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第六章 正しさが通った痕-③

足音は、広場の手前で一度よろけた。石畳に、ぐしゃ、と湿った音が混ざる。

人々の視線が、ゆっくりとそちらへ向く。誰も騒がない。ただ、視線だけが揃う。

走ってきたのは、若い男だった。誰かを背負って走ってくる。背中で、細い腕がだらりと垂れていた。

女性だ。顔色は白い。唇が青い。呼吸が浅い。

「とまり様、お願いします……!」

男はその場に崩れ落ちた。

「妻が……もう、息が…!」

広場の空気が、わずかに揺れる。

世話係の一人が、前へ出た。

「順番に対応します。まずは診療所で――」

「それは!」

男の声が、初めて割れた。その一瞬だけ、広場の均衡が崩れる。

「診療所では、もう…無理だって…。」

言葉が続かない。喉が震える。

「とまり様…!」

静まり返る。風の音だけが通る。

とまりは、首を傾げた。まるで、難しい言葉を聞いた子どもみたいに。

「くるしいの?」

男は、膝をついた。

「お願いします。助けてください。」

頭が、石畳に触れる。誓約領では、滅多に見ない動作だった。

世話係の顔色が、変わる。

「規定外です。移動前の対応は――」

とまりが、一歩、前へ出た。世話係の制止より、わずかに早い。

「いいよ。」

ふわり、と。軽い声。

「みてくる。」

一瞬、空気が止まる。世話係が、とまりの腕を掴んだ。

「本日は移動日です。体力温存が優先です。」

「だいじょうぶだよ。」

とまりは笑う。

「ちょっとだけだから。」

その言葉に、男の顔が崩れた。

「ありがとうございます……!」

男は、とまりに近づく。

世話係が、間に入ろうとする。でも、広場にいる全員の視線が、とまりに向いている。

止められない。止めれば、明確な拒絶になる。

とまりは、女性の額に、そっと触れる。

指先だけ。ほんの、一瞬。

空気が、変わる。温度が落ちる。音が消える。

ルミナの右目が、じり、と焼ける。

視界の端で、何かが歪む。

次の瞬間。

女性の胸が、大きく上下した。顔色が、戻る。

「……っ、は……!」

息を吸う。色が戻る。男が、泣き崩れた。

「ありがとうございます……!」

周囲から、小さな安堵の息が漏れる。

歓声はない。ただ、深い安心。

「よかったー。」

とまりは、ほんの少しだけ笑った。

その後ろ。背後で、何かが崩れる音がした。

どさり。

振り返る。

白衣の世話係の一人が、地面に倒れている。目を見開いたまま。呼吸が、荒い。

周囲が、一瞬だけ、凍る。

でも。誰も、叫ばない。

「担架を。」

淡々とした声。別の職員が、すぐに駆け寄る。

「低血圧。脈拍低下。」

「運びます。」

手際は、完璧だった。訓練されている。

予想していた動き。それが、余計に冷たい。

男は、それに気が付かず、とまりに何度も頭を下げている。

「ありがとうございます、本当に……!」

とまりは、きょとんとした顔で、倒れた世話係を見ている。

「……ねむいのかな?」

無邪気な声。本気で、分かっていない。

ルミナの喉が、ひりつく。

(……代償。)

はっきりと、分かってしまった。

右目の奥が、焼ける。

これは。自分と、同じ。

周囲の人間が、支払う。

本人は守られ、記憶は薄れる。

正しい国。管理された者。準備された世話係。

これが、コスト。

多数のために行われる、少数への残虐。

それを、社会では――正義と呼ぶ。

広場は、もう元の静けさを取り戻そうとしている。

「移動を開始します。」

職員の声が、整然と響く。まるで、何も起きていないみたいに。

とまりは、子どもに手を引かれて歩き出す。

「いこー。」

笑っている。さっきと同じ顔で。倒れた世話係のことは気にしていない。

ルミナだけが、動けなかった。

セラが、隣で小さく言う。

「あの人、急にどうしたんだろ?大丈夫かな。」

偶然じゃない。

あれは、支払いだ。

言えば、とまりは罪人になる。

でも、それは違う。

罪なのは、あの仕組みだ。他人に支払わせるという代償。

知らずに使うことも、知っていて黙ることも。そして、自分がそれを持っていることも。

ーー全部、同じだ。

「……そう、だね。」

なんとか絞り出して答えた。胸の奥は冷え切って、重い。

もし誰かが気づけば、問いは向く。

なぜ、と。

どうして、と。

それは、きっと自分にも向く。

自分は、逃げられない。

「ルミナ?大丈夫?」

言葉が、続かない。セラが心配そうにルミナを見ていた。

視線は、担架に向いたまま。布で覆われた、白い手。さっきまで立っていた人。静かすぎる広場。

ゆっくりと、とまりの背中を見る。子どもに囲まれ、笑って、愛されて、ただそこにいる。

守られている。守られるための仕組みの中で。

それが正しいと、決められている。

正しくあるために、そうするしかないから。


***


広場のざわめきは、すぐに収まった。担架は消え、布で覆われた白は視界から外れる。

子どもたちはまた笑い、とまりは手を振る。何事もなかったように、移動の列が整う。

世界は、乱れない。それがいちばん、怖かった。

「……ルミナ?」

セラの声が遠い。

答えなきゃ、と思うのに、思考が別のところに落ちていく。

あれは偶然じゃない。でも、誰も偶然以外の言葉を持たない。

知らなければ、事故。

知っていれば、仕組み。

仕組みと呼んだ瞬間、それは正当化を持つ。

胸の奥が、きし、と鳴る。

(じゃあ。)

とまりは、守られている。

知らない。だから、笑っていられる。

世話係は、倒れる。でも、叫ばない。取り乱さない。

訓練された動き。予測された事態。

国は、理解している。理解したうえで、整えている。

それは残酷か?

それとも、誠実か?

外れ値を野放しにすれば、被害は増える。

管理すれば、被害は限定される。

限定された犠牲。その上に成り立つ平穏。

(……合理的だ。)

否定できない。

私がやってきたことはどうだろう。

未来を見て、選んで、避けて。

それでも、誰かは倒れた。名前を覚えている。顔も覚えている。

消えない。

私は、知っていて使った。

とまりは、知らずに使っている。

どちらが罪深い?

知らないことは免罪か。

知っていることは高潔か。

違う。どちらも、誰かを傷つけている。

右目の奥は、何も語らない。

(……私は、どうしたい。)

誓約領にいれば、管理されるかもしれない。

代償は制御される。

責任は国家が負う。

私は、楽になる。

重さを背負わなくていい。

でも。

それは、私が選ぶことをやめるということだ。

選ばない自由。

選ばない幸福。

とまりは、幸福そうだった。

あれは本物か?知らないままの幸福は、偽物か?

……もし、あれが本物だったら。

私の苦しみは、なんなんだろう。

正しくあろうとした時間は、なんだ。

苦しむことが正義だと、どこで決めたのか。

胸の奥が、じわじわと熱くなる。

(私は。)

幸福になりたいのか。

正しくありたいのか。

どちらも欲しいなんて、言える立場なのか。

視線の先で、とまりが振り返る。

一瞬だけ、目が合う。

笑っている。何も知らない顔で。

「……。」

ルミナは、息を吸った。

答えは出ない。

でも、問いだけは、はっきりしてしまった。

私は、どう生きる。どう在る。

その問いから、もう逃げられない。

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