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第七章 思いつく限りの最悪-③

受付での報告は、いつも通り淡々と終わった。

「第三区、第二区、第五区。受領確認済みですね。」

印が押される。控えが返される。

「ありがとうございました。」

ルミナは一礼して外へ出る。日差しが、さっきより少し強い。

蜂蜜焼きの屋台は、角を曲がってすぐだ。甘い匂いが、まだ残っている。

(まだある。)

胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。

屋台が見える。列は短くなっている。鉄板の上で、最後の数枚が焼かれていた。

けれど。

セラの姿が、ない。

ルミナは一瞬、歩幅を止める。

(……あれ。)

列の最後尾を見る。横を見る。

屋台の横、橋の手前、通りの端。

いない。

「すみません。」

店主が顔を上げる。

「さっき並んでた、茶髪の女の子……見ませんでしたか?」

「ああ、あの元気な子?」

店主は鉄板をひっくり返しながら頷く。

「ちょっと前に、誰かとぶつかってな。」

「ぶつかった?」

「旅人っぽい長身の女だ。立ちくらみとか言ってたかな。あっちの通りに行ったよ。」

店主が顎で示す。

診療所の方角とは、少し違う細い横道。

「大丈夫そうでした?」

「肩貸して歩いてたし、まあ平気だろ。」

軽い口調。特別なことは起きていない、という顔。

ルミナはその横道を見る。石畳。白壁。影が落ちている。

人通りは少ない。

(……ぶつかった?)

胸の奥が、ほんのわずかにざらつく。

セラはお人好しだ。困っている人がいれば放っておけない。

少し手伝いに行っただけ?

ルミナは歩き出す。示された横道を曲がる。甘い匂いが、背後で薄れていく。

静かな通り。白壁の反射が強い。足音が響く。

「セラ?」

声を出してみる。返事はない。曲がり角の先に、人影は見えない。

(……診療所?)

だが店主は、別の方角を指していた。

呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。石畳の先で、角がもう一つ曲がっている。

その向こうに、何があるのか。ルミナは、迷わず進んだ。

角を曲がる。

途端に、音がなくなった。市場のざわめきは、背後に吸い込まれる。

ここは裏通りだ。白壁に囲まれた、細い道。洗濯物が干してある。風がない。

(静かすぎる。)

「セラ?」

もう一度呼ぶ。返事はない。

足を止めた。目で通りを辿る。曲がり角までの距離。逃げ場。物陰。

乱れはない。争った跡もない。

いない。それだけだ。

胸の奥が、じわりと冷える。

ぶつかったと言っていた。

長身の旅人、立ちくらみ。診療所ではない方角。

偶然か。……違う。

確証はない。だが、足はすでに動いている。

ルミナは迷わず、さらに奥へ踏み込んだ。



石畳をゆっくり歩きながら、セラは横を覗き込む。

「ほんとに診療所、行かなくてよかったんですか?」

長身の女性は、呼吸を整えながら歩いている。さっきより表情は良くなっている。

「ええ。少し血の気が引いただけです。持病のようなものなので。」

落ち着いた声。揺れがない。

「でも、さっき結構ふらついてましたよ?」

「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません。」

微笑む。その表情は、どこか客観的だ。

「……ほんとに大丈夫ですか?」

「ええ。本当に。」

少し間を置いてから女性は包み紙を差し出した。

「もしよろしければ。」

蜂蜜焼きだ。まだ温かい。

「え?」

「列を離れさせてしまいました。お礼といってはなんですが、どうぞ。」

セラは目を丸くする。

「え、でもこれ、さっき並んで……」

「いいんです。助けていただきました。受け取ってください。」

女性はふわりと微笑んだ。緑色の目がセラを見つめる。セラは少し迷ってから、両手で受け取った。

「……ありがとうございます。」

申し訳ないと思いつつも、誘惑に負けた。

二人は歩き出す。

「旅の方ですか?」

女性が軽い声で尋ねた。

「はい。今は誓約領に滞在中で。」

「お一人で?」

「いえ、友達と。」

つい、誇らしげな声。

「……色々できる人です!」

曖昧に笑う。魔術師の話はしないでおく。

「頼りになりますよ。たぶん私より。」

イリスは頷くだけ。

「そうですか。」

「無茶するけど。」

「あなたが止めるのですね。」

「うーん、どうだろ。」

朝のやり取りが思い返される。不安気なルミナの表情。励ましたくて、つい出た言葉。

「私がいるから平気、って言っときましたけど。」

「そうですか。」

女性はセラの顔を見ながら、ゆっくり目を細めた。



(抑止ではない、と。)

イリスは歩幅を変えず、思考だけを切り替える。

この少女は、対象の制御装置ではない。安心材料だ。肯定する側であり、止める側ではない。

「……素敵ですね。」

口に出す声は柔らかい。

「誰かがいるから平気、と言える関係は。」

セラは少し照れたように笑う。

「まあ、たぶん私の方が頼ってるんですけどね。」

(依存は双方向。)

それならば、分断は成立する。

イリスは自然に話題をずらす。

「あなたは、この街が好きですか。」

唐突ではない。軽い雑談の延長。

「好きですよ。安心しますし。」

「友達も?」

ほんの少しだけ踏み込む。

セラは考える。

「……どうかな。」

一瞬の間。

(迷い。)

対象は誓約領に根を下ろしていない。移動可能。

イリスは歩幅を変えず、セラに尋ねる。

「長く滞在される予定ではないのですね。」

問いではない。確認でもない。ただの推測。

セラは首をかしげる。

「うーん、まだ決めてないです。」

「旅は、目的があって?」

「目的っていうか……流れ、ですね。」

曖昧に笑う。

(主体は灰色の女。)

イリスは静かに続ける。

「ご友人と相談しながら、ですか。」

責任の所在を探る。セラは少し考えてから答える。

「相談っていうか……あの子、色々抱えてるから。」

言った瞬間、セラは自分で少し驚いた顔をする。

言いすぎた、とは思っていない。ただ、言葉にしてみて初めて気づいたような表情。

イリスは視線を向けない。

「抱えている?」

繰り返すだけ。

「うん。なんていうか……自分で全部考え込むタイプで。」

少し笑う。

「放っておくと遠く行っちゃいそうなんですよね。」

(精神的自立度は高い。)

「だから“私がいる”と?」

「まあ、そういうことです。」

セラが照れくさそうに笑う。

「ほんとは、あの子の方が強いんですけどね。」

(戦闘力ではない。精神。)

イリスは静かに言う。

「強い人ほど、孤立しますからね。」

セラがちらりとこちらを見る。

「……なんか、説得力ありますね。」

「よく言われます。」

イリスは軽い声音で笑顔を向けた。

石畳の色が変わる。青騎士の滞在区域が近い。

イリスは最後にもう一歩だけ踏み込む。

「お二人は、どこのご出身ですか?」

自然な問い。旅人同士の雑談として、何も不自然ではない。

セラは首を振る。

「私は帝国です!友達の方は…あんまり聞いたことないです。」

正直だ。

「でも、帝国は別に嫌いじゃないと思います。」

(否定的思想なし。)

「ただ、あんまり縛られるの好きじゃないかも。」

イリスはわずかに目を細める。

(やはり。)

「自由を好む、と。」

「そうですね。」

セラは笑う。

「でも、良い人ですよ。ほんとに。優しいし!」

イリスは頷く。

「ええ。そうみたいですね。」

宿が見える。青騎士の滞在区画。

あと数歩。

イリスの内心は揺れない。

(秩序は感情で決めない。)

そして、最後に柔らかく言う。

「あなたは、優しいですね。」

セラが照れくさそうに笑う。

「よく言われます。」

(だからこそ、ここまで来た。)



角を曲がる。

白壁の裏通りは、やけに光を反射している。市場のざわめきは、もう届かない。

静かだ。石畳に落ちる自分の足音だけが、やけに響く。

焦る気持ちが先走り、すべてが遅く感じた。

「セラ?」

声が吸い込まれる。返事はない。

もう一つ角を曲がる。視界の端で、青が動いた。

一瞬だけ。建物の影の向こうに、濃い色の外套。誓約領の白とは、明らかに違う色。

胸の奥が、きゅ、と縮む。

(なんで、ここに。)

青騎士は検疫を終えたばかりだ。市中行動はある。珍しくはない。

それでも。この通りは、さっき店主が指した方向だ。

足が止まらない。頭より先に、身体が走り出していた。

「セラ!」

今度は叫ぶ。

角を抜ける。さらに奥へ。影が動く。二人分。

背の高い女と、その横に、茶色の髪。

視界が狭まる。

(無事でいて。)

願いが先に来る。考えるより前に、距離を詰める。

石畳を蹴る。呼吸が荒くなる。青い外套の端が、陽にきらめいた。

そして。その背中の向こうに、セラの横顔が見えた。

笑っている。

一瞬、足が止まる。

(……え。)

緊張が、半分だけ空振る。

けれど、そのすぐ後ろ。通りの奥に、さらに青の影が二つ、静かに立っていた。

囲い。音もなく。逃げ道を塞ぐ位置。

ルミナの喉が、乾く。これは、偶然じゃない。

走る。もう迷わない。

石畳を踏み鳴らし、二人の間へ割り込むように飛び込んだ。

「――セラ。」

声は低い。

呼吸が荒いまま、灰色の瞳が、まっすぐイリスを射抜いた。

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