第五章 指先だけの温度ー⑤
診療所を出ると、入った時よりも患者が増えつつあった。まだ朝なのに訪れる人は絶えない。
石畳がまぶしい。空気は澄んでいるのに、胸の奥だけがざわついている。
「……すまないな。」
隣で、アウレリオが言った。
「本来なら専門家が診察するべきなんだが、どうにも人が足りない。」
声音が、やけに柔らかい。昨日までの、あの素っ気なさがない。ただ事実だけを、静かに並べる声。
「ううん。薬だけでももらえたし……ありがとう。」
「基本的には解熱と水分補給だな。湿原明けなら、疲労の方が濃い。」
歩きながら、彼は自然に歩幅を合わせてくる。急ぎもしないし、遅れもしない。気づけば、隣にいるのが当たり前みたいな距離だった。
「……湿原、大変だったか。」
ぽつり、と。ただの雑談みたいな問い。
「うん。すごく。」
ルミナは苦笑する。
「毎日沈むし、虫いるし、夜寒いし。もう二度と行きたくない。」
「…だろうな。」
やや目を細め、頷いた。それだけなのに、妙に話しやすい。
「でもさ、セラは楽しそうで。」
気づけば、続けていた。
「ずっと騒いでて。転んで泥だらけになっても笑ってて。」
「……あいつらしい。」
「うん。」
少し、胸が軽くなる。舌が止まらなかった。
「誓約領来てから、もっと元気になってたのに。昨日も市場で食べすぎてたし。お風呂ではしゃいでたし。」
「そうか。」
また、それだけ。でも、ちゃんと聞いてくれている感じがする。
「だから、急に熱が出て……ちょっと、びっくりしてる。」
言ってから気づく。こんなこと、説明しなくてもいいのに。
「心配か?」
静かな声だった。問いかけというより、確認に近い。
「……うん。」
「来て正解だ。」
即答だった。思わずアウレリオの顔を見る。
「え?」
「湿原明けで熱が出たなら、様子を見るより、ここに来るのが安全だ。」
淡々としているのに、どこか柔らかい。
「誓約領の診療所は、こういう時のためにある。」
一拍置いて、続ける。
「誰かを連れて来る必要もない。責められることもない。」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
「……怒られない?」
思わず出た言葉に、彼はほんの少しだけ笑った。
「怒る理由がない。規定を守ろうとしている人間を、ここでは評価する。」
安心させるように、声を落とす。
「だから今は、落ち着け。」
「……。」
「判断は、あとでいい。」
歩き出す。歩調は、さっきより少し遅い。合わせてくれているのが、はっきり分かった。
「で。」
何でもない調子で。
「誓約領には、どのくらいいるつもりだ?」
「どうだろ…決めてないかな。セラはここを気に入ってるみたいだけど。」
「そうか。」
それだけ。しばらく歩く。
石畳を踏む音だけが続く。
「……嫌いではない顔をしている。」
「え?」
「この国のことだ。」
金色の瞳がちらりとルミナを見る。
「安全だ。魔術もない。追われることもない。」
淡々と並べる。
「普通に生きるには、悪くない場所だ。」
否定も肯定も強要しない。ただ、事実だけ。
「……うん。」
気づけば、頷いていた。
「帝国は。」
短い間。
「辛い場所だったか。」
質問というより、確認だった。
だから、つい。
「……うん。」
頷いていた。
「…多分、居場所なんて、なかったと思う。だから…戻りたくは、ないかな。」
言ってしまった。
「帝国は……疲れるし。」
「せわしない国ではあるな。」
「……まあ、ちょっと。」
少し間。石畳の音だけが続く。
「ここにいれば。」
ぽつりとアウレリオが言う。
「魔術を使う必要も、ほとんどないしな。」
独り言みたいに。ただの事実みたいに。
だから、つい。
「うん…。使わなくていいなら、使いたくない。」
言葉が、するする出てくる。なんでこんなに喋ってるんだろう。自分でも不思議だった。
「……でも。」
気づけば続けていた。
「ここにずっといるのも、なんか違う気がして。」
「違う?」
「うん。なんていうか……。」
言葉を探す。
「落ち着きすぎてるっていうか。守られすぎてるっていうか。」
アウレリオが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なるほど。」
その笑みが、やけに優しかった。
「らしいな。」
「……何が?」
「いや。」
それ以上、何も言わなかった。ただ、歩調を合わせたまま、隣を歩き続ける。その沈黙が、不思議と心地よかった。
扉を開けると、部屋の中は静かだった。朝の光が白い石壁に反射して、寝台の輪郭をやわらかく浮かび上がらせている。
セラは、毛布にくるまったまま眠っていた。眉間に、うっすらと皺。呼吸は浅く、少しだけ速い。
「……起こすぞ。」
アウレリオが、低い声で言った。声量は抑えている。命令じゃない。ただの予告。
「セラ。」
反応は、遅れた。
「……ん……?」
かすれた声。目は、半分も開いていない。
「体調が悪いって聞いた。」
淡々とした声なのに、不思議と嫌な感じがしない。セラはぼんやりとアウレリオを見る。
「……だれ……?」
「診療所の手伝いだ。」
それだけ言って、寝台の横に腰を落とす。視線は、セラの顔ではなく、まず胸元。呼吸の上下。次に、首筋。汗の量。
「寒気は。」
「……ある……。」
「喉。」
「……かわく……。」
質問は短い。答えやすい。考えなくていい。
アウレリオは、セラの額にそっと手を当てた。一瞬で、判断する。
「熱は高めだが、極端なほどではない。」
ルミナの方を見ない。あくまで、患者に向けて話している。
「頭は。」
「……ちょっと、ぼーっとする……。」
「吐き気。」
「ない……。」
「腹は。」
「……へいき……。」
一つずつ、切り分けるように。無駄な言葉がない。でも、急かさない。
「昨日、何を食べた。」
「……市場の……スープ……団子……。」
「食べ過ぎだな。」
即断。セラが、かすかにむっとした顔をする。
「……おいしかったもん……。」
「だろうな。」
ほんの一瞬、口元が緩んだ。
「湿原を抜けて、急に環境が変わっている。疲労と脱水が重なって、発熱している可能性が高い。」
今度は、ルミナに向けて言う。説明は、最低限。でも、十分。
「感染症の兆候は、今のところ薄い。」
ルミナの肩から、力が抜けるのが分かった。
「……よかった……。」
その声を、アウレリオは聞き逃さない。
「だが、油断はするな。」
声は、変わらず穏やかだ。
「湿原明けは、体が一段階遅れて反応する。」
そう言って、セラに視線を戻す。
「今日は動くな。水を飲め。食事は少量。無理に寝ろとは言わないが、横になっていろ。」
「……はーい……。」
完全に従順な声だった。いつものセラからは、考えられない。
アウレリオは、寝台の脇に置いてあった水差しを手に取る。
「少し飲め。」
自分で口元に運ばせない。傾ける角度も、ゆっくり。セラは、こく、と数口飲んだ。
「……ありがと……。」
「当然だ。」
淡々。
飲ませ終えると、布を取って、セラの額の汗を軽く拭った。手つきが、驚くほど慣れている。
ルミナは、その様子を黙って見ていた。
(……なんで、こんなに。)
手際がいい。でも、機械的じゃない。
「熱は今が山場だろうな。日が高くなる頃には下がるだろ。」
不意に言われて、ルミナが顔を上げる。
「え?」
「診療所には、そう伝える。」
事実みたいな口調。
「この程度なら、移動させる方が負担だ。」
「でも……。」
「問題ない。」
即答。
「俺が連絡を入れる。」
ルミナは、少し迷ってから、頷いた。
「……ありがとう。」
アウレリオは、それに答えない。代わりに、静かに言った。
「安心しろ。」
それだけ。
セラは、もう半分眠っている。呼吸は、さっきよりも落ち着いていた。
部屋に、朝の光が満ちる。静かで、穏やかな時間。ルミナは、胸の奥で思った。
行ってよかった。この人が、ここにいてよかった。




