狐の問い
明治三十七年。女学校の裏手、竹林を抜けた先に、古い稲荷社があった。
それは祈るための場所ではないと、誰もが知っていた。
社殿は傾き、朱は黒ずみ、狐像の目だけが不自然に白い。
「見られる」という者がいた。夜でなくとも、昼でさえ。
――それでも。三人は、そこへ行った。
志乃。
鞠。
綾。
三人は同じ寄宿舎で学び、同じ机を並べ、同じ秘密を共有していた。
そしてもう一人、‘‘紡‘‘という少女がいた。紡は鞠の隣に座るようになった。声は低く、笑うときは目を伏せる。
鞠は彼女と話す時だけ、志乃や綾の前では見せない表情をした。
志乃は、それに気付いていた。綾も、気付いていた。
「――ねえ、鞠を盗られた気分、って言葉、知ってる?」
綾の言葉に、志乃は笑った。笑って、納得した。
その夜、三人は紙と銭を持って稲荷へ向かった。明かりは提灯ひとつ。
「こっくりさんなら、狐様も通じるでしょう」
綾は、そう言った。本当の目的は、紡の名を呼ぶことだった。狐の名を借りて、噂を作る。
あの子は、狐に好かれている。
あの子は、祟りを呼ぶ。
女学校において、沈黙は最良の処刑だ。
「こっくりさん、こっくりさん」
三人の指が、銭に触れる。
「おいでください」
――鈴が鳴った。
三人は顔を見合わせた。誰も鈴を鳴らしていない。
紙の上で、銭がススス、と動く。
‘‘よ‘‘ ‘‘ぶ‘‘ ‘‘な‘‘
「……呼ぶな?」
鞠が、かすれた声で口に出す。
綾が、くすりと笑った。
「狐様は、気難しいのね」
その瞬間、志乃だけが気付いた。狐像の目が、
――こちらを見ていない。
鞠を見ている。そして銭が、勝手に再び動いた。
‘‘な‘‘ ‘‘を‘‘ ‘‘よ‘‘ ‘‘ぶ‘‘ ‘‘な‘‘
――名を呼ぶな。
綾が、意地悪く言った。
「じゃあ、聞きましょう。紡は――」
言葉は、そこで途切れた。綾の喉から、音が消えた。口が開いているのに、声が出ない。ぱくぱくと綾が鯉のように口を開け閉めするが、まるで酸素が足りない魚みたいだった。提灯の火が揺れ、社殿の影が、異様に長く伸びた。
「……狐は、恋を盗まれるのを嫌う」
背後から、聞き覚えのある低い声がした。振り返ると、そこには白い狐がいた。いや、狐の形をした何か。瞳の色は金色ではない。人の目だった。
――問いに答えよ。
きゃあと誰かが叫び、提灯の火が消え、ばたばたと散り散りになって逃げ帰っていく。
その夜、綾は寄宿舎に戻らなかった。
翌朝、彼女の布団だけがきちんと畳まれていた。
中は、空だった。
数日後、鞠は紡を避けるようになった。
目が合うと、胸が痛む。優しく声をかけられると、背後に視線を感じる。
夜、夢を見た。
白い毛に埋もれた闇。
その中で、聞き覚えのある低い声が耳元で囁く。
――欲しいのは、どちらだ。
志乃か。
紡か。
「……わからない……」
目を覚ますと、枕元に狐の面が置かれていた。
次の日、鞠は井戸に落ちた。足を滑らせた、と記録にはある。だが井戸の縁には、四本の足跡が残っていた。
――問いに、答えなかったから。
最後に残ったのは、志乃だった。
志乃は、全てを理解していた。自分が鞠を想っていたこと。鞠が、紡に惹かれていたこと。そして狐がそれを見ていたこと。
夜、稲荷へ向かう。提灯は持っていない。
「……欲しかっただけです」
闇に向かって答える。
「鞠の心が」
白い狐が、現れる。
――では、奪えばよいと思ったか。
「……はい」
狐は、初めて微笑んだ。
――正直だ。
翌朝、志乃の姿はなかった。ただ、稲荷の前に、新しい狐像が一体、増えていた。その目は、少しだけ泣いているように見えたという。
紡は何も知らない。ただ、女学校を去る日に、稲荷の前で手を合わせた。すると、どこからともなく鈴の音が鳴り響いた。
――名を呼ぶな。
紡は、何故か涙が溢れて止まらなかった。
狐は今日も、恋と嘘の重さを量っている。
完




