第一章 正しさの側で立つ-②
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気のせいだと考えようとして、できなかった。人の足音が、一拍遅れて重なる。
ルミナは角を曲がり、もう一度大通りに出て人混みに紛れる。それでも、足音は消えなかった。
まずい。完全に後をつけられている。
灰色の髪は人通りの中でもよく目立つ。逃げるには不向きだ。
ルミナは歩調を落とし、露店の影に入る。立ち止まり、布の端を直すふりをして後ろを確認した。
人の流れの向こうに、フードを被った男がいる。視線が合うと、すぐに逸らされた。
やっぱり。
市場の端へ向かい、細い路地に足を踏み入れる。川から離れたせいか、空気が一段重くなる。湿った壁。剥がれた漆喰。排水溝に溜まった濁水。
足音は、ついてきている。
もう一つ、路地を曲がる。意図的に人通りの少ない方へ入った。
ここなら。
背後で、靴音が止まった。
「なあ。」
低い声。
振り返ると、男が二人立っていた。どちらも市場で見かけた顔だ。
一人はフードの男。もう一人は短剣を腰に下げている。
「旅人さんよ。」
フードの男が、にやりと笑う。
「その鞄、いいもん入ってそうだ。」
ルミナはゆっくりと鞄を握り直した。
「道を間違えただけです。」
「嘘くせぇ。」
短剣の男が、一歩近づく。
「その魔道具、見せろよ。」
水の筒を指さす。魔石狙いか。
心臓が早鐘を打つ。
逃げ道は、背後の路地だけ。
ルミナは一歩下がった。
「渡すつもりはありません。」
「じゃあ、力ずくでいいな。面もなかなかいいし、色々楽しめそうだ。」
短剣の男が刃を抜いた。
その瞬間、空気がひりついた。
使うしかない。
ルミナは左手で心臓のあたりを押さえ、右手を前に出した。
魔道具はない。魔石もない。
使うなら、自分の未来。どの未来が失われるか。ルミナにはわからない。それでも、今を切り抜けなくては結局未来などないのだ。
喉の奥が焼けるように熱くなる。胸の奥から、何かが引き抜かれる感覚。
地面がわずかに隆起し、短剣の男の踏み込みが外れる。遅れてルミナの視界が揺れ、足元がふらついた。魔術の代償だ。
「あ?」
踏み込むはずだった一歩は位置を外し、男の身体が不自然に傾ぐ。男は舌打ちし、体勢を立て直そうとする。
その途端、喉を押さえた。
「……っ?」
呼吸が、詰まる。
まるで、空気の通り道だけが一瞬消えたみたいに。
男の顔色が変わる。口を開けても、息が入らない。乾いた音だけが漏れる。
「ぐっ……!」
短剣が床に落ち、金属音が路地に響いた。
男は膝をつき、喉を掻きむしる。
次の呼吸が戻る頃には、全身から力が抜けていた。そのまま、地面に崩れ落ちる。
生きている。ただ、動けない。
続いて飛びかかろうとしていたフードの男が一瞬、怯んだ。
「魔術師か……!」
油断なく目を細め、一気に距離を詰めてくる。
速い。
ルミナは歯を食いしばり、もう一度手を振る。
フードの男の体勢が崩れる。しかし、男は踏みとどまって倒れるのを耐えた。
かなり警戒されている。先ほどと同じ魔術は通用しないだろう。
それに、魔術行使によりルミナの体力は削られている。走って逃げようにも男性の体力とではスタミナ負けしそうだ。
逃げても追いつかれる。ここで止めなきゃ終わりだ。
フードの男が再び向かってきた。
左から来た拳を避ける、と同時に男の左足がルミナの腹部に刺さる。
「ごっほ…!」
血の味がする。痛みで視界が歪むがなんとか耐える。ここで倒れてはまずい。
「悪く思うなよお嬢ちゃん!」
フードの男が、左手を振り上げる。
その手には、小さな金属の筒。大きな魔石が埋め込まれているのが見えた。
禁制魔道具。
男が魔道具を強く握りこむのが見えた。
まずい。
次の瞬間、紫がかった光が走った。
ルミナはとっさに横へ飛ぶ。直前までいた場所の壁が光で削られ、石が砕け散る。
「禁制魔道具だなんて…随分穏やかじゃないね。」
ルミナは息を荒くしながら睨んだ。
「魔術師相手に出し惜しみなんざできねぇだろう?」
男が嗤う。
再び睨み合いが始まる。
入り組んだ路地は狭く、二人の距離は数歩で詰められる程度しかない。
禁制魔道具は次の攻撃のためか、魔石が徐々に光を強めている。
冷たい汗がルミナの首を伝った。短剣の男がいつ立ち上がってくるかもわからない。戦況はルミナの劣勢だ。
魔石の光がさらに強まる。フードの男が魔道具を掲げた。
ルミナも覚悟を決める。意識を集中させ、息を大きく吸い込んだ。右目が小さく鼓動する。
その瞬間、路地の奥から、乾いた音が響いた。
ガンッ、とフードの男の手首が弾かれ、魔道具が石畳を転がる。
「……な!?」
女が、フードの男の懐に踏み込んでいた。迷いのない動きだった。
腹に一発。
顎に一発。
フードの男は声も出さずに崩れ落ちる。
女は足元の禁制魔道具を見下ろし、何の感慨もない顔で踏み砕いた。
バキン、と魔石がひび割れ、紫の光が霧のように散った。
「……チッ。」
短く舌打ちすると、女は踵を返し、地面に崩れている短剣の男の襟首を掴んだ。
「おい。」
返事はない。女は無造作に腕を捻り、背中側で両腕を絡めるように拘束した。
フードの男は動かない。短剣の男も、呻き声ひとつ立てずに俯せになっている。
女はようやくルミナの方を見た。
年は二十代後半くらい。短く切った黒髪に、日に焼けた肌。細身だが無駄のない筋肉がついた身体は、戦闘慣れしていることを感じさせる。革のジャケットに、動きやすそうなズボン。腰には短い棒状の武器が差してある。
鋭い目つきだったが、敵意というより探るような視線だった。
女は、ルミナの眼帯に一瞬だけ視線を走らせる。
「……魔術師様が、路地裏でこんなチンピラに追い詰められるとはね。」
女が口元だけで薄く笑う。
ルミナは口を閉じたまま視線を逸らした。魔術は使える。それだけだ。名乗る資格はない。
「あの程度の魔術で未来を変えようなんて、随分平和なのね」
それだけ言うと、男達を引きずるようにして路地の奥へ向かった。
「こいつらは私がもらっていくよ。なぁに、帝国へ渡すよりは有意義に使うさ。」
振り返りもせず、女は消えた。




