通り。大体、あなたその現在地は何なの?」

「何なのって……別に。ただ近かったし、人気ひとけもないし」

 船内上部に百八十度広がったスクリーン、今はエレーナの上半身が映し出されている箇所の横にあるのは平安京の略図。赤く点滅している地点――正式名称『えんの松原』は、内裏の西側。広大な松林を指している。降り立つにあたって見つけたここに昨夜着陸。透明シールドで船体を隠して潜ませてから、丸一日ほど経った。

「近いからって――そんなど真ん中、見つかりでもしたらどうするつもり?」

「大丈夫だよー。ここは昼間でも鬱蒼として通る奴なんていないし。大体、鬼が出るとかいう噂信じて誰も近づきたがらないらしいからさ」

「らしいからって……調べたの?」

「そりゃまあ、一応ね。俺だって潜入操作の基本くらいはこなしますよ」

「ふうん。それでこそ、私の大好きなイズ=マクウェル=藤堂だわ。あなたには本当に期待しているのよ? 上層部のお偉方説得して、単独任務の許可出してもらったんだから、結果は出してね」

 やっぱり反対されたのか――と内心可笑しくなりながら、イズは興味なさげな表情を作る。クールで飄々として、身勝手。それでいて結果はきちんと残す男。自分に関する評判は、それぐらいがちょうどいい。

「結果出したら、デートしてくれる? エレーナちゃん」

 わざとにやついてスクリーンに迫ったら、エレーナは頷くとも肩をすくめるともどちらつかずな仕草を見せた。

「とにかく――保護対象には無事接触、もしくは観察中。ネオのメンバーが現れ次第拘束に移れる段階にあると見ていいのね?」

「そりゃもちろん」

 大仰に首を縦に振る。呆れたのか喜んでいるのかわからない笑顔で、エレーナは通信の終了を告げた。そのまま見送ろうとしたイズは、もう一度名を呼ばれる。

「自信と過信は違うのよ? 自分の能力を信じて動くのはいい。でも――くれぐれもユビキタスの創設理念を忘れないで」

 あまり見せない真剣な眼差しで言われて、頷いてしまう。イズの同意を得たことに満足したのか、エレーナはたちまちいつもの笑顔を取り戻した。

「じゃあね、イズくん。結果報告、期待してるわよ」

 魅惑的な投げキッスにかろうじて笑みで対応し、通信を切った。瞬間、緩めていた頬と口元は鋭利なものに変わり、ブラウンの瞳も鋭く冴える。

(何が創設理念だ――時空保護もヒストリカル・テロ対策もくそくらえだっての)

 タイム・トラベルが可能になってから百年。どれほど技術が進歩しても、理論上可能であるはずの『未来への旅』は未だ人類に許されず。過去をいじくり掘り返すだけの、不毛な時間旅行。限りなく後ろ向きなそれはまだ、限られた研究員や政府関係者、裕福、かつ、厳しい規定を満たした許可証所持者にだけ与えられた権限だ。だがそれも徐々に、国民的娯楽へと変わっていくのだろう。お遊びから悪質な歴史改変までを目的とした、ヒストリカル・テロ・グループ『ネオ』の構成員がどんどん増え続けるのと同じように。

「俺にも変えてほしい過去があるってこと――エレーナちゃんは知ってんのかな」

 イースト・アシア・ゾーン、首都トキオ自治議会でも名高い敏腕議員、レオナルド=藤堂がイズの養父であることなど、入隊希望書類を見れば誰にでもわかることだ。すなわち、エレーナも、自分を目の敵にするシトラスも、上層部でさえも承知の上なのだろう。たった一つ、遠い過去に、唇を噛みしめてあきらめた渇望の上に、今の自分がいることも――。

(変えてくれるなら……あっち側に入ってたかもしんねーけどな、なんつって)

 極めて危険な思想を持つ自分が、何食わぬ顔で任務にあたっている。そんな矛盾がどうしようもなく笑える。唇の端だけに浮いた表情はすぐに掻き消え、いつものポーカーフェイスに取って代わられた。追憶なんて不毛な作業は無意味だ。明朝、待ち受けている楽しい出来事のほうを考えなければ。狭い『ノア』の中、操縦席で両腕を伸ばしたイズの瞼は、ゆっくりと重く閉じていった。


 勝負の時――夜明け前にこっそり部屋へ戻ったイズは、迎えの者に付いて牛車に乗り込んだ。やたらと遅い歩みにあくびをかみ殺しながら移動した先には、既に相手側と観客席、全ての準備が整っていた。

「ひゃー、結構な人数じゃねーか。朝早くからご苦労なこって」

 広い庭を囲む兵士たちと、どことなく不気味な様相をした集団。あれが恐らく陰陽衆とかいう連中だろう。色とりどりの着物に身を包んだ貴族らしい男たちは、離れたところで好奇に満ちた視線を交し合っている。さしたる娯楽もないこの時代には、格好の見世物なのだろう。彼ら一人一人の顔をデータ照合する気にもならなかった。データが存在するほどの歴史上重要人物がいるとは思えず、また、いたとしても自分には関係のないことだ。あくまで大事なのは、この場に保護対象、そして犯人が現れること――。

「これはこれは、まるで緊張もなさらぬご様子。よほどの自信がおありなのですね。ええと……」

「イズだよ。イズ=マクウェル=藤堂」

 確かに昨夜見た、油断ならない目つきの男――若手陰陽師、賀茂弓周にフルネームを言ってやった。もちろん、聞き取れるはずのないことも予想済みだ。要するに嫌がらせである。

「いづ、まくうえ……? では、いづ殿。胸をお借りいたしますよ」

 困惑顔で繰り返そうとした弓周が咳払いをし、気を取り直したように言う。昨夜とは逆に片手を差し出され、イズは口笛を吹いた。

「へえ。飲み込みは早いらしいな」

「どうもいづ殿におかれましては、このようなご挨拶をお好みのようですから」

 出された手を思いきり握る。そ知らぬ顔で力を込めてやると、弓周は全て理解しているといわんばかりに応酬してきた。なかなか臨機応変な男らしい。

(昔も今も、人間なんてそう変わらねえってことか――面白え)

 昨日も抱いた思いを再認識して、イズはにやりと笑みを刻む。双方手を離したところで、仰々しい装束を着込んだ男が二人の間に割って入った。

 南殿――そう呼ばれるこの殿舎の正式名称は『紫宸殿ししんでん』。平安京内裏の正殿で、即位や朝賀、節会などの重要な儀式を執り行う場所である。

(難しく言ってるけど、イベントホールってことだろ)

 画像でデータ照合をした結果、レンズの視界に現れた説明にイズは鼻息。どうやら五年前に火災があってから復旧に時間がかかり、普段は使われていない場所らしい。それでも建物だけはそれらしく整え、階段を上がったところ――奥の畳と御簾で囲まれたスペースに、高貴な観客たちの席がある。

「帝と中宮様におかれましては、ご機嫌うるわしゅう……」

「前置きはよろしい。吉平殿、すぐに始めてください。それから――いづ殿」

 呼ばれて顔を上げると、彰子の声が続けた。

「こちらにはそなたの望み通り、わたくしの女房であり師でもある大事な女性、紫式部も控えております。もちろん、そなたを神と信じる巫女、小毬も――さあ、力合わせがどう出るのか。わたくしも楽しみにしておりますよ?」

 笑みを含んではいるが、わずかにはりつめたところのある声。その持ち主である人影のそばに、紫式部と小毬らしい姿が遠く確認できた。

(よし。任務完了まで秒読みってとこだな)

 既に半分やり終えたような気分で、イズは頷く。ごたくに焦れ、何でもいいから早く暴れたいと心が騒ぎ出す。つくづく自分は不真面目な操縦士だと思った。

「では――勝負!」

 さしずめレフェリーか何かを気取ったつもりなのだろう、陰陽助の役職に就く吉平が、二人の間で神妙に声を上げた。待っていたといわんばかりに、それでいてゆっくりとした速度で、弓周の片手が持ち上げられる。何やら意味のあるらしい形で留めたそれに息を吹きかけながら、妖しい笑みを浮かべた。

「元柱固真、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神。害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衝。悪鬼を祓い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを。慎みて、五陽霊神に願い奉る――」

 いきなりの意味不明な単語の羅列。それでもイズは動じなかった。昨夜のうちに、歴史文化学の資料検索をして、一応の予習はしておいたからである。

「へえ、それが陰陽師が唱えるとかいう呪文の一種か。えらく長ったらしいもんだな」

 イズの皮肉にも、弓周はにやりと笑うばかり。この程度は肩慣らしだ、とでも言いたいのだろうか。十メートルほどの距離を取り、独特の所作を保ったまま両足を軽く開いた。これが勝負ではなかったら、何かの演舞にも似た優雅さだった。

「おん まりしえい そわか――没体明白身、急急如律令!」

 紋様のようなものが入った、淡い水色の狩衣。〈適応〉でイズが身につけているこの時代の衣装と似てはいるが、明らかに着こなしは弓周が勝っている。裾をさばき、皮沓で白砂を踏み、叫んだ瞬間のことだった。

「うわっ、なんだ!?」

 半ば反射神経だけを頼りに、先ほどまで佇んでいた場所から横飛びで避けた。振り仰ぐと、砂の上でしゅう、と細い煙を上げる星の模様。地面に走った白い閃光が形作ったものだった。逃げ遅れた衣装の裾が、わずかに焦げ付いている。

「外しましたか……先手必勝のつもりが、読まれていたらしい」

「いや、読まれてっつうか、何が何だかわかんねーし」

 呆然としたイズの顔と返答はまぎれもない本心からのものだったが、対する弓周のほうは軽く肩をすくめただけだった。信じているのかどうなのか、それすらもどうでもいいのかもしれない。数秒だけ残っていた地面の星型は、すぐに跡形もなく消えてなくなっていた。どうやら、単なる手品の類だと舐めてかかっていたら、そうではないらしい。

(信じらんねー。やっぱ超能力とかそういうの、マジで存在するってのかよ)

 これまでにも任務で出向いた時代と土地で、呪術やら怪しげな魔法やらを操る者の存在は見聞きしてきた。けれどそういう方面の分析はイズの本業ではない。もともと自身できっちり確かめた事象以外は疑ってかかる性質だから、今回もそういう心積もりだったのだ。

「……陰陽師とやらがどんだけスゲーもんかは知らねーけど。一応、ただの人間だって千百九十年分くらいは、進歩してるんでね」

 軽く遊んで、それから任務に本腰を入れてさっさと帰還。そんな計画にヒビが入りかけても、イズは嬉しそうに口角を持ち上げる。事実、嬉しいのだから仕方がない。

(ますます面白え。遊びも命がけでやるくらいじゃないと、わりに合わねー仕事だからな、操縦士なんて――)

 唇を舐め、首を左右に曲げる。こきりと鳴らしたそれが準備運動であることは、イズだけが知る習慣だった。

「ま、この俺が本気出したらマジで死なせちまうから……ハンディはきっちり付けてやるよ。そうだな――五分でどうだ?」

 カモン、と上向けた片手でくいくいと誘う動作をする。もちろん、平安時代に存在したとは思えない合図に、弓周は訝しげな目を向け、不快そうに顔をしかめた。どうやら、馬鹿にされているかどうかは、本能的にわかるものらしい。

「つくづくよく分からぬことを仰る……ですが、まがりなりにもこの弓周、吉平様から信頼を受けての命、陰陽寮の名を汚さぬためにも全力で挑むのが筋というもの。帝の御前で派手なことは控えて、と考えたのがそもそもの間違いだったようですね。そちらが望まれるならば、私も牙を剥かざるを得ない」

「能書きはいい。さっさとかかってきな」

 長口上をあっさりとイズに一蹴され、今度こそ鼻の頭に皺を寄せた弓周が、深く息を吸った。素早く両手を組み、様々な形に変化させながら低く唸る。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前――出でよ、炎虎!」

 ぎりぎりと、眼差しまで刃に変えるほどの殺気を見せ、弓周が叫んだ。先ほどの倍速にはなるかというスピードで、あっという間に星の呪縛がイズを囲う。息を呑む。逡巡する。そんな一つ一つの反応さえ楽しくてたまらないような顔をした弓周の背後から、突如燃え盛る炎が出現した。

「うわあっ!」

 慄くイズを敵と定めた炎は中心で凝固し、たちまちその形を変容。牙を向いた巨大な虎となった炎が吼え、舞い踊り、嬉々としてイズに襲い掛かる。

「た……助けてくれえええっ!」

 恐怖の叫びに満足げな笑みをこぼす弓周。が、ゆがめていた顔を嘘のように引き締め、イズは笑った。

「――なーんてな。嘘に決まってんだろ? 『タイム・トライアル』発動。消炎モード、ロック・オン。失せな、バケモノ!」

 イズなりの『呪文』を唱え、まさに目前まで迫り来る炎に向けて両手を伸ばし、構える。握る銀のグリップが、熱センサーと掌紋照合で持ち主を認識。声紋で指示を読み取り、銃全体の機能を呼び出し、実行に映す。そこまでの流れに、〇・五秒。

 ギャラリーが声を発する間もなく、ぶっ放された攻撃――それは、文字通り炎を消し止めるためのもの。しかし、単なる消火を意味するのではない。より強い炎で炎を揉み消す、強引な手法。だからこそ、イズの好きなやり方だった。

 荒れ狂う巨大な虎を、一回り、いや、三回りくらいは大きな炎が飲み込む。稀代の陰陽師がいくらすごい超能力を持っていようとも、摂氏3000度を超える熱には敵うまい。

「これぞまさに、『地獄の業火』――なんちゃって」

 上下二連式の銃口――普段はビームとレーザーに使い分けられる双方を合わせて、エネルギー量をぎりぎりまで高めて放出する応用技である。一度使えばしばらくは使えないから、無謀な作戦かもしれない。けれど、やはり最初の一発で黙らせるのが、ケンカの必勝法だとイズは信じていた。

「あなや……!」

「何たる炎じゃ!」

「まさか、弓周殿の式神があれほど容易く破られるとは!」

 静まり返っていた庭で、あちこちからざわめきと動揺の声が聞こえてくる。

「式神? ああ、あの紙とか使って、人ならざるもんだか何だかを操るとかいうヤツのこと? あー、悪い。全部焼き尽くしちまったから、なーんも残ってなくて」

 あえて怒りを誘う言い方で勝ち誇るイズを、弓周の細い眼が睨みつけた。周囲の注目と屈辱に耐えられないのか、握り締めた両の拳がぶるぶる震えている。

(やべ。焚き付けすぎたか?)

 内心ひそかに舌を出す。が、時既に遅し――。大きく口を開いた弓周が吼えるように叫んだ。

「あり得ぬ……我が炎虎を破るなど、人の身ではあり得ぬ所業! あれほどの業火が清らな力に寄るわけがない。こやつは鬼だ――とんでもなく邪悪な鬼に決まっている! 吉平様……何卒、何卒お力を!」

 唾を飛ばし、見るからに冷静さを失った態度で訴えている。皆まで言うな、とばかりに弓周を片手で制した吉平が唇を噛みしめ、イズに相対した。

「まさか、この私が力を使うことになるとはな。だが都を守る立場にある以上、悪鬼をみすみすのさばらせておくわけにはいかん。父、安倍晴明の血に賭けても――」

「ちょっ……ちょい待ち。そこまで怒らせるつもりじゃ」

 苦笑いをし、じりじり後退しようとする。武器は既に懐で、丸腰だということを両手を広げて示した。そんなことで解放されるわけがないのは、当のイズ本人が一番わかっていたのだが。

「帝と中宮様は一条院へ、残りの者もただちに退避されよ。今からこの場は、我ら陰陽寮に一切をお任せいただきたい!」

 迫力のある吉平の要請に、観客席の面々はすぐさま従うことを決めたようだ。というより、そうせざるを得ないのだろう。そばに仕えていた女たちも兵でさえも、恐ろしげに立ち去ろうと右往左往し始めた。

「えーっと、あのー……吉平さん? あ、ごめん嘘。吉平様。えと、陰陽助様――だっけ? とにかく俺はそこまでやってる時間はなくて、ですね」

 早いとこ、本来の任務に戻らないと――さすがにそう言いかけたイズだったが、次は自分が一蹴される番だった。何を今更、とでも言いたげな表情で、吉平が鼻を鳴らす。明らかに憤慨しまくっている。つまり、イッちゃってる眼である。

「しょうがねーな。こういう時は逃げるが勝ち――って遅かったかー!」

 あちゃー、と頭を抱えたくなった。敵前逃亡が許されるほど、陰陽師の皆さんは甘くないようで。既に背後にも数人、周囲を点々と囲む形で皆が何やら両手を組んでしまっている。

(さすがの俺も、一対複数で遊んでるほど暇じゃねーっての)

 舌打ちしたくなる状況だが、誰に聞いても自分が悪いこともわかっていた。忌々しげに顔をしかめたイズは、次に考えられる策に打って出た。とりあえず誰か一人を襲い、残りの連中を脅して逃亡する。あまり格好がいいとは言えないやり方だが、背に腹は変えられないのだから仕方がない。それにそろそろ、奴らが餌に食いつく頃だった。

「くそ。恨むなよな、オッサン。『タイム・トライアル』発動――」

 言いかけたイズの口が、途中で固まった。言葉を止めたのではない。止められたのだ。

(嘘だろ? なんだよ、これ)

 自分を睨みつけている吉平に狙いを定め、一発脅しでぶっ放してやるつもりだった。のに――懐にやろうとした右手が、何かに操られたように止まった。息を呑むイズの、次には左手が、そして顔が、体全体が。まるで塗り固められでもしたかのように、ぴくりとも動かせない。

「……!」

 疑問の言葉をもらそうとしても、声も出せなかった。

(うわ、これマジでやべー状況?)

 油断大敵。四面楚歌。一触即発。そんな四文字熟語のあれこれが、いつもの暇つぶし辞書検索遊びさながらに脳裏で踊る。それも長くは続かない。というか、それどころではないのだ。本気で――。

 ただ浅い呼吸だけを必死で繰り返すイズ。その様は、罠にかかったネズミのようでもあり、蜘蛛の巣に捕らえられたちっぽけな羽虫のようでもあり――はたまた、まな板の上の鯉、とでも形容すべき醜態だっただろう。そんなイズを視界に捉えたまま、吉平は静かに立ちはだかっていた。今は脇に退いた弓周の時とは異なり、口の中でひたすらに呪文らしきものを呟いているだけのように見える。それなのに、

(動けない……どうしよう、エレーナちゃん。一度もデートできずに先立つ不幸をお許し下さい)

 冗談めかして考えてみたりして。その実、背中に冷たい汗が流れた。真剣に自分の気まぐれを後悔し始めた、その瞬間。思わぬところから、救いの女神は光臨したのだ。

「お待ち下さい!」

 もはや抜け殻でしかなかった殿舎の奥、御簾を上げて姿を現したのは巫女装束の少女――小毬だった。今の今まで、すっかり失念していた存在。

 イズにとってはただのついで程度だった彼女の声が、皮肉にも呪縛を解く鍵となった。小柄で華奢。小鹿か何かのようにか弱く、可愛らしいだけに思えた風貌は、なぜか凛と澄んだ空気を放っている。どういうわけかその声で動けるようになったイズが視線をやるのと、吉平が腹立たしげに口を開くのとは同時だった。

「またお前か……せっかくの好奇を! 田舎上がりの巫女ふぜいの戯言を聞いている場合では――」

「違うのです! 吉平様……あちらを!」

 蛙を睨む蛇のような吉平の双眸にも、小毬は全く動じなかった。昨日の印象が嘘かと思えるほど、強い眼差しで訴える。彼女が指し示したのは、吉平、イズ――両者の背後。

「何奴――賊か!?」

 瞬時に振り向いた吉平が言う。しかし、ちょうど朱塗りの門上に堂々と立つ人影は、答えることはない。風に、黒い衣がたなびいた。

「……ネオ。来やがったか!」

 予想はしていた展開。そろそろだと思ってはいた。から――すぐに銃を引き抜いた。

「貴様、またしても得体の知れぬ所業を!」

「わ、ちょっ……違う! お前とやりあってる場合じゃねーんだって。俺の本命はあっちで、お前らが憎むべきもあいつなの!」

 憎々しげに邪魔しようとする吉平と弓周、それにその他の陰陽衆に囲まれ、イズの動きが一瞬遅れた。その合間を狙ったかのように、侵入者は跳躍した。黒い狩衣に黒袴――確かに一度見た出で立ちも、妙に洗練された動きも間違いない。ヒストリカル・テロ集団『ネオ』の構成員。

(まずい! あっちには――)

 やはりお遊びが過ぎたのだと、イズは本気で舌打ちした。予想通り、まずい事態に陥ってしまった。飛び込んだ御簾の向こう、どうやらまだもたもたとその場を離れずにいたらしい女が数名。その内一人に焦点が合い、凄まじい速度で照合されたデータの結果は、「紫式部……!」

 予告に従う形で、『ネオ』が先にターゲットに接触した。いかにも重たそうな着物と長すぎる髪を乱して怯える彼女を、瞬時にして男の腕が捕らえる。

「させるか――!」

 銃口を向け、発動を唱えた。唸り始めた相棒が放つビームは、強力な電波の塊となって敵を襲う。ターゲットを傷つけないために、衝撃で吹き飛ばすだけのつもりだった。

「くそっ!」

 強風にも似た勢いで突き進んだ攻撃は、寸でのところで避けられた。あっけにとられ、人間相手ではどう戦うべきかわからないのか――愕然としている陰陽衆を横目に、イズは地を蹴り、足にまとわりつく重い生地を呪いながら駆け出した。

(まさか、奴らが既に軽量シールドまで開発してるとはな)

 ユビキタス内部でも、まだ限られたケースでしか使用されていない最新装備。それをネオが手にしているなんて、思いもしなかった。これも油断――。

「待て! 対象だけは置いていけ! くそ、この野郎っ!」

 たどり着けずに吼えても、まさに負け犬の何とやらでしかないことは承知の上だ。それでもあきらめきれず、イズは二発目、三発目を続けて放った。しかし、悲しいかな――紫式部にあてないように加減するしかなく、それが仇となって男には脅威どころか動きを止める効果さえ上げられていなかった。大した脅威にはならない兵の矢も、陰陽衆の動きも無視して、男は紫式部を抱えたまま上空へと逃げた。

 待ち受けていた奴らの船が、透明シールドを解除していきなり姿を見せる。ユビキタスの生み出した『ノア』をわかりやすく模倣して作られたそれは、悪趣味にも『ユダ』と名付けられた黒い船体だ。裏切り者の箱舟――。

「あー! 待ちやがれっ! 畜生!」

 今まで散々身勝手をした同期連中やシトラスなんかに見られたら、さぞかし笑い者になるだろう必死そのものの顔。しかし構う暇のないイズは、思わぬ横槍に顔色を変えた。

「あーっ!! 貴様、やっぱり!」

 殿舎の影、同じような黒装束を着込んだもう一人の男がひっそりと距離を詰めていた。狙いは、大きな瞳を見開き、現状を眺めるしかない少女。

「きゃあああっ!」

 恐怖と驚愕が入り混じった甲高い叫び。弾かれたように動いたイズは、咄嗟に飛び掛っていた。後先も考えず、捨て身の攻撃に出たのは初めてだったかもしれない。

 それでも、みすみすこの少女まで自分の目前で連れ去られるという事態だけは避けたかった。

「伊豆能売様……!」

 すがりつくような声を耳に、夢中で男の体を倒していた。不意を突かれたらしい相手も、板の間に転がる。いつもなら考えられないくらいの乱暴なやり方で馬乗りになり、相手の鼻先に銃口を二つ、思いきり押し付けた。

「この野郎――調子に乗んのも、大概にしとけよ」

 自然、地の底から出るような低音で告げていた。こんな、自分よりも頼りない体つきをした男のために、いちいち自分たちは休日返上で任務に当たらなくてはいけないのだ。ここまで至近距離でやりあうのは初めてで、だからこそ苛立ちも最高潮に達していた。このまま撃ち込んでやろうか、と物騒な思いがちらついた瞬間、小毬の姿が視界に入った。両手を口に当て、立てないのか震え上がった状態で尻餅を付いている。あまりに無垢な顔と怯えようを見てとって、彼女の周囲を血染めにするのは気が引けた。

 それが三度目の油断――いや、躊躇だった。まさに一秒のためらいを見抜かれ、体の下で男が暴れた。バランスを崩し、横転する。それを機に逃げた男を、ぎりぎりで低空飛行していた『ユダ』が回収。無残なほど簡単な幕引きだった。

 伸ばされた梯子に掴まり、船内に消える直前。男が覆面の間に見える眼だけで笑い、言い残した言葉だけが、イズの脳裏に回っていた。


              *


 ――めぐり逢ひて 見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし 夜半よはの月かな。

 謎の男が残した歌だった。それは以前、中宮彰子から聞き及んだことのあるもので、詠んだのはあの有名な源氏物語の作者――紫式部その人である。

(歌を詠む鬼……? そんなものがいるのかしら) 

小毬の顔色はまだ冴えない。先ほどから震えが止まらず、全身が冷たくてたまらなかった。思い出しても凄まじい陰陽師の力、そして立派に対抗し得る彼――伊豆能売の反撃。息が止まるほどの戦闘に目を奪われている間に、あの鬼どもが現れたのだ。

(鬼――本当に?) 

一度ならず二度までも、連れて行かれそうになった。

それは恐ろしくてたまらない記憶だったが、自分を掴む腕も外見も、あれは人間にしか見えなかったではないか。朦朧とし始める意識の中、鮮明に蘇ってくるのは一人の青年だった。現実の姿を持って、この都へ現れた今の面影とは微妙に違う――それでいて、ぴたりと重なる容貌。

 空飛ぶ船、この世のものとも思えぬ景色、今、小毬や他の者が身に付けるのとはまるで異なる衣装を着た人間たち。それは夢見の力を持つ小毬が、何度と知れず見てきた夢の場面だった。人の力で可能とは考えられないその全てを視て、小毬は思ったのだ。これこそ、神の世界に違いない、と。

京都の外れ、厳原山いづはらやまの麓。小さな神社の娘として生まれた小毬が、一番初めに崇めた存在――それこそ、静かで美しいあの大地に奉られた神、伊豆能売だった。神話に登場する様々な神と比べ、どこか忘れ去られた寂しい神。けれど、小毬は信じていた。国産みの偉大なる神、伊邪那岐いざなぎの穢れを祓ったとされる伊豆能売には、どんな神より清く強い力があるはずだと。

だから、夢に現れる神は伊豆能売に違いない。そう思うことにした。幾度となく繰り返される夢で、自分に向かってその手を差し出す。彼こそが都を――ひいては自分を、この鬱屈とした世から救い出してくれる。そんな想像はいつしか、誰にも言えない強い希望となっていったのだ。

「小毬様、お加減はいかがでございますか」

何か強い力に感応した時、それが善であっても悪であっても、こんな風に寝込んでしまう。夢見の力を持って生まれたことに付随する、不便な体質。自分のことは熟知していたから、小毬はゆっくり起き上がり、首を縦に振った。そばで心配そうに体を起こす手伝いをしてくれる女房が、いつもこぞって悪口を言っている者ではないことだけが救いだった。しかも彼女は、遠慮がちに吉報も伝えてくれたのだ。

「えっと……具合、どう? 大丈夫?」

 几帳の向こうからのそりと姿を見せたのは、たった今まで朦朧と思い描いていた人物だった。あわてて床の上から退いて、両手をついて体ごとお辞儀をする。

「い、伊豆能売様――こ、このような場所まで足をお運びいただき、お、恐れ入ります……!」

 心臓が口から飛び出てしまいそうなほど、動転していた。貴族の身分を持たぬとはいえ、一応年頃の娘である。そんな自分の休む場所へ男性――神の化身としても――が訪ねてくるなど、考えてもみなかった。何を言い含められているのか、頭を下げた女房はそそくさと席を外してしまう。ひたすらそのままの姿勢でじっとしていた小毬の前に、彼がしゃがみこんだ気配がした。

「あのさ――そのことなんだけど」

 あくまでも気楽な口調で、切り出される。あまりにも自然で気安い声だったから、思わず顔を上げてしまった。

「そうそう。そんな風に目線合わせてよ。ってか、そもそも俺、君にそんな風に敬われるような偉い奴でもなんでもないし」

「は……?」

 神の化身。それが偉くなければ他に何が偉いというのか。自分自身ではっきりと肯定してくれたではないか――そんな意識が視線に出てしまったのだろうか。訝しげに見上げた小毬に、彼は微笑む。どこか居心地が悪そうな笑い方だった。

「えっとさ。神の化身とかさっきのアレ、嘘だから」

「……嘘?」

「うん、嘘。悪いけど、正真正銘普通の人間なんだわ、俺」

 何の躊躇もなく肯定されて、小毬はこれ以上ない混乱に陥る。

(嘘? そんな……人間だなんて。あんなに物凄い炎を生み出す力があるのに?) 

眠っていたせいで束ねていなかった小毬の長い髪。黒々とした渦となって床に流れるその色を、同じ色彩の瞳で彼は眺めている。差し込む陽光の中、しばらく沈黙していたかと思うと、突然思い立ったように一人頷いた。

「んー……決めた! やっぱそれが一番手っ取り早いし。なんか君なら、信じてくれそうな気もするし」

 戸惑いを込めた眼差しに笑い返して、彼はおもむろに立ち上がった。瞬間、何事か口内で呟いたようだった。が――たったそれだけの時間に、彼の風貌はまるで違うものへと変化していたのだ。

「……まあ……!」

 息を呑み、口を開けたまま固まってしまう。それも仕方がないだろう。だって、今の今まで着ていた白い直衣も、立烏帽子さえもどこかに消え去っている。代わりのように現れたのは、見たことのない衣服を着た彼の姿だったのだ。

(見たことの、ない……そう、現実の世界では)

 言い換えれば、それは既視感さえ与えてくれる出で立ちだった。黄金色にきらめき、縮れた短い髪。明るい茶色の、まるで磨かれた宝石のような双眸。すっきりとした長身の背格好には、濃い灰色の不思議な着物――。

「やはり……!」

 小毬のもらした呟きは聞こえなかったのか、彼は何か吹っ切れたような笑みを浮かべている。親指で自分の胸を指し示し、こう告げた。

「俺は、時空間保護警備隊『ユビキタス』の隊員で、時空警邏船『ノア』の操縦士、イズだ。イズ=マクウェル=藤堂、二十歳。今から千と百九十年後の未来からやってきた、ごく普通の人間。ちなみに性別男子! よろしく――小毬ちゃん」

 日差しに輝く金の髪。優しい微笑。そして、自分に向かって差し出された大きな掌。何かに導かれるようにゆっくりと近づいた小毬の手を、イズは力強く握った。


                *


(ついに言っちまった、か――)

 戻ってきたノアの船体。百八十度を囲む空中投影型スクリーン。シルバーに光る操縦席。その全てにまるでそぐわない巫女装束をまとった少女、小毬はただ呆然とすべてを見渡していた。この船に、よりにもよって現地人を乗せるなんて前代未聞だ。いや、それどころの問題ではないかもしれない。それでも、イズの気持ちはすっきりしていた。

(大体、犬みてーにこそこそ嗅ぎまわって姿隠して……なんてやり方が、もともと嫌いだったんだよな)

 先ほど、思いきり失態をかました後の話だ。

当然、ユビキタス規則では応援を呼ぶべきところであるにもかかわらず、イズは一条院へと戻った。避難を済ませていた帝と彰子、そして陰陽衆が集結したところで話し合い――という名の徹底尋問が行われた。

 もちろん、さっき小毬に話したような事情は言わず、代わりに別の提案をした。そして、悩む彰子に進言し、許可したのは帝、一条天皇だったのだ。あまり体が優れないという理由で普段はふせっていることも多い彼が、予想外に威厳をあらわに命じた。

陰陽衆、兵士、そしてイズの力を合わせ、謎の『悪鬼』どもから都を救うように、と。表向きはそうとしか言わなかったが、それが結局、さらわれた紫式部と行方不明の何人もの女たちの奪還を意味したものだとはすぐにわかった。小毬を訪ねたのは、その後である。

「さっきの歌――聞いたよな?」

 言葉も出ない様子で、びくりと肩を震わせ振り返る小毬。まあ、すぐに信じられなくても無理もないだろう。というか、最後まで信じてくれなくても仕方がないとは思っていた。それでもいいから、彼女の協力を願う価値はあるかもしれないと考えたのだ。

「歌……ああ、はい。確かに」

 心ここにあらず、といった表情で、一応頷き返してくれる。

内心苦笑しながら、イズは考え込む素振りを見せた。

「あれ、何の歌? ほら、奴らが君をさらおうとした時のやつは、知ってたんだ。授業の一環で、『源氏物語』読んだからさ。でも、あれはそこには出てこなかった気が……」

「あ……ええと、そうですね。先ほどあの鬼……い、いえ、その『ひすとり』なんとかという集団の男が去り際に言ったのは、紫式部様がかつて詠まれた歌ですから」

 まだ混乱のさなかにいるだろうに、意外にもイズの話に耳を傾けてはいたらしい。小毬の言うのについ吹きだしたら、恥ずかしそうに頬を染めて俯いている。

「あ、ごめんごめん。別に笑うつもりじゃなくてさ。うん、『ネオ』の構成員だよな。そっか、紫式部の歌か。で――単刀直入に聞くけど、心当たりない? 奴らの行きそうな場所」

 訊ねたイズに、素直な顔で考え込んでくれる。神じゃなくてがっかりしたんじゃないのだろうか。1190年前の女の子がどう思うかなんて、やっぱりわからない。それでも、夢見の力でもそうでなくても、彼女の言葉が思わぬ鍵になりそうな気がしたのだ。

「世界の文豪を狙うケースが立て続けに起きてはいるんだ。だけど、そのどれもがやり方もバラバラで、しかも今回は女たちを連れ去ったり……紫式部をさらった理由と何か関係があるはずなんだよな」

「源氏物語……光源氏……数多き恋のお話。まるで、光の君を取り巻く姫君たちのよう」

 ぼんやりと、物語の世界を思い出しながら呟いたのか、我に返ったようにまた赤くなる。『若紫』――確かに、こんな女の子を自分の手元でいいように育ててみたいような。

(違う違う! 俺は断じてロリコンじゃねーぞ)

 今考えている場合ではない問題は一旦置いておき、思考は本題に戻る。

(源氏物語を真似て、ハーレムでも作ろうってのか?)

 案外、単なる愉快犯なのか。にしては、作者の紫式部を連れ去ってどうしようというのだ。暗殺? それならば先ほどあの場でやってしまえばいいだけのこと――。

 堂々巡りする疑問に答えをくれたのは、小毬の純粋な発言だった。

「あの物語がなかったら、そこに登場する姫君たちもいない。悲しい恋の全てもなかったことになるのですね。光源氏様は輝くような美しい殿方だとは言うけれど……私はとても好きになれませんから、案外そのほうがよいのかも……なんて、不謹慎ですね」

「小毬……やっぱ君、幸運の女神かも! 話してよかった。サンキュ!」

 感極まって抱きついたら、今度こそ悲鳴を上げ、小毬はへなへなと崩れ落ちてしまった。


 通信が入ったのは、倒れた小毬を介抱していた時だった。

「イズくん? あなた、どうして応援要請しなかったの! 私が先に気づいたからいいものの、あと一歩遅れてたら保護対象が暗殺されていたかも……!」

「まあいいじゃん。もう他の操縦士が保護してくれたんだろ?」

 珍しく憤怒の形相でまくしたてたエレーナの言葉尻を取ると、余計に怒らせたようだった。綺麗な弧を描く眉がつり上がり、怒鳴られる。

「あなたの任務だったものでしょう! 紫式部や女性たちが無事だったことはいいけれど、捕まえた『ネオ』のメンバーは全員下っ端。肝心の黒幕取り逃がしたじゃない。何が何でも捕まえて来ないと、承知しないからね」

「エレーナちゃんってば、そんなに怒ると眉間に皺できちゃうよ? だから今向かってんじゃん。すぐ捕まえてくっから、期待して待ってて。帰ったらデートしよ……」

 最後まで言う前に、ぶちりと通信は打ち切られた。苦笑いしつつ振り向くと、気を失っていた小毬が起き上がり、何事かというようにイズを見つめていた。

「黒幕は女だったんだ」

「……え?」

 つぶらな瞳を瞠る小毬に話す、というより、自分の考えをまとめるべく続ける。

「今まで捕まえてきた『ネオ』の奴らは全員男だったから、失念してた。でも女がいたって何の不思議もない。そう考えると動機もわかりやすい。君が言った通り、相手は『光源氏』を憎んでた。いや、もしかしたら『源氏物語』を書いた紫式部そのものを」

 だから葬り去ろうとしたのだ。有名な葬儀の地に、姫たちに見立てた女のギャラリーを置き、彼女たちの見つめる前で作者を処刑しようとしたのではないか。つまりは実際に命の危機に直面したのは紫式部だけで、そういう意味ではイズが重大な判断ミスと任務放棄を犯したことに間違いはない。けれど、本当に殺すつもりだったのだろうか?

 イズの勘では、『NO』だ。おそらくは、記憶消去。それとも、社会的存在自体の抹消。そして物語自体を焼き、完成を待たずして人々の記憶から葬り去る。そんな風に陰湿な――言葉を変えれば、残酷なほどに優しいやり口。あんな歌で挑発させるような黒幕の趣味はわからないが、イズは自身の勘を信じていた。だから、こうして鳥辺野とりべの――先ほど『ネオ』のメンバーが拘束された山に向かっているのだ。内裏にも連絡をやって、陰陽衆と兵士の要請も済ませておいた。

 これはイズにとっても、一か八かの賭けだ。どうせ遊ぶなら、楽しいほうがいいのだから。現地人の精鋭、プラス追跡者側のイズと、対する今回の黒幕。どちらが『選ばれた』存在で、どちらが真に必要な者なのか。歴史を――既に作られた過去を塗り替えようとする奴らを、許すべきかそうでないのか。いっそ、今度の勝負に賭けてみよう。そんな気がしていた。


 今まで女がさらわれた場所を線でつなぎ、ちょうど出来た頂点の部分に当たる土地。それが鳥辺野であると気づいたのは、両方の事件の『監視人オブザーバー』役をひそかに務めていたエレーナだったらしい。つまりは、イズなど全く信用していないどころか、実のところ少々痛い目を見せて反省させようとでも思っていたのか。

 そんな事情はさておき、イズ自身でも気づいたことがあった。女がいなくなった時間を順に並べると、続く次の『犯行時刻』は夜の八時。本来なら、月がなければ真っ暗闇の丘陵地帯だ。墓場、葬儀、そんなイメージ通り、たどり着いた先には鬱蒼とした樹木の生える山とだだっ広い野原があった。黒装束を身につけた人影と共に――。

「そこまでだ――ネオ」

 放った声は、しんとした原っぱに意外なほどよく通った。

弾かれたように顔を上げ、こちらを見たのは背の高い女だった。覆面も付けていない顔の造作は、淡い月光とレンズの暗視モードで確認できた。

「お前……?」

「中宮――彰子、様!?」

 驚きに引き攣れた声を上げたのは、後ろに付いてきていた小毬だ。それもそのはず、黒い狩衣に黒袴、という男の着物を身に付けてはいても、目立つ艶やかな美貌と豊かな黒髪は、つい先ほど二人を見送った帝の妻に瓜二つだったのだから。

「別人だ。こっちのほうが少し若い。にしても――よく似てるな」

 前半は小毬に、後半は独り言として呟いた。その内容で、彰子の複製にも思える顔に、笑みが広がっていく。

「へえ。〈適応〉はどうした? いつもの追っ手と少し違うな」

 衣服だけではなく、口調まで男勝りの女。なのに、色気さえ感じさせる悠然とした表情だった。そのまま無造作に手をやった頭部から順に、本来の姿を現した。月明かりの下にあらわになった黒髪はベリーショートで、イズと似たピアスをつけた耳まで見える。黒い着物は、ぴったりとしたレザースーツに変わっていた。

「そっちこそ。堂々と顔見せていいのか? もう照合用写真撮っちまったぜ?」

 自身のコンタクト・レンズを指し示すイズ。その体には鬱陶しい着物はなく、着てきたままのグレーの制服がある。といっても、もともと〈適応〉は現実にはない衣服を、相手側に見せる映像でしかない。いや――正確に言えば、匂い、肌触り、着心地など、不要とも思える詳細まで着用した本人、及び周囲の人間にも体験させるプログラムでもあるが。

「ふん。写真があったところで、顔なんていくらでも変えられる。逃げればいいだけの話だ」

「そのわりには逃げる気なさそうに見えるけど? 大体そのつもりなら、計画が失敗に終わった時点でさっさとやっとかないと。俺が確保しちまうぜ?」

 言葉通り、ホルダーから抜き取った銃を構えてみせる。このまま撃てば、一秒でお縄にできるのだと。

「……あちこちで遊んだからな。ちょっと疲れたのさ」

「先祖の喜んだ物語が憎いか? それとも――男嫌いとか」

 女の顔が整形で作り上げたものでないことはすぐにわかった。分析の結果が教えてくれたからだ。データも告げるように、この女は十中八九、彰子の子孫にあたる存在。

「言葉にしてしまえば、陳腐に過ぎるな。自分で聞いても馬鹿らしくなる」

 ふっと冷めた笑いを吐いて、女が答えた。つまりは、肯定の意なのだろう。

「だからって、物語なんて消してどうなる? 別に紫式部以外にも、そんな作者なんてごろごろ転がってるだろう」

「そう――そうだな。でも……許せなかった。あんな物語を書いて、人間が人間たるを大昔から説いてみせるあの女も、もてはやすほうも。いいや、違う。ただ、挑戦したかっただけなのかもしれない」

 イズに、というよりも自分自身と対話しているような女の口調。それはどこか疲弊しきった渇きを匂わせる。

「過去を変える。そんな単純で簡単なことが、許されないのはどうしてか。選ばれた唯一無二の歴史を、例えそれがどれほど醜いものでも守らなくてはならないのはなぜか。そんな問いをぶつけたかったのかもな」

 誰に――とは問わなかった。深く静かにイズの胸へ突き刺さるその問いは、自身が常に隠し持っていたものだからだった。あえて言うならば、この世を創造したとかいう、ありもしない神に向けて――かもしれない。

 いつの間に奪ってきたのか、女の手にあったいくつもの巻物が夜空に放り投げられた。一瞬、気を取られた隙に、嘘のように冴えた動きで女が銃を構えた。

「タイム・トライアル――」

 全く同じ武器を向けられ、イズは目を見開いた。似たものを所持していることは知っていた。でもまさか、全く同一の物だなんて。

 そんな動揺がわずかな遅れにつながった。スロー・モーションのような映像で、女が向ける銃口から閃光が生まれ出る。撃たれる――予感した刹那、イズは倒れていた。衝撃で吹っ飛んだのでもなく、自分から避けたのでもない。華奢で弱そうな外見からは想像できない強さで、小毬が押したのだ。

「危ない……伊豆……イズ様!」

 何か、人知を超えたところで彼女は予感したのかもしれなかった。自分の身をかえりみず、イズを守るために動いた。そして、閃光の矢は小毬の腹部を貫いた。

「小……!」

「封縛律心魂、急急如律令!」

 鋭い声が背後から飛んだ。と同時に地を這う青く聖なる光。星の形を模るその中央で、女は目を見開き、立ち尽くしていた。否、動きそのものを封じられたのだ。呼んでおいた陰陽衆の一人、賀茂弓周がそこにいる。おそらくは、何が何かもわからぬままの援護だったのだろう。目線だけ交わし、イズはすぐさま銃を向け直した。

「タイム・トライアル発動――捕獲モード、フル・スロットル!」

 叫び、撃ち込んだ一発。唸る銃全体から伝わる衝撃が、イズの両手も痺れさせる。女は一撃で遥か後方に吹き飛んだ。草地に倒れ、ぴくりとも動かなくなった体はしかし、決して死んではいない。犯人は可能な限り生きたまま捕獲、未来へ護送する。あとは、自分たちの手を離れ、しかるべき機関によって裁かれるのだ。

「いづ殿……小毬殿が!」

 事情は飲み込めないだろうが、成り行き上、手を組んだ形となった弓周が叫んだ。悲痛な面持ちで、倒れた小毬を抱き起こそうとしている。

「小毬……!」

 駆け寄り、触れた手に付く、ぬるりと熱い液体。小毬の腹部から流れ出る血は、止まる気配を見せなかった。イズとは違い、女の攻撃は冷酷なものだったらしい。

「くそ……! 救護班、応援要請! いや――こっちのが早い!」

 蒼白な顔で気絶し、白い巫女装束を血で染めていく小毬を抱え、イズは草陰に停めた『ノア』に必死で走る。平安の世から、犯罪者と現地人――二人を新たに乗せた時空警邏船は飛び立った。


 後日、既に何度目か数えられない呼び出しをくらったイズは、ユビキタス事務局、エレーナ愛用デスクの前に立っていた。その手には寝ずに書かされた始末書が入ったメモリーと、言いつけ通り購入してきた品々が山と乗っている。女性用隊服、下着、靴下に靴、それからありとあらゆる化粧品などなど。だから――嫌な予感はしていたのだ。

「ちょ……っ、それ、マジっすか!?」

「マジ、じゃなくて『本当』よ。だって記憶操作が効かないんですもの。どうしてかは現在調査中だけれど、やっぱり巫女としての不思議な力が阻んでいるのかしら。ともかく――現状ではどうしようもない以上、例外措置を取るしかないでしょう」

 例外――それはユビキタスが解決してきた華々しい事件記録の影に、ひっそりと存在している事象。時折、事後処理班の施す記憶操作が効かない人物がいたり、処理が困難になるケースがあるのだ。どうしようもない場合は、歴史の小改変よりも事態の平和的集結を試みる。すなわち、災いや混乱につながる恐れのある芽は摘み取り、吸収してしまえ、という――。まあ、苦しい言い訳をしてはいるが、事実上の打開策に過ぎない。

「いや、だからってなんで俺が」

「当たり前でしょう? 彼女はいわば、あなたの失敗が原因でこちら側へ所属するしかなくなったのだから。それに、他でもない彼女自身がそう望んでいるのだもの。ねえ? 小毬ちゃん。いいえ――小毬隊員?」

言って、エレーナは意味ありげに微笑む。優しい眼差しはイズの背後に注がれた。

 巫女であった頃とまるで変わらぬ、小さくて細い体つき。仮の衣服を着ている以外に大きく異なるのはその黒い髪だった。美しかった流れは見事に中断され、顎のラインで揺れている。「なんでまた、そんなバッサリ……」

「この時代には、女性の断髪も出家を意味するものではないとお聞きしました。ならば、新しい世界に暮らす身。いっそ、前を向いて違う自分になるためにも、と思いましたから」

 すぐさま連れ帰って手当てを受けさせたことが幸いしたのかどうなのか。すっかり元気になった小毬が微笑む。神の世界にやってきたのだ、とか何とか意味不明なうわ言を言っていた時には心配したが、意外にもたくましい順応力を見せている。

「イズ様、どうぞこれから『ぱーとなー』として、よろしくお世話のほど、お願いいたします」深々と頭を下げられ、脳裏によぎったのは『若紫』の妄想。

(いや、俺は断じてロリコンでも年下趣味でもなーい! って……いや待て。こいつのほうが年上なんじゃねーか。しかも千百九十年分……!)

 イズにとって散々なケースになったユビキタス・ファイル・ナンバー10157は、こうして記録に残された。新たなパートナーを得て更に多忙を極めるイズの今後は、また別の話である――。                    (二話 了)


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