第五章 指先だけの温度-②
石造りの通りを曲がった先に、大きな低い建物があった。煙突がいくつも並んでいて、白い湯気がゆらゆら上がっている。
入口の札。
【公衆浴場 第四区画】
「……お風呂だ!」
セラの声が一段階上がった。
「やった!お風呂!文明!」
「声が大きいよ。」
「だって七日ぶりだよ!?」
ルミナを置いて、セラは真っ直ぐに入り口をくぐった。
中に入った瞬間。ふわ、と。石鹸と薬草の混ざった匂いが鼻をくすぐった。甘くない。花でもない。すっきりした、草の匂い。清潔そのもの、みたいな匂いだ。
「いい匂い……。」
思わず呟く。受付に座っていた女性が顔を上げる。
「利用ですか?」
「はい!」
「では次の枠までお待ちください。今はまだ前の方達の時間帯なので。」
「時間制!?」
「湯温維持と回転効率のためです。」
「効率て。」
脱衣所に入ると、籠が等間隔で並んでいた。それぞれ番号が振られている。
「好きなとこ使っていいんだよね?」
「指定番号をご利用ください。」
「指定なんだ。」
「清掃順の管理がありますので。」
「お風呂まで管理社会!?」
浴室。広い石の湯船。湯気がふわりと立ち上る。透明な湯は底が見えるほど綺麗に保たれている。
「うわああああああ……。」
セラがとろけた声を出した。
「生き返る……。」
「セラ、生きてなかったのね。」
「気分の問題!」
ルミナも、そっと肩まで沈める。じんわり、体の芯がほどけていく。筋肉が、ゆるむ。呼吸が、深くなる。
……ああ。やっと、人間らしい生活に戻った気がした。
ゆっくり浸かっていると、壁に札が貼られているのが見えた。
【入浴前洗浄必須 洗浄時間砂時計1杯分以上推奨】
「洗浄時間?砂時計1杯分以上、推奨…?」
隣を見る。全員、砂時計を見ながらきっちり身体を洗っていた。
「え、すご!?」
「安全基準ですので。」
近くの人が真顔で答えた。
「徹底しすぎでは……?」
さらに別の札。
【会話は小声で】【湯面を叩かない】【長時間占有禁止】【睡眠禁止】
「禁止多くない!?」
「衛生を保つためにも大事なことです。」
「お風呂だよここ!?」
セラが小声で言う。
「なんかさ……。」
「うん。」
「気持ちいいのに、ちょっとだけ緊張するお風呂って初めてなんだけど。」
「分かる。」
「怒られないかなって思いながら入るお風呂、やだ。」
二人でこそこそ笑う。それでも。湯は温かい。身体も軽い。
「色々細かいけどさ、ここ、過ごしやすいね。ちょっと、住みたいかも。」
セラがぽつりと呟いた。冗談みたいな声の中、ほんの少しだけ、本音が混ざっていた。
ルミナは、何も言わなかった。ただ、湯気の向こうをぼんやり見つめた。
湯気の中から出ると、肌に触れる空気がひやりとした。さっきまで身体にまとわりついていた熱が、すう、と引いていく。
「ふはぁ……。」
セラが魂の抜けた声を出す。
「もうここ住む。私ここに住むよ。帝国に戻らない。湿原嫌い。」
「まだ誓約領入ったばっかりだよ。」
「いいの。もうゴールでいい。」
ふらふらと歩きながら、濡れた髪を絞る。桶の水が規則正しく流れていく。床は乾いている。誰かがすぐ拭いているらしい。
「床も綺麗だね。埃とか髪の毛、全然落ちてない。」
セラが小声で言う。
「誰かずっと掃除してるんだと思う。」
視線の先。白衣の人が、無言で床を拭いている。客が通るたび、水滴とゴミもすべて回収していく。
「徹底してるね……。」
「そうだね。施設自体すごい綺麗だし。」
そのまま、二人は建物の外に出た。出口を抜けると、浴場に併設した建物がある。
「あれ?」
すぐ隣の扉に、同じ白い札がかかっていた。
【第三区画 診療所】
「……近っ。」
「近いね。」
浴場と、壁一枚。ほぼ隣接している。
「なんでお風呂の横に病院あるの?」
「湯冷めして体調崩したらすぐ来られるとか……?」
「いやそれ弱すぎない?」
くすっと笑いながら、何気なく中を覗いた。
静かだった。今まで通った場所のどこよりも静か。
さらに、白い石の床。同じ高さの長椅子。窓は大きく、光がまっすぐ差し込んでいる。
「……病院っていうか。」
「……全部同じ配置。」
患者らしき人が数人座っている。でも、誰もぐったりしていない。咳も、うめき声も、血の匂いもない。代わりに、
「次、検温です。」
「はい。」
「脈拍正常ですね。今日は薬なしで。」
「ありがとうございます。」
「湿疹出てます。昨日何食べました?」
「干し魚を多めに……。」
「塩分ですね。控えてください。」
会話が、やたら日常的だった。
「……なんか、軽症ばっかり?」
「うん……。」
診療というより、問診だった。健康管理の範囲内でのやり取りだ。
診療所の入口横の板に、文字が並んでいる。
【本日の検診項目】
・体温
・脈拍
・皮膚状態
・水分摂取量
・排泄回数
「……細かっ。」
「毎日やってるのかな。」
「うわぁ、訓練所の出席確認みたい。」
そのとき、奥から子どもが走ってきた。
「せんせー!ひざすりむいた!」
見れば、ほんの小さな擦り傷。血もほとんど出ていない。
「洗浄しますね。」
淡々と水で傷を洗い、清潔な布で拭く。薬草の軟膏を塗る。
包帯。三十秒もかかってない。
「はい終わり。今日は走らないでくださいね。」
「はーい!」
元気に去っていく。
「……早。」
「魔術より早いんじゃない?」
「ほんとそれ。」
ふと、棚が目に入る。整然と並んだ瓶。乾燥薬草。消毒液。縫合針。包帯。
どれも地味だ。奇跡は、ない。
「……なんかさ。」
セラがぽつりと呟く。
「“治す場所”っていうより、“悪くならないようにする場所”って感じ。」
「うん。」
その言葉が、やけに腑に落ちた。ここは奇跡を待たない。崩れないように予防し、支えている。地味で、真面目で、堅実で。強い。
「ね、ルミナ。」
「ん?」
「この国ってさ。」
小さく笑う。
「めちゃくちゃ心配性だよね。」
「はは……確かに。」
ルミナもつられて笑った。
でも、視線の奥。一番奥の扉だけ、やけに重たかった。分厚い木に小さな札。
【関係者以外立入禁止】
なんとなく、理由もないのに目を逸らした。そこだけ、空気が明らかに違った。
「ルミナー、次行こ!観光まだ残ってるし!」
セラがぱっと振り向く。
「住宅地とか見てみたい!生活感あるとこ!」
「うん。」
診療所の白い空気を背に、二人はまた歩き出した。
診療所を出ると、通りの空気が少しやわらいだ。薬草と石鹸の匂いが薄れて、代わりに、湯気と煮物の匂いが混ざってくる。
「……なんかいい匂いしない?」
セラが鼻をひくひくさせる。
「出汁っぽい。」
「それそれ。お腹空く匂い。」
くんくん、と犬みたいに匂いを追って、細い道へ曲がる。さっきまでの大通りより少しだけ幅が狭い。石畳は同じ。でも、洗濯紐が渡され、窓が開き、生活の音が増えた。
とん、とん、とん…と規則的な包丁の音。ことこと、と鍋の音。ぱたぱた、と布を叩く音。
「……あ。」
セラが小さく声を漏らす。
「ここ、家だ。」
住宅街だった。白い石の家が、同じ形で並んでいる。背の高さも、窓の位置も、扉の幅も、ほとんど同じ。
「すごーい…全部一緒だ。」
「区画整理、ってやつかな?」
よく見ると、ちゃんと違いがあった。窓辺に干してあるハーブ。玄関横の小さな植木。子どもの落書きみたいなチョーク跡。手縫いのカーテン。
規格の中に、人の癖がある。それが妙に可愛く、心をくすぐった。
「こんにちはー!」
突然、子どもが走ってきた。三人組で、木の輪っかを転がして遊んでいる。
「うわ!?」
セラがびくっとする。
「ごめんなさーい!」
「走るなー!」
後ろから大人の声。
「転んだら診療所行きだからなー!」
「はーい!」
ぴたり、と止まる子どもたち。
「……素直。」
「怒鳴られないのに止まるのすごいね。」
「診療所行きが嫌なんじゃない?」
「確かにそれは嫌だ。」
くすっと笑う。
通りの端では、年配の女性が野菜を干していた。同じ大きさに切られた大根が、ずらっと並んでいる。
「全部同じ形だ……。」
「誓約領の人、揃えるの好きすぎない?」
「性格出てるよね。」
そのとき。隣の家の扉が開いて、鍋を持ったおじさんが出てきた。湯気がふわっと漂い、二人を包んだ。
「うわ、いい匂い!」
セラが思わず声を出す。おじさんが笑った。
「昼の煮込みだ。豆と芋。食べるか?」
「え、いいんですか!?」
「余ると困るからな。」
「余ると困る!?」
セラ、即答。
「食べます!!」
「遠慮なさすぎない!?」
小さな木椀を渡される。中身は、茶色い豆と、ほくほくの芋。味付けは薄い。でも、ほっとする匂い。
「……うま。」
「おいしい……。」
二人同時に呟く。
「なんかさ……。」
セラがもぐもぐしながら言う。
「この国のご飯、全部身体に優しい味しない?」
「優しい味……。」
「贅沢じゃないけど、絶対死ななそうな味。」
「すごい表現だねそれ。」
でも、分かる。派手じゃない。確実に体を支える味。この国そのものだ。
「旅人か?」
おじさんが聞く。
「はい。湿原越えてきました。」
「おお。」
少し目を丸くして。
「大変だったろ。」
それだけ。英雄扱いもしない。同情もしない。ただ、事実として労うだけ。
「……いい人多いね。」
セラが小声で言う。
「うん。」
笑いながら歩き出す。
窓からは、縫い物をする人。庭で干し魚を並べる人。洗濯物を畳む人。誰も急いでない。誰も怒鳴ってない。ただ、淡々と生活している。
「……さ。」
セラがぽつり。
「ここ、ほんとにさ。」
少し照れくさそうに笑う。
「理想の暮らしじゃない?」
胸が、少しだけドキリとした。理想の暮らし。静かに刺さる。
魔術がいらない国。大きな変化はないが、そのぶん当たり前の日常を送れる。帝国のように、追われることもない。
ここに居れば。魔眼も関係なく、生きられるなら。選ばなくて済むなら。
そんな考えが頭をよぎる。
前の広場から、笑い声が聞こえた。
「休憩所、あっちだって!」
誰かが言っている。
「お茶も出るらしいよー!」
「甘味あるかな!?」
セラの目が光った。
「行こ。」
「即決だね。」
「甘味は文化だから。」
「ずっと食べてばかりだよ。」
二人で笑いながら、広場へ向かった。




