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第七章 思いつく限りの最悪-④

***


「――セラ。」

低く、息を切らした声。

セラが振り向く。

「あ、ルミナ!」

手には蜂蜜焼きの包み紙。まだ温かいそれを持ったまま、きょとんとした顔をしている。

「ごめんねー、探させちゃった? この人ちょっと具合悪くてさ。」

何でもないことのように言う。

その一歩前に、ルミナは滑り込むように立った。

自然に。無意識に。セラを背中へ押しやる形で。

「……大丈夫?」

視線は逸らさない。向いているのはイリスだけ。

灰色の瞳が細くなる。

通りの奥。青い影が二つ。動かない。位置取りがきれいすぎる。

包囲。確信に変わる。

イリスは一歩も動かない。長身を崩さず、静かにルミナを見る。緑の瞳に揺れはない。

「お連れの方ですか。」

穏やかな声。戦意はない。だが、隙もない。

「……あなたは。」

問いではない。確認だ。ルミナの肩が、わずかに緊張する。セラが背後で小さく言う。

「ルミナ、この人さっき倒れちゃって。宿まで送るだけだから――」

「宿?」

短い反復。視線は逸らさないまま。

イリスが口元だけで微笑む。

「ええ。もう大丈夫ですが、念のため。」

念のため。

その言葉の軽さと、通りの奥に立つ影の重さが、噛み合わない。

ルミナは一歩だけ前へ出る。完全にセラを庇う位置。

「ここは、宿の方向じゃない。」

静かに告げる。

セラが「あれ?」という顔をする。イリスは即答しない。

一拍。

「近道です。」

落ち着いた声音。

「あなたもご一緒にいかがですか。」

誘い。命令ではない。圧もない。

だが、逃げ道は後ろの青が塞いでいる。

空気が変わる。セラはまだ状況を理解していない。

「え、なんか……私、悪いことした?」

困ったように笑う。

ルミナの指先が、わずかに震える。

(違う。)

これは事故じゃない。

選ばれた。意図的に。

「……青騎士。」

ルミナが言う。

イリスの目が、ほんのわずかに細まる。

「察しが良い。」

否定しない。もう隠す段階は終わっている。

セラが固まる。

「え?」

静かな裏通りに、重さが落ちる。

イリスは真っ直ぐルミナを見た。

「あなたと、少し話がしたい。」

敵意はない。だが、拒否は許されない響き。

ルミナの背筋が伸びる。戦うか。逃げるか。

まだ剣は抜かれていない。でも、もう戻れない。


***


イリスは両手を見せるように、わずかに開いた。

武器は持っていない。攻撃の意思も示さない。

「まず、誤解を解きましょう。」

声は落ち着いている。

「彼女は無関係です。」

セラが「え?」と小さく声を漏らす。

ルミナは動かない。

「危害を加えるつもりは一切ありません。」

断言。

「我々は任務で来ています。外交上の手続きを踏んだ、正式な滞在です。」

青い影が、わずかに距離を取る。包囲は維持したまま、圧を下げる。

「あなたと話がしたい。それだけです。」

ルミナの目が、冷たく細くなる。

「どうしてセラを使った。」

直球。

イリスは否定しない。

「単独接触が難しかったからです。」

正直に言う。

「彼女を人質に取る意図はありません。」

セラが慌てる。

「え、人質ってなに!?」

「静かに。」

ルミナの声は低い。イリスは続ける。

「あなたが逃走する可能性を考慮しました。」

合理的な説明。

「我々はあなたを拘束するために来たわけではない。」

イリスが一呼吸置く。

「保護のためです。」

その言葉で、空気が張る。ルミナの表情が、わずかに歪む。

「あなたなら、お分かりでしょう。」

揺れない声。

セラが混乱している。

「ちょ、ちょっと待って。何の話?」

イリスはさらに続けた。

「あなたの事情は把握しています。」

責めない。

「それが悪だとは言いません。」

ここが重要。

「ですが、規模の問題です。」

理屈。

「一人の選択が、多数の未来を変える力であるなら、それは個人の範囲を超えます。」

セラがゆっくりルミナを見る。

「……ルミナ?」

空気が変わる。

イリスは最後に言う。

「話すだけです。応じていただければ、彼女は今すぐ解放します。」

解放、という言葉を使う。意図的だ。

ルミナの拳が、わずかに強く握られる。

「解放って、なに。」

セラの声が、今度ははっきりと震える。

「私、捕まってないよね?」

「ええ、捕まえていません。」

イリスは即答する。

「あなたは自由です。」

「じゃあなんでそんな言い方するの。」

セラは一歩前に出ようとする。

ルミナの腕が、それを止める。無意識に庇う動き。

イリスはそれを見る。

(やはり。)

「言葉が強かったですね。」

素直に認める。

「あなたを利用しました。その点は謝罪します。」

セラが目を丸くする。

「え、利用って……」

「彼女が応じやすい状況を作るためです。」

隠さない。

ルミナの視線が鋭くなる。

「最低。」

「合理的判断の結果です。」

イリスの声は揺れない。

「あなたは逃げる。」

断定。

「単独で接触すれば、消える可能性が高い。」

「だから逃げ道を塞いだ。」

物理的にも、心理的にも。

背後の青い影が、わずかに動く。距離は取ったまま。完全封鎖ではない。だが突破は難しい。

セラが小さく呟く。

「……ルミナ、逃げるって何?」

ルミナは答えない。イリスは続ける。

「我々はあなたを敵と見なしていない。だが、野放しにもできない。」

言葉は硬い。

「あなたの力は、制御されなければ大事故になる。」

セラが強く首を振る。

「ちょっと待ってよ!」

今度はセラが前に出る。ルミナの腕を振りほどいて。

「何なのそれ。事故って何…ルミナはそんな危ない人じゃない!」

その声はまっすぐだ。

イリスは、初めてセラを見る。真っ直ぐに。

「あなたは知らない。」

静かに。

「知らないから、庇う。」

ルミナの背中が硬くなる。

「言うな。」

低い声。イリスは止まらない。

「湿原での高出力干渉。帝国内での連続波形。あなたが通った場所だけが、歪んでいる。」

セラの顔が固まる。

「……なにそれ。」

ルミナの呼吸が浅くなる。鼓動が早い。

「あなたは外れ値だ。」

イリスははっきり言う。

「誓約領の管理個体とは別の。」

静寂が落ちる。セラが、ゆっくりとルミナを見る。

「……はずれち?」

ルミナは否定しない。

沈黙。それが答えになる。

セラの手の中の蜂蜜焼きが、少しだけ潰れた。

「だから、保護する。」

イリスは続ける。

「帝国管理下へ戻し、安全な場所にいてもらう。」

ルミナの目が氷のように冷える。

「囲うだけでしょ。」

「暴走を防ぐ。」

「私、暴走してない。」

「結果は残っている。」

空気が、限界まで張る。セラが、やっと理解し始めた。

「……ルミナ?」

その声は、責めていない。怖がってもいない。ただ、困っている。

それが一番辛い。セラの優しさが、ルミナの胸を軋ませる。

イリスは最後に言う。

「応じなければ、強制手段を取る。」

圧が一段階上がる。青い影が、わずかに詰めた。

ルミナの体勢が変わる。完全に戦闘姿勢。

セラが、間に入ろうとする。

「待って!」

空気が、割れる。

「ちょっと待って!」

セラはルミナの前に出た。今度は止めきれなかった。

「外れ値とか、波形とか、分かんないけどさ。」

イリスを見る。

「この子、悪いことしてないよ!私、知ってる!」

真っ直ぐ。

「この子が逃げるなら、理由がある!」

沈黙。

イリスは、ほんのわずかに目を細める。

これは恐怖ではない。信頼だ。強制は、今ここでは逆効果。

そして。

背後から、別の足音がする。重く、一定で、迷いのない歩幅。

空気が変わる。青の中でも、質が違う。

イリスがわずかに視線を動かした。

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