第一章 正しさの側で立つ-③
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薄暗い部屋だった。
安い宿の、狭い一室。窓から入る川霧のせいで、空気がひんやりしている。
ルミナはベッドに腰を下ろし、しばらく動けずにいた。呼吸はもう整っているはずなのに、胸の奥がざわざわして落ち着かない。
『……魔術師様が、路地裏でこんなチンピラに追い詰められるとはね。』
声が、耳の奥に残っている。
禁制魔道具。
紫色の光。
魔石が砕ける音。
ルミナは小さく息を吐いた。
「……生きてるだけ、マシか。」
襲撃者と謎の女が去った後、ルミナはすぐに路地裏を離れた。物陰に身を潜め、しばらく息を殺していた。
どれくらい時間が経ったのか。
重たい靴音が複数人分響く。
ルミナは、反射的に壁の影に身体を押しつけ、限界まで縮こまった。
衛兵だった。革の胸当て、腕の紋章、腰の短剣。三人いる。
彼らは無言で路地裏の中心に歩み寄った。一人がしゃがみ込み、魔石の欠片を拾い上げる。
「禁制魔道具だな。」
低い声。
「争いがあったってことか。壁に跡をつけたのが禁制魔道具か?」
別の兵が、壁の傷を見上げる。
「相手は非魔術師か?魔術の跡はない」
三人目が、書付を開いた。
「噂の灰色の髪の女は魔術師だったな?今回は別件か…」
「どうだかな…登録にない魔術師の可能性だってある。それに、魔術といっても色々あるだろう。肉体に直接干渉する系統かもしれん。」
「そういえば、灰色の髪に眼帯をした女が検問を通っている。正規の魔道具はもっていないとのことだが…」
一人の兵士が告げる。
「どうにもきな臭い。警戒を強めるぞ。灰色の女に注意しろ」
衛兵の足跡が遠ざかるが、ルミナの体の震えは止まらなかった。
回想が、ふっと途切れる。ルミナは、ベッドの上で膝を抱えた。
「……やっぱり、警戒されてる。」
あの女が来なかったら。禁制魔道具がなかったら。魔術を使わなかったら。
何もかも、たらればだ。
右目は、もう何も反応しない。未来も、警告も、何も。
「この街に、長くはいられない……。」
呟いた声は、ひどく小さかった。
***
目が覚めると朝になっていた。近くの市場が賑わっているらしく、明るい声が聞こえてくる。
この街は帝国の端に位置しており、国境付近にある街の中では最も大きい。砂漠を抜けた地でもあることから、食べ物や水にも恵まれている。砂漠の街はかなり荒廃していたため、正直あまり期待していなかったのだが、このぶんなら物資の調達や情報収集は十分可能だろう。
だが、昨日の衛兵の会話が頭から離れない。
警戒されている。あまり長居はできない。今日中に旅の準備を整えつつ情報を集めなければ。
身支度のためルミナは鏡をのぞき込んだ。眼帯をしていないため右目が露わになっている。
左目と同じ、灰色の右目がそこにはある。しかし、よく見るとまぶたの端が少し引きつれ、皮膚がやや白くなっている箇所がある。光の加減でしかわからないような、目立たない傷跡だ。
左目の視界と同じく、右目にもルミナの姿が映っている。今は同じだ。でも、この右目は時に残酷な視界を映し出す。
無駄な抵抗と知りつつ、右目に眼帯をつける。この眼帯が、ルミナを目立たせてしまうことはわかっている。それでも、右目が勝手に残酷な未来を作っているようで我慢ならない。
外套を羽織りつつ今後の予定を考える。
昨日である程度の食材は調達できたが、問題は水の魔道具の修理だ。パーツが入ってこないとのことだが、裏通りも視野に入れて探してみるとしよう。夜はいくつか店を回って噂を拾うことにする。
市場へ出ると、朝の喧騒がはっきりと耳に届いた。
呼び込みの声。荷車の軋む音。魚の匂いと、焼いた穀物の香ばしさ。昨日見た街の印象と大きくは変わらない。
ルミナは人の流れに紛れながら、露店を一つずつ見ていった。乾物、塩、簡易保存食。必要なものは揃う。値も、許容範囲だ。
問題は魔道具だった。
水の魔道具を扱う露店でいくつか声をかけてみる。だが、返ってくる答えは同じだ。
「部品が入ってこない。」
「帝国側が流れを絞ってる。」
首を横に振られるたび、胸の奥が少しずつ重くなる。表通りでは、これ以上は望めない。
「裏だな……」
小さく呟き市場の外れへ向かう。石畳が途切れ、道は次第に狭くなる。建物の壁は近づき、日差しが遮られた。
空気が変わる。川沿い特有の湿った空気が漂う。人の数は減り、声も低くなる。服は擦り切れ、足元は裸足に近い者もいる。露店と呼ぶにはあまりに簡素な店が並び、物の数も少ない。
金物を取り扱っていそうな店をいくつか回りながら、ルミナは裏通りを歩く。
少し開けた場所に出ると、寂びれた診療所があった。市場側からは見えにくい位置にある、古い建物で、壁の塗装は剥がれ落ち看板も色褪せている。
だが、扉の前には人がいた。
若い男が、肩を支えられて中へ入っていく。傍らの女は、必死そうに何かを訴えている。
扉の脇で、茶色い髪の少女が中を覗いていた。ルミナが視線を向けると、少女はすぐに目を逸らしていなくなった。同じように、ルミナは建物の様子を窺う。中では、痩せた老人が簡易ベッドに横たえられていた。
荒い呼吸。浅い咳。
治療にあたっているのも裏通りの住人のようで、身なりは皆等しく擦り切れた服を着ていた。
机の上に置かれているものが、目に入る。
紫色の、淡く脈打つような光を放つ魔石が中央に置かれていた。
禁制魔道具に使われる紫の魔石だ。
「……もう一度、いけるか?」
町人が、恐る恐る魔道具に触れる。紫の光が強まり、老人の咳が少しだけ和らいだ。
「助かった……。」
「ありがとう。これで今日は越えられる。」
誰かが、安堵の声を漏らした。
紫の光は濁っている。正規の魔道具とは明らかに質が違った。かなり使い込まれている色だ。このまま使い続ければ割れてしまうだろう。
ルミナは視線を逸らした。
禁制魔道具は帝国で法律上禁止されている。所持していることを衛兵に見つかれば罰せられるだろう。
それでも、ここでは誰も咎められない。
治療を専門とする魔術師への依頼は高額だ。裏通りの住人にはとてもじゃないが払えない。薬も同様で、ある程度飲み続けなければいけないことを考えると、かかる費用はどちらも変わらない。
帝国の医療は魔術師が独占している。このような診療所では簡単な応急処置しかできず、病ともなると見守るしかないことも多い。
魔術師による圧倒的な軍事力や技術力の一方で、その恩恵を受けられない人にとって、禁制魔道具は命綱なのだろう。
診療所を背に再び歩き出す。道はさらに細くなり、建物の影が濃くなる。
ここからはさらに治安が悪くなる。禁制魔道具も含めた魔道具の部品があるかもしれない。そして同時に、ここは目立てば危険な場所でもある。
外套のフードを被り、ルミナは足を踏み入れた。




