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第七章 思いつく限りの最悪-②

市場の喧騒は、観測に適している。人が多いほど、異物は浮く。

イリスはパン屋の向かい、薬草商の陰に立っていた。外套は着ていない。編み込んだ長い髪は布でまとめ、武器である盾も背負っていない。ただの長身の旅人に見える。

深緑の瞳が、群衆をなぞる。

灰色の髪をした若い女。隣に、帝国民の女。

「確認。」

耳元の微細通信石が、かすかに振動する。

「南側通り、視認。」

別方向に配置した騎士の声。包囲ではない。網だ。緩く、静かに。

イリスは二人を見つけた。

パンを買い、受け取っている。

観測ログと一致する外見。身長、体格、年齢推定。視線の動き。湿原経由の移動履歴。

間違いない。

「対象確認。同行者あり。帝国民と思しき女性。」

通信石に低く告げる。

「拘束は?」

別の声。

「不可。」

即答。

「誓約領市中にて外交任務中。騒擾は最下策。」

合理的判断。感情は挟まない。

イリスは数ある武器の中でも盾を選んだ人間だ。殲滅ではなく、制圧。止めることが最優先。

灰色の女を見つめる。

(落ち着いている。)

それは良い兆候でもあり、危険信号でもある。

力を持つ者が、自分の影響を理解していない場合、被害は予測不能になる。

帝国が外れ値を囲う理由は単純だ。憎いからでも、恐いからでもない。規模が違うからだ。

一人の意思が、都市一つの未来を変える。偶然の選択が、数千の生死を揺らす。それは個人の自由の範囲を超える。

(だから、管理する。)

イリスは自分に確認する。それは支配ではない。基盤の維持だ。秩序がなければ、弱い者から死ぬ。

攻撃魔術の名門に生まれながら、攻撃の才を持たなかったイリスは知っている。

戦場で最後に立っているのは、派手な火力ではない。崩れない壁だ。だから盾を持ち、止める役割を選んだ。

「副隊長。」

別の通信。

「対象の横、帝国民確認。出身照合中。」

セラという名の女。無警戒。無防備に笑っている。立ち方、骨格、服装からも戦闘職ではない。

(利用可能。)

傷つける必要はない。動かせばいいだけ。

その判断に、罪悪感はない。帝国民を傷つけるつもりはない。だが、接触経路としては最適だ。

灰色の女は周囲を警戒している。しかし隣の女は違う。人は、親しい者の安全を前提に動く。それが最も制御しやすい。

イリスはゆっくりと市場を横断する。二人の視界に入らない角度を保つ。

歩幅を変えない。呼吸を一定に。優先順位を間違えない。

(外れ値が二人、同一領域に存在する。)

誓約領にも管理個体がいる。波形は混線している。もし接触が起きれば、干渉は増幅する可能性がある。

被害が出る前に止める。それがイリスの役割。

灰色の女が、一瞬だけ周囲を見た。視線が、空をなぞる。

(勘か。)

不審な様子はない。未来視も使っていない。

ならば今が最適だ。

「まだ包囲はするな。」

通信石に告げる。

「接触は私が行う。」

一瞬の沈黙。

「単独で?」

「問題ない。」

目的は誘導だ。流れさえ作れば、あとは状況が動くだけ。

商品を見ている様子を装いながら、二人の会話に集中する。

セラが笑いながら言う。

「私がいるし。」

イリスは、その言葉を聞き取った。

(そうだろうな。)

だからこそ、そこから崩す。

まずは軽い接触をする。偶然を装った情報収集。灰色の女を刺激せず、隣の帝国民の女だけを動かす。

誓約領の秩序は乱さない。帝国の名も汚さない。

イリスは市場の人波に溶けた。秩序を守るための、静かな介入。そして遠くで、青い外套がもう一つ、位置を変えた。

まずは分断。次に誘導。最後に回収。

問題はない。流れはもう、読めている。


***


掲示板の前は、いつも通りだった。紙は整然と並び、風に揺れても端は揃っている。

「今日は軽めにしよっか。」

セラが指先で札を弾く。

「午前中だけの配達、三件。第三区から第五区、あと第二区。」

「回りやすい順で行けば早く終わりそう。」

「よし、これ。」

札をまとめて受付へ。布に包まれた小包が三つ。大きさはばらばらだが、どれも軽い。

「落としたら怒られそうだね。」

「怒られるね。」

二人で分けて持つ。

第三区の仕立屋。第二区の薬草商。最後に第五区の診療所裏口。

石畳をゆっくり歩く。朝の空気は乾いていて、白壁が光を跳ね返す。

途中、小さな橋を渡る。その先に、甘い匂いが流れてきた。

「あ。」

セラが止まる。蜂蜜焼きの屋台。すでに列ができている。

「並んでる!」

「結構いるね。」

「これ、依頼終わったらダッシュしないと。」

「走らないよ。」

「走らないけど、急ぐ!」

屋台の前には、子どもと旅人と白衣の職員。まだ残っているらしい。鉄板の上で、じゅ、と音がした。

「あと何枚くらいだろ。」

「さあ。」

「売り切れたら泣く。」

「泣かないで。」

笑いながら、二人は屋台を通り過ぎる。

「とりあえず、配達終わらせよ。」

「うん。最後が第五区だから、戻りながら並べるね。」

「作戦完璧。」

軽い足取りで、仕立屋へ。布地の匂い。丁寧な受け渡し。控えに印。

次は薬草商。乾いた葉の音。短い礼。

最後に第五区。診療所裏口。白衣の職員が、すぐに受け取る。

「助かります。」

穏やかな声。いつも通り。

外に出ると、日差しが少し強くなっていた。

「よし、完了!」

セラが両手を上げる。

「蜂蜜焼き!」

「まだあるかな。」

「さっき焼いてたから大丈夫でしょ。」

石畳を早足で戻る。角を曲がると、屋台が見える。まだ並んでいる。

「ある!」

セラが嬉しそうに笑う。

「私、並んどくね!」

「報告だけしてくる。」

「すぐ戻ってきてね!」

ルミナは掲示板横の受付へ向かう。

セラは列へ。人波は穏やか。甘い匂いが、空気に混じる。

その列の少し前に、長身の女性が立っていた。簡素な旅装。布でまとめた編み込みの髪。

包み紙を受け取り、振り向いた瞬間。軽く、肩が触れる。

「あ、ごめん――」

次の瞬間、女性の足元がわずかに崩れた。石畳の縁に踵を取られたように、身体が横へ流れる。

セラの手が、反射的に伸びた。

「大丈夫ですか!?」

周囲は騒がない。ただ距離を取る。女性は片膝をつき、呼吸を整えていた。

「……少し、立ちくらみ。」

声は落ち着いているが、少し苦しそうな表情をしている。

セラは慌てる。

「ごめんなさい!私ぶつかって……!」

「…そんな。私の不注意ですよ。」

即答。

「ただ、少し、肩を貸してもらえると助かります。」

診療所はすぐそこだ。セラは迷わない。

「もちろん!」

列を離れ、女性に腕を回す。二人はそのまま屋台を抜けて歩いて行った。

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