第五章 指先だけの温度ー③
休憩所は、白い石の広場の端にあった。低い屋根。入口には小さな札がかかっている。
【休憩所 飲水提供/座席規定数】
「座席まで規定あるのか……。」
セラが呆れた声を出しながら、扉を押す。
中は思ったより賑やかだった。と言っても、帝国の酒場みたいな騒がしさじゃない。笑い声が小さく弾み、湯気の匂いが穏やかに漂っている。湯飲みの陶器が、こと、と置かれる音。木椅子が、ぎし、と鳴る音。
机の上には、薄い茶色の飲み物と、乾いた菓子が並んでいた。甘い匂いではない。麦と草の匂いがする。
「お茶だ!」
セラの目が光る。
「しかも甘味!文化がある!」
「文化って……。」
笑いながらルミナも椅子に腰を下ろした。背中が石壁に当たる。冷たい。けれど湿っていない、乾いた冷たさだ。
向かいの席に、子どもたちが四人、ぎゅっと固まって座っていた。さっき住宅街で輪っかを転がしていた子たちだ。こちらを見て、目を丸くする。
「旅の人?」
一番小さい子が聞いた。
「うん。湿原を越えてきた。」
セラが胸を張る。
「えええ!」
子どもたちが一斉に息を呑んだ。
「湿原って、沈むやつ?」
「虫が耳に入るやつ?」
「ワニいるやつ?」
「全部いる。」
セラが即答する。
「しかも、ぜんぶ嫌なやつ。」
子どもたちは、同じタイミングで顔をしかめた。
「やだ。」
「ぜったい行かない。」
「行ったら死ぬ。」
「死なないよ。」
ルミナが言うと、子どもが首を傾げた。
「でも、帝国の人は湿原で死ぬって言ってた。」
「帝国の人、通るの?」
セラが驚く。
「たまにね。」
別の子が指を折って数える。
「商会の人とか、門兵の人とか。あと、追いかける人。」
追いかける。ルミナの胸の奥が、ほんの少しだけ硬くなる。
「帝国ってどんな国?」
セラが興味津々で身を乗り出す。子どもたちは、少しだけ考えた顔をして、順番に言った。
「うるさい。」
「光ってる。」
「煙くさい。」
「怒鳴る。」
「怒鳴るは偏見じゃない?」
セラが笑う。子どもがむっとした。
「ほんとだもん。帝国の人、いつも早口で、なんか……急いでる。」
「そう。ずっと急いでる。走ってる。」
走ってる。ルミナはその言葉に、妙な既視感を覚えた。帝国の時間は、いつも追い立てる。遅れれば切り捨てられる。追われる側は、なおさら。
「誓約領の人は?」
ルミナが聞く。
「歩く。」
「並ぶ。」
「待つ。」
「静か。」
子どもたちは、当たり前みたいに言った。
「待つの、嫌じゃない?」
セラが聞くと、子どもは目を瞬いた。
「嫌じゃない。」
「順番だから。」
「決まってるから。」
決まってるから。そこで、隣の席から大人の声が混ざった。
「決まっているのが安心なんですよ。」
話しかけてきたのは、白衣ではないが、袖口がきちんと縫われた服の男だった。
「旅をしている方ですか?」
「はい。」
ルミナが答える。男は湯飲みを置き、ゆっくり言った。
「帝国は……生き方が違う。向こうは足りないものを埋めるために走ります。こちらは、足りないものを増やさない。まずは立ち止まるのです。」
「立ち止まる…。」
セラが口の中で繰り返す。
「実際に止まってるわけじゃないですよ。」
男は苦笑した。
「ただ、変えないんです。変えようとすると、代償が出る。私たちはそれを嫌った。」
代償。その単語に、ルミナの背筋がわずかに伸びる。
「魔術のことですか?」
ルミナが問う。男は頷いた。
「ええ。帝国は魔術で埋めるでしょう。傷も、病も、移動も、情報も。確かに便利です。便利ですが――」
一拍、間を置く。言葉が、整っている。感情ではなく、結論から話す人間の口調だ。
「必ず代償を伴う。」
男は淡々と言った。
「見えないところで誰かが消える。運が削れる。寿命が短くなる。あるいは……他人が死ぬ。そういう話は、こちらにも届きます。」
セラが息を呑む。
「話、ということは……あまり知られていないと?」
ルミナが聞くと、男は首を振った。
「確証は要りません。危険なら、避ける。それだけです。誓約領は、不確定な賭けをしない国ですから。」
男の言葉は優しいのに、どこか硬い。
「でもさ。」
セラが口を挟んだ。
「魔術があれば助かる人もいるでしょ? 帝国はそのために使ってるんじゃないの?」
男は、少しだけ眉を動かした。嫌悪ではない。困惑に近い。
「でも、助けるために何かを落とすのは、良くないことですよね…?」
男は答える。
「救うなら、皆で救える範囲で。救えないなら、受け入れるのが定めです。」
「受け入れるって……。」
セラの声が小さくなる。男は、湯飲みに口をつける。
「誓約領は予防の国です。危険な状況にならないよう、最大限気をつける。だから、皆で同じ生活をします。規格を揃える。列に並ぶ。清潔を守る。変なことをしない。」
変なこと。ルミナの右目が、布の下で微かに熱を持った気がした。気のせいだと押し込める。
「帝国とは仲が悪いの?」
子どもの一人が、何でもない調子で聞いた。大人は首を振った。
「そういうことではないよ。考え方が違うんだ。私達は、ここで安全に生きているだけ。それでいい。」
「でも、帝国が来たら?」
セラが食い下がる。男は、少しだけ笑った。笑っているのに、温度がない。
「来ないようにするんです。そもそも湿原が私達を守ってくれています。でも、もし来たら…大人たちで、ちゃんと考えますよ。」
ルミナは、湯飲みを握る指に力が入っているのに気づき、そっと緩めた。手が冷たい。
極力、戦わない世界。選ばない世界。賭けない世界。それは、穏やかで、清潔で、正しい。でも、その正しさは、人を守れるのか。
「ねえ。」
セラが場の空気を変えるように明るく笑った。
「でも、ここってすごいよ! みんな元気そうだし、病人も少ないし!」
「予防をしているからです。」
男は当然のように答えた。
「病気にならないように。怪我をしないように。飢えないように。」
「……徹底してるね。」
セラが感心した声を出す。
「この安定を変えないように、守っているのです。」
男は笑顔で言った。
守る。ルミナの胸の奥で、湿原の夜の言葉が、ゆっくり浮かび上がる。
決められなかった人から沈む。
ここでは、沈まない。沈まない代わりに、決めなくていい。決めないことが、平和を守る。
子どもたちは、もう別の話をしていた。
「昨日のおばあちゃん、れいしょーれいにいったんだって。」
「ほんと?」
「うん。朝帰ってきてたよ。」
「よかったね!」
「うん!一緒にスープ食べたんだー!」
「またお菓子作ってくれるかな?」
「わたし、ふわふわしたお菓子がいいな!」
笑い声。平和。生活。
ルミナは、湯気の向こうの壁を見つめる。
白い。揃っている。正しい。
ここでは、誰も急がない。誰も賭けない。
ただ、同じ今日が続いていく。




