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第一章 正しさの側で立つ

川の匂いがした。砂漠の乾きとは違う、湿った重さを含んだ空気が喉の奥にまとわりつく。

濡れた石畳が薄い光を跳ね返し、滑りやすい。水の流れる音が遠くで鳴っている。

国境の街。帝国の端。

地図の上でしか知らなかった境界線の空気は、思っていたよりも生々しい。


川霧が、街の門を半分隠している。霧の向こうで人影が動き、鉄の擦れる音がした。門を通過するには門番の許可が必要なようだ。以前訪れた街で、検問が強化されている話を聞いた。恐らく、そういうことなのだろう。


ルミナは歩幅を落とし、眼帯の端に指を添えた。服装はありふれたものだが、眼帯にしろ、灰色の髪と瞳にしろ、ルミナの容姿は特徴的だ。なぜ検問が強化されたのか理由はわからないが、この場でルミナを特定されるのはまずい。ルミナは無意識に息を詰めた。


門の前には簡易の検問所が設けられていた。木箱を積み、布の屋根を張っただけの粗末なものだが、そこに立つ男たちの視線は鋭かった。革の胸当て、腰に剣。腕には帝国の紋が刻まれた布。兵ではなく、役人に近い。

彼らは荷車を止め、荷の中身を覗き込み、名前を聞き、書付に何かを書き込んでいく。


「次。」

呼ばれて、ルミナは列から一歩出た。足元の石畳がわずかに音を立てる。

役人の一人がルミナの顔を見る。次に髪を見る。視線はそこで止まらず、右側の眼帯に移った。ほんの一瞬、ぴたりと動きが止まる。

「旅の者か。」

声は低く、愛想がない。ルミナは頷いた。

「名前は。」

「……ミナです。」

自分の名前を半分だけ削って名乗った。まったく別の名前にするよりは馴染みのある名前の方が呼ばれ慣れている。

慣れない嘘に心臓が早鐘を打つ。

役人は書付に目を落とし、何かを探るように言葉を続けた。

「なぜ家名を名乗らない?出身はどこだ」

「家は捨てたので家名なんてありません。出身は帝国南部のラグナ平原です。」

「ほう…?南部でその肌の白さか?」

「移民なので…。詳しい血筋はわかりません。」

それらしい嘘をなんとか絞りだして答える。悟られてはいけない…質問をされるたびにボロが出てしまう。


役人はルミナの右目に視線を向けた。

「右目はどうした。」

「古い傷です。視力もなく傷跡がひどいので。」

返事は短く。余計な説明は、余計な穴になる。


役人は何も言わず、隣の男と視線を交わした。

「お尋ね者がいてな」

不意に言われて、ルミナの背筋が冷えた。心臓がうるさい。鼓動が喉の内側まで響いている。顔が引きつらないよう、精一杯表情を作る。

「お尋ね者とは…?」

「魔術師の女だ。灰色の髪をしているという。」

言葉が、濡れた布みたいにまとわりつく。

ルミナは顔の表情を動かさないようにした。動かせば、全部ばれる気がした。


役人は書付を閉じ、指で机をとんとんと叩く。

「荷物はなんだ。」

「食料と……水の道具だけです」

ルミナはゆっくりと鞄の口を開けた。

覗き込んだ役人の目が、細くなる。古びた小さな筒状の水の魔道具が見える。帝国の規格品ではない、見るからにジャンク品だ。修理屋の応急処置の跡も金具の端に残っている。

「……壊れかけだな。」

「砂漠で砂を噛みました。」

「なるほど。」

役人の指が魔道具に触れる。魔道具のジャンク品は帝国内の規格品を分解・改造したもので、裏街道で取引される。魔道具は通常、持ち主の名前を刻印するが、その名前を塗りつぶし、魔石で上書きすることで誰でも使えるようになる。魔石を用いるため魔術師として才能がない者も使える。ごく少量の対価で扱えるため、得られる効果は微々たるものだ。それでも、誰でも使える便利さから、旅人には重宝される。


役人は鞄から手を引き、薄く笑った。

「通れ。だが、街の中では目立つな。今は余計な火種を抱えたくない。」

火種。

それが自分のことなのか、帝国のことなのか、あるいはもっと別の何かなのか。判断する前に、役人はもう次の旅人へ目を向けていた。

背後で、役人の声がまた響く。

「次。」

その声が、ずっと追ってくる気がした。


街に入ると、川霧は薄くなった。代わりに、人の匂いが濃くなる。湿った木材、煮炊きの煙、魚の生臭さ、泥の匂い。

通りは賑やかだ。しかし、店は開いているのに声が小さい。笑い声が少ない。みんな、何かを警戒している。


ここは、長居する場所じゃない。

そう思うのに、喉の奥が乾いている。水の魔道具は戻ってきたが、完全じゃない。補給も必要だ。

そして何より、あの検問の言葉が耳に残っている。

「女だ」「灰色の髪」

探されている。どこまで、伸びてきているのか。


ルミナは人の流れに紛れ、視線を落とした。

左目に映るのは、濡れた石畳と、揺れる水面の光。

右目のことは考えない。考えた瞬間、未来がこちらを見返してくる気がした。


***

川沿いの通りに出ると、湿った空気がさらに濃くなった。魚の匂いと泥の匂い、煮炊きの煙、濡れた木材の匂いが混ざり合っている。

市場は開いている。人通りもある。だが、活気があるとは言い難い。露店は並んでいるのに、声が小さい。呼び込みの声にも、どこか疲れが滲んでいる。


ルミナは人の流れに紛れるように歩いた。

視線を上げない。眼帯の存在を意識しすぎると、逆に目立つ。


まずは水だ。

鞄から水の魔道具を取り出し、近くの水桶の前で親指を側面になぞる。細く、はっきりとした水の線が滲み出た。掌で受け、喉に流し込む。

まだ使えるが、いつまでもつだろうか。


「その魔道具、壊れてるな。」

不意に声をかけられ、ルミナは肩を揺らした。露店の端に、小さな作業台を出している男がいる。修理屋だ。

「いつから壊れてるんだ」

「10日くらい前からです。砂嵐に巻き込まれて調子が悪くなりました。応急処置しかできなくて。」

「見せてみな。」

男は筒を受け取り、金具の端を覗き込んだ。

「砂が奥に残ってる。しばらくは持つが、また詰まるぞ。」

「直りますか?」

「完全には無理だ。ここじゃ設備が足りねぇ。」

男は肩をすくめる。

「それに最近、部品が入ってこないからな。」

「検問のせいですか?」

「ああ。帝都様の都合でな。」

低く吐き捨てるように言う。

「未来を見る魔術師がいるとかで、あちこちで検問が増えてる。」

その言葉に、ルミナの喉がわずかに詰まった。

「そんなの、本当なんですか?」

「さぁな。俺らには関係ねぇ話だ。」

男は筒を突き返す。

「応急処置で、もう一回噛み合わせ直しといた。無茶すんなよ。」

「……ありがとうございます。」


ルミナは鞄を背負い直し、市場の奥へ進む。野菜売りの女が、隣の店主と小声で話していた。

「また税が上がるってさ。」

「嘘だろ……。」

「本当だよ。帝都から通達が来たって。」

「こっちは水と食い物で精一杯なのに。」


別の露店では、魚売りの男が愚痴をこぼしていた。

「この前な、砂漠の方で病が出ただろ。」

「魔術師が捕まったらしいぞ。」

「治せなかったからってさ。」

「それだけで罪らしいよ。」

笑えない冗談みたいな声だった。


ルミナは足を止めず、通り過ぎる。

未来を見る魔術師。砂漠で魔術師が捕まった。

言葉が、耳の奥に残る。

私じゃない。きっと違うはずだ。


果物売りの前で、子供たちがひそひそ話していた。

「未来を当てた女がいたって噂、聞いた?」

「本当?目を見ただけで分かるんだって。」

ルミナは、無意識に歩調を早めた。


この街には来たばかりだ。私は何もしていない。何も見ていない。


乾燥肉と硬いパンを買い、鞄に詰める。露店の婆さんが、じっとルミナを見た。

「旅の人かい。」

「……はい。」

「この街、今は物騒だよ。」

「検問のせい、ですか?」

「それだけじゃない。」

婆さんは声を潜める。

「帝国の偉い人が、未来の魔術に興味を持ってるって話だ。」

「未来の……魔術。」

「目をえぐられた死体が出た、なんて噂もある。」

背筋が冷えた。

「本当なんですか?」

「さぁね。」

婆さんは乾いた笑いを浮かべる。

「噂なんて、だいたいは嘘さ。」

でも、その目は笑っていない。右目の眼帯が見られている気がした。


修理屋の前をもう一度通ると、男が誰かと話していた。

「魔石の流れがおかしくなってきてる。」

「裏街道の品が増えてるよな。」

「誰かが買い占めてるって噂もある。」

男はちらりとルミナを見て、口を噤んだ。

偶然のはずだ。ルミナだからではない。


ルミナは視線を落とし、人目を避けるようにして市場の端へ向かう。

水も食料も、まだ足りない。魔道具だって直さないといけない。もう少しこの街に滞在する必要がある。


でも、探されている。

背後に、視線を感じた。


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