第六章 正しさが通った痕-⑤
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朝の鐘が、いつもより低く響いた気がした。
誓約領の空気は、相変わらず整っている。石畳は乾き、白い建物は光を返し、人々は列を乱さない。
今日は、人の流れが少しだけ外側へ向いていた。
「来るんだよね、今日。」
セラが掲示板の前で呟く。
深い青の公示はそのまま貼られている。帝国青騎士団、本日到着予定。
遠くで、低い音がした。規則正しい、複数の足音。金属が擦れる、小さな硬質音。
ざわめきは起きない。誓約領の人々は騒がない。ただ、視線だけが自然とそちらへ向く。
門の方角から、青が現れる。統一された外套。整った隊列。鎧は簡素だが無駄がない。湿原を越えてきたとは思えないほど、乱れがない。
「うわ……ちゃんと騎士団だ。」
セラが小声で言う。感嘆ではない。確認だ。
先頭に立つ男は、顔を上げたまま歩いている。灰青の瞳。迷いのない歩幅。
ルミナは、無意識に呼吸を浅くした。
(……いる。)
視線は合わない。距離もある。
でも、分かる。
帝国を出るとき、城門で見た。あの時の、戸惑いの一瞬。
隊列は止まる。
誓約領の代表が前へ出る。
礼。
言葉は聞こえない。形式が進む。規律が重なる。
「検疫三日、って書いてたよね。」
セラは淡々としている。
「大所帯だもんね。」
そう。
これは、公式な来訪だ。堂々とした、正面からの訪問。
だからこそ。
(急いでる。)
湿原経由。最短距離。青騎士が危険を承知で最短を選ぶ理由は。
外交だけなら、余裕を持つはずだ。
(……自分だと決まったわけじゃない。)
それでも、胸の奥は静まらない。
隊列が動き出す。指定区画へ向かう。
誓約領の人々は道を空けた。混乱はない。
「……ルミナ?」
「大丈夫。」
反射的に答える。視線の先で、青が遠ざかる。
あの中に、答えがあるのか。それとも、ただの外交か。
分からない。
青騎士は誓約領に入った。逃げ場が、ひとつ減った気がした。
***
誓約領・国境検疫区画。
簡素な室内。青の外套が壁に掛けられている。
「隊長。」
イリスが扉を閉める。オルフェンは立ったまま、報告書に目を落としていた。
「検疫、問題なし。誓約領側の対応は迅速です。」
「そうか。」
短い返答。声は低く、落ち着いている。
「秩序が徹底してるな。」
書類を机に置く。
「……で、本題だ。」
視線が上がる。
「市中の様子を見てこい。」
命令は明確。
「未来視級干渉の痕跡があれば拾え。噂でもいい。」
イリスは即答する。
「単独で動きます。」
「制服は外せ。」
「承知。」
間。オルフェンは一瞬だけ視線を窓へ向ける。
「誓約領の制度には干渉するな。こちらの目的は“確認”だ。」
“捕縛”という言葉は使わない。だが、意図は伝わる。
「確証はありますか。」
イリスの問いは事務的。オルフェンは首を振る。
「現認ない。だが、湿原で出たログは生身だ。」
断定。
「偶然で片付けるには規模が大きい。」
静かに言う。
「ここにいる可能性は高い。」
イリスが一歩近づく。
「発見した場合は。」
オルフェンの目がまっすぐ向く。
「確保する。」
即答。声に揺れはない。
「ただし――」
わずかに間を置く。
「騒ぎは起こすな。」
それが最優先。
「誓約領の秩序を乱すな。帝国の名で混乱を作るな。」
隊長としての判断。イリスは頷く。
「了解しました。」
扉に手をかける直前、イリスが問う。
「敵意がなかった場合は。」
一瞬の沈黙。オルフェンの瞳がわずかに細まる。
「状況を見る。」
感情は出さない。
「だが、必ず連れ帰る。」
それが任務。
イリスはそれ以上聞かない。扉が閉まる。室内に残ったのは静寂。
オルフェンは窓の外を見る。
「……未来を見る魔術師。」
低い独り言。灰色の髪と瞳を持つ女が脳裏に描かれる。
「ルミナ・エレブリスか……。」
怒りではない。警戒でもない。
ただ、事実を受け止める声だった。
***
青騎士が到着しても、門の方が少しだけ騒がしくなっただけで、市場の匂いは変わらなかった。パン屋からは焼き上がりの匂いが漂う。掲示板の前には、数人が集まっていた。
「今日はちゃんと早いね。」
セラが満足そうに言う。
「昨日は出遅れたから。」
ルミナは小さく答える。視線は掲示板へ。
依頼札は整然と並んでいる。
「薬草採取、北斜面。報酬……微妙。」
「湿原近くの護衛。あ、これ却下。」
「なんで?」
「検疫絡みで人増えてる可能性あるでしょ。面倒そう。」
セラは即断する。
「平和な仕事、平和な仕事……あ。」
一枚、札を抜く。
「飲食店補助。昼のみ。三日間。」
ルミナの指先が止まる。
「三日間?」
「うん。青騎士来訪で人手不足だって。」
掲示板の下部には小さな追記がある。
“検疫期間中、職員配置変更のため人手不足”
セラが笑う。
「つまり安全圏で働けるってこと。」
「……そうだね。」
戦闘もない。湿原にも行かない。検疫区域にも入らない。最も波の立たない選択。
「報酬も悪くないし、宿代は確保だね。」
「うん。」
少しだけ、間。
「……これでいこ。」
ルミナは頷いた。選んだのは、平穏。
掲示板の受付係に札を渡す。
「第三区画、煮込み亭ですね。昼前に来てください。」
淡々と処理される。紙に印。控えを受け取る。
「そういえばさ。」
掲示板から離れながら、セラが言う。
「リュネスでも飲食店の依頼受けたね。そんな経ってないのに懐かしいや。」
「そうだね。」
ルミナは少しだけ空を見た。遠くに、白布で囲われた区画が見える。
「楽しかった。」
「でしょ?」
セラは笑う。
「じゃ、今日も朝ごはん食べてから行こ!」
石畳を並んで歩く。足音は、軽い。
三日間。働く。寝る。何も起きない。
そう思えることが、どれだけ贅沢か。ルミナは、まだ知らないふりをすることにした。
飲食店の中は、昼の熱気で満ちていた。木の扉が開くたびに、外の光と一緒に客が入ってくる。鍋の煮える音。皿が重なる音。控えめな笑い声。
「いらっしゃいませー。」
セラの声は、いつも通り明るい。
誓約領の人は、穏やかだ。並ぶ。待つ。騒がない。店の中にも、その秩序はある。
ルミナは裏で皿を洗っていた。水音が単調に響く。泡が弾ける。手は動く。止まらない。けれど、少しだけ、遅い。
「ルミナ、次お願い!」
「……うん。」
一拍、間があった。自分で分かる。ほんのわずか。ほんのわずかだけ、遅れている。
皿を拭きながら、表の声が聞こえる。
「青騎士、来るんだってね。」
「検疫三日らしいよ。」
笑い声。興味本位。不安はなく、警戒もない。
「見てみたいよね、青騎士。」
「制服かっこいいらしいよ。」
皿を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。水滴が、床に落ちる。
「……あ。」
気づいて、すぐに拭く。誰も見ていない。
「湿原経由なんでしょ?大変だよねぇ。」
「でもここなら安心だよ。」
安心。その言葉が、また耳に残る。
手は動いている。でも、思考はどこか別の場所にいる。
管理すれば、安心。
検疫すれば、安全。
接触を制限すれば、被害は広がらない。
正しい。正しいけど。
「ルミナ?」
振り向くと、セラが顔を覗かせていた。
「ぼーっとしてない?」
「……してない。」
嘘ではない。ただ、少し遅れているだけ。
「皿、山になってるよー。」
「今やる。」
袖をまくる。水に手を入れる。冷たい。水音が、少しだけ強くなる。
表では、客が笑っている。
「青騎士って、やっぱり強いのかな。」
「誓約領と何の話するんだろうね。」
「さあ?外交とかでしょ。」
外交。それだけで済むなら、いい。
泡が弾ける。皿の縁を、無意識に強く擦りすぎる。きゅ、と音が鳴る。
息を整える。何も起きていない。
店は回っている。街は静かだ。
「はい、追加三人分!」
「了解!」
声を張る。普通に。自然に。皿を重ねる。布で拭く。棚に戻す。
動きは正しい。ずれてはいない。
それでも、どこかに、小さな違和感が残っている。
何も起きていないのに、何かが、近づいている気がする。
水面は、静かだ。でも、その下で、何かが揺れている。
ルミナは、皿を拭きながら、目を伏せた。
考えない。今は。ただ、働く。それだけだった。




