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序章 砂に嚙まれる街ー④

***

その夜。宿の薄い毛布の上、ルミナは何度も寝返りをうった。瞼を閉じても、店主の明るい声が耳に残る。

「生きてりゃ、まぁなんとかなる。」

その言葉が、胸を締め付けた。笑顔は死の直前ほど眩しく光る。


視界の端に、かすかな光の粒が浮かぶ。右目がじんわりと温かく鼓動する。まるで心臓と繋がっているかのように、ゆっくりと一定の速度で主張してくる。

思い出されるのは今日の街の様子。活気はやや失われているが、人々が生きていた。店主だけではなく、他の住民も必死に生きていた。

今日出会った人達はみんな、一生懸命生きていただけだ。流行り病という理不尽に晒されていいわけがない。しかし、病はもう街まで来ている。示された未来はすぐそこだ。

昼間の店主の笑顔が浮かぶ。隣で笑う友人が眩しく輝く。


未来を変えるには、対価がいる。ルミナが決められることではない。世界が、対価を要求する。


遠く、鐘の音が鳴った。通常時では鳴らされない、緊急の鐘。

短く2回鳴った。

ドサッ

外で何かが倒れる音がした。重いものが落ちたような、鈍い音だ。


「誰か!助けてくれ!」

店主の叫び声が夜の街に響く。

ルミナは急いで起き上がり1階へ向かった。

足はもつれながら、勝手に動いていく。心は止めようとするが、身体は止まらない。


宿の裏手、水場の近くに人が倒れていた。

見覚えがある顔。店主が紹介してくれた友人。

充血した目が限界まで開かれている。口は力なく開いており、呼吸の音は聞こえない。


両脇に駆け寄る住民達の声が重なった。

「どうした…?」

「昼間まで元気だったじゃないか。」


ルミナは一歩だけ近づき、気が付いた。

右目の鼓動は止んでいる。店主は生きている。

———代償は支払われた。


視線が足元に落ちた。

砂の上に黒いしみが広がる。

頬に伝わる涙が、ひどく残酷なように思えた。


「…そんな…」

小さく声が漏れた。誰にも届かないほどの声。


助けたかった人の未来が、別の未来の下敷きになっていく。

店主の命は助かった。でも、それだけ。

店主の笑顔は戻らない。回避した未来の行く先は、他者の命で支払われた。


ルミナは唇を噛んだ。血の味がする。店主の笑顔が脳裏によぎる。

右目はもう何も反応しない。正しい未来とばかりに沈黙している。


世界の帳尻は、残酷だ。


***

朝になっても街は静かだった。

家の扉は閉ざされ、窓辺には昨日よりも多くの濡れた布が干されている。


まったく眠れなかった。

床に就く前よりもさらに重くなった身体を引きずり、食堂まで下りる。

正直、空腹など一切ない。でも、店主のことだけは様子を見ておきたい。

使命感にも似た思いで店主を探した。


店主は昨日と変わらず食堂にいた。鍋をかき混ぜながら朝食の準備をしている。

「…おはよう、ございます。」

店主の背に声をかける。

店主は、少しだけ肩を揺らした。それから、ゆっくり振り返る。

「……おはよう。」

声は、昨日よりも低かった。

「少しは休めたかい?」

「そう…ですね。」

声がかすれてうまく話せない。


店主は、いつものように笑おうとして、うまく笑えなかった。

「……あいつさ。」

一瞬、言葉に詰まる。

「昔から、無茶するやつでな。」

それ以上は、何も言わなかった。ルミナも、何も言えなかった。ただ、視線をテーブルに落とす。

「今日は、もう街を出るのか?」

「……はい。」

「そうか。」

店主は小さく頷いた。

「気をつけてな。」

その言葉が、胸に刺さる。受け取る資格などないというのに。



宿を出て、街の出口へ向かう。

人通りは昨日以上に少ない。皆一様に濡れた布を纏って一言も話さない。

サラサラと砂だけが音をたてて街を巡っていた。


眼帯をしている右目に触れる。今はもう何も熱を感じない。昨日の鼓動が嘘のように静かだ。

店主に生きてほしいと強く願ったのは確かにルミナだ。しかし、だからといって代わりに誰かの死を望んだわけではない。

命を以てして命を救うことは、果たして救い足り得るのだろうか。

ましてや、それがルミナの意思とは関係なく代償が支払われるなど、無責任ではないだろうか。

勝手に願って、勝手に誰かを不幸に落とす。ルミナの存在はただの疫病神なのか?


街の外れにたどり着く。門の外には、また砂漠が広がっていた。

振り返り、深く頭を下げる。謝罪することも償うこともできないルミナには、これが精一杯だ。

―――もう、関わるべきじゃない。

そう決めたはず、そうすべきなはず。しかし、胸の奥はひどく痛んだ。


一歩、外へ踏み出す。

逃げるのは追われているからなのか、自分の運命からなのか。

わからないまま進んでいく。

足元がサリッと音を立てる。左目に映る景色は今日も変わらず続いていく。

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