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第七章 思いつく限りの最悪

天幕の中央に、湿原一帯の地図が広げられている。魔術投影ではない。紙だ。観測精度が落ちる領域では、可視化された情報の方が信頼できる。

「観測ログ、再整理しました。」

イリスが淡々と告げる。

壁際に整列した青騎士たちの視線が、地図へ落ちる。赤い印が、帝国内部に点在していた。

「この一年間での干渉は帝都西区。以降、南門、交易路沿い、国境監視塔付近。」

指が動く。印は、移動している。

「湿原内部で高出力干渉を確認。その後、反応は減衰。現在、誓約領内にて微弱検知。」

「誓約領内、か。」

低い声が落ちる。オルフェンは腕を組んだまま地図を見る。

「精度は。」

「帝国外に出た時点で、三割低下。湿原内部ではさらに低下します。」

イリスの声に揺れはない。

「帝国観測網は、帝国内で最大効率を発揮します。外部では魔術残滓の干渉と地脈の差異により、波形識別が不安定になります。」

つまり、断定はできない。

「それでも。」

オルフェンが言う。

「移動型だな。」

「はい。」

即答。

誓約領の管理個体は固定型。定期移動はあるが、湿原への出入りは確認されていない。

「誓約領が自国の外れ値を湿原に出す合理性は低い。」

一人の騎士が頷く。

「管理下個体であれば、なおさら。」

湿原は危険域だ。魔術残滓が濃い。外れ値を安定管理するには最も不向きな場所。

オルフェンの視線が、地図上の赤い軌跡をなぞる。帝国内部から、国境へ。そこから湿原を抜け、誓約領へ。

「移動している。」

呟きではない。確認だ。

イリスが書簡を一枚差し出す。

「出国名簿と照合済みです。該当期間に帝国を出た灰色髪の女性、一名。」

天幕の空気が、わずかに張る。

「旧管理下個体。」

番号ではなく、今回は名前も添えられている。

ルミナ・エレブリス。

だが、イリスは読み上げない。

湿原での高出力干渉。帝国内移動ログ。誓約領への収束。

「誓約領内部での波形は不明瞭です。」

イリスは続ける。

「同国内には既存の管理外れ値が存在します。波形が一部重複するため、完全分離はできません。」

聖約領の干渉が、ノイズになる。

「別個体の可能性が高いが、断定はできない、か。」

「はい。」

静かな肯定。沈黙が落ちる。

一人の騎士が口を開く。

「誓約領側の個体との接触の可能性は。」

「否定できません。」

イリスは即答する。

「接触済みであれば、干渉波形が混線している可能性があります。」

オルフェンは地図から目を離さない。

「外れ値が二人、同一領域に存在する。」

言葉にすると、重い。

「放置はできない。」

彼は顔を上げた。

灰青の瞳が、騎士団全体を見渡す。

「外れ値は、力の規模ゆえに国家管理が必要だ。」

声は穏やかだ。怒気はない。

「だが対象は、旧管理下個体。実験体ではない。」

わずかに間。

「人間だ。」

その一言で、空気が締まる。

「無闇に傷つけるな。」

静かに告げる。

「だが、逃がすな。」

明確な線引き。イリスが確認する。

「確保後は再管理でよろしいですね。」

ほんの一瞬だけ、オルフェンの視線が揺れる。

城門で見た、灰色の瞳。戸惑いの、一瞬。だが次の瞬間には消える。

「……保護だ。」

訂正する。

「帝国管理下へ戻す。正式に。」

騎士たちが一斉に頷く。

「本日より、市中行動開始。」

オルフェンの声が、はっきりと響く。

「外交任務は予定通り進める。誓約領の秩序は乱すな。」

視線が鋭くなる。

「対象は発見次第、確保する。」

天幕の外で、朝の鐘が鳴る。検疫は解除された。

「動く。」

それは宣言だった。青騎士が、誓約領へ踏み出す。


***


朝の鐘が、いつもと同じ高さで鳴った。

乾いた音が石畳を滑り、白い壁に跳ねて、静かに消える。誓約領の朝は、規則正しい。窓が開く順番も、パンの焼き上がる時間も、診療所の扉が開く刻も、ほとんど変わらない。

青騎士の検疫は、今朝で解除された。

それでも、街は変わらない。

市場の屋台は変わらず開き、薬草商は帳簿を整え、白衣の職員は決められた歩幅で通りを横切る。誰も急がない。誰も騒がない。昨日と同じ呼吸で、今日を始めている。

遠くで、青い外套が翻るのが見えた。隊列は解かれ、それぞれが持ち場へ散っていく。目立たない動きだ。威圧も誇示もない。ただ、静かに、配置につく。

誓約領の人々は、それを視界の端に置いたまま、日常を続ける。

干渉しない。それが、この国の流儀だった。

パン屋の前で、子どもが転ぶ。母親が抱き起こす。笑い声が戻る。

診療所の前では、順番待ちの列がすでに整っている。第五区接触制限の札は外され、代わりに小さな注意書きが貼られている。字体も位置も、きちんとしている。

街は、正しく、回る。

その中心で、ルミナは目を細めた。今日もまた、何も起きない顔をした朝が始まる。

「ねえ、今日ちょっと早く終わったら甘いの食べない?」

セラが前を歩きながら振り返る。いつもの調子。昨日と変わらない声。

「青騎士の検疫終わったしさ、ちょっとだけ賑やかになるかもよ。」

「……甘いの?」

「蜂蜜焼き。昨日売り切れてたやつ。」

ルミナは少しだけ考えてから、頷いた。

「いいね。」

二人で石畳を歩く。

「青騎士、ちゃんと様になってたね。」

セラが腕を組む。

「なんかこう、絵本に出てくる騎士って感じ。」

「そうだね。」

「でもさ、ちょっと堅そうじゃなかった?」

笑う。

「話しかけたら怒られそう。」

ルミナは視線を少しだけ逸らす。

「……どうかな。」

「え、知り合いでもいるの?」

冗談半分の声。

「いないよ。」

即答。少し早い。セラは気づかない。

「まあ、用がなければ関わらない方が平和だよねー。」

そう言って、パンの前で立ち止まる。

「お!焼き立てじゃん!」

香ばしい香りが漂う。焼き上がったばかりの薄い生地。湯気。

「二つください。」

セラが迷いなく言う。

「はいよ。」

包み紙を受け取る。熱が指に伝わる。

「ほら。」

半分に割って、ルミナに差し出す。

「ありがとう。」

かじる。柔らかくて温かい。それだけで、胸の奥の硬さが少し緩む。

「ねえさ。」

セラが何気なく言う。

「もしさ、ここに住むってなったらどうする?」

ルミナは、噛む動きを止めた。

「住む?」

「うん。旅をやめてさ。」

軽い言い方。冗談みたいに。

「仕事もあるし、医療ちゃんとしてる。安心だよね。」

風が吹く。白い布が遠くで揺れる。

「……考えてない、かな。」

正直に答える。

「ふーん。」

セラはそれ以上追わない。

「まあ、まだ若いもんね。」

笑う。

「世界は広いし。」

その言葉に、ルミナは少しだけ救われる。

世界は広い。誓約領だけじゃない。帝国だけでもない。

「セラは?」

「んー?」

「ここに住みたい?」

セラは少しだけ考えるふりをする。

「安心はするけど、退屈かも。」

即答。

「ちゃんとしすぎてるんだよね。」

指についたパン屑を舐めながら言う。

「転んでも痛くなさそうな世界ってさ、ちょっとつまらなくない?」

ルミナは、思わず小さく笑った。

「それ、危ない発言。」

「え、だってさ。多少傷つくくらいの方が生きてる感じするじゃん。」

無邪気だ。無責任でもある。

でも。

(……いいな。)

その軽さが、羨ましい。

「ルミナは?」

問われる。少しだけ、考える。

「……まだ、決めてない。」

それは、住む場所の話じゃない。生き方の話だ。

セラはそれに気づかない。

「ま、決めなくていいよ。」

肩を軽く叩く。

「私がいるし。」

何気ない一言。何の覚悟もない言葉。

それが、ルミナの胸に、まっすぐ刺さる。

(……ずるい。)

そんな言い方をする。

その時。

遠くで、青い外套がこちらへ向きを変えた。

ほんの一瞬。

青騎士の目が、市場を横切る。視線は合わない。でも、空気が、少しだけ変わる。

セラは気づかない。

「今日の依頼何にする?いっそ、飲食店極めちゃう?」

「……それもいいね。」

ルミナは答えながら、香ばしさの残る指先を握りしめた。

まだ、何も起きていない。大丈夫、そう言い聞かせた。

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