第六章 正しさが通った痕-④
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広場を離れると、空気はすぐに元通りになった。人々は散り、市場は開き、子どもは走る。
何も崩れていない。
「……ルミナ?」
セラが顔を覗き込む。
「ほんとに大丈夫?」
「うん。」
返事は短い。声に張りがない。
「考えすぎ?」
「……ちょっとだけ。」
それ以上は言わない。言えば、うまく会話ができなくなる気がした。
石畳を歩きながら、二人は自然と掲示板の方へ向かう。
「働かないとね。」
セラはすでに通常運転だ。
「宿代三日って現実だよ?」
「分かってる。」
板の前に立つ。昨日と同じ整然とした札。だが、今日は少し様子が違う。
「……あれ?」
セラが眉を上げる。
「診療所の依頼、多くない?」
物資運搬、薬草補充、包帯補充、洗浄水の確保。似た内容の札が、並んでいる。
「昨日はこんなにあった?」
「なかった気がする。」
紙はきちんと貼られている。慌てた様子はない。でも、数だけが増えている。
「医療の国なのに、物資不足?」
セラが首を傾げる。
「そうだね……。」
ルミナは答えながら、どこか引っかかる。
第五区。さっきの担架。
(偶然、だよね。)
紙を一枚取る。
【第五区診療補助物資運搬 即日】
報酬は悪くない。
「これ、行けるかも。」
セラが即決する。
「早く終われば、他も回れる。」
「……うん。」
頷きながらも、胸の奥の重さは消えない。
診療所が忙しいのは、当たり前だ。人は倒れる。季節は変わる。移動もある。合理的な説明は、いくらでもある。
(なんで、第五区ばっかり。)
視線を板に戻す。同じ数字が、何枚も並んでいる。
「行く?」
セラはもう歩き出している。
「……行こ。」
足を踏み出す。溢れ出した不安は止まらなかった。
診療所の前は、人が多かった。出入りの回数が多い。白衣が、行き交う。
「依頼受けました。」
セラが札を見せると、受付の女性は一瞬だけほっとした顔をした。
「助かります。裏口からお願いします。」
緊急事態の匂いはない。声も落ち着いている。けれど、歩幅が少しだけ速い。
裏へ回る。
扉を開けた瞬間、空気が違った。湿った布の匂い。薬品の薄い刺激臭。そして、微妙な熱気。
「こっちです。」
案内された廊下を進む。
その途中で、担架とすれ違う。横たわっているのは、白衣の男性。刺繍が見えた。第五区世話係。
「軽度の脱水。意識あり。」
淡々とした報告。
「午前中で三人目ね。」
誰かが小さく言う。誰も驚かない。
セラが小声で囁く。
「……みんな働きすぎじゃない?」
「かも。」
ルミナは短く答える。でも、胸の奥が冷える。
三人目。
今朝、倒れたのも第五区。今、運ばれているのも。
偶然だ。
(……偶然?)
裏庭に出ると、物資箱が積まれていた。包帯、水袋、簡易薬草パック。
「第五区、補充優先で。」
職員が告げる。
やっぱり。
セラは気づいていない。箱を持ち上げながら言う。
「なんか、大変そうだね。」
「……そうだね。」
運ぶ。廊下を行き来する。
また担架。第五区の刺繍。
「検査値は正常域。」
「休養で様子見。」
言葉は穏やか。
誰も“異常”と言わない。怒りも、混乱もない。ただ、処理されていく。
それが、いちばん怖い。
(……増えてる。)
ルミナの指先が冷える。
右目は何も語らない。
でも、パターンだけは分かる。
第五区。移動直後。とまりの近くにいた人。
物資を運び終える頃には、額に汗が滲んでいた。診療所の空気は、まだ忙しい。
だが、昼を過ぎたころ。動きが、止まった。
担架が来ない。廊下が静まる。
「接触制限、徹底で。」
誰かが言う。
「第五区は午後、外部接触なし。」
静かな決定。セラが伸びをする。
「落ち着いたね。」
落ち着いたのは、状況じゃない。制御されたんだ。
(……護衛を増やした?)
とまりへの接触が減れば、代償も減る。
仮説だ。証明はない。
誰も疑問にしない。誰も、因果を結ばない。
「午後はもう終わりでいいって。」
受付の女性が笑う。
「助かりました。」
本当に、穏やかな顔だ。
全て、問題なく回っている。
「医療の国って感じだね。」
セラが満足そうに言う。
「ちゃんとしてる。」
ルミナは、返事をしなかった。胸の奥に、重いものが沈んでいる。
秩序はある。犠牲もある。でも、叫びはない。
(……ここは。)
正しい。
だからこそ。息が、少し苦しかった。
***
診療所を出ると、空気が少しだけ乾いていた。午前の慌ただしさが、嘘みたいに静まっている。
「終わったー。」
セラが伸びをする。
「大変だったねー。」
「……うん。」
ルミナは診療所の壁を振り返る。第五区接触制限。外部立入抑制。張り紙が増えている。整然と貼られているのが、逆に息苦しい。
石畳を歩き、広場の掲示板へ戻る。
依頼札の隣に、見慣れない公示が貼られていた。
深い青の紋章。交差する剣と、細い月弧。簡潔で、装飾のない印。
ルミナの視線が、そこで止まる。
「帝国青騎士団、湿原経由にて来訪予定。検疫三日。第三〜第六区画、一部通行制限。」
セラが眉をひそめる。
「……青騎士?」
一瞬、考えてから。
「あの人たち、なんで誓約領に?」
驚きというより、疑問。
「検疫三日ってことはさ、結構な人数だよね。」
セラは軽い。旅人は簡易確認で通されたが、騎士団のような大所帯はそうはいかない。
「なんかの取引かな?」
単なる外交かもしれない。湿原経由なら、衛生確認は当然だ。
でも。胸の奥が、ひや、と冷える。
帝国を出るときのことを思い出す。
灰色の魔術師を探している、という噂。
未来に関わる魔術に興味を持っている、という話。
青騎士が国境に派遣されている、という声。
全部、噂だ。確かなことは何ひとつない。
それでも。
城門の前で向けられた、あの視線。
灰青の目が、こちらを見て――
『……あなたは?』
確信ではなかった。
問いだった。
(……あれは、なんだった。)
偶然かもしれない。
通行人のひとりとして見ただけかもしれない。
(なんで、今。)
湿原は最短だ。だからこそ、急ぐ者が選ぶ。
青騎士が、わざわざ。理由は、いくらでも考えられる。
自分だと決まったわけじゃない。
それでも。
「ルミナ?」
セラの声で、現実に引き戻される。
「顔、怖いよ。」
「……え?」
「いや、青騎士ってだけでそんな顔になる?」
冗談半分の声。ルミナは、無理に息を整える。
「……別に、そんなことは。」
そう言うしかない。
自分なのか。違うのか。分からないのがいちばん怖い。
追われていると確信できれば、逃げられる。関係ないと断言できれば、安心できる。
曖昧。
あの時の、戸惑った視線みたいに。
(誰だ、そう言いたかったのだろう。)
ルミナには覚えはない。知らない人だと思う。なぜ、あの青騎士は自分にそんな目を向けたのか。
広場は、いつも通り静かだ。嫌な予感だけが、消えずにいた。




