第六章 正しさが通った痕-②
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朝の鐘が、ひとつだけ鳴った。乾いた、澄んだ音だった。
誓約領の朝はいつも静かだが、今日は、ほんの少しだけ人の気配が多い。
石畳を行き交う足音。白い衣。低い話し声。
市場ほど賑やかではない。祭りほど浮き足立ってもいない。ただ、皆が同じ方向へ歩いている。
「なんか今日、賑やかじゃない?」
セラがきょろきょろと首を回した。
「検診の日?」
「違うみたい。」
ルミナも周囲を見る。
買い物袋を持った人。子どもを連れた家族。年配の夫婦。白衣の職員。年齢も格好もばらばらなのに、足並みだけが揃っている。
「……あ。」
前を歩いていた子どもが振り返った。休憩所で団子を取り合っていた子だ。
「旅の人!」
「おはよー!」
「とまり様に会いに来たのー?」
「……とまり様?」
セラが首を傾げる。
「うん。移動の日。」
「いどう?」
「うん。別の区画にお引っ越しするの。」
子どもは当たり前みたいに言った。
「だから、ちょっとだけ出てきてくれるんだよ。」
「出てきてくれる?」
「うん。あいさつ。」
「……人気者みたいだね。」
セラが笑う。
「うん!みんな大好きだよ!」
子どもは胸を張った。
「だって、とまり様いると安心するもん。」
安心。その言葉が、やけに重く聞こえた。
診療所の前の広場に、人が集まり始めている。押し合いもしない。騒ぎもしない。ただ、一定の距離を保って、静かに待っている。まるで、順番を待つみたいに。
「……ほんとに静かだね。」
セラが小声で言う。
行事のはずなのに、歓声がない。期待のざわめきもない。
ただ、待つ。それだけ。
白い石壁に朝日が反射して、広場がやけに明るい。眩しいのに、温度がない。
ルミナは無意識に、右目を押さえた。布越しに、じり、とした熱が残っている。
(……嫌な感じ。)
昨日の熱がぶり返すような、胸の奥が、落ち着かない。
そのとき。
診療所の奥の扉が、ゆっくり開いた。
がちゃり、と。重たい金具の音が、やけに大きく響いた。
人の気配が、すっと静まる。誰も声を出さない。風の音だけが通り抜けた。
白衣の職員が、二人。その間から、小さな影が、ふらりと出てくる。
「……あ。」
子どもが、小さく手を振った。
「とまり様だ。」
淡い色の髪。細い身体。眠たそうな目。昨日の夜、窓越しに見た横顔と、同じだった。
とまりは、欠伸をひとつして。のんびりと、周囲を見回した。
「……おはよー。」
ゆるい声だった。まるで、散歩に出てきただけみたいに。
拍手も、歓声もない。それなのに、人がゆっくり増えていく。
「おはよー。」
もう一度、とまりが言った。気の抜けた声。その一言だけで、周囲の空気がやわらぐ。
「おはようございます、とまり様。」
前にいた老人が、深く頭を下げる。隣の子どもも、ぺこ、と真似する。
「昨日ね、スープおいしかったよ。」
「そうなの?よかったー。」
とまりは、ふにゃっと笑った。
柔らかい笑顔。誰からも好かれるような、優しさに溢れた顔だった。不思議と目が離せない。
「腕、もう痛くない?」
「うん!ぜんぜん!」
「よかったねー。」
会話が、全部この調子だ。世間話。天気の話をするような軽さ。治療の英雄とか、奇跡の人とか、そんな扱いじゃない。
ただ、近所の優しい人。
「……なんかさ。」
セラが小声で言う。
「思ってたのと違う。」
「違う?」
「様付けされてるし…もっとこう、すごい人!みたいなの想像してた。」
こそこそ笑う。
「ふつうに、かわいくない?」
確かに。
白くて、細くて、背も低い。ぼんやりしていて、眠たそうで。守られる側にしか見えない。
「ぬいぐるみみたい……。」
「それ失礼じゃない?」
「でもさ、なんか、ほっとする顔してる。」
子どもが、とまりの服を引っ張った。
「ねえねえ、今日どこいくの?」
「んー、第十区画かなー。」
「えー!遠い!」
「歩くのやだー。」
「だいじょぶだよー。ゆっくり行くから。」
ふわふわした返事。子どもたちが、きゃっきゃと笑う。
誰も怖がってない。誰も緊張してない。ただ、好きで集まっている。
それが、見ていて分かる。
「人気者だねぇ。」
セラが団子をもぐもぐしながら言う。
「なんかもう、町のマスコットじゃん。」
「……うん。」
ルミナは、曖昧に頷いた。視線は、とまりから離れない。
昨日の夜。窓越しの月明かり。
『もっと楽しくすればいいのに。』
『好きにすればいいのに。』
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
(……好きに、って。)
とまりの背後。分厚い扉に、外側の鍵。常に付き添う世話係。数人の白衣が、一定距離で囲んでいる。
どう見ても、監視と隔離だ。
なのに。本人だけが、いちばん自由そうに笑っている。
「……。」
胸の奥が、ざら、とする。
閉じ込められてるのは、そっちだ。でも、苦しそうなのは、自分の方。理由の分からない違和感が、じわじわ広がる。
セラは、もう子どもたちに混ざっていた。
「触っていい!?」
「やさしくねー。」
「うわ、手ちっちゃ!」
「つめたーい!」
きゃあきゃあ。とまりは、されるがまま。くすぐったそうに笑っている。
怒らない。拒まない。怖がらない。
そこにいるだけで、こんなにも皆が安心している。
(……こんなの。)
正しいに、決まってる。
魔術もない。犠牲も見えない。争いもない。
ここにいれば、誰も泣かない。誰も、選ばなくていい。
(……じゃあ、なんで。)
右目の奥が、じり、と熱を持った。理由のない、不安。
悲劇の未来を回避するための、新たな悲劇。それを選んだ自分。
胸の底で、何かが静かに軋む。
とまりは楽しそうに笑っていた。皆に愛されていた。
その光景がずっと遠い。
「みんなで行こー。」
子どもたちと手を繋ぎながらとまりが進んでいく。
そのとき。
広場の端から、ひとつだけ。場違いな音がした。
荒い、足音。石畳を蹴る、乱れた音。
誰かが、走ってくる。
規則正しい誓約領の歩幅とは、明らかに違う音だった。




