第六章 正しさが通った痕
診療所は、昨日より少しだけ慌ただしかった。廊下を行き交う白衣の数が多い。声は抑えられているのに、足音が増えている。
「色々ありがとうございました。」
セラが明るく頭を下げる。受付の女性は柔らかく笑った。
「もう大丈夫そうですね。よかった。」
それだけ。いつも通りの診療所だ。
でも、関係者以外立ち入り禁止の札が掛けられた奥の扉が、ひとつだけ開いている。
そこから、担架が出てきた。布は掛けられていない。
横たわっているのは、白衣の女性。顔色が悪い。意識はあるが、焦点が合っていない。
「少し休ませます。」
淡々とした声。騒ぎにはならない。慣れている動き。
セラが小さく言う。
「大丈夫かな……。」
「最近ちょっと立て込んでて。」
別の職員が、申し訳なさそうに笑う。
セラがルミナを見る。
「……なんか手伝えることないかな。」
ルミナも頷いた。
「洗濯とか、運ぶだけでも。」
職員は一瞬迷って、それから笑った。
「じゃあ、裏でタオルだけお願いしてもいい?」
裏庭に出ると、白い布の山があった。
昨日より多い。いや、昨日より“明らかに”。
セラが思わず言う。
「……すごい量。」
「そうなのよ。ごめんなさいね。」
年配の女性が布を水から引き上げながら言う。
干していく。一枚。また一枚。
端に刺繍。第五区画世話係。
また同じ刺繍。
また。
また。
「最近、体調崩す人多いんですか?」
ルミナは何気なく聞いた。女性は肩をすくめる。
「季節の変わり目ってやつかしら。」
笑う。
「検査では問題なしよ。少し休めば戻るわ。」
大したことはない、という顔。
風が吹く。白い布が、いっせいに揺れた。
診療所を出ると、昼の光がまぶしかった。
「はー……思ったより働いたね。」
セラが腕を回す。
「タオル、あんなにあるとは思わなかった。」
「……うん。」
乾かしても乾かしても、次が来る。山が減らない。
白い布が積み重なる光景が、まだ目の裏に残っている。
「最近忙しいって言ってたよね。」
セラはあまり深く考えていない声音で言う。
「風邪でも流行ってるのかな。」
「……かもね。」
そう答えながら、ルミナは思い出す。
裏手から運ばれていった世話係。顔色の悪さ。
職員の、ほんの一瞬の目配せ。
でも、診療所は整っていた。誰も慌てていなかった。
「大変そうだよね。」
セラは少しだけ真面目な声になる。
「でもさ、ちゃんと回ってるの、すごくない?」
あれだけの量。あれだけの人。それでも、秩序は崩れていない。
「うん。」
「やっぱ医療の国だよね。」
セラが笑う。
「ここにいたら病気しなさそう。」
「確かに。セラもすぐ治ったもんね。」
「久々に体調崩したなー。やっぱり湿原かな。あれはいただけない。」
セラの渋い顔に、ルミナは笑う。元気になって本当に良かった。
「ルミナ、看病してくれてありがとう。」
セラがさらっと言う。軽い声。何気ない感謝。
ルミナは一瞬だけ言葉に詰まる。
「……うん。」
自分の手で、熱を下げたわけじゃない。ただ、水を替えて、額を拭いて、そばにいただけ。
それでも。
「助かったよ。」
セラは笑う。
「知らない土地で倒れるの、ちょっと不安だったし。」
その言葉が、胸の奥に残る。
知らない土地で倒れる。この国なら、すぐ治る。整っている。回っている。守られている。
「……ここ、ちゃんとしてるよね。」
ルミナがぽつりと言う。
「そうだよね。」
セラは即答する。
「決まりあるし、無茶しないし、ちゃんと順番守るし。」
少し歩いて、石畳の角を曲がる。人の流れも穏やかだ。
「しばらくいてもいいかもね。」
セラが軽く言う。
その言葉に、ルミナの足がほんの少しだけ止まりかける。
理由は、うまく言葉にならない。
「……うん。」
少し歩いてから、セラがふと思い出したように言う。
「……でさ。」
「うん?」
「所持金、どれくらいだっけ。」
現実だった。
「宿代、あと何日いける?」
ルミナは小さく息を吐く。
「三日。節約すれば四日。」
「よし、働こう。」
即答。
「医療の国なら、護衛より雑務の依頼の方が多そうだよね。」
「……タオル畳み?」
「いやそれ無償ボランティアだから。」
石畳の角を曲がると、掲示板が見えてきた。旅人向けの依頼札が、板いっぱいに並んでいる。
「とりあえず見とく?」
セラがひょいと覗き込む。
「うん。」
紙は整然と並んでいる。誓約領らしい。内容も穏やかだ。
薬草採取、物資の運搬、飲食店の補助業務。
「……戦闘系がないね。」
セラが小声で言う。
「ここ、争いなさそうだもんね。」
「平和だなあ。」
ルミナは一枚、札を手に取る。報酬は悪くない。でも、集合は早朝。今からでは間に合わない。
「今日はもう無理だね。」
「うん。昼過ぎちゃったし。」
セラは背伸びをする。誓約領の夜は早い。灯りは整って消えていく。
「じゃ、今日はゆっくりして、明日ちゃんと探そ。」
「そうだね。」
板に札を戻す。風が紙を揺らす。どれも真っ直ぐに貼られていて、乱れていない。
「平和っていいねー。」
セラが何気なく言う。ルミナは、少しだけ間を置いて頷いた。
「……うん。」
整っている。回っている。無駄がない。
旅を急ぐ理由は、今のところない。
「じゃあ、今日は市場でも冷やかす?」
「いいね。ちゃんと稼いでから豪遊しよ。」
二人は並んで歩き出す。明日のことを、普通に考えながら。




