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第四章 どこに足を置くのかー④

***


六日目

霧が、すっと薄れていた。夜の湿気が嘘みたいに抜けて、空が高い。雲ひとつない青が、湿原の上に広がっている。光が、まっすぐ落ちていた。

「……晴れてる。」

ルミナが呟いた。

「うわ、めっちゃ晴れてるじゃん!」

トナーの声が弾む。

「これ絶対今日いけますって! 湿原抜けられる日っすよこれ!」

「朝から元気だな……。」

ダンが欠伸を噛み殺す。

「でも助かりますね。板も乾きますし。」

「昨日みたいに夜露でびしゃびしゃは勘弁だ……」

セラが毛布をたたみながら顔をしかめる。

「寒いし眠れないし最悪だったんだから。」

「俺はぐっすりだったぞ。」

「兄貴は石でも寝れるタイプでしょ。」

「失礼だな。」

ガルドが鼻で笑う。片目にはまだ包帯。けれどいつも通り荷車を押している。

その姿に、ルミナの視線が無意識に止まった。痛まないはずがない。それでも、いつも通り立っている。胸の奥が、きゅっと締まる。

「ルミナ、大丈夫?」

セラが覗き込む。

「顔、まだちょっと白いよ?」

「あ……うん。平気。」

無理やり笑う。本当に平気かどうかは、自分でも分からない。

「よーし! 今日こそ脱出だー!」

トナーが板を叩く。

「帰ったら肉! 風呂! ベッド!」

「順番がおかしいだろ。」

「全部同時に欲しいんすよ!」

笑い声が広がる。湿原の朝にしては、ずいぶん賑やかだった。

その少し後ろ。黒い外套の男は、黙って荷をまとめている。

視線は地面。昨日の夜のことなんて、最初から存在しなかったみたいに。一度も、こちらを見ない。

ただ淡々と、紐を締め、板を確かめ、歩き出す。いつもの、無関心な横顔。

……まるで何もなかったみたいだ。胸の奥に、妙な違和感だけが残った。

「出るぞ。」

短い声。列が動き出す。湿原の、最後の一日が始まった。

朝の光が、板の上にまっすぐ落ちていた。霧はほとんどない。湿原が、昨日より広く見える。

泥も、心なしか固い。杖を突く音が、軽い。ずぶ、ではなく、こつ、と鳴る。

「……今日、めちゃくちゃ歩きやすくない?」

セラが振り返る。

「昨日までと別の場所みたい。」

「乾いてますね」

ミハリが足元を確かめながら言う。

「沈みが浅い。」

「これ当たり日っすよ絶対。」

トナーが荷車を押しながら笑った。

「確実に行けるっすね?」

「それは言い過ぎだろ。」

ダンが苦笑する。

「でも、ペースは上げられそうですね。」

「さっさと出たい」

ガルドがぶっきらぼうに吐き捨てる。

「泥の匂い、もう腹いっぱいだ。」

「兄貴それ昨日も言ってましたよ」

「毎日言うわこんなもん」

笑いが起きる。湿原に、久しぶりに明るい声が響いた。板が軋む音より、人の声の方が大きい。それだけで、少し安心する。

「誓約領着いたら何するんですか?」

トナーが振り向く。

「オレ甘いパン食いたいっす。」

「食べ物基準なんだ……。」

セラが呆れる。

「私はねー、お風呂。絶対お風呂。湯船。熱いやつ。」

「分かります」

ダンが真顔で頷いた。

「服も全部洗いたいですね。湿原の匂い取れませんし。」

「……寝たい」

ミハリがぼそっと言う。

「三日くらい。」

「それはただの引きこもりだろ。」

また笑い。他愛ない。本当に、どうでもいい話。

でも。そのどうでもよさが、やけに心地よかった。

みんな、生きている。

先頭では、黒い外套の背中が淡々と進んでいる。いつも通り。もう、こちらを見ることもない。ただ、静かに、前だけを向いて歩いていた。

ルミナは杖を握り直す。右目は、今日は静かだった。それだけで、少しだけ息が楽になる。

湿原の出口は、きっと、もう遠くない。


やがて。

足裏の感触が、変わった。こつ。杖の先が、乾いた音を返す。泥じゃない。

ルミナは足を止め、もう一度突いた。

こつ。こつ。沈まない。

「……あれ。」

セラも同じことに気づいたらしい。ぴょん、と軽く足踏みする。

「硬い。」

「え、ほんと?」

トナーが板の端から土に降りる。数秒、固まる。

「……沈まない。」

その一言で、空気が変わった。全員が恐る恐る板を降りる。

泥じゃない。湿ってはいるけど、普通の土だ。踏めば、ちゃんと踏み返してくる。それだけで、胸の奥がじわっと熱くなる。

ダンが苦笑する。

「……地面ですね。」

「普通の、地面だ。」

なんてことない、ただの土。七日ぶりに、世界が自分たちを支えてくれている気がした。

セラが、小さく笑う。

「……変なの。ちょっと、感動してる。」

誰も笑わなかった。みんな、同じ気持ちだった。

風が吹く。泥の匂いが薄い。代わりに、草の匂いがした。

さらさら、と。遠くで水の音が鳴る。

「……川?」

ミハリが顔を上げる。

少し先、低い木々の間から、光が反射している。近づくと透明な水が、細く流れていた。泥色じゃない。底が見える。石が転がっている。

「……うそ。」

セラが呟く。

「きれい……。」

数秒の沈黙。次の瞬間。

「入っていい!?」

「待て。」

もう遅い。ばしゃん。

「うわ冷たっ! でも気持ちいい!!」

「子供か……。」

ガルドが呆れながらも、手袋を外して腕を洗う。泥が落ちる。肌の色が戻る。

「……軽っ。」

泥のない腕はあまりに軽い。

トナーは服のまま突っ込もうとしてダンに首根っこ掴まれている。

「脱いでからにしてください!」

「めんどくさいっす!」

「ダメです!」

笑い声が弾ける。湿原の中では出なかった声だった。

ルミナも、そっと手を水に浸す。冷たい。透明。泥の感触が、するりと消える。

それだけで、胸の奥に溜まっていた何かが、少し溶けた気がした。

顔を上げる。遠く、木々の隙間の向こう。丘の上に、白い影が見えた。石造りの塔。壁。屋根。人工物。

「あ……!」

誰かが、息を呑む。

「……あれ。」

ダンが目を細める。

「……誓約領、ですね。」

静かに。でも、確信を持って。

「うわああああああ!!」

トナーが叫んだ。

「見えた! 見えたっすよ!!」

「ほんとだ……」

セラが目を輝かせる。

「ほんとに、抜けたんだ……。」

七日間の泥が、ようやく終わった。

ルミナは足元を見る。もう沈まない。思わず笑顔が溢れる。久しぶりに、心から笑えた気がした。


川のそばに、少しだけ高くなった地面があった。

「今日はここだな。」

ガルドが荷車を止める。板もいらない。泥もない。ただの土。それだけで、十分すぎた。

「うわ……普通に座れる……。」

セラがその場にぺたりと座り込む。

「沈まないって最高……。」

「感動ポイント低すぎない?」

トナーが笑いながら川を覗き込んだ。

「魚いるっすよ。ほら。」

「ほんとだ。」

銀色の影が、すっと走る。透明な水の中を、するりと抜けていった。

「……獲っちゃう?」

「獲る。」

二人の返事が同時だった。

「ちょっと待てお前ら」

ダンが止める間もなく、もう靴を脱いでいる。

「晩飯増えるならやるしかないでしょ!」

「任せてくださいよ、こういうの得意なんで!」

「絶対うるさくなるやつだこれ……。」

案の定。

「逃げた!」

「そっちそっち!」

「セラ邪魔!」

「トナーが下手なんでしょ!」

ばしゃばしゃ。水しぶきが上がる。静かだった川辺が一瞬で戦場になった。

ミハリが小さく息をつく。

「……魚がかわいそう。」

「言うな。今夜のタンパク源だ。」

ガルドはもう焚き火の準備をしている。乾いた枝がよく燃えた。ぱち、と気持ちいい音。久しぶりに、まともな火だった。湿原の真ん中と違って、ここは乾いた土だ。煙も光も、上に昇っていった。

「獲れたーー!!」

トナーが魚を掲げる。

「でかいっす!」

「私も!見て!数なら負けないから!」

セラが得意げに笑う。びしょ濡れのくせに、やたら誇らしげだ。

「子供か……。」

ガルドが呆れつつ、ナイフを取る。手際よく腹を裂き、串を打つ。

「兄貴慣れてるな。」

「昔は川で飯調達してたからな。」

じゅう、と音。脂が火に落ちる。香ばしい匂いが、ふわっと広がった。全員の腹が同時に鳴る。

「……やば。」

「めっちゃいい匂い。」

「湿原で一番幸せかもしれない…。」

ダンが苦笑する。

「基準が泥すぎるんですよ、もう。」

笑い声が重なる。火の周りに輪ができる。誰かがスープを温める。誰かがパンを分ける。誰かが服を干している。

ただの夕飯。ただの野営。

それだけなのに、こんなにも安心できる。

ルミナは少し離れたところに座る。膝を抱え、火を眺める。

右目は、静かだ。何も見えない。未来も、悲鳴も、血も。

笑い声だけが聞こえる。それが、たまらなく嬉しかった。

ふと、視界の端。黒い外套の男が、川辺で静かに手を洗っている。誰とも混ざらない。でも、同じ火の明かりの中にいる。それだけで、不思議と遠くなかった。

明日には、誓約領だ。この旅も、終わる。

火が、ぱち、と弾けた。

夜が、ゆっくり降りてきた。


「おいしい!」

声があがった。ぱり、と皮が割れて、白い身がほぐれる。湯気がふわっと立ちのぼった。

「でしょ!? これ当たりっすよ当たり!」

トナーが得意げに胸を張る。

「俺が捕まえたやつ!」

「半分セラが網持ってたじゃん。」

「細かいこと言わない!」

「ほぼ私だからね?」

「えっ。」

笑い声が弾ける。火の上では、串に刺した魚がじゅうじゅう音を立てていた。脂が落ちて、火が跳ねる。湿原の匂いに混ざって、香ばしい匂いが漂った。

「塩あるだけで神だな……。」

ダンがしみじみ呟く。

「昨日まで干し肉だったもんなぁ。」

「もうあれ見たくない……。」

セラがげんなりした顔で魚をかじる。

「ていうかさ、これ何本目?」

「三本目。」

「食いすぎ!」

「だって腹減ってんだもん!」

「トナー五本目だろ絶対!」

「ばれてる!?」

また笑い。こんなに賑やかな食事は、湿原に入ってから初めてだった。ガルドはすでに胡坐をかいて、無言で三本目を平らげている。

「兄貴早くない?」

「奪われる前に食う。」

「戦場かよ。」

「戦場みたいなもんだろここ。」

真顔で言われて、みんな吹き出した。火の端で、いつの間にか串が増えている。魚の横に、見覚えのない細い根菜と、丸い木の実。じり、と焼き色がついている。

「……あれ、これ誰の?」

「知らん。」

「さっき無かったよな?」

「まあ食えるならいいだろ。」

セラが一本取ってかじる。しゃく。

「……あ、これうま。」

「え、なにそれ、ちょうだい。」

「甘っ。なにこれ。」

「当たり引いてんじゃん!」

あっという間に奪い合いになる。誰が焼いたのか、誰も気にしていない。火の向こうで、黒い外套の男が無言で串を返した。それだけだった。

ルミナは膝を抱えて、魚を両手で持ったまま、もぐもぐと噛む。

温かい。柔らかい。塩辛い。それだけで、胸の奥がゆるむ。

「……おいしい。」

小さく呟く。セラがにやっと笑った。

「ねっ!生き返るよね!」

「うん……。」

本当に、生き返るみたいだった。湿原に入ってから、ずっと張り詰めていた何かが、少しだけ溶けていく。

「セラそれオレの!」

「早い者勝ちー!」

「ずる!」

何もかもが温かい。美味しい。今は、それだけで十分だった。


あっという間に夜になった。

虫の声や、草が風に擦れる音、川の水がゆっくり聞こえてくる。あの、音を吸い込むみたいな静けさじゃない。

火は小さい。乾いた枝が、ときどきぱち、と弾けるだけ。

ルミナは毛布にくるまり、目を閉じた。眠れるはずなのに、すぐには落ちていけない。視線だけ、そっと横へ向ける。

すぐ隣。セラが丸くなって寝ている。

昼間あれだけ騒いでいたのに、今は嘘みたいに大人しい。

規則的な寝息。力の抜けた手。泥だらけのままの靴。ちゃんと疲れて、ちゃんと眠っている。

無防備で。でも、どこか安心しきった顔だった。

セラの寝息が、ゆっくり上下する。その音を聞いているだけで、胸の奥のざわつきが静まっていった。

誰も死ななかった。

怪我はあった。荷物も失った。疲れて、泥だらけで、最悪だった。

それでも、全員生きている。それが、答えだ。

右目に触れる。

代償は、ルミナには来ない。傷も残らない。

でも楽なわけがない。

選ぶのは自分だ。

誰を助けて、何を失って、どこを切り捨てるか。

全部、自分の決断だ。

だったら。

ゆっくり息を吐く。

もう、「仕方ない」じゃない。

もう、「運が悪い」でもない。

選んだんだ。自分で。それなら、最後まで一緒に背負えばいい。

逃げない。この目を使うなら、最後まで。それだけだ。

隣で、セラが小さく寝返りを打つ。毛布がずれて、肩が少し出た。

そっと掛け直す。指先が、ほんの少し温かかった。

「……大丈夫。」

誰に言ったのか、自分でも分からない。

でも、確かに思えた。明日も、選べる。それでいい。


七日目の朝

薄く目を開ける。空は、すでに白んでいた。

「……さっむ。」

セラが毛布から顔だけ出している。

「川の近くだから冷えるんだよ……。」

「でも湿原よりマシだろ。」

ガルドはもう起きていた。片手で包帯を巻き直しながら、普通に立っている。

「兄貴、それほんとに大丈夫なんすか?」

トナーが覗き込む。

「見えてる見えてる。」

「片目で荷車押すの、普通にすごくない?」

「慣れだ。」

「慣れで済ますなよ……。」

ダンは川辺で顔を洗っている。

「水、冷たいですけど気持ちいいですよ。目ぇ覚めます。」

「うわ無理無理無理!」

セラが後ずさる。

「昨日魚追いかけて入った人のセリフじゃないからねそれ。」

「それはテンションだから!」

笑い声。ミハリは黙々と鍋を火にかけている。干し肉と残り野菜の簡単なスープ。

「……朝ごはん、できます。」

「神。」

トナーが即答する。

「ほんと神。」

誰かがパンを温める。誰かが靴紐を締める。誰かが服を干し直す。

ただの朝支度。ただの生活。それが、こんなにも穏やかだった。

「……今日、着くんだよね。」

セラがスープをすすりながら言う。

「たぶん。」

ダンが頷く。

「ここから半日くらいです。」

「やっと泥とおさらばだー……。」

「服全部洗う……。」

「俺三日は寝る。」

「それはただの引きこもり。」

また笑い。その空気のまま。荷車を押して、ゆっくり歩き出した。


坂を上りきったところで、視界がひらけた。丘の向こう。白い石の建物が、整然と並んでいる。

同じ高さ。同じ色。同じ形。

飾りも旗もない。ただ、静かに並んだ石の街。

「……あ。」

思わず足が止まった。

「……これが、誓約領……?」

セラもぽかんと口を開けている。

「なんか……思ってた街と違う……。」

「もっとこう……市場とか、屋台とか、あるのかと……」

二人でこそこそ言っていると、

「はは。」

後ろからダンが小さく笑った。

「初めて来た人、だいたい同じこと言うんですよ。」

「え、そうなんですか?」

「ええ。『静かすぎる』って。」

「それそれそれ!」

セラが勢いよく頷く。

「街なのに音しないんだけど!?」

「最初は不気味ですよね。」

「慣れると楽ですけど。」

ガルドが鼻で笑う。

「無駄な呼び込みもねぇしな。買い物が楽だ。」

「兄貴らしい感想……。」

トナーが肩をすくめる。

「オレ二回目なのに、やっぱちょっと緊張しますもん。」

「お前は毎回緊張してるだろ。」

「バレました?」

笑いが広がる。いつもの空気。誰も特別扱いしない。でも、ちゃんと同じ輪の中にいる。それが、妙に安心した。

前を見る。

黒い外套の背中が、いつも通り淡々と歩いている。特別な反応はない。ただ、当たり前みたいに門へ向かっている。

その自然さが、逆に心強かった。白い街並みは近づくほど、音のないまま輪郭だけを増していった。


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