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1.平安編―前

『ユビキタス(ubiquitous)英、形容詞』 意味:『同時に、どこにでも存在すること。転じて、西暦2200年現在は、連邦政府保安省、時空管理局運営組織〈時空間保護警備隊〉の別称として広く認知されている。※英語=かつてこの地球上で最も広く公用語として使用された言語。出典:連邦共通辞書〈サイバラス〉』


               *


 晴れ渡った青空の下に、雲海が広がっている。白くふわふわとしたその波間に見えつ隠れつするのは、なだらかな稜線。白い海を挟んで、こちら側と対を成す山脈のそれだ。遠目には穏やかでしかない光景ではあるが、実際にその場で目にする者にとっては畏敬と感動を同時に与えてくれるものだろう。が、まさに絶景を臨める最高の場所――巨大なカルデラ火口の縁――に、そんな感情とは無縁そうな青年が一人立っていた。

 じりじり照りつける太陽に顔をしかめ、明るいブラウンの瞳で周囲をねめつけている。日差しがきついだけで蒸し暑さがないのは救いだったが、それでも彼にとっては過ごしやすい環境ではないらしい。濃い金色のくせっ毛を苛立ち気味に掻きむしって、小さく口を開いた。

「現在地再確認、あと、時刻」

 誰にともなくぼそりと呟かれた声。しかし、すぐ後に青年の耳元に返ってくる答えがあった。

『イタリア、カンパーニア州。ナポリ湾岸に位置するヴェスヴィオ火山。現在の時刻は午前十一時を二分過ぎたところです』

 無機質な返答に頷いた後、自身がまとう膝丈の貫頭衣を確かめる。お世辞にも着心地がいいとは言えない粗末な一枚布の感触にも、皮のサンダルにも、慣れているようには見えない。先ほどからしきりに指の間に侵入する砂を気にしている。

「なんでわざわざ〈適応〉まで……今回は必要ないと思ったのに」

 唇をゆがめ、ぼやきめいた言葉を吐く。それに対する答えはない。あきらめたようにふうっと大きく呼吸すると、青年は衣服の腰に手をやった。

取り出すのは銀色に光る上下二連銃。その名の通り、銃身を二つ備えているのが特徴らしい特徴なだけで、あとはシンプルに過ぎるデザインをしている。しかし――。

(目の前でぶっ放したら、腰抜かして驚くんだろうな)

 思い浮かべた相手はもちろん、今待ち受けている人物。自分たちからすれば『要・保護対象』であり、奴らの思惑では『ターゲット』ということになる。それがお遊びか、本物の殺意のこもったどちらかというのが問題だが、残念なことに今回は後者だ。だとすれば、こちらもそれ相応の覚悟で挑まなければならない。唇を噛みしめ、ほどよい重みの銃をもう一度握りなおした。瞬間、木々を掻き分け土を踏む音と、大勢の話し声が聞こえてきた。青年は岩陰に身を伏せて隠れる。それが待ちかねていた一行であるのは、再び顔を上げて覗いたところで確認した。

 ブラウンの瞳――正確に言うならば、その角膜に直接触れている透明のコンタクト・レンズが認識したのだ。外から見る分には何の変化もないが、青年の視界にそれは現れた。ピピッと小さな電子音がして、進んでくる集団の中央、一番体格のよい男に焦点が合わされたのがわかる。ズームアップし、照合が完了した途端、青文字がずらずらと視界端に流れ出た。

「スパルタクス……トラキア・メディ族出身の剣闘士奴隷。紀元前73年、第三次奴隷戦争、別名『スパルタクスの反乱』を起こした人物――ビンゴ! 待ちかねたぜ、自由のヒーローさんよ」

 こげ茶色の短い髪に、日に焼けた筋肉質な体。青年が身に付ける衣服と似たものの上に、鎧や剣で武装をしている。目だけはぎょろりと光り、迫力があると言えなくはないものの、ごく普通の男だ。

(こういうのがトキオでうろついてたら、浮浪者か怪しい奴でしかないけど)

「でもこいつがいないと歴史が大きく変わっちまうってんだから、世の中わかんねえもんだぜ。おーお、頑張って引率してること。結局は戦場の花と散っちまうのに、ご苦労なこった。かろうじて生き残っても一人残らずはりつけの刑だぞーって教えてやったら、あいつらどれぐらい付いて行くのかね」

 ふっと笑ったところにまた違う音声が乱入してくる。しかし今度は感情の宿らないそれではなかった。

『おい、イズ。悪ふざけもいいかげんにして、早く対象保護しろ。その後すぐに、俺とエスタとで狙撃手を探す。対象の安全確保したら、お前もバックアップに回ってくれ』

 耳元のピアスから聞こえる、はりつめた声。相手は、斜面の反対側で待機していた同僚である。さも当然のように指示されたことに眉を寄せ、イズと呼ばれた青年は堂々と言い放った。

「やだね、バックアップなんて」

『なっ、何だって――?』

「やるなら狙撃手だ。俺が探すから、お前らであのオッサン保護しな」

『おっ、おい、イズ! フォーメーションはチームワークの基本だろ? それに今回のリーダーは俺って決まって……』

 耳元でわめく甲高い声を「しっ」の一言で鋭く遮り、イズは銃を構えた。片膝をつき、かがんだ体勢のまま、まっすぐ両手を前に突き出す。目標は、今しがた発見したばかりの、鈍く光る物体を手にした男だ。

「ターゲット、ロック・オン。『タイム・トライアル』狙撃モード発動」

 迷いもなく言い切ったイズの手元で、すぐさま唸り始めるのは特殊銃。この瞬間だけは、やはりこちらに所属してよかった、なんて実感する。どこか恍惚とした表情で放たれた一発は、凄まじい勢いで狙撃手を襲った。


 ――イーストアシアゾーン、首都トキオ。時空間保護警備隊『ユビキタス』の施設内において、おそらく最も人の寄り付かない、もとい、お邪魔したくない場所ナンバーワンといえる部屋に、イズはいた。いや、常と同じく、呼び出されたのである。

「……一体君は何を考えているのだね? イズ=マクウェル=藤堂くん!」

 鼻息荒く机を叩いて叫ぶのは、指導教官。そろそろ三十代も後半に差しかかろうというのに、ひょろひょろ細いばかりでどこか頼りない印象が拭えない彼は、シトラスという可愛らしい名前を持っている。

(『柑橘系』か。柑橘どころか、よくて『ペンペン草』って感じだけどなー)

 今は言語としての機能を失っている言葉と、道で見かけることもなくなった植物の話だ。連邦共通辞書で検索――そんな暇つぶし遊びをしつつも、イズは形だけ頭を下げた。そうしたほうが早く解放されるとわかっていたからだ。

「すんませーん。でもいいじゃないっすか。無事犯人確保したんだし。対象も保護して歴史も守れて、めでたしめでたし、ってことで。あれでヴェスヴィオ山にこもってローマ軍をどうこう――って流れは変わらなかったわけでしょ」

「めでたくない! いや、それは確かにめでたいが、そうことではなく――君ねえ!」

「まあまあ、シトラス教官。よろしいじゃないですか、五百十五名もいるんですし、中にはこういう面白い子がいても」

「お、面白……!」

「さっすがエレーナちゃん! わかってるう~」

 対照的な二人の反応を笑って、エレーナと呼ばれた事務局長は豊かな赤毛をかきあげる。豊満な胸と細い腰。そこに波打つ赤い流れを目で辿ったシトラスは、あわてたように首を振った。

「わ、我々の任務に『面白い』という特性は必要ありません! 時空間保護にあたろうという操縦士が、今朝のようにチームワークを乱したり、勝手な行動に出るのは重大な規則違反です!」

「でも彼は有能ですよ?」

 赤い唇から瞬時に返された言葉に、シトラスはうっと口ごもる。肉体美とそこから漂う色香を利用しているのか、それとも無自覚なのか――これだけは常々この事務局長にお世話になっているイズであってもわからなかった。にっこりと邪気のない微笑みを浮かべた彼女は、更に続けた。

「この三月に二十歳で卒業すると同時に、連邦政府による操縦士認定試験を首席でパス。その後から現在までの半年間で係わったヒストリカル・テロの数は五十三件。内、彼自身での犯人検挙率は八十九パーセントを超えています。残りの十一パーセントの内訳にしても、誤報や未遂を抜きにすると、必ず同僚が確保している。すなわち、発生したテロで全て成果を上げているということになるんです」

(やっぱ頼るべきはエレーナちゃんだよなあ。俺の女神、愛してるう!)

 両腕を頭の後ろに回し、ニマニマと事の成り行きを見守っていたイズは、シトラスに睨まれて目を逸らした。悔しげに顔をゆがめ、教官らしく言い募ってくる。

「そっ、そりゃあ、我がユビキタスとしても有能な人材は有難い。し、しかしですね、だからといって勝手ばかりで許されるというのはいかがなものか! 三人のチームで任務にあたる新人である限り、団体行動での規則は遵守してもらわなければ、チーム全体に危険が及びかねないという可能性も――」

「では、単独行動なら彼のやり方も許される、ということになりますね? シトラス教官」

「はっ!? そ、そういうわけでは……」

 いきなり予想外の観点から確認されて、シトラスは動揺している。嬉しそうなイズの笑みに頷いたエレーナは、ゆったりと窓際の椅子に腰掛けた。

「どのみち、そろそろ人選の時期だったんです。私は兼ねてより彼を推薦するつもりでしたから――」

「そ、そんなまさか事務局長! 彼はまだ半年の実務経験しか……!」

「あら、ご存知ありません? 今朝の定例会議で規則が一部変更になったんですけれど、ちょうど『操縦士認定資格保持者は、一年の実務経験をもって単独乗船を許可するものとする』の条項が『半年』に改正されたところですのよ?」

 エレーナの無情なる宣告にシトラスは顔を青くし、イズは口笛を吹く。

「やったあ、これで好きに暴れまくれるってわけだ! エレーナちゃん、最高!」

 感極まって駆け寄るが、立ちはだかる机に阻まれる。渋々、エレーナの両手を握るだけで我慢した。

「あらあら、そんなに喜んでくれると私も嬉しいわ。なんといってもこのご時世、悪辣卑劣なヒストリカル・テロは増えるばかりですもの。いつ、いかなる時空間においても貴重な歴史を守り抜く――そんなユビキタスのポリシーとプライドは傷つけられるばかり。嘆かわしい現状を、ただ手をこまねいて見ているわけにはいかないわ。優秀な人材は、一年なんて待たずにどんどん現場に送り出していくべき。そう思うでしょう? イズくん」

 頑張ってちょうだいね――麗しい微笑みで励まされ、当然とばかりに同意する。鬱陶しいばかりだった他人の指図。それに面倒なチームワークからも解放されたのだ。これが喜ばずして何とする。まさに前途洋々。そんな思いで、イズは単独初任務の詳細を聞いた。


 ユビキタス中央塔、屋上ドーム直通エレベーターに乗ると、まもなくドアが開いた。自動回廊に足を置いたイズは、軽く右腕を浮かせる。降り注ぐ認証光に、自身の操縦士番号を読み取りやすくしたのだ。一秒もかからずピッと軽い音がして、『ナンバー496、イズ=マクウェル=藤堂操縦士。ユビキタス・ファイル・ナンバー10157認証。該当ゲートへご案内します』と音声ナビが反応。イズを載せたプレートが一枚分だけ浮上し、ドームの上層部へと移動し始めた。

 球体をしたその形状から『ドーム』と呼ばれており、なるほど外部から見た時には円形で館舎最上階に乗っている。とはいえ内部に入ってしまうと、果たしてこれが球なのか、まったくわからなくなってしまうぐらいにドームは広い。ぼんやりした明るさを保った照明で、視界範囲内のゲートだけようやく確認できるぐらいだ。西暦2200、2100、2090――始まった上昇は徐々に加速し、すぐにゲート上部に点滅している年代さえ識別できなくなる。間もなく止まったプレートから降りると、イズの頭上にはゲート・ナンバー1010が光っていた。

 ここでまた認証光が腕章を確認。つい先ほどエレーナによって再支給してもらったばかりの、単独乗船許可証も兼ねた『上級』用だ。色が白から赤に変わっただけで、基本的には下部に操縦士番号、そして中央にでかでかと古めかしい木造船が描かれただけのデザインは変わらない。いまやユビキタスのシンボルマークとなったものと同じ船がまさに、ゲートの奥に広がる闇でイズを待ち受けていた。

同じといっても、もちろん素材は木などではなく、ヌーベル・プラスチック。宇宙空間の電子炉でチタニウムやカーボンと混ぜ合わせた耐久性、耐熱性双方において理想的とうたわれる新素材でできている。が、『やわらかいのに硬い』という不思議な質感を思わせないレトロな茶色も、木の板を重ね合わせて作ったようなデザインも、全てわざわざ再現したものだ。古代の神話に登場する、選ばれた者の箱舟――『ノア』を。

『ようこそ、イズ=マクウェル=藤堂操縦士。私はノア・ナンバー206、今回の任務より、貴方と今後専属契約を結びました。どうぞ、よろしくお願いいたします――』

 挨拶は船体内部に適度な音量で響き渡る。乗り込んだイズを迎えると共に、登録が済んだ印だった。ちなみに、予め管制塔で入力されたデータと異なる者が乗れば、直ちに乗船拒否されることになる。

「ういーっす。どもども、よろしくー」

 緊張感のないイズの返答にも、ただの音声ナビである『彼女』が反応することはない。アンドロイドやロボットなどのように人口知能を持ってはいない、単なる船の案内人。コントロール・システムがプログラム通りに喋っているだけで、操縦はイズ自身が行うのだ。

 時空警邏船、ノア――それはユビキタスを運営する連邦政府保安省、時空管理局の精鋭が作り上げた奇跡の船。といっても何代にも渡る改良を行った最新版、とでも呼ぶべきか。とにかく先の時空警察隊時代からユビキタスと呼ばれるようになった現在まで、ほぼ五十年間の汗と涙の結晶と言えるだろう。そんな努力の歴史などまるで気にもしない態度で、イズは操縦席にどかりと腰を下ろした。縦七メートル、横十メートル。極めてコンパクトな船内を見渡し、満足げに一息。

「やっぱ個室は違うわ」

 操縦士専用寮では早々にして一人部屋を与えられた。それも例によってエレーナの威光によるものだ。本当は勝手気ままに過ぎるイズと同室になった者が次々に苦情を訴えるからだということは知っていたが、かえって気楽でいいと喜んだ。今回もそれと同様だ。一応、この仕事で食べていくと決めたからには、自分のペースを早いうちに確立できるに越したことはない――。

 それが時空警邏専用船であろうが、寮の一室であろうが、イズにとっては大した違いはなかった。幸い運動神経や頭脳には恵まれている。エレーナのような上司に気にいられる運もある。今度の単独初任務にしても、きっと無事成功するに違いない。うんうん、と一人頷いたイズが座席に深く座りなおす。掌を指定の場所に置き、ヘッド・レストに後頭部を密着させる。認証光と音声が同時に発動を示した。

「ノア・ナンバー206、航海準備」

『ノア・ナンバー206、航海準備完了』

「目的地・時代設定、入力モード」

『目的地・時代設定入力モード準備完了。指示待機』

「目的地は日本、京都の平安京。時代は西暦1010年、平安時代――」

 あくまで淡々と告げたイズの声で、入力データとの最終照合が行われる。いくらも経たず確認作業は終了し、ついにノアの船体が小さく震え始めた。時空を超える亜空間――時空海タイム・ホールへ漕ぎ出したのだ。

合図となるのは、船体側部に開かれた両翼の作動。ウィイン、というかすかな音と振動、そして船体内部――イズが見渡せるちょうど百八十度に広がったパノラマ状のコントロール・スクリーン――で全ての動きが確認できた。暗黒の時空海を光速以上のスピードで航海するノア自身の道筋、これから訪れる京の都の地図、気温、天候予想、そして要・保護対象人物の名前と顔写真付き詳細データまで。

「紫式部を守れ、か……ま、楽勝だろ」

 かはは、と軽すぎる笑い声を上げる。そんなイズの脳波と思考を感知するシステムはEEGS。自動認識し、ノアの操縦やコントロールを可能にするそれはしかし、独り言に応えることはない。〈適応〉モードに入り、改めて保護対象の写真を眺めていたイズが抱くのは、(このオバチャン、もう少し美人だったらなー)などというふざけた感想だった。


                *


 十五夜の月が見える晩だった。

 風もなく、雲もない。澄んだ空に浮かぶ丸い月だけが、一条院を照らしている。輝く白い珠をぼんやりと見上げかけた小毬こまりは、近くの女房に咳払いをされ、あわてて俯いた。

(また、田舎者は風流の何たるかを知らない――なんて噂されてしまう)

 自分の考えが的中していたことは、さざ波のように漏れ聞こえる彼女たちの笑い声でわかった。月とは直接仰ぎ見るものではなく、杯に注がれた酒の表面や、池の水鏡に映る影を愛でるもの――そんなこれ見よがしな会話が交わされる。ただでさえ美しい月を垣間見て、故郷のススキ揺れる原野を恋しく思っていた刹那だったから、余計に堪えた。でも、泣いてはいけない。こんなことで泣いたりしたら、また中宮様にご心配をおかけしてしまうのだから。

 ぐっと唇を噛んだ小毬は、更に強く両手を握り締める。掌からこぼれた神楽鈴の一部が、しゃらんと小さな抗議の音を奏でた。

「ああ、詩歌の宴がもう終わる。次は巫女舞でございます。さあさ、帝がお待ちかねですよ、あなた方」

 一番年かさの女房に急かされて、小毬は前を行く巫女との距離を狭めた。白衣の上に千早ちはやを羽織り、朱袴を履いた神楽舞用の装束。それに、たっぷり長い黒髪は背中で一つに結い、余った髪の束を両耳の前に垂らして、小さな飾り鈴がたくさん付いた金のかんざしに冠まで――とにかく豪勢、の一言に尽きる装いである。

 にも関わらず小毬の表情が冴えないのは、やはり宴のために舞う、という目的のせいだろうか。故郷のひっそりとした神社で奉納用に舞った時とはやり方も気分も、それに観客も違っている。神に捧げたいと純粋に願うほど真面目な巫女ではない自分だけれど、だからといってこうして衆目を集めて踊りたいわけでもなかった。

(ううん、何を今更……遠縁の中宮様に引き取っていただいてからは、ご恩に報いると決めたじゃないの。ならば今私のすべきことは一つだけ――中宮様が少しでも楽しんで下さるなら、苦手な舞もこなしてみせる)

 小柄で華奢な最後尾、最年少の巫女、田舎者のくせに帝の御前で舞うことを許された身の程知らずの成り上がり者。ひそやかな囁きで届けられる自分の評判は知っている。十五になったばかりの新入りが調子に乗って、などという声が、同じ装束をまとう彼女たちからも聞こえてくることは悲しかったけれど――。

「……それはそうと、例の噂、聞いた?」

「ああ、知ってるわ。そうそう、あの――『光源氏』でしょう?」

 会話の流れが変わったことに気づき、つい耳をそばだててしまう。噂話が特別好きだというわけではない小毬でも、よく覚えのある単語、いや、名前であったから。

(光源氏、って……中宮様がお気に入りの、あの……?)

 もう何年前からになるのか、お付きの教育係になられた式部様が綴られているという。今や帝その人も続きを楽しみに待っているらしいと、評判の物語がある。女房たちが口にしたのは、その中に登場する有名な美男子――主人公の『光の君』ではないのか。

「ええ……ついに中将様のお屋敷にも現れたとか」

「何でも、美しいと評判の娘を次々とさらっているんですって?」

 恐ろしい、と声を揃えた女房たちの言葉で、小毬はそっと首を傾げる。最近は雅楽寮内の曹司にこもってばかりいたから、世間の話題も知らずにいた。どうにも物語の話ではなさそうな展開に後ろ髪を引かれつつも、呼ばれるままに舞台へと進み出る。楽師の歌と、厳かな笛の音に合わせて舞い始めた。その瞬間だった。

 先ほどまでそよともなかった風が吹き荒れ、炊かれていた篝火が消えた。同時に月が雲間に隠れたのか、あっという間に周囲が闇に包まれてしまう。それでつと上空を振り仰いだ。小毬がそれだけの動作をする間に、突如として乱入してきた人影があったのだ。人影――そうわかったのもしばらく後のことで、ただ背後で響いたドスンという衝撃と気配に息を呑むのが精一杯だった。

「カワイコちゃん、みーっけ」

 奇妙な男の声。何を言われたのかもわからず、振り向いた。そんな小毬の体をあっという間に捕らえた誰かが、背中でくつくつと笑う。怯えて縮こまる小毬の耳元に唇を寄せ、囁きかけてきた。

「手に摘みて いつしかも見む紫の ねにかよひける 野辺の若草」

 十三で都入りしてから、時折呼ばれる中宮様の対屋たいのや。そこで聞かせてもらった恋物語中に詠まれる歌に違いなかった。闖入者に拘束されているというのに叫び声が出なかったのはそのせいか。それともただ喉が凍っただけだったのか。それでも口を覆われて、もがいた。庭を取り巻いていた近衛府の兵たちがようやく動いたのもその時だった。矢をつがえ、引き絞る音がする。

「おのれ、何奴! 帝の御前であるぞ!」

「神妙にせい! その娘を放すのだ!」

 猛々しい声に脅されても、男は微動だにしない。むしろ一層力を込めて小毬を羽交い絞めにした――否、抱きしめたのだ。

「私の若紫よ、さあ共に――」

 笑いを含んだ声はぞっとするほど低く、それでいて楽しげな響きに満ちていた。そのままぐいと強く抱き上げられ、身の毛がよだつ。

「……っ!」

 恐ろしすぎて叫ぶことすらできない。自分はこのまま、連れて行かれるのか。それとも殺されてしまうのだろうか。震える手から、神楽鈴が落ちる。緊迫した気を清めるような、涼やかな音が転がる。雲間が割れ、やわらかな月光が降り注ぐ。全てがまるで夢の中にいるかのような、愚鈍な動きに感じられた。小毬の見開いた瞳に、涙が浮かび上がる。

「ハイ、現場確認――っと」

 この場にそぐわぬ明るい声が聞こえたのは、その刹那だった。誰もが咄嗟に視線を投げた先には、一人の若い男の姿。青年――身につけた立烏帽子たてえぼしも純白の直衣のうしも黒の皮沓かわぐつも、全てがそう告げてはいる。が、似た格好をした貴族の誰よりも長身の背格好に、きびきびとした動き方や飄々とした微笑みは、今までに見たことのないものだった。目があった小毬に向けて片目を閉じ、いたずらっ子のような顔をして神楽鈴を拾う。

「ふうん、『光源氏』ねえ――趣味は悪くないと思うけど、そんな通り名にふさわしい顔してんだろうな。どうなんだ? ヒストリカル・テロ・グループ『ネオ』のどなたかさん?」

 全く意味のわからない口上。それでもなぜか、彼が余裕たっぷりであることだけはわかった。小毬を抱き上げていた男が、苛立ったように舌打ちをする。無言で、投げ捨てるように下ろされた。やっと悲鳴を上げた小毬になど見向きもせず、黒づくめの格好をした――顔面まで布で覆い、目だけを出した不気味な姿だった――男が身を翻す。

「おっと。大丈夫か? 若紫ちゃん」

 いつの間に距離を詰め、近くに来ていたのか。白い直衣姿の青年が訊ねる。乾いた喉からなんとか肯定の意だけを返した。義務的な質問であったのか、あっさりと小毬を通り過ぎ、彼は男を追う。闇に紛れ行こうとする背中へ向けて、両手を伸ばす。銀色の何かが光った、と思った途端、男は吹き飛ばされていた。上空、殿舎の屋根にまで飛ばされた男は全身を打ちつけ、呻いている。あまりの出来事に兵も誰も固まったまま、謎の二人を呆然と眺めるだけだ。

 動けないかと思いきや、なんとか起き上がった男は屋根の向こう側へ。飛び降りようとする寸前、もう一度構えられた直衣姿の両手。そこからあふれた圧倒的那な閃光に、今度こそ小毬は息を呑んだ。周囲の誰もが見つめる中、それでも逃げた男を思ってか、彼は顔をゆがめる。

「くっそ、逃がしたか――ま、いいや。楽しみは先送りってことで。って……あれ? もしかして俺、思いっきり注目浴びちゃってる……?」

 はは、と軽く笑って頭を掻く。そのまま身を翻そうとした青年の着物の袖を、小毬は思わず掴んでいた。

「あ、若紫。んーっと何? 必要以上の接触コンタクトは禁止されてんだけど、もしかして命の恩人に惚れちゃった?」

 やべーな、などと独りごちる彼の言葉はやはり大半飲みこめないものだったのだが、小毬には気にする余裕はなかった。

「もしかして……」

 かすれた声がするりと滑り出る。自分でも無意識というか、無我夢中というか――何年も心に溜めてきた一人きりの思いが形として現れたことで、珍しく興奮していたのかもしれない。「ん? ま、とりあえず愛の告白なら聞いとくか」とよくわからない結論に落ち着いたらしい青年が、気軽にしゃがみこんで小毬を見つめる。その端正な面立ちやあふれる自信に確信を得て、小毬は口を開いた。

「貴方様はもしや―――いいえ、きっと相違ございませんわ。御名を……御名をお聞かせ下さいませ!」

 この里内裏に呼ばれる舞巫女となってから二年。ひょっとしたら、これほど大きな声を出したのは初めてではないか。自分でもわかる態度の豹変ぶりに、皆が注目している空気を感じる。それでも小毬は聞かずにはいられなかったのだ。緊張感のかけらもない表情で再び頭を掻こうとして、立烏帽子の存在を思い出したらしい青年は、ごまかすようにもう一度笑った。

「んーっと……翻訳モードこれであってんだよな……名前ってこと? 俺の名前ならイズだけど。イズ=マクウェル=藤堂。いやー、現地人に自己紹介求められちゃったのは初めてだな。ま、どうせ記憶操作で最後はまるっと俺の存在なかったことにしちゃうんだし、いっかー」

 黙っていれば女性に憧れの目で見られるだろう容貌が、口調と態度のせいでいささか損なわれて見える。しかし、今の小毬にはどうでもいい事柄だった。捜し求めていた存在に、ようやく出会えた。まさに邂逅、と呼ぶにふさわしい場面であったからである。潤む双眸を青年――イズからなんとか引き離し、伏せた。つまり、帝にするような最上級のお辞儀をしてみせたのだった。

「お待ち申しておりました……伊豆能売いづのめ様。邪を祓い清める、やんごとなき神の化身。どうぞ、平安の都を悪しき者の手から、お救い下さいませ――!」

「……は?」

 なんとも気の抜ける一音で問い返されていることに、ひれ伏し続ける小毬は全く気づいていなかった。


               *


(まいったなー……)

 面倒なことになった、というのが真っ先に浮かんだ感想だった。しかし思考とは裏腹に、イズの頬は緩んでいる。

(ま、『面倒』=『面白い』って図式が、俺的には成り立っちゃうわけだけど)

 今からちょうど三十分前。居並ぶ物騒な兵士に間抜け面の貴族たち、なんていうギャラリーが見守る中、可愛らしい巫女に土下座されるというラッキーハプニングに見舞われた。しかも、相手はなぜだか自分を神の化身か何かと勘違いしているときた。イズにとっては『面白い』ことこの上ない状況で、それでも次なる行動の選択肢に迷っていたら、しずしずと現れた女がいた。長い黒髪を着物の裾と共に引きずり、多くの召使らしい女たちに守られながら登場したその顔を見て、イズは内心快哉を叫んだ。それもそのはず――女の名は『藤原彰子ふじわらのしょうし』。そもそもの任務、要・保護対象である紫式部が仕える主人その人だったからだ。さてどうやって潜入・接触するか。到着してから頭を捻っていた問題に、思わぬところから救いの手が差し伸べられた気分だった。

「中宮様、先ほどの殿方をお連れいたしました」

 五メートルほど先を歩いていた女がそう言って、イズは思考から抜け出る。潜入操作はユビキタスの専売特許と言っても過言ではないが、まさか来てすぐにこれほどの好機に恵まれるなんて、とイズはにやける。それでも女が振り向き、廊下の中間を指し示したことで、表情を引き締め、腰を下ろした。楽な姿勢で座ろうとしたら女が目を剥いたので、とりあえず背筋を伸ばし、胡坐をかいてみる。それにしても、今回の〈適応〉は動きにくかった。鬱陶しいほど重ねられた布に苛立ちつつ、示された御簾――竹製の遮光、兼、目隠し用インテリアみたいなものらしい――に向き直った。

「先ほどのご活躍、礼を言います。そなたが救った舞巫女の小毬は、わたくしの遠縁――いいえ、今や実の妹とも可愛がっている者。あのような恐ろしい鬼の手にかかり、万が一のことでもあればと思うと震えが走ります」

「鬼い?」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。またまたそばの女に驚かれただけではなく、押し殺した声で「中宮様に何たる物言いを……お控えなさいませ!」とか叱りつけられる。御簾の向こう側でもざわついた気配があってから、彰子本人の落ち着いた笑い声が聞こえた。

「小毬はそなたを、彼女の故郷に奉られた土地神の化身であると言って聞かないのだけれど、どうやらとても風変わりな殿方であることだけは確かのようですね」

 先ほど一瞬だけ見えた顔は、たちまち駆け寄ってきた召使の扇で隠されてしまった。それでも結構好みの範囲には入る美人だ。まだ二十三の若さで人妻、しかも二人の子持ちだというのがイズからすれば勿体無く思えた。

(ふうん……現地人からすりゃ、ネオのメンバーも『鬼』に見えるわけか)

 あやかし、物の怪、鬼――そんな多様な名で呼び分けてはいても、要するにこの時代の人々からすれば、『理解の及ばないモノ』は全てそちら側の存在なのだろう。歴史文化学の授業で習った記憶を手繰り寄せながら、イズも笑った。

「そりゃどうも。でも、生憎俺は普通の人間ですよ。一応言っとくけど、鬼でも神でもないし」

 ――ただ、あなたたちからすれば考えられない未来の最新式装備を持ってるだけで、と頭の中で付け加える。別に無視して逃げ出してもよかったのに、自分はなんでわざわざここで質問に答えているのだろう。形は丁寧だが、背後にはびっしり警戒顔の兵がいて、質問に見せかけたていのいい尋問。それでも余裕を失わないのは、ただ単に、いつでも逃げ出せると思っているからに過ぎない。潜入はしても現地人との接触は可能な限り避ける――ユビキタスの基本規則にあえて逆らえるのも、単独任務の醍醐味だとイズは喜んでいた。それに、結果的には保護対象の近くに入り込めたのだ。あとで責められても、任務さえ果たせば文句を言われる程度で終わるだろう。

「普通の……では、先ほどの奇妙な技は? それに、目の眩むような光は何なのです? あのようなことのできる人間がいると? いっそそなたも鬼かあやかしの仲間だと聞かされたほうが驚かぬでしょう」

 口調は静かでも、はっきりとした意思を感じさせる声音だった。どうせ大昔の女だとどこか小馬鹿にしていたところのあったイズも、目を瞠り口笛を吹く。

「さすが。一国の頂点に立つ男を射止める女は違うもんだ」

「な……中宮様に何という!」

「無礼者め、ひっとらえてくれる!」

 控えていた女と兵の両方がいきり立つが、それでもイズは気楽に座ったまま、動こうとしなかった。懐に手を入れ、いつでも撃てるように銃を探り当てる。もちろん、脅しが目的だ。一般人を理由なく傷つけることは、さすがに重大な規則違反。下手をすれば資格剥奪にまで追いやられかねない。ふざけてはいても、ぎりぎりのラインは見極めているイズだった。

「静まりなさい」

 凛とした一声。それだけでその場を収めた彰子の威厳は、やはり大したものだと素直に思えた。だから、ためらわず次の一手に踏み込むことができた。

「俺が鬼か人間かなんて、どうでもいい。それよりも――あんたの知りたいのは俺の目的、だろう?」

 あまりな言い草に、だろう。もはや卒倒しかねない女たちの反応さえも楽しみながら、イズは笑った。

「簡単なことだ。俺はあの男――あんたの言う鬼とやらを追ってる」

「鬼を……? 一体、何のために」

 気丈にも、彰子は冷静に聞き返した。声にわずかな怯えさえ気取られまいとする、強い自制心が感じられる。その気高さに珍しく敬意を払って、イズは続けた。

「何の? さあな。取って喰っちまえば旨いかもしれねーし。あ、俺も鬼だったら、の話だけどな」

 イズの真意を量り損ねているのか、彰子は無言のままだ。それでもむくむくと沸いてしまった好奇心と悪戯の芽は、もはや止まらずに暴走を始める。

「そんな……その方が鬼だなど、伊豆能売様があのような邪悪な存在であるはずがありません! そんなはず……!」

 震える声――澄んだ鈴の音を思わせるそれに割って入られ、イズは片眉を上げた。御簾の向こう側には、彰子以外にも複数の女の気配がある。その中に、どうやら控えていたらしい。

(あの時の『若紫』か)

 これはこれは、とイズは意地の悪い笑みを口元に宿す。はたから見れば、まさに邪悪なほうに限りなく近い表情だったかもしれない。しかしあくまでイズの感想は、正直なものでしかないのだ。

(ラッキー)

「というのはやっぱり嘘で……俺は神だ!」

「……は?」

 さすがの彰子も呆れたのだろうか。けれど、思いついたままに悪戯を実行する。任務は任務。きちんと全うするつもりだ。ただ、どうせやるなら何事も面白いほうがいいじゃないか――。そこにカワイコちゃんが付随するなら、言うことなしだ。

「その、何だ――そこの少女の言うまさにその神である。あー、我は悪を裁き、都の安寧を守るためにかりそめの姿で現れたのじゃ! というわけなんで、我にあの鬼を追うために必要な全てを用意するように」

「必要な、全て……?」

 おそらくここに集う誰もが、突然豹変したイズの言葉など信じていないことぐらいわかっていた。その証拠に彰子は繰り返したきり沈黙し、周囲の人間はあきらかな困惑にお互いの顔を見合わせている。

(ん? もしかして俺、馬鹿かと思われてる?)

「やはり……! 中宮様! このお方は間違いなく神の化身、伊豆能売様です! どうぞお言葉に添うていただけますよう……!」

 たった一人、味方がいた。イズ自身、さすがに苦しい展開かと思ったそれに、見事に乗っかってくれたのは例の『若紫』――舞を踊っていた巫女、小毬だった。

「しかし小毬――」

 何やら渋い声で諭そうとしたらしい彰子を遮り、小毬は言う。御簾を介して、少女が彰子のそばへ寄ったのが見える。

「お願いでございます、中宮様! いきなりの話に戸惑われるのは承知の上です。けれど……私、視たんです!」

「視たとは……もしや、お前の『夢見ゆめみの力』で?」

「はい! 一度ではなく、幼き頃から幾度も――そう、この力を初めて得た七つの頃から繰り返し、この伊豆能売様のご出現を……!」

 真剣そのものの話し方で、小毬は言い募った。決して大きくはないが、聞く者の耳に訴えかけるその声に、皆がざわつき始める。

(えっと……なんか、予想外の流れだったり)

 いや、そうなったら面白いかな、という意図はあったのだが。神を名乗って自由に内裏内を出入りして、保護対象の紫式部に接近。ついでに、あの『光源氏』とかいうふざけた通り名で女を連れ去る狼藉者までひっ捕まえて、手柄をダブルにしてやるか、なんて思ってみただけだったのに――。

 逆に戸惑い気味のイズを置き去りに、小毬の話はますます熱を帯びる。どうやら彼女は、格好だけではなく本物の『巫女』に間違いないようだ。授業で習った『神通力』の一種といえるのか、予知夢の類を視るらしい。そんな異能の力が実在するのかどうかはさておき、彰子の心は揺らいでいるようだった。

「それは……お前の言を信じぬわけではありませんが、それにしても『神の化身』とはあまりに話が唐突すぎて」

「中宮様――!」

 なんで小毬がそこまで必死なのかはわからない。わからないが、これは利用させてもらうに限る。戸惑いも一瞬。即決したイズは、口を開こうとした。が、わずかな差で彰子が先だった。

「――わかりました。他でもないお前がそこまで言うのです。機会を与えましょう。まがりなりにも神の化身だというのならば、都の誰よりも強くて当然。試してみようではありませんか」

「試すとは……?」

 あくまで純粋無垢な小毬の問い。それに答えたのは、彰子ではなかった。

「その先は私にお任せを、中宮様」

 低音が背後から響いた。兵の集団だと思っていた数人の中から、そっと一人が足を踏み出す。今までとは違う雰囲気と秘めた威厳のようなものを感じ取り、イズはひそかに口内で呟いた。

「歴史重要人物データ、照合。該当人物検索」

 音声認証が行われ、すぐさまイズの瞳――そこにはめられたコンタクト・レンズが反応する。〈通信〉機能がオンになり、隠してきた時空警邏船『ノア』内のコントロール・システムにつながったのだ。数秒で送られた回答は、皮肉にも目の前の男が同時に述べた。

「私は陰陽寮にて陰陽助おんみょうのすけの任に就く、安倍吉平あべのよしひらと申す。先ほどの不可思議極まるそなたの戦いぶり、しかと拝見した。万が一にも中宮様に害なすことがあっては大変と、直々に警護を申し出た次第――」

 安倍吉平――五十六歳。平安時代、最も有名な陰陽師、安倍晴明の長男であり、父亡き後は、時の権力者藤原道長を始めとする天皇や貴族のために占いや祭祀に尽力。

 視界下部、ちょうど男の渋い顔にかぶさる形で青文字は流れる。

(不可思議極まる、か。そりゃそうだわな)

 彼の目にはそう映ったのだろう。おそらく先ほどの戦闘(とも言えないお粗末なものにしろ)で自分が使ったのが、ノアの操縦士なら誰もが携帯する特殊ビーム&レーザー銃『タイム・トライアル』であることなど知る由もないのだから。

 未だ懐に収まる最重要装備を思い起こしながら、イズはつい笑んでいた。もしかしたら、不遜な表情に見えたかもしれない。細い両の眼を開いて、男――吉平は口元を引き締めた。

「ほう、どうやらかの神は、私のこともご存知であらせられるようですな。それなら話は早い」

「吉平殿、一体どうなさるおつもりで?」

 既に落ち着きを取り戻した彰子が確認する。わずかに安心したような声音はおそらく、たくましい味方がいることを思い出したからなのだろう。

「鬼か神か――どちらにしても、人外の相手をするのは我ら、陰陽師の仕事。邪か蛇か、力合わせをしてみればすぐにわかりましょう」

「力合わせ?」

 きょとんとした顔で問い返すイズに、吉平は嘲笑めいた顔つきをする。その表情だけで、彼が自分をどちらと思っているのかなど明らかだった。鬼であるかは別にしても、蹴散らしてやろうと考えているに違いない。

(要するに、勝負しようぜってことか)

「面白え。歴史に名高い陰陽師と戦えるんだ。俺のほうは申し分ないぜ」

 面白いどころか、ユビキタス史上前代未聞のニュースになるだろう。特にあのシトラスあたりの耳に入れば、泡でも吹いて倒れてしまうかも――。

「手加減はしてやるからさ、ま、いっちょ派手にぶちかまそうじゃねーか」

 握手を求めて片手を差し出したイズに、吉平は半歩下がった。何をされるのかわからなかったのだろうか。

(この時代に握手の習慣って、なかったっけ?)

 まあいいか――と引っ込めた手を所在なく腰に置く。しかし、吉平の躊躇はそれだけを意味するものではなかったらしい。不快そうに眉をひそめ、言い捨てる。

「何やらよくわからぬが……そなたの相手をするのは私ではない。弓周ゆみちか、これへ」

 一瞬のためらいは、自分が軽んじられたという憤慨だったのか。ともかく自身で力を揮うつもりのないらしい吉平に促され、いつの間にそこにいたのか、濃紺の着物を身にまとった若い男が足音も立てず、近づいてきた。一歩間違えば病的なほどに色の白い顔は、その造りの整ったところで美青年の域に留まっている。

(なんか、やな眼だな)

 冷めて見えるのに、内に誰より強い闘志を秘めたような。そうだ、これはまるで――自分自身の眼。なぜだか見透かされたような気がして、イズは鼻息を荒くする。

「ふん、誰でもいい。勝負すんならさっさとしやがれ」

 あくまで尊大な態度を崩さないイズに、弓周ゆみちかと呼ばれた青年は微笑んだ。この場に満ちる微妙な空気など意にも介さぬような、涼しげな笑みである。

「随分と自信がおありのようですね。良いでしょう。貴方が鬼か神か、この賀茂弓周かものゆみちかが確かめてさしあげましょう」

(賀茂……? 確か、どっかで聞いたような)

 後で調べよう、と考えるのをやめてニッと口角を上げる。

「オーケー。フェアプレイで行こうぜ」

 ずいっと差し出した手に不思議そうな顔をされるが、強引に握手を交わす。わからないのは無理もない。だって、イズの来た未来でさえもう使われていない言語の言い回しだ。いくら翻訳モードが発動しているとはいえ、おそらくは理解不能なことばかり喋る怪しい奴なのだろう。

「……面白いお方だ。楽しいのは、嫌いじゃありませんよ」

「へえ。千と百九十年隔てても、気が合う奴っているもんだな」

 冗談めかしたイズの答えに、弓周は眉根を寄せる。それでも双眸に宿るぎらぎらした野心は消えることがない。

(つくづく……腹が立つほど似た者同士だったりしてな)

 既に、規則違反などという言葉も概念も、すっきりと脳裏からは消え去っている。感情が赴くままに行動する、というイズなりのポリシーは、たった一つ野心を超えるものなのだ。

「では――双方の力合わせを許可します。帝のお体が優れぬ時に行うようなことではないが、致し方ない。娘ばかりを連れ去る鬼の所業は、既に都の民を恐怖に陥れているのですから。帝には、わたくしからお話しましょう」

「ならば、良き日を占いで……」

「占い? まどろっこしいこと言ってんじゃねーよ。やるならやるで、今すぐやろうぜ。じゃなきゃやっぱ、俺一人で奴を追う」

 随分ガラの悪い、しかも身勝手な神様もあったもんだ――自分でも笑ってしまうが、面倒くさいのは苦手だし時間もない。この上数日も先延ばしにされるのではやる価値もない。あっさり意見を覆すイズに、皆が混乱の空気を醸し出した。彰子さえもどう対応していいのかわからないのか、言葉を発さずにいた。その時、今まで黙っていた小毬が叫んだのだ。

「明日……明日です!」

「小毬? 何を言うのです」

「中宮様、それに――恐れながら陰陽助様。わ、私の『夢見』では、明日こそが力合わせに適した日であると……」

 いかにも気弱そうな、イズから見れば保護対象に近い少女が、思いのほか度胸のある性格をしているらしいことは、この時わかった。考えてみれば『夢見』だか何だか知らないが、出会ったばかりの謎の男を神呼ばわりしたり、皆の前でそう公言してやまないなど、ある意味強い少女なのかもしれなかった。ただそれが、人に左右されないでいることの強さで、無意識なだけに一番強固で厄介な人物である可能性はなきにしもあらず、だが――。

「ほほう……お前は確か、小毬とかいう舞巫女であろう。いずこかの神社の娘であったとか。その力が本物としても、陰陽助の私に意見するというのだな?」

 吉平の頬が引きつっている。プライドだけは高い男であるらしい。声から漏れ出る怒りをやんわりと包み込んだ彰子に、小毬は救われた形となった。

「小毬の『夢見』の力にはわたくしも幾度となく助けられております。無論、吉平殿のお力には遠く及びませぬが――」

「……恐れ入ります、中宮様」

 礼を言わざるを得ない流れに屈したのは、憮然とした顔の吉平だった。彼の権威を持ってしても、帝の寵愛が後ろ盾にある彰子に軍配が上がったようだった。

(ふん、ざまーみろってんだ)

 こういう類のオヤジは、時代を問わずどこにでもいる。そして例外なくイズの嫌いなタイプであることも共通している。鼻を鳴らしたイズを、弓周が斜めに見上げた。

「それでは……今宵の内に星見をしてみましょう。おそらくは、明日で大きな問題はないかと思われますが」

 事実上の譲歩。上位を示しつつも提案を受け入れた吉平に、彰子が頷く。

「じゃ、俺の方からも一つ」

「……何です?」

 やっと収めた場の空気を再び乱すのか。そんな苛立ちのようなものが、彰子の声にこもっている。今までにない事態を前に、見える以上に緊張しているのか。

 複雑そうな彼女の心情など無視して、イズは念押しすることを忘れなかった。

「勝負に勝ったら、俺の望むものは全て整えること。それに――」

「それに?」

「勝負にはギャラリーが付き物だ」

「ぎゃ、ぎゃらりい……?」

「だからー、見物人のこと」

「見物」

 意外とも想定済みともどちらつかずな彰子の声。クリアに見えない御簾の向こう側で美人人妻がどんな顔をして困っているのか――などというふざけた妄想を抱きつつ、イズは指差した。

「俺の言う見物人を、必ずその場に連れてくること。一人はあんた、それは言うまでもないとして――次にその巫女、小毬とやら。そんでもって最後は……」

 もはや何も言う気がしないのか、彰子は黙ってイズの言葉を待っている。それしかしようがないのだろう。そしてもちろん、周囲の面々は声高にイズの態度がいかに無礼で常識はずれなものかを騒ぎ立てていた。気にもせず、イズは咳払いで皆の視線を釘付けにする。これこそが真の、いや、二つ目の目的であり、本来の任務だ。

「最後の一人は、紫式部だ。彼女を絶対に同伴させること。それが守られなければ、勝負なんてまどろっこしいこと言わずにこの内裏全部滅ぼしてやるから、そのつもりで」

 念を押すどころか、これでは立派な脅迫だ。シトラスが知ればただちに懲戒免職間違いなし。それでも、イズには絶対の勝算があった。

 ――少なくとも、イズはそう信じていた。

「……何が何だかわからぬが、いいでしょう。そうまで言うからにはよほどの力と自信を持つのだろうから。ただし、そなたが負ければ」

「……負ければ?」

「決まっている。中宮、及び私への侮辱と非礼をその首で詫びてもらうのだ。そうでございますね? 中宮様」

 むしろそれを望んでいるとはっきり書かれた吉平の顔と、御簾に映る人影を見比べる。イズは軽く、肩をすくめた。

「御意」

(――負けるはずなんてないし、やばそうならさっさと保護対象だけ連れて退避するだけだ)

 あくまで気楽な彼の内心を知らない面々は、不気味なほど強気だと思ったかもしれない。どちらにしろ、気まぐれで係わっただけの現地人がどう思おうが、本当のところはどうでもいいのだ。任務が終われば記憶操作でリセット。簡単、かつお手軽な事後処理――イズの余裕を知ってか知らずか、悲鳴のような声が上がる。

「もし……もし、そのような事態になれば、私も後を追います!」

(おいおい、マジかよ? いくら俺でも、少女を自分好みに育てる変態趣味とかねえんだけど)

 的外れなイズの動揺も巻き込む一世一代の勝負は、奇妙な展開込みで現実のものとなろうとしていた。


                (一話 了)


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