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第五章 指先だけの温度ー④

***


朝、目が覚めたとき、違和感はとても小さかった。

窓の外は明るい。白い石壁に朝日が反射して、部屋の中まで柔らかく光が入り込んでいる。空気も澄んでいて、昨日と何一つ変わらない。誓約領らしい、整った朝だった。

「……セラ?」

返事がない。

隣の寝台を見ると、セラが毛布にくるまったまま、動かずにいた。いつもなら、起きる前から何か喋っているか、腹が減ったと文句を言うか、少なくとも寝返りくらいは打っている。

「セラ、朝だよ。」

声をかける。反応が、遅れた。

「……ん……。」

くぐもった声。目は開けない。

「まだ眠い?」

そう聞きながら、近づく。額に手を伸ばし、ルミナはぴたりと動きを止めた。

熱い。

湿原で泥まみれになっていた時とも、風にさらされていた夜とも違う。内側からこもる熱だ。

「……熱出てる。すごく熱いよ。」

セラはようやく目を開けた。けれど焦点が合っていない。

「んー……だいじょぶ……。」

声が、いつもより弱い。

「大丈夫じゃない。」

ルミナは即座に言った。昨日まで、あれだけ元気だった。食べて、笑って、走って、お風呂に入って。誓約領の空気を、誰よりも楽しんでいたはずだ。

「寒い……。」

セラが小さく言って、毛布を引き寄せる。

部屋は暖かい。それでも震えている。

「診療所、行こう。」

そう言うと、セラは少しだけ眉を寄せた。

「えー……。」

即、拒否。顔をしかめて、毛布を頭まで引き上げる。

「やだ。あそこなんか緊張する。」

「昨日も言ってたねそれ。」

「だってさ……なんかさ……怒られそうじゃん。ちゃんと生活してないと怒られる施設みたいなんだもん……。」

分からなくもない。整いすぎた場所は、少しだけ怖い。

「でも熱…。」

「寝てれば治るって。たぶん昨日はしゃぎすぎただけ。」

毛布の中から声がする。

「ほら、湿原明けだし。疲れが出ただけだよ。今日は引きこもってゆっくりするからさ。」

「引きこもるって……。」

「ルミナは観光してきなよ。市場の団子買ってきて。おみやげ。」

完全に行く気がない声だった。無理に連れて行けば、多分機嫌が悪くなるタイプのやつだ。

「……ほんとに大丈夫?」

「だいじょぶだいじょぶ……。」

軽く手を振る。その仕草が、妙に弱々しくて、逆に不安になる。

「……じゃあ、お水はここ置いとくから。」

「ありがと……。」

もう半分寝ている。ルミナは濡れタオルを作ってセラの額の上に置いた。

少しだけ迷って、扉に手をかける。昨日まで、あんなに元気だったのに。誓約領は清潔で、安全で、病気なんてほとんど出ない国のはずだ。きっと大丈夫。

それでも、胸の奥に、小さな棘みたいな違和感が残る。

「……ちょっとだけ、外出るね。」

誰に言うでもなく、呟いた。薬がもらえなくてもいい。診察しなくてもいい。

ただ、このくらいなら様子見でいいのか。それだけ確認したかった。

白い石の通りに出る。朝の光は昨日と同じだ。人々も同じように歩き、並び、生活している。

変わらない朝。

その中で、ルミナだけが、ほんの少しだけ落ち着かなかった。まずは診療所だ。その後で、何か食べやすそうな物を買って帰ろう。


診療所の扉を押す。

昨日と同じ、薬草と石鹸の匂い。白い床。整った椅子。朝だからか、人は少ない。

「次、どうぞ。」

「はい。」

淡々とした声が行き交う。問診。体温。脈拍。いつも通りの、静かな作業。

「……すみません。」

受付に声をかける。

「薬って、もらえますか。熱があって……本人は来られなかったんですけど…。」

女性は困った顔をした。

「原則、本人確認が必要でして……。」

やっぱり。

「ただ、一般の解熱薬なら……。」

言いかけて、奥へ視線を向ける。

「在庫、まだありましたっけ?」

「あります。」

低い声が返ってきた。聞き覚えのある声。一瞬、心臓が止まる。

奥の洗浄台。金属器具を桶の水で洗っている男がいた。袖をまくり、腕が濡れている。白衣でも制服でもない、簡素な作業着。淡々と、器具をこすり、湯で流し、布で拭き、並べる。動きに一切の無駄がない。早い。でも、雑じゃない。

「消毒液、残り三本。」

「補充します。」

それだけ言って、棚から瓶を取り出し、仕分けを始める。包帯。薬瓶。針。順番に並べ直す。

誰よりも地味な仕事。誰よりも手が荒れている。

なんで。なんでこんなところで。

「……アウレリオ?」

名前が、勝手にこぼれた。男の手が、ぴたりと止まる。ゆっくり、振り返った。

金の瞳。見慣れた、あの目。腕には診療所の腕章が付いていた。

「……。」

一瞬だけ、目が細くなる。手は止めないまま、顎で棚を指した。

「薬棚の上から二番目、右から4つ目の引き出しに解熱剤が入っている。」

「……え?」

「具合が悪いのは、あの元気な方だろう?」

言い当てられて、言葉が詰まる。

「……なんで、分かったの。」

「顔。」

短い返事。

「心配そうな顔をしている。」

そう言って、また作業に戻る。器具の水音が、しゃ、と響く。まるで、ここが自分の持ち場みたいに自然に。

「……何してるの?」

「手伝い。」

「手伝いって……。」

「人手が足りないからな。」

淡々。

「魔術なしで回してる国だ。物理作業は全部人力になる。」

布で器具を拭きながら続ける。

「こういうのは、誰かがやらないと回らない。」

まるで、それが当然みたいに。英雄でもなく、指導者でもなく。ただ、そこにいる一人の労働者。

らしくないように見えて、でも、昨日より、ずっと近くに感じた。

その時。受付の女性が、帳面を持ったままこちらへ来た。

「失礼ですが、症状を詳しく教えていただけますか。」

「熱と、悪寒と……寒いって言ってて。昨日までは普通だったんですけど。」

「発症は今朝?」

「はい。」

「滞在期間は?」

「昨日来たばかりで……湿原を越えてきました。」

女性の手が、ぴたりと止まった。

「……湿原。」

声の温度が、ほんの少しだけ下がる。奥にいた別の職員と目配せを交わす。

「滞在歴、湿原経由。発熱、急性。」

淡々と、事実だけ並べる。

「感染症の可能性が否定できません。」

どき、と胸が鳴った。

「か、感染症……?」

「はい。ただし慌てる段階ではありません。」

即答だった。

「念のため、直接診察が必要です。こちらへ来ていただくのが原則ですが……」

診療室を見る。その瞬間、扉が開いて、次の患者が二人入ってきた。咳。擦り傷。抱きかかえられた子ども。

「すみません、検温お願いします。」

「はい、順番に。」

一気に手が埋まる。女性は小さく息を吐いた。

「……動ける者が。」

視線が、自然と奥へ向く。

洗浄台。

「アウレリオ。」

「なんだ。」

「往診、お願いできますか。」

返事より先に、状況説明が続く。

「発熱。湿原経由。接触歴不明。問診と状態確認だけでも。」

「了解。」

あまりにも短い返事。器具を拭いていた手が止まる。布を畳み、桶の水を捨て、手袋を外す。棚から小さな鞄を取り出した。体温計。消毒液。包帯。記録板。

慣れた動き。最初からそれが仕事だったみたいに。

「簡易防護を持っていけ。」

「分かってる。」

白い布と手袋を鞄に追加する。

「……あなた。」

女性がルミナを見る。

「案内をお願いします。近づきすぎないように。まずは問診だけ行います。」

「は、はい。」

気づけば、隣にアウレリオが立っていた。さっきまで器具を洗っていた男が、もう“医療者の顔”をしている。

「行くぞ。」

それだけ言って、歩き出した。

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