第四章 どこに足を置くのかー③
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三日目。
また、右目が鼓動した。瞬きをした瞬間、地面が近づく。
ミハリの後頭部。泥。鈍い音。倒れたまま、動かない未来。
「待って!」
声が勝手に出た。肩を掴んで引き戻す。
何も起きない。転ばない。未来は外れる。
その代わり。がこん、と鈍い衝撃。荷車が傾いた。
「……車軸、折れた。」
ガルドの低い声。
半日、泥の中。持ち上げて、押して、叩いて、組み直す。
ガルドの腕が泥に沈み、トナーが笑いながら悪態をつき、ミハリが無言で縄を引く。
誰も怪我はしない。ただ、全員の息だけが荒くなった。体力が、削れた。
四日目。
霧が濃い。数歩先も見えない。
右目の視界が、揺れた。水面。ダンの足首を掴む黒い影。引き込まれる背中。泡。
ダンに声をかけようと振り返ると、
「右は沈む。左だ。」
先頭から声が飛んだ。
黒い外套。あの男が、振り返りもせず言う。
隊列が自然に曲がる。遠回り。
そのせいで、辿り着いた野営地は使い物にならなかった。杭が抜け、板が沈み、泥ばかり。結局、火もまともに焚けず、夜露の中で丸くなるだけだった。
眠れない。寒い。
朝、全員の動きが鈍かった。
命は助かった。ただ、それだけだった。杖が、いつもより重い。
そして、同じ日の午後。
また。今度はトナー。笑いながら歩く足が、ゆっくり沈む。板が割れる未来。荷車が傾き、重みごと道が崩れる。
「トナー、こっちの地面見てくれる?」
トナーを呼んで移動してもらう。
がたん、と板が一枚沈んだ。さっきまで荷車が通るはずだった場所だ。
荷を組み直し、なんとか渡る。腕が重い。指が動かない。
トナーが空元気に笑う。
「いやー、湿原って感じしますねー。」
誰も救えていなかった。かろうじて、命だけだ。
余裕が、削れた。未来がみえるたび、心が軋む。摩耗していく。
魔眼が見せてくる。瞬きみたいに。呼吸みたいに。世界が、勝手に未来を押し付けてくる。
選ぶしかない。
誰も死なない道を。誰かが不幸になる道を。
瞬きをするのが、少しだけ怖かった。
四日目の夜。
火は焚かなかった。湿った枝では煙ばかり出るし、光は余計なものを寄せる。毛布にくるまった寝息が、背後で小さく重なっている。
前には、霧と泥だけ。夜の湿原は、底の抜けた井戸みたいに暗かった。
夜番も慣れた。同じ繰り返し。それなのに、頭の奥がひどく重い。
右目が、時々じくりと熱をもつ。今日だけで、何回見ただろう。
転ぶ未来、沈む未来、引き込まれる未来、
助けて。代わりに、何かが削れる。
助けて。また削れる。
その繰り返し。
どうしてこんなに、魔眼が発現するのか。
この土地では、他の魔術は死んだみたいに動かない。なのに、右目だけが生き物みたいに脈打っている。
考えかけて、やめた。答えなんて出ない。
「おい。」
低い声。はっと顔を上げる。
隣で、ガルドがこちらを見ていた。泥で固まった外套。太い腕。いつも通りの無骨な立ち姿。
「足止まってるぞ。」
言われて気づく。同じ場所を、何度も突いていた。
「……すみません。」
「謝んな。」
ぶっきらぼうに返す。
「疲れてるだけだ。湿原はな、体より先に頭がやられる。」
杖で前を突く。
「考え始めたやつから沈む。」
ダンと似たことを言っているのに、響きが違う。理屈じゃない。経験の重さだった。
「……そんな顔してますか。」
「ああ。」
間。
「初日のトナーと同じ顔だ。」
「それは嫌ですね。」
「だろ。」
小さく鼻で笑う。それきり、ガルドは黙った。
詮索もしない。励ましもしない。ただ、同じ速さで隣を歩く。それだけで、十分だった。
霧の向こうで、水がわずかに鳴った。
右目の奥が、また、じくりと痛む。何も起きるな。そう願った。
五日目の朝。
霧は薄い。昨日より、わずかに明るい。それだけで、今日は少し楽な気がした。
ガルドが先頭で荷車を押している。太い背中。泥まみれの外套。
昨日と何も変わらない。変わらないはずだった。
右目が熱を持ち、視界が歪む。
瞬き。世界が、引き延ばされる。
板。軋み。ガルドの足元で、泥水が弾ける。
黒い尾。低い水音。顎。開いた口。暗闇。
目に、牙が――
「ガルド!」
叫んでいた。身体が勝手に動く。
腕を掴んで引き倒す。横へ転がる。
水しぶき。顎が空を噛む。
代わりに。がつん、と鈍い音。
ガルドの顔が板に打ちつけられた。
「っ……!」
片目を押さえる。指の隙間から赤が滲んだ。
未来と、違う。両目じゃない。
でも。
「下がれ!!」
ガルドが怒鳴る。
次の瞬間。
ちゃぷん。
ちゃぷん。
ちゃぷん。
水面がいくつも揺れる。
目。
目。
目。
黒い水の上に、いくつも浮かぶ。
血の匂い。湿った空気が、一気にざわつく。
「……寄ってきたな。」
低い声。黒い外套が前に出た。
水際に立つ。
腰の短剣を抜く。刃が、湿った朝の光を鈍く返した。
空気が、変わった。
ぴたり、と。ワニの動きが止まる。
一歩。また一歩。
にじり寄る影。
その瞬間。水面が弾けた。
牙。尾。泥。叫び声。
戦闘は、ほとんど覚えていない。
必死だった。
泥を蹴り、杭を振り、荷車を押し、叫び、引きずり。
気づけば。水面は、静かになっていた。
荒い呼吸だけが残る。
「……生きてるか。」
ガルドが笑う。片目を閉じたまま。
「かすり傷だ。」
どう見ても、かすり傷じゃなかった。
ルミナは膝をつく。震える手で、光を灯す。
応急の治癒。血が止まる。腫れが引く。
でも。
「……しばらく、使わないで。」
声が掠れた。ガルドは鼻で笑う。
「片目くらい、どうってことねぇ。」
その言葉が、胸に刺さる。
本当は両目だった。助けたはずなのに。守ったはずなのに。
代わりに、削れた。
また。命は助かった。
それだけ。
火は小さく焚いた。
湿った枝でも、昼間なら煙は上に逃げる。薄い湯気が、霧に溶けていく。鍋の中で、干し肉と固い豆が、ことこと鳴っていた。
「……腹減った……。」
トナーが地面に座り込む。
「お前さっき食ってただろ。」
「それは朝飯っす。今は昼飯の腹です。」
「うるせぇ。」
ガルドが鼻で笑う。
ミハリが黙々と水を配る。手つきが妙に几帳面だ。ダンが鍋をかき混ぜながら言った。
「予定より進んでますよ。天気が持ってくれて助かりました。」
「昨日の霧が嘘みたいだな。」
「この調子なら、明日の夕方には抜けられます。」
「え、本当に?」
セラがぱっと顔を上げる。
「途中で遠回りしたし、八日コースじゃなかったの?」
「六日半ってとこですね。」
「短縮じゃん!やった!」
両手を上げて喜ぶ。
「もう泥見たくない……靴の中ずっと湿ってるし……。」
「それは俺も同意だな。」
「帰ったら絶対風呂入る……三回入る……。」
「三回は意味わからん。」
笑い声が広がる。
鍋が回され、湯気と一緒に塩の匂いが立ちのぼる。
久しぶりに、人のいる音がした。生きている音だった。
ルミナは、少し離れた場所に座る。視線が、無意識にガルドへ向く。
片目に巻いた布。血は止まっている。でも、痛まないはずがない。
それでも。
「だから言ったろ。かすり傷だって。」
片手で椀を持ち、普通に笑っている。まるで何もなかったみたいに。
その横で、セラがトナーにスープをこぼして怒鳴っている。
「熱っ!お前わざとだろ!」
「違うって!」
「絶対わざと!」
「ミハリ助けて!」
「自分で拭いてください。」
また笑い声。いつも通り。何も失っていないみたいに。
胸の奥だけが、重かった。
***
五日目の夜
夜になると、霧が戻ってきた。湿原は、昼よりも静かだ。虫の音も、水音もない。ただ、底のない暗闇だけが広がっている。
板の端に立つ。隣に、黒い外套。
足音も、気配もない。最初からそうだったみたいに、並んで立っている。
言葉はない。
杖で地面を突く音だけが、規則正しく続く。
ひとつ。また、ひとつ。
夜番は、何度もやった。ダンとも、ガルドとも。
でも。こんなに静かなのは、初めてだった。
息をする音まで、聞かれている気がする。
隣の男は、何も言わない。それなのに、全部見透かされている気がした。
野営地から少し離れたところで、黒髪の男は足を止めた。
振り返る。金色の瞳が、霧の中で光る。
次の瞬間。距離が、詰まった。
いつ近づいたのか分からない。気づいた時には、目の前だった。
近い。息がかかるほど。
本能的に後ずさる。背中が板に当たった。
逃げ場がない。呼吸がうまく吸えない。
男は何も言わない。ただ、見下ろしている。
完全に、捕まった側の位置だった。
沈黙。
心臓だけがうるさい。
やがて。
「……お前。」
低い声。
「未来が見えるのか。」
問いというより、確認。答えなんて最初から分かっている顔だった。
喉が鳴る。言葉が出ない。
男の視線が、ゆっくりと右目へ落ちる。そのまま、指が伸びた。
眼帯の上から触れる。布越しに、そっと押す。確かめるみたいに。熱を測るみたいに。
「……やっぱりな。」
低く呟く。
「外すぞ。」
そのまま、指が縁にかかる。
次の瞬間、もう外れていた。
するり、と。湿った空気が、直接右目に触れる。
「湿原は、未来の選択肢は増えるが、最悪な状況は限られる。」
男は淡々と言った。
「……ずいぶんな立ち回りだったな。」
外した眼帯を、無造作にこちらへ押しつける。思わず受け取った頃には、もう背を向けていた。
「せいぜい利用してみせろ。」
霧の中へ溶けていく背中が、やけに遠かった。




