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第五章 指先だけの温度ー⑥

***


「治った!完全復活!」

セラが寝台の上で跳ねた。今までの熱が嘘みたいに、声が大きい。

その拍子に、扉が目に入る。白い札は、もう掛かっていなかった。いつ外されたのか、分からない。数日間、あの札はずっとそこにあった。

食事は決まった時間に置かれ、水も薬も不足はなかった。ノックは一度だけ。足音はすぐ遠ざかる。誰も部屋に入ってこない。

困ることは、何もなかった。何もなかったはずなのに。廊下の向こうの生活音が、やけに遠かった。

予防の国らしいやり方だと、頭では理解している。それでも、ほんの少しだけ。胸の奥に冷たいものが残った。

「ルミナー!団子買いに行こ!」

振り返ると、いつものセラが笑っている。

「もう…。診療所に行くのが先だよ。一応、挨拶に行かないと。」

「ん?」

「薬もらったし、様子も見に来てくれたし。」

「あー。たしかに。」

セラは軽く伸びをする。

「お礼くらい言っとこ。なんだかんだ優しかったし。」

優しかった。その言葉に、少しだけ引っかかりを覚えたが、ルミナは何も言わなかった。

水と食事は毎日届けられた。薬も補充された。困ったことは一つもない。

助けられたのに。自分達が、異物なように感じた。

(……考えすぎかな。)

首を振る。

「行こ。」

白い通りを歩く。朝の空気は相変わらず澄んでいる。

診療所の建物が見えてきた。

「……あれ?」

セラが足を止めた。

「なんか、静かじゃない?」

確かに。前に来たときは、健康を確認する淡々とした声が絶えず流れていた。

今日は、足音だけが早い。白衣の人間が、廊下を行き来している。歩幅が狭く、視線も固い。

「忙しそうだね……。」

「邪魔だったらすぐ帰ろ。」

扉を押す。

中に入った瞬間、空気が張りつめた。匂いは同じ。薬草と石鹸。でも、温度が違う。受付の机には帳面が何冊も開きっぱなしになっていた。誰も座っていない。

奥の廊下。低い声が聞こえた。

「お願いします……。」

反射的に、足が止まる。

白い壁の前。女性が膝をついていた。両手を組み、必死に頭を下げている。

向かいの職員は、姿勢を崩さない。

「処置はすべて実施済みです。」

落ち着いた声。

「でも……まだ……。」

声が震えている。

「零症例を……お願いできませんか……。」

その単語が出た瞬間、診療所の空気がわずかに止まった。

「規定により、零症例の適用はできません。」

即答だった。

「これ以上の処置は行いません。」

「そんな……!」

「予防段階での対応はすべて実施されています。」

淡々と、事実だけ。決定だけが置かれる。

「部屋はこのまま使用可能です。接触制限のみ継続します。」

慰めない。怒らない。ただ、線を引く。

「……ご理解ください。」

その言葉が、やけに静かに響いた。

正しいのだろう。それなのに、ルミナの胸の奥はゆっくり冷えていく。セラも何も言わない。言えなかった。

泣き声だけが、やけに響く。責める声でも、怒鳴る声でもない。ただ、すがるみたいな音。

それが逆に、胸の奥をぎゅっと締めつけた。

ここに立っていていいのか、分からない。助けられた側の自分たちが、この場にいるのは、何か違う気がした。

「……行こ。」

セラが小さく言った。声が、いつもより低い。

ルミナは頷く。

受付の方には、もう近づけなかった。職員も家族も、誰もこちらを見ていないのに、見られている気がした。

邪魔な気がして。でも、外に出るほど割り切れなくて。足が、曖昧な方向へ向く。

廊下の奥。昨日は入らなかった区画。

白い床。白い壁。同じ造りのはずなのに、やけに静かだった。足音だけが、響く。

「……なんか、居づらいね。」

セラが小声で言う。

「うん。」

それ以上、言葉が出ない。

奥へ。奥へ。逃げるみたいに歩いているだけなのに、だんだん人が増えてきた。

数人が、廊下の端に集まっている。皆、声を潜めている。視線が、同じ方向に向いていた。

木の扉。分厚い板。金具が多い。診療所の他の扉より、明らかに重たい。

小さな札。【関係者以外立入禁止】

昨日、見かけたやつだ。

「……あ。」

セラが足を止めた、その時。

がちゃり、と。

内側から、鍵の音がした。扉が、ゆっくり開く。白衣の職員が二人、脇に立つ。

担架でもない。叫び声もない。ただ、支えられながら、一人の老人が歩いて出てきた。顔色はまだ白い。けれど、自分の足で立っている。

後ろから、家族らしき人が駆け寄った。

「……っ、よかった……。」

泣きながら、何度も頭を下げている。

「ありがとうございます……本当に……。」

職員は淡々と頷くだけだった。

「安静を。規定通り、経過観察を続けてください。」

声に感情はない。それでも、家族は何度も礼を言っている。

その向こう。開いた扉の隙間。

ほんの一瞬だけ。中に、人影が見えた。

淡い色。

光を含んだみたいな、薄い緑。立っているだけの、小さな影。

こちらを見ているのか、見ていないのかも分からない。

でも、ルミナは、確かにその人影と目が合ったのがわかった。じり、と右目の奥が焼けるような、妙な熱が宿る。

次の瞬間、扉は閉まった。重たい音が、廊下に響いた。

がちゃん。

それだけで、全部遮断されたみたいだった。

「……今の……。」

セラが、ぽつりと呟く。

ルミナは、答えられなかった。胸の奥が、ざわざわする。

助かった人がいる。なのに。どうしてこんなに、息苦しいんだろう。


診療所を出ると、白い光がやけに眩しかった。

さっきまでの張りつめた空気が、扉一枚で断ち切られる。通りはいつも通りだった。石畳は乾き、風は軽い。遠くで、子どもの笑い声がする。

「……団子、買いに行こ。」

セラが言った。声は、いつもの調子に近い。でも、ほんの少しだけ低い。

「うん。」

角の屋台は、相変わらず湯気を立てていた。丸い団子が、きっちり等間隔に並んでいる。

「二つください!」

明るく言う。店主は無言で包み、差し出す。受け取って、かじる。さく、と表面が割れて、甘い香りが広がる。

「……あっま。」

そう言ったのに、二口目が少し遅れた。

セラは、ちら、とだけ診療所の方を見る。ほんの一瞬。すぐに視線を逸らす。

「ルールがあるんだね。」

ぽつりと呟く。ルミナは答えられない。ただ、頷いた。

「でもさ。」

セラが、いつもの調子に戻そうとするみたいに、少しだけ大きな声を出す。

「泣いてるの見るの、やだね。怒鳴られるより、ああいうのの方が、きつい。」

団子をもう一口かじる。今度は、ちゃんと噛む。

「……食欲、ちょっと落ちた。」

小さく笑う。

「さっきまであんなに食べたかったのに。」

ルミナも、包みを開く。甘い匂いがするのに、喉がすぐには動かない。

「休憩所、行く?」

セラが言う。

「うん。」

二人で並んで歩く。足音が、こつ、こつ、と揃う。

休憩所の前まで来ると、子どもたちがまた固まって座っていた。

「あ、旅の人!」

「久しぶりだ!」

「なんできてくれなかったのー!」

子どもたちの楽しそうな声に、セラがやや気まずそうに、笑った。

「いやぁ…ちょっと体調崩しちゃって、寝込んでたんだ。ごめんね。」

セラの言葉に、子どもたちが止まる。

「…だいじょーぶ?」

「…みてもらった?」

「なおったの…?」

恐る恐るセラの顔を伺う。

「あ、うん!もう大丈夫だよ!診療所の人にもお世話になっちゃった。復活だよ〜!」

セラは明るい声で答える。

さっきまで半歩下がっていた子どもたちが、安心した顔でセラに抱きついた。

「よかったー!」

「なおったんだね!」

「みてもらったー?」

「行ったんだけどさ、なんか慌ただしくて。声かけられなかった。」

「あー。」

子どもが団子をかじったまま言う。

「じゃあ、とまり様かな。」

「……え?」

「たまにバタバタしてるときあるよ。とまり様のとこ使ってるとき。」

「奥の、とびら、閉まってるでしょ?」

「あそこ、とまり様のとこー。」

子どもたちは団子を取り合いながら続ける。

「具合わるい人、たまーに入るんだ。」

「でもだいたい帰ってくるよねー。」

「うん。この前のおばあちゃんも帰ってきたし。」

「スープ食べてた!」

「元気だった!」

笑い声。団子の甘い匂い。白い光。

全部、さっき診療所で見た光景と、まったく噛み合わない。

「……すごい人、なの?」

ルミナは、できるだけ軽い声で聞いた。子どもは首をかしげる。

「すごいっていうか。」

「とまり様は、とまり様だよ。」

説明になっていない。

「なんかねー、触ると熱さがなくなるってお母さんが言ってた。」

「あとね、静かにしてないと怒られる。」

「怒られるの?」

「ううん、怒られない。なんか、しーってされる。」

ジェスチャー付き。

「……。」

セラが、ちらっとルミナを見る。

さっき診療所で見た、あの扉。淡い緑の影。

甘いはずの団子が、やけに重く感じた。


夕方の光が、白い石壁を淡く染めていた。影が長く伸びる。

セラは、団子の残りを食べ終えて満足そうにしていた。

「とまり様、かぁ。なんか不思議な制度だね。」

軽い声。

「凄腕の治療者とかかな?もっとよく見とけば良かったなー。」

のんびりした調子で呟く。

ルミナは頷く。でも、意識は診療所の方角から離れない。

ーーとまり様。

まるで、治療方法そのもののような物言い。

ーー触れると熱さがなくなる。

それは、魔術と何が違う。

誓約領は、魔術を嫌う国だ。だからこそ、ここまで整っている。

なのに、あの奥の扉だけが例外だった。

規格の外。管理された例外。

右目の奥が、じり、と熱を持つ。

隔てられる側の感覚は、知っている。セラと閉じ込められた時と、同じ空気だった。

なら、あの扉の向こうにいるのは。どんな「外れ方」をしているのだろう。

理由は、まだ言葉にならない。

でも、知らないままでは進めない気がした。

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