第五章 指先だけの温度
朝の光は、湿原のそれとはまるで違っていた。
白く、軽く、まっすぐだった。乾いた布のような、清潔で軽い空気が鼻を通り抜けていく。澄んだ匂い。ただそれだけで、呼吸がこんなに楽になるなんて思わなかった。
「軽いー!」
セラが腕をぶんぶん振る。
「体がさ、まだ泥の重さ覚えてるんだけど。全然違う!」
石畳を踏む。こつ、と澄んだ音が返る。沈まない。ただ、踏んだ分だけ返してくる。それが、妙に嬉しかった。
通りは広く、まっすぐ伸びている。建物の高さは揃い、壁は白い石で統一されていた。装飾はほとんどない。看板も小さく、派手な色もない。
貧しさではない。簡素で、整っている。無駄を削ぎ落とした美しさがあった。
「なんか……さ。」
セラがきょろきょろと辺りを見回す。
「静かだね。」
確かに。
市場なのに、怒鳴り声がない。呼び込みもない。値切り合戦もない。代わりに、淡々とした会話だけがある。
「三日分です」「はい」「次どうぞ」
それだけ。
感情が薄いのではなく、効率的で簡潔。そんな印象だった。道の脇では、白衣を着た人間が手を洗っている。桶の水に、透明な液体を混ぜ、何度も何度も擦っている。
「……消毒、かな。」
「毎回やってるの?」
「みたい。」
別の場所では、子どもたちが列を作っていた。順番に腕を出して、何か塗られている。嫌がっている子も、泣いている子もいない。慣れた顔をしている。
「んんー?あれは何を塗ってるんだろ。皆元気そうだけど…。」
「病気になる前に防ぐんだろうね。誓約領の予防管理は徹底してるって聞いたことがある。」
治すんじゃなくて、防ぐ。誓約領らしい考え方だと思った。
建物の窓は大きく、光がよく入る。洗濯物が規則正しく干され、どこにも泥がない。匂いもない。湿気もない。
石と、風と、日差し。世界が、明るく澄んでいる。
「ねえルミナ。」
セラが振り返る。
「ここ、いいね。」
無邪気な笑顔だった。
「すごく綺麗。治安も良いし、普通に暮らしやすそう。」
胸が、少しだけ揺れた。
普通に。その言葉が、思ったより深く刺さる。
戦わなくていい。選ばなくていい。未来を読まなくてもいい。ただ、朝起きて、ご飯を食べて、働いて、笑って、眠るだけ。そんな生活が、ここには本当にありそうだった。
「……うん。」
気づけば、そう返していた。
石畳の道を少し歩くと、香ばしい匂いが流れてきた。湿原の腐った水の匂いでも、帝国の油と香辛料の匂いでもない。
小麦が焼ける匂い。干した魚を炙る匂い。それから、薬草を煮出したみたいな、青くて静かな香り。
腹の奥が、きゅ、と鳴った。
「……あ、お腹すいた。」
セラが立ち止まる。
「さっきまで平気だったのに、急に来たんだけど。」
「匂いのせいじゃない?」
通りの角に、小さな食堂があった。白い壁に、簡素な木の看板。飾り気はない。ただ「食事」とだけ書いてある。中を覗くと、湯気が立っていた。
「入ろ入ろ!もう限界!」
セラに腕を引かれるまま、扉をくぐる。中は静かだった。騒がしく笑う声も、酒の匂いもない。木の机に、数人が座って、黙々と匙を動かしているだけ。食べることが目的で、他はおまけ。そんな空気だった。
「……なんか、診療所の待合室みたい。」
「わかる。」
二人で小声で笑う。
運ばれてきたのは、深い椀だった。湯気の向こうに、淡い色のスープ。根菜と豆と、小さな肉片。刻んだ緑の葉が浮いている。派手さはない。拍子抜けするくらい、普通。
セラが恐る恐る一口すする。
「……あ。」
目が丸くなる。
「なにこれ。」
「美味しくない?」
「ちがう。なんか……。」
もう一口。
「めっちゃ身体に染み渡る。」
ルミナも飲む。
塩気は薄い。油も少ない。なのに、妙に深い味がした。
骨の出汁。野菜の甘み。薬草の少し苦い香り。舌より先に、胃が喜んでいる感じ。熱が、するすると体の奥まで落ちていく。歩き続けて固まっていた筋肉が、ゆるむ。
「……すご。」
思わず呟く。
「疲れてたの、今気づいた。」
湿原で溜め込んでいた重さが、ゆっくり溶けていく。
セラは夢中で黒パンをスープに浸した。
「派手じゃないのにさ、止まんないんだけどこれ。」
「栄養食、って感じだね。」
「うん。なんか……」
少し考えて、笑った。
「身体に優しいご飯って感じ。」
その言葉が、やけにしっくりきた。周りの客たちも、同じものを同じ速さで食べている。贅沢も、飢えもない。生きるための食事。
誓約領らしい光景だった。
スープを飲み干したセラが、ぱん、と手を叩いた。
「よし!」
「なに。」
「観光しよ!」
「観光…?」
「せっかく誓約領来たんだよ? なんかあるでしょ、名所とか!」
店主が、きょとんとこちらを見る。
「名所……?」
「ほら、でっかい塔とか! 市場とか! 有名スポット!」
少し考えてから、店主は言った。
「……市場と、浴場と、診療所くらいですかね。」
「地味!」
「生きるのに必要なものしか、ありませんので。」
当たり前みたいな顔だった。
ルミナは、少しだけ笑った。
「……でも、たぶん。それがこの国の“観光”なんだと思う。」
「えー。」
不満そうに言いながらも、セラはもう立ち上がっている。
「じゃあ全部回ろ!端から制覇!」
湿原の泥が落ちた靴で、石畳を蹴る。
太陽が差し込む中、乾いた風が通り抜ける。帝国とは異なる気候。見慣れぬ景色。すべてが新鮮で、楽しみだ。
まずは市場を訪れた。セラ曰く、兎にも角にも食からということらしい。
白い壁に沿ってテントが張られていた。同じ大きさの台が、きっちり等間隔に並んでいる。
「……市場、だよね?」
「たぶん……?」
市場のはずなのに、呼び込みすらない。
代わりに聞こえるのは、こと、こと、と秤の重りが当たる音。紙袋を折る、ぱり、という音。生活音だけ。
「なんか……図書館みたいな市場だね。」
「うん…斬新な感想だね…。」
こそこそ言いながら、最初の屋台に近づく。木箱に並んでいるのは、乾燥させた薬草。全部、同じ長さに切りそろえられて、同じ束で縛られている。
値札。
【鎮痛草 一束 12銅】
「すご、全部同じ大きさ…?」
セラが一束持ち上げる。店主が、すっと秤に乗せた。重りを置く。
……ぴたり。
「規定量です。」
「規定量?」
「はい。誤差は出しません。」
「え、毎回これ全部量ってるの?」
「量って束ねています。」
当然の顔だった。
「ちょっと多め、とか……。」
「ありません。」
「おまけ……。」
「ありません。」
「顔なじみ割引……。」
「ありません。」
三連続。
「えぇ…冷たくないー…?」
「ちゃんとしてるんだよ。」
ルミナが小声でフォローする。
次はパン屋だった。丸パンが、等間隔で、きっちり整列している。
「これください!」
セラが指さす。
店主は無言でパンを取った。そのまま秤に乗せる。
「規定サイズ、六銅です。」
「パンも量るの!?」
「規格です。」
「規格パン!?」
何でも規格があるのか、見渡せばすべての店に秤が置いてある。
「試食とか……。」
「衛生規定により不可です」
「わぁ…。」
完封だった。
パンを受け取って、歩きながらかじる。ぱり、と音がして、中はふわっと柔らかい。
「……あ。」
「どう?」
「……めちゃくちゃおいしい……。」
セラが真顔になる。さっきまで食堂にいたのに、すごい勢いで咀嚼した。
「なにこれ。ちゃんとしてる味がする……。」
「ふふっ…ちゃんとしてる味って何?」
「湿原の干し肉が野生味すぎたの。」
それはそう。二人で笑う。
少し先では、干し肉、燻製魚、豆、塩、酢、包帯、薬瓶。売っている物が、やたら実用的だ。装飾品とか、お土産とか、派手な色とか、嗜好品のようなものはない。
「夢がないね……。」
「生きるのに必要なものしか置いてないんだろうね。」
その時。セラが、ふらっと横の屋台に吸い寄せられた。
「うわ、見てルミナ!」
振り返ると、木箱いっぱいの丸い揚げ団子が売られていた。
「これは夢があるってやつだね。」
「甘味は正義!!」
即購入。かじる。
「……!」
目が、きらきらする。
「なにこれ、あったかい、甘い、幸せ。」
「語彙が死んでるよ。」
「美味しいんだもん。」
セラは口いっぱいに頬張りながら、幸せそうに笑う。
「あ。」
香ばしい香りにつられ、無意識に、別の屋台の干し肉に手を伸ばした。
ぱしっ。トングで戻された。
「購入前の商品への接触はご遠慮ください。」
「すみません!!」
反射的に直立不動。
「怒られた子どもみたいになってる……。」
「ここ、厳しすぎるって!」
だが、怒鳴られもしないし、睨まれもしない。淡々とルールを守らされるだけ。それが逆に、面白くて。
「なんかさ。」
セラが笑う。
「この国、真面目すぎてちょっとかわいいね。」
「かわいい……のかな?」
「うん。融通きかない動物みたい。」
「どんな例えなの…。」
笑いながら、広場を抜ける。袋にはパンと団子。手にはまだ温もり。湿原の七日間が、嘘みたいだった。
「次どこ行く?」
「お風呂あるらしいよ。」
「行く!!!!」
即答だった。パンをくわえたまま、セラが走り出す。
「パンは飲み込んでから!あと走らないの!」
追いかけながら、ルミナは、ふと思った。
普通だ。びっくりするくらい、普通の朝だ。笑って、食べて、歩いている。ただそれだけ。それが、少しだけ。怖いくらい、幸せだった。




