第五章 指先だけの温度ー⑥
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「治った!完全復活!」
セラが寝台の上で跳ねた。今までの熱が嘘みたいに、声が大きい。
その拍子に、扉が目に入る。白い札は、もう掛かっていなかった。いつ外されたのか、分からない。数日間、あの札はずっとそこにあった。
食事は決まった時間に置かれ、水も薬も不足はなかった。ノックは一度だけ。足音はすぐ遠ざかる。誰も部屋に入ってこない。
困ることは、何もなかった。何もなかったはずなのに。廊下の向こうの生活音が、やけに遠かった。
予防の国らしいやり方だと、頭では理解している。それでも、ほんの少しだけ。胸の奥に冷たいものが残った。
「ルミナー!団子買いに行こ!」
振り返ると、いつものセラが笑っている。
「もう…。診療所に行くのが先だよ。一応、挨拶に行かないと。」
「ん?」
「薬もらったし、様子も見に来てくれたし。」
「あー。たしかに。」
セラは軽く伸びをする。
「お礼くらい言っとこ。なんだかんだ優しかったし。」
優しかった。その言葉に、少しだけ引っかかりを覚えたが、ルミナは何も言わなかった。
水と食事は毎日届けられた。薬も補充された。困ったことは一つもない。
助けられたのに。自分達が、異物なように感じた。
(……考えすぎかな。)
首を振る。
「行こ。」
白い通りを歩く。朝の空気は相変わらず澄んでいる。
診療所の建物が見えてきた。
「……あれ?」
セラが足を止めた。
「なんか、静かじゃない?」
確かに。前に来たときは、健康を確認する淡々とした声が絶えず流れていた。
今日は、足音だけが早い。白衣の人間が、廊下を行き来している。歩幅が狭く、視線も固い。
「忙しそうだね……。」
「邪魔だったらすぐ帰ろ。」
扉を押す。
中に入った瞬間、空気が張りつめた。匂いは同じ。薬草と石鹸。でも、温度が違う。受付の机には帳面が何冊も開きっぱなしになっていた。誰も座っていない。
奥の廊下。低い声が聞こえた。
「お願いします……。」
反射的に、足が止まる。
白い壁の前。女性が膝をついていた。両手を組み、必死に頭を下げている。
向かいの職員は、姿勢を崩さない。
「処置はすべて実施済みです。」
落ち着いた声。
「でも……まだ……。」
声が震えている。
「零症例を……お願いできませんか……。」
その単語が出た瞬間、診療所の空気がわずかに止まった。
「規定により、零症例の適用はできません。」
即答だった。
「これ以上の処置は行いません。」
「そんな……!」
「予防段階での対応はすべて実施されています。」
淡々と、事実だけ。決定だけが置かれる。
「部屋はこのまま使用可能です。接触制限のみ継続します。」
慰めない。怒らない。ただ、線を引く。
「……ご理解ください。」
その言葉が、やけに静かに響いた。
正しいのだろう。それなのに、ルミナの胸の奥はゆっくり冷えていく。セラも何も言わない。言えなかった。
泣き声だけが、やけに響く。責める声でも、怒鳴る声でもない。ただ、すがるみたいな音。
それが逆に、胸の奥をぎゅっと締めつけた。
ここに立っていていいのか、分からない。助けられた側の自分たちが、この場にいるのは、何か違う気がした。
「……行こ。」
セラが小さく言った。声が、いつもより低い。
ルミナは頷く。
受付の方には、もう近づけなかった。職員も家族も、誰もこちらを見ていないのに、見られている気がした。
邪魔な気がして。でも、外に出るほど割り切れなくて。足が、曖昧な方向へ向く。
廊下の奥。昨日は入らなかった区画。
白い床。白い壁。同じ造りのはずなのに、やけに静かだった。足音だけが、響く。
「……なんか、居づらいね。」
セラが小声で言う。
「うん。」
それ以上、言葉が出ない。
奥へ。奥へ。逃げるみたいに歩いているだけなのに、だんだん人が増えてきた。
数人が、廊下の端に集まっている。皆、声を潜めている。視線が、同じ方向に向いていた。
木の扉。分厚い板。金具が多い。診療所の他の扉より、明らかに重たい。
小さな札。【関係者以外立入禁止】
昨日、見かけたやつだ。
「……あ。」
セラが足を止めた、その時。
がちゃり、と。
内側から、鍵の音がした。扉が、ゆっくり開く。白衣の職員が二人、脇に立つ。
担架でもない。叫び声もない。ただ、支えられながら、一人の老人が歩いて出てきた。顔色はまだ白い。けれど、自分の足で立っている。
後ろから、家族らしき人が駆け寄った。
「……っ、よかった……。」
泣きながら、何度も頭を下げている。
「ありがとうございます……本当に……。」
職員は淡々と頷くだけだった。
「安静を。規定通り、経過観察を続けてください。」
声に感情はない。それでも、家族は何度も礼を言っている。
その向こう。開いた扉の隙間。
ほんの一瞬だけ。中に、人影が見えた。
淡い色。
光を含んだみたいな、薄い緑。立っているだけの、小さな影。
こちらを見ているのか、見ていないのかも分からない。
でも、ルミナは、確かにその人影と目が合ったのがわかった。じり、と右目の奥が焼けるような、妙な熱が宿る。
次の瞬間、扉は閉まった。重たい音が、廊下に響いた。
がちゃん。
それだけで、全部遮断されたみたいだった。
「……今の……。」
セラが、ぽつりと呟く。
ルミナは、答えられなかった。胸の奥が、ざわざわする。
助かった人がいる。なのに。どうしてこんなに、息苦しいんだろう。
診療所を出ると、白い光がやけに眩しかった。
さっきまでの張りつめた空気が、扉一枚で断ち切られる。通りはいつも通りだった。石畳は乾き、風は軽い。遠くで、子どもの笑い声がする。
「……団子、買いに行こ。」
セラが言った。声は、いつもの調子に近い。でも、ほんの少しだけ低い。
「うん。」
角の屋台は、相変わらず湯気を立てていた。丸い団子が、きっちり等間隔に並んでいる。
「二つください!」
明るく言う。店主は無言で包み、差し出す。受け取って、かじる。さく、と表面が割れて、甘い香りが広がる。
「……あっま。」
そう言ったのに、二口目が少し遅れた。
セラは、ちら、とだけ診療所の方を見る。ほんの一瞬。すぐに視線を逸らす。
「ルールがあるんだね。」
ぽつりと呟く。ルミナは答えられない。ただ、頷いた。
「でもさ。」
セラが、いつもの調子に戻そうとするみたいに、少しだけ大きな声を出す。
「泣いてるの見るの、やだね。怒鳴られるより、ああいうのの方が、きつい。」
団子をもう一口かじる。今度は、ちゃんと噛む。
「……食欲、ちょっと落ちた。」
小さく笑う。
「さっきまであんなに食べたかったのに。」
ルミナも、包みを開く。甘い匂いがするのに、喉がすぐには動かない。
「休憩所、行く?」
セラが言う。
「うん。」
二人で並んで歩く。足音が、こつ、こつ、と揃う。
休憩所の前まで来ると、子どもたちがまた固まって座っていた。
「あ、旅の人!」
「久しぶりだ!」
「なんできてくれなかったのー!」
子どもたちの楽しそうな声に、セラがやや気まずそうに、笑った。
「いやぁ…ちょっと体調崩しちゃって、寝込んでたんだ。ごめんね。」
セラの言葉に、子どもたちが止まる。
「…だいじょーぶ?」
「…みてもらった?」
「なおったの…?」
恐る恐るセラの顔を伺う。
「あ、うん!もう大丈夫だよ!診療所の人にもお世話になっちゃった。復活だよ〜!」
セラは明るい声で答える。
さっきまで半歩下がっていた子どもたちが、安心した顔でセラに抱きついた。
「よかったー!」
「なおったんだね!」
「みてもらったー?」
「行ったんだけどさ、なんか慌ただしくて。声かけられなかった。」
「あー。」
子どもが団子をかじったまま言う。
「じゃあ、とまり様かな。」
「……え?」
「たまにバタバタしてるときあるよ。とまり様のとこ使ってるとき。」
「奥の、とびら、閉まってるでしょ?」
「あそこ、とまり様のとこー。」
子どもたちは団子を取り合いながら続ける。
「具合わるい人、たまーに入るんだ。」
「でもだいたい帰ってくるよねー。」
「うん。この前のおばあちゃんも帰ってきたし。」
「スープ食べてた!」
「元気だった!」
笑い声。団子の甘い匂い。白い光。
全部、さっき診療所で見た光景と、まったく噛み合わない。
「……すごい人、なの?」
ルミナは、できるだけ軽い声で聞いた。子どもは首をかしげる。
「すごいっていうか。」
「とまり様は、とまり様だよ。」
説明になっていない。
「なんかねー、触ると熱さがなくなるってお母さんが言ってた。」
「あとね、静かにしてないと怒られる。」
「怒られるの?」
「ううん、怒られない。なんか、しーってされる。」
ジェスチャー付き。
「……。」
セラが、ちらっとルミナを見る。
さっき診療所で見た、あの扉。淡い緑の影。
甘いはずの団子が、やけに重く感じた。
夕方の光が、白い石壁を淡く染めていた。影が長く伸びる。
セラは、団子の残りを食べ終えて満足そうにしていた。
「とまり様、かぁ。なんか不思議な制度だね。」
軽い声。
「凄腕の治療者とかかな?もっとよく見とけば良かったなー。」
のんびりした調子で呟く。
ルミナは頷く。でも、意識は診療所の方角から離れない。
ーーとまり様。
まるで、治療方法そのもののような物言い。
ーー触れると熱さがなくなる。
それは、魔術と何が違う。
誓約領は、魔術を嫌う国だ。だからこそ、ここまで整っている。
なのに、あの奥の扉だけが例外だった。
規格の外。管理された例外。
右目の奥が、じり、と熱を持つ。
隔てられる側の感覚は、知っている。セラと閉じ込められた時と、同じ空気だった。
なら、あの扉の向こうにいるのは。どんな「外れ方」をしているのだろう。
理由は、まだ言葉にならない。
でも、知らないままでは進めない気がした。




