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狐の問い

掲載日:2026/03/27

 明治三十七年。女学校の裏手、竹林を抜けた先に、古い稲荷社があった。

 それは祈るための場所ではないと、誰もが知っていた。

 社殿は傾き、朱は黒ずみ、狐像の目だけが不自然に白い。

 「見られる」という者がいた。夜でなくとも、昼でさえ。

 ――それでも。三人は、そこへ行った。

 

 志乃。

 鞠。

 綾。

 

 三人は同じ寄宿舎で学び、同じ机を並べ、同じ秘密を共有していた。

 そしてもう一人、‘‘紡‘‘という少女がいた。紡は鞠の隣に座るようになった。声は低く、笑うときは目を伏せる。

 鞠は彼女と話す時だけ、志乃や綾の前では見せない表情をした。

 志乃は、それに気付いていた。綾も、気付いていた。

 

 「――ねえ、鞠を盗られた気分、って言葉、知ってる?」


 綾の言葉に、志乃は笑った。笑って、納得した。

 

 その夜、三人は紙と銭を持って稲荷へ向かった。明かりは提灯ひとつ。

 「こっくりさんなら、狐様も通じるでしょう」

 綾は、そう言った。本当の目的は、紡の名を呼ぶことだった。狐の名を借りて、噂を作る。

 あの子は、狐に好かれている。

 あの子は、祟りを呼ぶ。

 女学校において、沈黙は最良の処刑だ。

「こっくりさん、こっくりさん」

 三人の指が、銭に触れる。

 「おいでください」

 ――鈴が鳴った。

 三人は顔を見合わせた。誰も鈴を鳴らしていない。

 紙の上で、銭がススス、と動く。

 

 ‘‘よ‘‘ ‘‘ぶ‘‘ ‘‘な‘‘

 

 「……呼ぶな?」

 鞠が、かすれた声で口に出す。

 綾が、くすりと笑った。

 「狐様は、気難しいのね」

 その瞬間、志乃だけが気付いた。狐像の目が、

 ――こちらを見ていない。

 鞠を見ている。そして銭が、勝手に再び動いた。


 ‘‘な‘‘ ‘‘を‘‘ ‘‘よ‘‘ ‘‘ぶ‘‘ ‘‘な‘‘


 ――名を呼ぶな。

 綾が、意地悪く言った。

 「じゃあ、聞きましょう。紡は――」

 言葉は、そこで途切れた。綾の喉から、音が消えた。口が開いているのに、声が出ない。ぱくぱくと綾が鯉のように口を開け閉めするが、まるで酸素が足りない魚みたいだった。提灯の火が揺れ、社殿の影が、異様に長く伸びた。

 「……狐は、恋を盗まれるのを嫌う」

 背後から、聞き覚えのある低い声がした。振り返ると、そこには白い狐がいた。いや、狐の形をした何か。瞳の色は金色ではない。人の目だった。

 ――問いに答えよ。

 きゃあと誰かが叫び、提灯の火が消え、ばたばたと散り散りになって逃げ帰っていく。

 その夜、綾は寄宿舎に戻らなかった。

 翌朝、彼女の布団だけがきちんと畳まれていた。

 中は、空だった。

 数日後、鞠は紡を避けるようになった。

 目が合うと、胸が痛む。優しく声をかけられると、背後に視線を感じる。

 夜、夢を見た。

 白い毛に埋もれた闇。

 その中で、聞き覚えのある低い声が耳元で囁く。


 ――欲しいのは、どちらだ。


 志乃か。

 紡か。


 「……わからない……」

 目を覚ますと、枕元に狐の面が置かれていた。

 次の日、鞠は井戸に落ちた。足を滑らせた、と記録にはある。だが井戸の縁には、四本の足跡が残っていた。


 ――問いに、答えなかったから。


 最後に残ったのは、志乃だった。

 志乃は、全てを理解していた。自分が鞠を想っていたこと。鞠が、紡に惹かれていたこと。そして狐がそれを見ていたこと。

 夜、稲荷へ向かう。提灯は持っていない。

 「……欲しかっただけです」

 闇に向かって答える。

 「鞠の心が」

 白い狐が、現れる。


 ――では、奪えばよいと思ったか。


 「……はい」

 狐は、初めて微笑んだ。


 ――正直だ。


 翌朝、志乃の姿はなかった。ただ、稲荷の前に、新しい狐像が一体、増えていた。その目は、少しだけ泣いているように見えたという。

 紡は何も知らない。ただ、女学校を去る日に、稲荷の前で手を合わせた。すると、どこからともなく鈴の音が鳴り響いた。


 ――名を呼ぶな。


 紡は、何故か涙が溢れて止まらなかった。

 狐は今日も、恋と嘘の重さを量っている。





                              完


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