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第六章 正しさが通った痕-②

***


朝の鐘が、ひとつだけ鳴った。乾いた、澄んだ音だった。

誓約領の朝はいつも静かだが、今日は、ほんの少しだけ人の気配が多い。

石畳を行き交う足音。白い衣。低い話し声。

市場ほど賑やかではない。祭りほど浮き足立ってもいない。ただ、皆が同じ方向へ歩いている。

「なんか今日、賑やかじゃない?」

セラがきょろきょろと首を回した。

「検診の日?」

「違うみたい。」

ルミナも周囲を見る。

買い物袋を持った人。子どもを連れた家族。年配の夫婦。白衣の職員。年齢も格好もばらばらなのに、足並みだけが揃っている。

「……あ。」

前を歩いていた子どもが振り返った。休憩所で団子を取り合っていた子だ。

「旅の人!」

「おはよー!」

「とまり様に会いに来たのー?」

「……とまり様?」

セラが首を傾げる。

「うん。移動の日。」

「いどう?」

「うん。別の区画にお引っ越しするの。」

子どもは当たり前みたいに言った。

「だから、ちょっとだけ出てきてくれるんだよ。」

「出てきてくれる?」

「うん。あいさつ。」

「……人気者みたいだね。」

セラが笑う。

「うん!みんな大好きだよ!」

子どもは胸を張った。

「だって、とまり様いると安心するもん。」

安心。その言葉が、やけに重く聞こえた。

診療所の前の広場に、人が集まり始めている。押し合いもしない。騒ぎもしない。ただ、一定の距離を保って、静かに待っている。まるで、順番を待つみたいに。

「……ほんとに静かだね。」

セラが小声で言う。

行事のはずなのに、歓声がない。期待のざわめきもない。

ただ、待つ。それだけ。

白い石壁に朝日が反射して、広場がやけに明るい。眩しいのに、温度がない。

ルミナは無意識に、右目を押さえた。布越しに、じり、とした熱が残っている。

(……嫌な感じ。)

昨日の熱がぶり返すような、胸の奥が、落ち着かない。

そのとき。

診療所の奥の扉が、ゆっくり開いた。

がちゃり、と。重たい金具の音が、やけに大きく響いた。

人の気配が、すっと静まる。誰も声を出さない。風の音だけが通り抜けた。

白衣の職員が、二人。その間から、小さな影が、ふらりと出てくる。

「……あ。」

子どもが、小さく手を振った。

「とまり様だ。」

淡い色の髪。細い身体。眠たそうな目。昨日の夜、窓越しに見た横顔と、同じだった。

とまりは、欠伸をひとつして。のんびりと、周囲を見回した。

「……おはよー。」

ゆるい声だった。まるで、散歩に出てきただけみたいに。

拍手も、歓声もない。それなのに、人がゆっくり増えていく。

「おはよー。」

もう一度、とまりが言った。気の抜けた声。その一言だけで、周囲の空気がやわらぐ。

「おはようございます、とまり様。」

前にいた老人が、深く頭を下げる。隣の子どもも、ぺこ、と真似する。

「昨日ね、スープおいしかったよ。」

「そうなの?よかったー。」

とまりは、ふにゃっと笑った。

柔らかい笑顔。誰からも好かれるような、優しさに溢れた顔だった。不思議と目が離せない。

「腕、もう痛くない?」

「うん!ぜんぜん!」

「よかったねー。」

会話が、全部この調子だ。世間話。天気の話をするような軽さ。治療の英雄とか、奇跡の人とか、そんな扱いじゃない。

ただ、近所の優しい人。

「……なんかさ。」

セラが小声で言う。

「思ってたのと違う。」

「違う?」

「様付けされてるし…もっとこう、すごい人!みたいなの想像してた。」

こそこそ笑う。

「ふつうに、かわいくない?」

確かに。

白くて、細くて、背も低い。ぼんやりしていて、眠たそうで。守られる側にしか見えない。

「ぬいぐるみみたい……。」

「それ失礼じゃない?」

「でもさ、なんか、ほっとする顔してる。」

子どもが、とまりの服を引っ張った。

「ねえねえ、今日どこいくの?」

「んー、第十区画かなー。」

「えー!遠い!」

「歩くのやだー。」

「だいじょぶだよー。ゆっくり行くから。」

ふわふわした返事。子どもたちが、きゃっきゃと笑う。

誰も怖がってない。誰も緊張してない。ただ、好きで集まっている。

それが、見ていて分かる。

「人気者だねぇ。」

セラが団子をもぐもぐしながら言う。

「なんかもう、町のマスコットじゃん。」

「……うん。」

ルミナは、曖昧に頷いた。視線は、とまりから離れない。

昨日の夜。窓越しの月明かり。

『もっと楽しくすればいいのに。』

『好きにすればいいのに。』

あの声が、まだ耳の奥に残っている。

(……好きに、って。)

とまりの背後。分厚い扉に、外側の鍵。常に付き添う世話係。数人の白衣が、一定距離で囲んでいる。

どう見ても、監視と隔離だ。

なのに。本人だけが、いちばん自由そうに笑っている。

「……。」

胸の奥が、ざら、とする。

閉じ込められてるのは、そっちだ。でも、苦しそうなのは、自分の方。理由の分からない違和感が、じわじわ広がる。

セラは、もう子どもたちに混ざっていた。

「触っていい!?」

「やさしくねー。」

「うわ、手ちっちゃ!」

「つめたーい!」

きゃあきゃあ。とまりは、されるがまま。くすぐったそうに笑っている。

怒らない。拒まない。怖がらない。

そこにいるだけで、こんなにも皆が安心している。

(……こんなの。)

正しいに、決まってる。

魔術もない。犠牲も見えない。争いもない。

ここにいれば、誰も泣かない。誰も、選ばなくていい。

(……じゃあ、なんで。)

右目の奥が、じり、と熱を持った。理由のない、不安。

悲劇の未来を回避するための、新たな悲劇。それを選んだ自分。

胸の底で、何かが静かに軋む。

とまりは楽しそうに笑っていた。皆に愛されていた。 

その光景がずっと遠い。

「みんなで行こー。」

子どもたちと手を繋ぎながらとまりが進んでいく。

そのとき。

広場の端から、ひとつだけ。場違いな音がした。

荒い、足音。石畳を蹴る、乱れた音。

誰かが、走ってくる。

規則正しい誓約領の歩幅とは、明らかに違う音だった。

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