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第五章 指先だけの温度-⑦

***


宿に戻った頃には、空はすっかり群青に沈んでいた。白い石壁が、昼とは別人みたいに青く冷えている。

「はー……今日も歩いた……。」

セラが寝台に倒れ込む。

「もう無理。三秒で寝れる。」

「子どもか。」

苦笑しながら荷物を下ろす。

「おやすみ……団子……むにゃ……」

本当に三秒だった。規則正しい寝息が、すぐに聞こえてくる。

静かだ。昼間はあんなに笑っていたのに、急に世界が遠くなる。

目を閉じる。閉じても、分厚い扉が浮かぶ。

淡い緑の人影。

右目の奥が、じり、と熱を持った。

(……だめだ。)

眠れる気がしない。

「……ちょっと、外の空気吸ってくる。」

返事はない。セラは毛布に埋まっている。

起こさないように、そっと扉を開けた。夜の空気は、ひやりと冷たい。

気づけば、足は診療所の方角へ向いていた。


夜の誓約領は、昼とは別の国みたいだった。白い石壁は青く沈み、窓の明かりも少ない。人の気配が、ほとんどない。昼間あれだけ整然と動いていた生活が、すべて止まっている。

静かすぎて、自分の足音だけが浮いて聞こえた。

やめておいた方がいい。

そう思うのに、足は止まらなかった。理由はうまく言えない。ただ、胸の奥がざわざわする。

落ち着かない。確かめないと眠れない。それだけだった。

診療所の建物が見えてくる。

昼間は白くて清潔だった壁が、夜だとやけに冷たい。墓標みたいに、のっぺり立っている。灯りは、ほとんど落ちていた。入口の扉に手をかける。

開かない。

「……だよね。」

小さく呟く。取っ手が、やけに冷たい。

裏手に回り、足音を殺して進んだ。

誰もいないはずなのに、やけに心臓がうるさい。

どく、どく、と耳の奥で鳴る。

裏口。小さな搬入口。こちらも閉まっている。

窓。細長い明かり取り。中は暗い。何も見えない。

入れるわけがない。それでも、体が勝手に壁をなぞっていた。

白い石。どこも同じ。隙間も、死角もない。

この国らしい。侵入なんて、最初から想定していない造り。

なのに。足が、止まった。

奥の区画。昼間見た、あの廊下。

灯りが、一つだけ点いている。淡い、橙色。消し忘れみたいな、小さな光。

(……まだ、人がいる?)

喉が鳴る。静かに、扉に近づく。昼間より、ずっと大きく見える。

分厚い木。金具。重たい蝶番。

【関係者以外立入禁止】

札だけが、やけに白い。

指先が、じわ、と汗ばむ。右目の奥が、また熱を持つ。あの淡い緑。視線。

あの時、直感した瞬間の、あの感覚。

(……ここに、いる。)

理由はない。確信だけがあった。

取っ手に、そっと触れる。動かない。鍵が掛かっている。

でも。引いて、押して、もう一度確かめる。

がちゃ。

小さな金属音が、廊下に響いた。

その瞬間。

足音。

遠くから。規則正しい、靴音。

とん。

とん。

血の気が引く。

(やば……。)

反射的に、壁際へ身を寄せる。息を止める。

足音が近づいてきた。

とん。

とん。

とん。

逃げ場がない。廊下は一直線で、隠れる場所も、物陰もない。

(まず――)

思考が形になる前に。

背後から、腕が伸びた。ぐい、と強く引かれる。

視界が反転する。

「――っ」

声が出る前に、口を塞がれた。

硬い掌。背中が、壁に押し付けられる。もう片方の腕が、手首ごとまとめて拘束される。

完全に動けない。息が詰まる。

目の前、すぐそこに、影。

金色の瞳。

「騒ぐな。」

小さく、低い、温度のない声。

アウレリオだった。

昼間の穏やかな声音はどこにもない。ただの命令。

ルミナの口を塞いだまま、顎で廊下を示す。白衣の職員が二人、会話しながら通り過ぎる。

「隔離室の記録、更新済みか?」

「はい。巡回はあと一回です。」

足音。

近い。すぐ横を通る。

呼吸が触れそうな距離。心臓がうるさい。

ばく、ばく、と耳の奥で鳴る。

(聞こえる……絶対聞こえる……)

でも。職員たちは気づかない。

そのまま角を曲がり、音が遠ざかる。

静寂。

やっと、アウレリオの手が離れた。空気が肺に流れ込む。

「げほっ……!」

小さく咳き込む。

顔を上げると、アウレリオは無表情だった。昼間みたいな柔らかさは、一切ない。氷みたいな目。

「何をしている。」

短い確認。

「……っ、あなたこそ……!」

「何をしている。」

言葉が切られた。完全に上位の声。

「ここは夜間立入禁止だ。」

「知ってる。」

「なら帰れ。」

即答。情けも、配慮もない。

「……帰らない。」

自分でも驚くほど、強い声だった。アウレリオの目が、わずかに細くなる。

「……奥の人に、会いたい。」

沈黙。

「私と、同じな気がした。」

視線だけが、突き刺さる。

数秒。

ちっ

返ってきたのは舌打ちだった。

「勝手にしろ。」

「……え?」

拍子抜けするほど、冷たい返事。

「……いいの?」

「俺の管轄じゃない。」

即答。

「見つかったら、お前が隔離されるだけだ。」

どうでもよさそうな相槌。

「俺は関与しない。」

完全に他人事だった。

懐に手を入れる。ちゃり、と金属音。鍵を一本取り出した。

無造作に、ルミナへ放る。かつん、と胸に当たって、床に落ちた。

「……っ」

視線すら向けない。

「勝手にしろ。」

それだけ言って、壁から背を離した。

「俺は何も見ていない。目立つな。」

足音が遠ざかる。

残されたのは、冷たい床と、小さな鍵だけだった。


巡回の足音は完全に消えた。廊下には、もう何も気配がない。

地面に落ちた鍵を拾う。思ったより重かった。金属が冷えている。指先の体温を吸い取るみたいに、じわ、と冷たい。

廊下は狭い。昼間よりさらに細く感じる。天井は低く、壁は白い。

足音は殺しているのに、やけに響く。

奥に進むほど、空気が変わった。

薬草の匂いが薄れ、代わりに、石の湿り気みたいな冷たさが強くなる。

扉が並んでいる。どれも同じ形、同じ金具。ぴたりと閉じられていて、隙間がない。

この国らしい。余白を残さない造り。

ひとつ、そっと鍵を差してみる。

違う。次も違う。

全部が同じに見える。焦りが、喉に絡んだ。

(どれ……)

そのとき。

くすっ

かすかな笑い声。

凍る。廊下の奥。曲がり角の向こう。

「今日はねれないー!」

声は、軽い。子どもみたいな、でも、どこか乾いた響き。

「ちょっと風にあたりたいなー。」

ルミナの背中に、ぞわ、と冷たいものが走る。

返事。

「こんな時間に外に出てはいけません。」

抑えた声。職員のものだろう。硬い。

「どうして?別にいいじゃんー。」

足音はない。扉の向こうから、声だけが漂ってくる。

「だめです。規則です。」

即答。

少しの沈黙。

「じゃあ窓だけ開けてー。あとで閉じとくから。」

ほんの、わずかな間。

「……窓だけですよ。」

金具の音。

きい、と。古い蝶番が軋むみたいな、低い音。

風が、通る。冷たい夜気が、廊下まで流れ込んできた。

石の匂いとは違う、外の空気。

ルミナの右目が、じり、と熱を持つ。

曲がり角の向こう。細い窓から、月明かりが差している。

影が揺れた。長い、細い影。

立っている。

ゆっくり、首だけがこちらを向く。

見えたのは、淡い色。光を含んだような、薄い緑。

昼間より、ずっと近い。

目が合った。

一瞬で、分かった。

(あぁ、やっぱり…。)

音が消える。風だけが、揺れる。

そして。

子どもの声が、響いた。

「ねえ。」

やけに、楽しそうに。

「そこにいるの、だあれ?」

廊下が、急に狭くなった気がした。

呼吸が、うまく吸えない。

隠れなきゃ。そう思うのに、足が動かない。

視線が、離れない。

窓の向こう。月明かりに照らされた細い影が、こちらをじっと見ている。

「……。」

逃げる、という選択肢が、頭から抜け落ちていた。

「ふふ。」

小さな笑い声。嬉しそうな、見つけた子どもみたいな音。

「やっぱり。」

影が、少し身を乗り出す。

細い指が、窓枠にかかる。

白い。血の気がない。夜の光に溶けそうな色。

「いると思った。」

とまりが、ささやいた。

ぞわ、と鳥肌が立つ。

互いを見つめる。言葉はない。

それなのに。胸の奥が、ひどく静かだった。

理解だけが先に来る。

――ああ。

右目の奥が、じり、と焼ける。

それと同じ熱が、窓の向こうにもある気がした。

まるで。

見えない糸で、どこかを引っ張られているみたいに。

「そっち、暗いね。」

窓の向こうの影が、首を傾げる。

子どもみたいな声。でも。その目だけが、深い。

底が見えない。温度がない。

「来ないの?」

細い指が、くい、と手招きする。

「こっち、あったかいよ。」

夜風が吹き込む。

冷たいはずなのに、その窓の周りだけ、空気が柔らかい。

石の匂いも、消毒の匂いもない。生ぬるい、体温みたいな温度。

まるで。そこだけ、世界の質が違うみたいだった。

窓の隙間から、夜風が入る。

白いカーテンが、ゆら、と揺れた。

とまりは、窓枠に肘をかけて外を見ている。まるで、ただ涼みに来ただけみたいに。

その背後。

分厚い扉。外側の鍵穴。重たい鉄の金具。

どう見ても、檻だった。

なのに。

「いつ来たの?」

軽い声。世間話みたいに。

「……さっき。」

「ふーん。」

興味があるのかないのか分からない返事。

少し沈黙。夜風だけが通る。

「どこ住んでるの?」

「……住んでない。旅。」

「へえ。」

本当にそれだけ。感想もない。

ただ、

「大変そうだね。」

ぽつり。

「……。」

言葉が詰まる。

とまりは首を傾げる。

「なんかさ。」

窓の外を見たまま。

「ずっと苦しそうな顔してるね。」

責めるでもなく、心配でもなく。観察結果みたいに。

「もっと楽しくすればいいのに。」

さらっと。

「好きにすればいいのに。」

当たり前のことみたいに。

ルミナは、答えられなかった。

視界の端。

扉。

鍵。

監視用の小窓。

閉じられた空間。

閉じ込められているのは、どう見ても、とまりの方だ。

自分は外を歩ける。

どこへでも行ける。

なのに。

苦しそう?

自由な自分が?

どうして。

喉が、うまく動かない。

とまりは、もうこちらを見ていなかった。

夜風に髪を揺らして、ただ気持ちよさそうに目を細めている。

まるで、本当に。

散歩中みたいな顔で。


***


夜風が、ひゅう、と吹き抜けた。窓が、きい、と鳴る。

とまりの髪が揺れる。白い。細い。月の光に溶けそうな横顔。

その光景だけが、やけに鮮明で。

そのあとの記憶が、あまりなかった。

廊下をどう歩いたのか。鍵をどう返したのか。

よくわからない。

気づいたときには、宿の扉の前に立っていた。

自分の手が、まだ少し震えている。心臓だけが、遅れてどくどく鳴っている。

夢みたいだ、と思った。

でも、掌の中には、冷たい金属の匂いがまだ残っていた。

扉を開ける。

セラは、寝ていた。

毛布を蹴飛ばして、いつもの格好で。口を少し開けて、すう、すう、と規則的な寝息。

それだけ。変わらない。何も起きていないみたいに。

世界は普通のままだった。

「……はぁ。」

やっと、息が抜ける。

でも、胸の奥が苦しい。

月の光に溶けそうな横顔が、まだ、まぶたの裏に残っていた。

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