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第一章 正しさの側で立つ-⑤

***

逃げるようにして診療所を離れると、裏通りの空気はひどく重く感じられた。湿った匂いが肺の奥に残り、呼吸をするたびに胸がざらつく。

振り返らなかった。振り返れば、あの咳の音がまた耳に刺さる気がした。

ルミナならば、あの子の未来を変えられるかもしれない。その代わり、誰かの何かが犠牲になるだろう。

紫色の光が脳裏をよぎる。

禁制魔道具は禁止されている。所持していても災いを呼び込むだけ。正論だった。理解できた。それでも、納得できない何かがルミナの足取りを重くする。


行く当てもなく歩いていると、通りの端、壁際に腰を下ろしていた男が目に入った。修理屋への道を聞いた、片目の濁った男だ。油にまみれた指で、何かを弄っている。

ルミナは一度通り過ぎ、数歩先で立ち止まった。それから、引き返す。

「禁制魔道具を壊して回っている人たちについて、何か知ってる?」

男は顔を上げ、片目でルミナを見た。すぐに答えは返ってこない。


「黒髪で、革の装備。複数人でつるんでる。」

男は短く息を吐いた。

「面倒な話だな。」

ルミナは黙って懐に手を入れ、小さな革袋を取り出した。中身を見せる代わりに、別の提案をする。

「お腹はすいてる?場所を移そう。」

男の眉が、わずかに動いた。

「肉料理なら、いいぞ。酒もな。」


二人は裏通りの端にある、小さな飲食店に入った。肉煮込みと硬いパン。安いが温かい。

男は無言で食べ始めた。半分ほど食べ終えた頃、ようやく口を開く。

「黒髪の女だったか。名前は知らん。だが、最近よく見る。」

「何者?」

「壊し屋だよ。禁制魔道具のな。やり方が荒いから、揉め事になることも多い。」

ルミナの手が、無意識に止まる。

「……何が目的なの?」

男は鼻で笑った。

「依存を断つため、だとさ。」

「依存……?」

「ああ。」

男はスープを飲み干し、低い声で続けた。

「紫の石。禁制魔道具の源。あれは命の前借りだ。制作過程で、代償を注ぎ込んでいる。」

男は淡々と続ける。

「使ってる奴は助かった気でいる。だが、禁制魔道具は犠牲を土台にした道具だ。」

「どこかで、誰かが犠牲を払った。」

「そうだ。それを、あの女たちは嫌ってる。」

ルミナの胸が、わずかに締めつけられる。

「魔術は未来の前借りだ。正規の魔術師は帝国から認証された魔道具を使う。自分の未来における、何かしらのエネルギーを代償として発動する。だが、禁制魔道具は違う。管理できない力だ。だから、帝国は嫌う。」

男は淡々と言った。

「だが、あの連中は違う。人が魔術なしじゃ生きられない状態になるのを、嫌っている。だから壊すんだ。助かっているように見えるその仕組みをな。」

「だから薬を流通させている?」

男は首を振る。

「そうだな。だが、即効性はない。だから、殺されたと思ってる奴もいる。」

沈黙が落ちた。男が数杯目の酒を一気に飲み干した。

「忠告だ。あの連中に関わると、ろくでもないことになる。」

それは、警告でも脅しでもなかった。ただの事実だった。

「それと…久しぶりの酒の礼だ。やつらの頭を教えてやる。」

男はルミナの方へ身を乗り出し、耳元で低く囁いた。

「アウレリオ・ノクターン…そう呼ばれている。気をつけろ。」


日が傾き始めていた。修理屋の中は昼より暗かった。ランプの火が揺れ、金属の影が壁に歪む。女は作業台の上で、筒を組み直していた。

「日没までって言っただろ。」

ルミナは黙って頷く。

「裏をうろついてたな。随分騒がしかった。」

責める口調ではない。ただの確認だ。

「……診療所に。」

女の手が、一瞬止まる。

「見たのか。」

「……はい。」

しばらく、工具の音だけが響く。

「あの魔石はもう限界だった。」

女は言った。

「助かる命もある。死ぬ命もある。現実ってのは、そういうもんだ。

女は組み上げた筒を机に置く。

「魔道具は直ったぞ、だが、無茶はするな。」

ルミナは修理された魔道具を見つめながら、ぽつりと呟く。

「……アウレリオ・ノクターン…彼らをどう思いますか。」

女は、初めてルミナを見る。

「筋は通っている。だが、流れる血は減らない。」

沈黙。

「お前は?」

問いは短い。ルミナは答えられなかった。

女はそれ以上聞かず、魔道具を差し出す。

「持っていけ。次は、傍観者じゃいられん。望まなくてもな。」

その言葉にも、答えられなかった。


***

日が完全に落ちた頃、裏通りはさらに静まり返っていた。昼間から湿り気を含んでいた空気は冷え、息を吸うたびに肺の奥がひやりとする。


ルミナは、修理屋を出てからすぐには診療所へ向かわなかった。遠回りをして、人気のない路地を選び、足音を抑えて歩いた。理由はわからない。ただ、直視するのが怖かった。


診療所の前に着いたとき、扉は閉じられていた。昼間は半開きだった木の扉が、今はしっかりと閉じられている。灯りは消えていない。窓の内側に、弱い明かりが揺れている。

嫌な予感が、確信に変わった。


ノックをする勇気はなかった。ルミナはそっと扉に手をかけ、音を立てないように押した。中は昼間よりも狭く感じられた。簡易ベッドはそのまま置かれている。だが、そこに動く影はなかった。

毛布が、顔まで引き上げられている。小さな体の輪郭だけが、布の下に残っていた。

「……」

声にならなかった。


診療所の奥で、老婆が一人、椅子に腰掛けていた。昼間、子どもに薬を飲ませていた女だ。ルミナに気づき、ゆっくりと立ち上がる。

「……さっきまで、息はしてたんだよ。」

言い訳のような声だった。誰に向けた言葉かもわからない。

「薬も飲ませた。水も飲ませた。それでも……」

老婆は言葉を続けられなかった。ただ、首を横に振る。


ルミナはベッドに近づいた。毛布の端に、そっと触れる。冷たい。

右目の映した未来が現実になっていた。

喉が震える。私が未来を見なければ。私が魔眼を持っていなければ。

どれも意味のない仮定だ。未来を見たからといって、救えたわけじゃない。救おうとすれば、別の誰かが犠牲になったはずだ。

別の命なら良かったのか?そんなことはない。わかっている。それでも。

胸の奥が、ぎり、と軋んだ。

「……ごめんなさい。」

誰に向けた言葉か、自分でもわからない。子どもか。老婆か。それとも、未来を知りながら知らぬふりをした過去の自分の罪か。


診療所を出ると、夜の裏通りはひどく静かだった。水の滴る音だけが、やけに大きく響く。

禁制魔道具は、もうない。紫の光も、ここにはない。

それでも、命は助からなかった。

ルミナは外套のフードを深く被り、歩き出した。足元の影が、長く伸びている。

次は、傍観者じゃいられない。

修理屋の女の言葉が、遅れて胸に刺さった。

右目を強く押さえる。何も見えない。見えない事にすら、後ろめたさを感じてしまう。

未来を覗き見る罪は、どこまでも追いかけてくる。それでも、目を逸らすことだって、もうできやしない。


***

診療所を離れると、裏通りは相変わらず静かだった。昼間の湿り気を含んだ空気は、夜になって冷たさを増している。石畳の隙間に溜まった水が、かすかに光を反射していた。

ルミナは歩き出したが、数歩で足を止めた。背後に、軽い足音がする。

「ねえ。」

振り返ると、少女が立っていた。

茶色の髪を無造作に結び、少し擦り切れた上着を羽織っている。年は十代半ばくらいだろうか。明るい色の瞳が、夜の中でも妙に生き生きとしていた。

「さっきの……診療所に、いた人だよね。」

ルミナは一瞬だけ迷い、それから頷いた。

「……あの子の、知り合い?」

少女は肩をすくめる。

「妹みたいなもん。血は繋がってないけどね。」

その言い方は軽かった。軽すぎて、胸の奥が少し痛んだ。


二人並んで歩き出す。目的地も決めず、裏通りを抜ける細い道を進む。

「よくあることだよ。」

少女は、下を向いたまま言った。

「ここじゃね。咳が出始めたら、ああなる子は多い。」

「……それで、平気なの?」

思わず、ルミナは聞いていた。少女は少し考えてから、笑った。

「平気じゃないよ。慣れてるだけ。」

あっさりとした言葉だった。

「泣いたって治らないし。怒ったって戻らないし。だったらさ、今日生きてることを大事にしたほうがいいでしょ?」

ルミナは言葉を失った。未来を見ることも、救えなかった後悔も、この少女の前では意味を持たない気がした。

「……あなたは、強いね。」

「強くないよ。」

少女は首を振る。

「ここに残るしかない人間ってだけ。」

少し間が空いてから、少女はちらりとルミナを見た。

「ねえ、私セラっていうの。あなた、旅してるんでしょ?」

ルミナの歩みが、わずかに乱れる。

「見ればわかるよ。荷物の持ち方とか、目とか。何より、灰色の髪の人は珍しいし。」

眼帯に一瞬だけ視線が向けられ、すぐに逸らされた。

「ここ、居心地いい場所じゃないでしょ?」

「……そうだね。」

「私さ。」

セラは立ち止まった。街灯の薄い光が、彼女の表情を照らす。

「ここから出てみたいんだ。」

声は、思ったより真剣だった。

「でも一人じゃ無理。お金も、知識もないし。」

それから、少し照れたように笑う。

「だからさ。よかったら……あなたについていってもいい?」

ルミナは言葉に詰まった。誰かの命を背負う覚悟はない。自分のことで手一杯だ。それに、ルミナの事情に巻き込まれてしまう可能性だってある。

「……それは、ちょっと。」

セラは答えをわかっていたかのように頷いた。

「うん。わかってる。でも、どうせここにいても長くは生きられないもの。自分のことは自分でする。だから、お願い!」

両手を胸の前で合わせルミナに頭を下げる。あまりの勢いに、ルミナも断るタイミングを失った。

「…一晩、考えさせて。」

「ありがとう!!」

満面の笑みでセラが手を振った。

「じゃあね!また明日!」

軽い足取りで、裏通りの闇に溶けていく。

残されたルミナは、その背中を見送った。

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