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第六章 正しさが通った痕-④

***


広場を離れると、空気はすぐに元通りになった。人々は散り、市場は開き、子どもは走る。

何も崩れていない。

「……ルミナ?」

セラが顔を覗き込む。

「ほんとに大丈夫?」

「うん。」

返事は短い。声に張りがない。

「考えすぎ?」

「……ちょっとだけ。」

それ以上は言わない。言えば、うまく会話ができなくなる気がした。

石畳を歩きながら、二人は自然と掲示板の方へ向かう。

「働かないとね。」

セラはすでに通常運転だ。

「宿代三日って現実だよ?」

「分かってる。」

板の前に立つ。昨日と同じ整然とした札。だが、今日は少し様子が違う。

「……あれ?」

セラが眉を上げる。

「診療所の依頼、多くない?」

物資運搬、薬草補充、包帯補充、洗浄水の確保。似た内容の札が、並んでいる。

「昨日はこんなにあった?」

「なかった気がする。」

紙はきちんと貼られている。慌てた様子はない。でも、数だけが増えている。

「医療の国なのに、物資不足?」

セラが首を傾げる。

「そうだね……。」

ルミナは答えながら、どこか引っかかる。

第五区。さっきの担架。

(偶然、だよね。)

紙を一枚取る。

【第五区診療補助物資運搬 即日】

報酬は悪くない。

「これ、行けるかも。」

セラが即決する。

「早く終われば、他も回れる。」

「……うん。」

頷きながらも、胸の奥の重さは消えない。

診療所が忙しいのは、当たり前だ。人は倒れる。季節は変わる。移動もある。合理的な説明は、いくらでもある。

(なんで、第五区ばっかり。)

視線を板に戻す。同じ数字が、何枚も並んでいる。

「行く?」

セラはもう歩き出している。

「……行こ。」

足を踏み出す。溢れ出した不安は止まらなかった。


診療所の前は、人が多かった。出入りの回数が多い。白衣が、行き交う。

「依頼受けました。」

セラが札を見せると、受付の女性は一瞬だけほっとした顔をした。

「助かります。裏口からお願いします。」

緊急事態の匂いはない。声も落ち着いている。けれど、歩幅が少しだけ速い。

裏へ回る。

扉を開けた瞬間、空気が違った。湿った布の匂い。薬品の薄い刺激臭。そして、微妙な熱気。

「こっちです。」

案内された廊下を進む。

その途中で、担架とすれ違う。横たわっているのは、白衣の男性。刺繍が見えた。第五区世話係。

「軽度の脱水。意識あり。」

淡々とした報告。

「午前中で三人目ね。」

誰かが小さく言う。誰も驚かない。

セラが小声で囁く。

「……みんな働きすぎじゃない?」

「かも。」

ルミナは短く答える。でも、胸の奥が冷える。

三人目。

今朝、倒れたのも第五区。今、運ばれているのも。

偶然だ。

(……偶然?)

裏庭に出ると、物資箱が積まれていた。包帯、水袋、簡易薬草パック。

「第五区、補充優先で。」

職員が告げる。

やっぱり。

セラは気づいていない。箱を持ち上げながら言う。

「なんか、大変そうだね。」

「……そうだね。」

運ぶ。廊下を行き来する。

また担架。第五区の刺繍。

「検査値は正常域。」

「休養で様子見。」

言葉は穏やか。

誰も“異常”と言わない。怒りも、混乱もない。ただ、処理されていく。

それが、いちばん怖い。

(……増えてる。)

ルミナの指先が冷える。

右目は何も語らない。

でも、パターンだけは分かる。

第五区。移動直後。とまりの近くにいた人。

物資を運び終える頃には、額に汗が滲んでいた。診療所の空気は、まだ忙しい。

だが、昼を過ぎたころ。動きが、止まった。

担架が来ない。廊下が静まる。

「接触制限、徹底で。」

誰かが言う。

「第五区は午後、外部接触なし。」

静かな決定。セラが伸びをする。

「落ち着いたね。」

落ち着いたのは、状況じゃない。制御されたんだ。

(……護衛を増やした?)

とまりへの接触が減れば、代償も減る。

仮説だ。証明はない。

誰も疑問にしない。誰も、因果を結ばない。

「午後はもう終わりでいいって。」

受付の女性が笑う。

「助かりました。」

本当に、穏やかな顔だ。

全て、問題なく回っている。

「医療の国って感じだね。」

セラが満足そうに言う。

「ちゃんとしてる。」

ルミナは、返事をしなかった。胸の奥に、重いものが沈んでいる。

秩序はある。犠牲もある。でも、叫びはない。

(……ここは。)

正しい。

だからこそ。息が、少し苦しかった。


***


診療所を出ると、空気が少しだけ乾いていた。午前の慌ただしさが、嘘みたいに静まっている。

「終わったー。」

セラが伸びをする。

「大変だったねー。」

「……うん。」

ルミナは診療所の壁を振り返る。第五区接触制限。外部立入抑制。張り紙が増えている。整然と貼られているのが、逆に息苦しい。

石畳を歩き、広場の掲示板へ戻る。

依頼札の隣に、見慣れない公示が貼られていた。

深い青の紋章。交差する剣と、細い月弧。簡潔で、装飾のない印。

ルミナの視線が、そこで止まる。

「帝国青騎士団、湿原経由にて来訪予定。検疫三日。第三〜第六区画、一部通行制限。」

セラが眉をひそめる。

「……青騎士?」

一瞬、考えてから。

「あの人たち、なんで誓約領に?」

驚きというより、疑問。

「検疫三日ってことはさ、結構な人数だよね。」

セラは軽い。旅人は簡易確認で通されたが、騎士団のような大所帯はそうはいかない。

「なんかの取引かな?」

単なる外交かもしれない。湿原経由なら、衛生確認は当然だ。

でも。胸の奥が、ひや、と冷える。

帝国を出るときのことを思い出す。

灰色の魔術師を探している、という噂。

未来に関わる魔術に興味を持っている、という話。

青騎士が国境に派遣されている、という声。

全部、噂だ。確かなことは何ひとつない。

それでも。

城門の前で向けられた、あの視線。

灰青の目が、こちらを見て――

『……あなたは?』

確信ではなかった。

問いだった。

(……あれは、なんだった。)

偶然かもしれない。

通行人のひとりとして見ただけかもしれない。

(なんで、今。)

湿原は最短だ。だからこそ、急ぐ者が選ぶ。

青騎士が、わざわざ。理由は、いくらでも考えられる。

自分だと決まったわけじゃない。

それでも。

「ルミナ?」

セラの声で、現実に引き戻される。

「顔、怖いよ。」

「……え?」

「いや、青騎士ってだけでそんな顔になる?」

冗談半分の声。ルミナは、無理に息を整える。

「……別に、そんなことは。」

そう言うしかない。

自分なのか。違うのか。分からないのがいちばん怖い。

追われていると確信できれば、逃げられる。関係ないと断言できれば、安心できる。

曖昧。

あの時の、戸惑った視線みたいに。

(誰だ、そう言いたかったのだろう。)

ルミナには覚えはない。知らない人だと思う。なぜ、あの青騎士は自分にそんな目を向けたのか。

広場は、いつも通り静かだ。嫌な予感だけが、消えずにいた。

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