第一章 正しさの側で立つー④
***
裏通りは音が少なかった。市場の喧騒が嘘みたいに遠く、聞こえるのは足音と、どこかで水が滴る音だけだ。石畳は歪み、ところどころに水溜まりが残っている。門では霧として漂っていた川の気配が、ここでは濁った匂いとなって沈んでいる。
露店とも店ともつかない小さな軒が並んでいた。売られているのは、用途のわからない金属片、欠けた魔石、古い魔道具の外装。どれも表通りでは見かけない品ばかりだ。
ルミナは、立ち止まらずに歩きながら視線だけを動かした。壁際に腰掛けていた男が、ちらりとこちらを見る。年は四十前後、片目が濁り、指先は油で黒ずんでいる。金物屋か、修理屋か、その類だろう。
ルミナは歩みを緩め、男の前で立ち止まった。
「魔道具を直せる人を探しています。」
男はすぐには答えなかった。値踏みするように、ルミナの外套、靴、眼帯に視線を走らせる。
「魔道具の部品は品薄だ。人も減った。」
低い声で言い、顎をしゃくる。
「ここでも、まともなのは残っていない。」
「それでも、誰かはいるでしょう。」
男は短く笑った。
「いるさ。それで?」
ルミナは、懐から小さな革袋を取り出した。中身を見せることはせず、指で軽く叩く。
「場所だけ教えてもらえれば、後は自分で探します。」
男は迷わず袋を受け取った。中を確かめ、満足したように頷く。
「三つ先の路地、左。鉄格子の奥だ。ノックは二回。名は聞くな。」
それだけ言うと、男はもう興味を失ったように視線を逸らした。
言われた通りの場所に進むと、古びた鉄格子があった。人一人がやっと通れる幅の路地の奥。扉の向こうから、金属を打つ音が微かに聞こえる。
ノックを二回。少し間があって、扉が内側に開いた。
中は狭かった。作業台、工具、分解された魔道具が雑然と積まれている。油と金属の匂いが鼻の奥にツンとささる。
奥に立っていたのは痩せた中年の女だった。髪は無造作に束ねられ、片腕に古い火傷の跡がある。
「……何だ。」
愛想はない。だが、視線は鋭く、こちらをしっかり見ている。
ルミナは鞄から水の魔道具を取り出し、静かに差し出した。
「修理をお願いしたいです。」
女は受け取り、無言で筒を分解し始めた。手つきは慣れている。中を覗き、舌打ちした。
「砂を噛みすぎだ。奥まで削れてる。応急処置でもたせてたな。」
「直りますか。」
「動くようにはなる。」
女は顔を上げる。
「だが、長くはもたない。部品も質が悪い。しっかり治したいなら部品ごと変えるしかないな。」
それから、はっきりと言った。
「高くつくぞ。」
額を告げられ、ルミナは一瞬だけ息を詰めた。相場を明らかに超えている。
「……さすがにその値段は。」
女は肩をすくめた。
「こんな場所まで来ておいて何を言う。嫌なら帰りな。最近は情勢が悪い。表に部品が出回るのは当分先だ。」
帝国の治安は悪化している。帝国は魔術師を国家の中心に据えているが、魔術師への反発がここ数年で一気に増えた。女の言う通り、これからのことを考えるならば、直せるうちに直しておかないといけない。
ルミナは短く考え、頷いた。
「…わかりました。お願いします。」
女は、ほんの一瞬だけ目を細めた。それが承諾の合図だった。
「日没まで預かる。その間、目立つな。」
女は低い声で続ける。
「魔術師なら、なおさらな。」
その言葉に、ルミナは何も返さなかった。ただ、空になった手を握りしめ、店を後にした。
外の空気は、さっきよりも重く感じられた。
修理屋を出ると通りのひやりとした空気が肌に貼りついた。太陽は高く昇っているがこの通りまでは届かないようだ。細い道には影が濃く落ちている。
「日没まで、か……」
女の言葉が、頭の奥で反芻される。
目立つな。魔術師なら、なおさら。
裏通りを歩きながら、ルミナは無意識に診療所の方角を見た。
あの紫の光。濁って、脈打っていた魔石。きっともう長くない。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。ただの予測だ。右目が示さなくても、誰にでもわかることだ。
足は勝手に向きを変えていた。
来た道を戻り、診療所まで進む。扉は半開きで、中から複数人の言い争う声が聞こえてきた。
嫌な予感が、背中を這い上がる。中を覗いた、そのときだった。
紫の光が、床に散った。
禁制魔道具の残骸。踏み砕かれた魔石が、砕けた欠片の間でまだ微かに脈打っている。
「……なに、して……」
声が、途中で切れた。子どもが寝台の上で咳き込んでいる。小さな身体が折れるように震え、呼吸のたびに喉が鳴る。
その傍らで、数人の男女が立っていた。見覚えのある革の装備。路地裏で感じた、あの空気。
見覚えのある女が、淡々と口を開いた。
「お前は…昨日の女か。」
「…何をしているの?」
「これは限界だった。今日か、遅くても明日には割れていたはず。」
「でも…」
「禁制魔道具への依存を断つ必要がある。壊さなければ、いずれ捕まる。」
正論だった。頭では、理解できる。
でも。まだ光っていた。ほんの少しなら使えたはず。
ルミナは部外者だ。でも、目の前の子どもが、救えたかもしれない命が、紫の光と共に散ろうとしている。
その事実がルミナを進ませる。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「その子は、どうするつもり?」
子どもが、苦しそうに息を吸う。その音が、ルミナの胸を強く揺さぶった。
その瞬間。視界が、ずれた。右だけが、遅れる。世界の輪郭がわずかに歪む。
やめろ。見るな。
思ったのに、視界が、割り込んでくる。見ようとしていないのに、未来が押し寄せる。
———夕方。薬を持つ手が途中で力を失う。
————床に落ちる音。
—————夜。静かな診療所。空になったベッド。
「……っ、あ……」
喉が詰まる。息が、うまくできない。
「その子が、死ぬ……!」
叫びだった。考えるより先に、言葉がこぼれ落ちた。
女が、ぴたりと動きを止める。
「……どうして、それがわかる。」
問いは低く、鋭い。
ルミナは答えられなかった。見えた光景を否定するように目を強く閉じ、ただ首を振る。
女は、床に置かれた薬包を一瞥した。
「薬はある。時間はかかるが、助かる可能性は——」
「間に合わない!」
沈黙が落ちる。誰かが、息を詰める音がした。
女はしばらくルミナを見つめてから、静かに言った。
「……なるほどね。」
それ以上は、何も言わなかった。
「やり方を変えるつもりはない。でも、今日のことは覚えておこう。」
そう言い残し、女達は診療所を去っていった。
残されたのは、咳の音と砕けた紫の欠片だけ。
診療所に集まっていた人々が子どもの看病を再開する。禁制魔道具の代わりに届けられた薬を飲ませて寝かせる。
ルミナは、立ち尽くしていた。右目はもう、何も映していない。
できることは、何もなかった。




