第一章 正しさの側で立つ-⑤
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逃げるようにして診療所を離れると、裏通りの空気はひどく重く感じられた。湿った匂いが肺の奥に残り、呼吸をするたびに胸がざらつく。
振り返らなかった。振り返れば、あの咳の音がまた耳に刺さる気がした。
ルミナならば、あの子の未来を変えられるかもしれない。その代わり、誰かの何かが犠牲になるだろう。
紫色の光が脳裏をよぎる。
禁制魔道具は禁止されている。所持していても災いを呼び込むだけ。正論だった。理解できた。それでも、納得できない何かがルミナの足取りを重くする。
行く当てもなく歩いていると、通りの端、壁際に腰を下ろしていた男が目に入った。修理屋への道を聞いた、片目の濁った男だ。油にまみれた指で、何かを弄っている。
ルミナは一度通り過ぎ、数歩先で立ち止まった。それから、引き返す。
「禁制魔道具を壊して回っている人たちについて、何か知ってる?」
男は顔を上げ、片目でルミナを見た。すぐに答えは返ってこない。
「黒髪で、革の装備。複数人でつるんでる。」
男は短く息を吐いた。
「面倒な話だな。」
ルミナは黙って懐に手を入れ、小さな革袋を取り出した。中身を見せる代わりに、別の提案をする。
「お腹はすいてる?場所を移そう。」
男の眉が、わずかに動いた。
「肉料理なら、いいぞ。酒もな。」
二人は裏通りの端にある、小さな飲食店に入った。肉煮込みと硬いパン。安いが温かい。
男は無言で食べ始めた。半分ほど食べ終えた頃、ようやく口を開く。
「黒髪の女だったか。名前は知らん。だが、最近よく見る。」
「何者?」
「壊し屋だよ。禁制魔道具のな。やり方が荒いから、揉め事になることも多い。」
ルミナの手が、無意識に止まる。
「……何が目的なの?」
男は鼻で笑った。
「依存を断つため、だとさ。」
「依存……?」
「ああ。」
男はスープを飲み干し、低い声で続けた。
「紫の石。禁制魔道具の源。あれは命の前借りだ。制作過程で、代償を注ぎ込んでいる。」
男は淡々と続ける。
「使ってる奴は助かった気でいる。だが、禁制魔道具は犠牲を土台にした道具だ。」
「どこかで、誰かが犠牲を払った。」
「そうだ。それを、あの女たちは嫌ってる。」
ルミナの胸が、わずかに締めつけられる。
「魔術は未来の前借りだ。正規の魔術師は帝国から認証された魔道具を使う。自分の未来における、何かしらのエネルギーを代償として発動する。だが、禁制魔道具は違う。管理できない力だ。だから、帝国は嫌う。」
男は淡々と言った。
「だが、あの連中は違う。人が魔術なしじゃ生きられない状態になるのを、嫌っている。だから壊すんだ。助かっているように見えるその仕組みをな。」
「だから薬を流通させている?」
男は首を振る。
「そうだな。だが、即効性はない。だから、殺されたと思ってる奴もいる。」
沈黙が落ちた。男が数杯目の酒を一気に飲み干した。
「忠告だ。あの連中に関わると、ろくでもないことになる。」
それは、警告でも脅しでもなかった。ただの事実だった。
「それと…久しぶりの酒の礼だ。やつらの頭を教えてやる。」
男はルミナの方へ身を乗り出し、耳元で低く囁いた。
「アウレリオ・ノクターン…そう呼ばれている。気をつけろ。」
日が傾き始めていた。修理屋の中は昼より暗かった。ランプの火が揺れ、金属の影が壁に歪む。女は作業台の上で、筒を組み直していた。
「日没までって言っただろ。」
ルミナは黙って頷く。
「裏をうろついてたな。随分騒がしかった。」
責める口調ではない。ただの確認だ。
「……診療所に。」
女の手が、一瞬止まる。
「見たのか。」
「……はい。」
しばらく、工具の音だけが響く。
「あの魔石はもう限界だった。」
女は言った。
「助かる命もある。死ぬ命もある。現実ってのは、そういうもんだ。
女は組み上げた筒を机に置く。
「魔道具は直ったぞ、だが、無茶はするな。」
ルミナは修理された魔道具を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……アウレリオ・ノクターン…彼らをどう思いますか。」
女は、初めてルミナを見る。
「筋は通っている。だが、流れる血は減らない。」
沈黙。
「お前は?」
問いは短い。ルミナは答えられなかった。
女はそれ以上聞かず、魔道具を差し出す。
「持っていけ。次は、傍観者じゃいられん。望まなくてもな。」
その言葉にも、答えられなかった。
***
日が完全に落ちた頃、裏通りはさらに静まり返っていた。昼間から湿り気を含んでいた空気は冷え、息を吸うたびに肺の奥がひやりとする。
ルミナは、修理屋を出てからすぐには診療所へ向かわなかった。遠回りをして、人気のない路地を選び、足音を抑えて歩いた。理由はわからない。ただ、直視するのが怖かった。
診療所の前に着いたとき、扉は閉じられていた。昼間は半開きだった木の扉が、今はしっかりと閉じられている。灯りは消えていない。窓の内側に、弱い明かりが揺れている。
嫌な予感が、確信に変わった。
ノックをする勇気はなかった。ルミナはそっと扉に手をかけ、音を立てないように押した。中は昼間よりも狭く感じられた。簡易ベッドはそのまま置かれている。だが、そこに動く影はなかった。
毛布が、顔まで引き上げられている。小さな体の輪郭だけが、布の下に残っていた。
「……」
声にならなかった。
診療所の奥で、老婆が一人、椅子に腰掛けていた。昼間、子どもに薬を飲ませていた女だ。ルミナに気づき、ゆっくりと立ち上がる。
「……さっきまで、息はしてたんだよ。」
言い訳のような声だった。誰に向けた言葉かもわからない。
「薬も飲ませた。水も飲ませた。それでも……」
老婆は言葉を続けられなかった。ただ、首を横に振る。
ルミナはベッドに近づいた。毛布の端に、そっと触れる。冷たい。
右目の映した未来が現実になっていた。
喉が震える。私が未来を見なければ。私が魔眼を持っていなければ。
どれも意味のない仮定だ。未来を見たからといって、救えたわけじゃない。救おうとすれば、別の誰かが犠牲になったはずだ。
別の命なら良かったのか?そんなことはない。わかっている。それでも。
胸の奥が、ぎり、と軋んだ。
「……ごめんなさい。」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。子どもか。老婆か。それとも、未来を知りながら知らぬふりをした過去の自分の罪か。
診療所を出ると、夜の裏通りはひどく静かだった。水の滴る音だけが、やけに大きく響く。
禁制魔道具は、もうない。紫の光も、ここにはない。
それでも、命は助からなかった。
ルミナは外套のフードを深く被り、歩き出した。足元の影が、長く伸びている。
次は、傍観者じゃいられない。
修理屋の女の言葉が、遅れて胸に刺さった。
右目を強く押さえる。何も見えない。見えない事にすら、後ろめたさを感じてしまう。
未来を覗き見る罪は、どこまでも追いかけてくる。それでも、目を逸らすことだって、もうできやしない。
***
診療所を離れると、裏通りは相変わらず静かだった。昼間の湿り気を含んだ空気は、夜になって冷たさを増している。石畳の隙間に溜まった水が、かすかに光を反射していた。
ルミナは歩き出したが、数歩で足を止めた。背後に、軽い足音がする。
「ねえ。」
振り返ると、少女が立っていた。
茶色の髪を無造作に結び、少し擦り切れた上着を羽織っている。年は十代半ばくらいだろうか。明るい色の瞳が、夜の中でも妙に生き生きとしていた。
「さっきの……診療所に、いた人だよね。」
ルミナは一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「……あの子の、知り合い?」
少女は肩をすくめる。
「妹みたいなもん。血は繋がってないけどね。」
その言い方は軽かった。軽すぎて、胸の奥が少し痛んだ。
二人並んで歩き出す。目的地も決めず、裏通りを抜ける細い道を進む。
「よくあることだよ。」
少女は、下を向いたまま言った。
「ここじゃね。咳が出始めたら、ああなる子は多い。」
「……それで、平気なの?」
思わず、ルミナは聞いていた。少女は少し考えてから、笑った。
「平気じゃないよ。慣れてるだけ。」
あっさりとした言葉だった。
「泣いたって治らないし。怒ったって戻らないし。だったらさ、今日生きてることを大事にしたほうがいいでしょ?」
ルミナは言葉を失った。未来を見ることも、救えなかった後悔も、この少女の前では意味を持たない気がした。
「……あなたは、強いね。」
「強くないよ。」
少女は首を振る。
「ここに残るしかない人間ってだけ。」
少し間が空いてから、少女はちらりとルミナを見た。
「ねえ、私セラっていうの。あなた、旅してるんでしょ?」
ルミナの歩みが、わずかに乱れる。
「見ればわかるよ。荷物の持ち方とか、目とか。何より、灰色の髪の人は珍しいし。」
眼帯に一瞬だけ視線が向けられ、すぐに逸らされた。
「ここ、居心地いい場所じゃないでしょ?」
「……そうだね。」
「私さ。」
セラは立ち止まった。街灯の薄い光が、彼女の表情を照らす。
「ここから出てみたいんだ。」
声は、思ったより真剣だった。
「でも一人じゃ無理。お金も、知識もないし。」
それから、少し照れたように笑う。
「だからさ。よかったら……あなたについていってもいい?」
ルミナは言葉に詰まった。誰かの命を背負う覚悟はない。自分のことで手一杯だ。それに、ルミナの事情に巻き込まれてしまう可能性だってある。
「……それは、ちょっと。」
セラは答えをわかっていたかのように頷いた。
「うん。わかってる。でも、どうせここにいても長くは生きられないもの。自分のことは自分でする。だから、お願い!」
両手を胸の前で合わせルミナに頭を下げる。あまりの勢いに、ルミナも断るタイミングを失った。
「…一晩、考えさせて。」
「ありがとう!!」
満面の笑みでセラが手を振った。
「じゃあね!また明日!」
軽い足取りで、裏通りの闇に溶けていく。
残されたルミナは、その背中を見送った。




