序章 砂に嚙まれる街ー④
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その夜。宿の薄い毛布の上、ルミナは何度も寝返りをうった。瞼を閉じても、店主の明るい声が耳に残る。
「生きてりゃ、まぁなんとかなる。」
その言葉が、胸を締め付けた。笑顔は死の直前ほど眩しく光る。
視界の端に、かすかな光の粒が浮かぶ。右目がじんわりと温かく鼓動する。まるで心臓と繋がっているかのように、ゆっくりと一定の速度で主張してくる。
思い出されるのは今日の街の様子。活気はやや失われているが、人々が生きていた。店主だけではなく、他の住民も必死に生きていた。
今日出会った人達はみんな、一生懸命生きていただけだ。流行り病という理不尽に晒されていいわけがない。しかし、病はもう街まで来ている。示された未来はすぐそこだ。
昼間の店主の笑顔が浮かぶ。隣で笑う友人が眩しく輝く。
未来を変えるには、対価がいる。ルミナが決められることではない。世界が、対価を要求する。
遠く、鐘の音が鳴った。通常時では鳴らされない、緊急の鐘。
短く2回鳴った。
ドサッ
外で何かが倒れる音がした。重いものが落ちたような、鈍い音だ。
「誰か!助けてくれ!」
店主の叫び声が夜の街に響く。
ルミナは急いで起き上がり1階へ向かった。
足はもつれながら、勝手に動いていく。心は止めようとするが、身体は止まらない。
宿の裏手、水場の近くに人が倒れていた。
見覚えがある顔。店主が紹介してくれた友人。
充血した目が限界まで開かれている。口は力なく開いており、呼吸の音は聞こえない。
両脇に駆け寄る住民達の声が重なった。
「どうした…?」
「昼間まで元気だったじゃないか。」
ルミナは一歩だけ近づき、気が付いた。
右目の鼓動は止んでいる。店主は生きている。
———代償は支払われた。
視線が足元に落ちた。
砂の上に黒いしみが広がる。
頬に伝わる涙が、ひどく残酷なように思えた。
「…そんな…」
小さく声が漏れた。誰にも届かないほどの声。
助けたかった人の未来が、別の未来の下敷きになっていく。
店主の命は助かった。でも、それだけ。
店主の笑顔は戻らない。回避した未来の行く先は、他者の命で支払われた。
ルミナは唇を噛んだ。血の味がする。店主の笑顔が脳裏によぎる。
右目はもう何も反応しない。正しい未来とばかりに沈黙している。
世界の帳尻は、残酷だ。
***
朝になっても街は静かだった。
家の扉は閉ざされ、窓辺には昨日よりも多くの濡れた布が干されている。
まったく眠れなかった。
床に就く前よりもさらに重くなった身体を引きずり、食堂まで下りる。
正直、空腹など一切ない。でも、店主のことだけは様子を見ておきたい。
使命感にも似た思いで店主を探した。
店主は昨日と変わらず食堂にいた。鍋をかき混ぜながら朝食の準備をしている。
「…おはよう、ございます。」
店主の背に声をかける。
店主は、少しだけ肩を揺らした。それから、ゆっくり振り返る。
「……おはよう。」
声は、昨日よりも低かった。
「少しは休めたかい?」
「そう…ですね。」
声がかすれてうまく話せない。
店主は、いつものように笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……あいつさ。」
一瞬、言葉に詰まる。
「昔から、無茶するやつでな。」
それ以上は、何も言わなかった。ルミナも、何も言えなかった。ただ、視線をテーブルに落とす。
「今日は、もう街を出るのか?」
「……はい。」
「そうか。」
店主は小さく頷いた。
「気をつけてな。」
その言葉が、胸に刺さる。受け取る資格などないというのに。
宿を出て、街の出口へ向かう。
人通りは昨日以上に少ない。皆一様に濡れた布を纏って一言も話さない。
サラサラと砂だけが音をたてて街を巡っていた。
眼帯をしている右目に触れる。今はもう何も熱を感じない。昨日の鼓動が嘘のように静かだ。
店主に生きてほしいと強く願ったのは確かにルミナだ。しかし、だからといって代わりに誰かの死を望んだわけではない。
命を以てして命を救うことは、果たして救い足り得るのだろうか。
ましてや、それがルミナの意思とは関係なく代償が支払われるなど、無責任ではないだろうか。
勝手に願って、勝手に誰かを不幸に落とす。ルミナの存在はただの疫病神なのか?
街の外れにたどり着く。門の外には、また砂漠が広がっていた。
振り返り、深く頭を下げる。謝罪することも償うこともできないルミナには、これが精一杯だ。
―――もう、関わるべきじゃない。
そう決めたはず、そうすべきなはず。しかし、胸の奥はひどく痛んだ。
一歩、外へ踏み出す。
逃げるのは追われているからなのか、自分の運命からなのか。
わからないまま進んでいく。
足元がサリッと音を立てる。左目に映る景色は今日も変わらず続いていく。




