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第四章 どこに足を置くのかー③

***


三日目。

また、右目が鼓動した。瞬きをした瞬間、地面が近づく。

ミハリの後頭部。泥。鈍い音。倒れたまま、動かない未来。

「待って!」

声が勝手に出た。肩を掴んで引き戻す。

何も起きない。転ばない。未来は外れる。

その代わり。がこん、と鈍い衝撃。荷車が傾いた。

「……車軸、折れた。」

ガルドの低い声。

半日、泥の中。持ち上げて、押して、叩いて、組み直す。

ガルドの腕が泥に沈み、トナーが笑いながら悪態をつき、ミハリが無言で縄を引く。

誰も怪我はしない。ただ、全員の息だけが荒くなった。体力が、削れた。


四日目。

霧が濃い。数歩先も見えない。

右目の視界が、揺れた。水面。ダンの足首を掴む黒い影。引き込まれる背中。泡。

ダンに声をかけようと振り返ると、

「右は沈む。左だ。」

先頭から声が飛んだ。

黒い外套。あの男が、振り返りもせず言う。

隊列が自然に曲がる。遠回り。

そのせいで、辿り着いた野営地は使い物にならなかった。杭が抜け、板が沈み、泥ばかり。結局、火もまともに焚けず、夜露の中で丸くなるだけだった。

眠れない。寒い。

朝、全員の動きが鈍かった。

命は助かった。ただ、それだけだった。杖が、いつもより重い。

そして、同じ日の午後。

また。今度はトナー。笑いながら歩く足が、ゆっくり沈む。板が割れる未来。荷車が傾き、重みごと道が崩れる。

「トナー、こっちの地面見てくれる?」

トナーを呼んで移動してもらう。

がたん、と板が一枚沈んだ。さっきまで荷車が通るはずだった場所だ。

荷を組み直し、なんとか渡る。腕が重い。指が動かない。

トナーが空元気に笑う。

「いやー、湿原って感じしますねー。」

誰も救えていなかった。かろうじて、命だけだ。

余裕が、削れた。未来がみえるたび、心が軋む。摩耗していく。

魔眼が見せてくる。瞬きみたいに。呼吸みたいに。世界が、勝手に未来を押し付けてくる。

選ぶしかない。

誰も死なない道を。誰かが不幸になる道を。

瞬きをするのが、少しだけ怖かった。


四日目の夜。

火は焚かなかった。湿った枝では煙ばかり出るし、光は余計なものを寄せる。毛布にくるまった寝息が、背後で小さく重なっている。

前には、霧と泥だけ。夜の湿原は、底の抜けた井戸みたいに暗かった。

夜番も慣れた。同じ繰り返し。それなのに、頭の奥がひどく重い。

右目が、時々じくりと熱をもつ。今日だけで、何回見ただろう。

転ぶ未来、沈む未来、引き込まれる未来、

助けて。代わりに、何かが削れる。

助けて。また削れる。

その繰り返し。

どうしてこんなに、魔眼が発現するのか。

この土地では、他の魔術は死んだみたいに動かない。なのに、右目だけが生き物みたいに脈打っている。

考えかけて、やめた。答えなんて出ない。

「おい。」

低い声。はっと顔を上げる。

隣で、ガルドがこちらを見ていた。泥で固まった外套。太い腕。いつも通りの無骨な立ち姿。

「足止まってるぞ。」

言われて気づく。同じ場所を、何度も突いていた。

「……すみません。」

「謝んな。」

ぶっきらぼうに返す。

「疲れてるだけだ。湿原はな、体より先に頭がやられる。」

杖で前を突く。

「考え始めたやつから沈む。」

ダンと似たことを言っているのに、響きが違う。理屈じゃない。経験の重さだった。

「……そんな顔してますか。」

「ああ。」

間。

「初日のトナーと同じ顔だ。」

「それは嫌ですね。」

「だろ。」

小さく鼻で笑う。それきり、ガルドは黙った。

詮索もしない。励ましもしない。ただ、同じ速さで隣を歩く。それだけで、十分だった。

霧の向こうで、水がわずかに鳴った。

右目の奥が、また、じくりと痛む。何も起きるな。そう願った。


五日目の朝。

霧は薄い。昨日より、わずかに明るい。それだけで、今日は少し楽な気がした。

ガルドが先頭で荷車を押している。太い背中。泥まみれの外套。

昨日と何も変わらない。変わらないはずだった。

右目が熱を持ち、視界が歪む。

瞬き。世界が、引き延ばされる。

板。軋み。ガルドの足元で、泥水が弾ける。

黒い尾。低い水音。顎。開いた口。暗闇。

目に、牙が――

「ガルド!」

叫んでいた。身体が勝手に動く。

腕を掴んで引き倒す。横へ転がる。

水しぶき。顎が空を噛む。

代わりに。がつん、と鈍い音。

ガルドの顔が板に打ちつけられた。

「っ……!」

片目を押さえる。指の隙間から赤が滲んだ。

未来と、違う。両目じゃない。

でも。

「下がれ!!」

ガルドが怒鳴る。

次の瞬間。

ちゃぷん。

ちゃぷん。

ちゃぷん。

水面がいくつも揺れる。

目。

目。

目。

黒い水の上に、いくつも浮かぶ。

血の匂い。湿った空気が、一気にざわつく。

「……寄ってきたな。」

低い声。黒い外套が前に出た。

水際に立つ。

腰の短剣を抜く。刃が、湿った朝の光を鈍く返した。

空気が、変わった。

ぴたり、と。ワニの動きが止まる。

一歩。また一歩。

にじり寄る影。

その瞬間。水面が弾けた。

牙。尾。泥。叫び声。

戦闘は、ほとんど覚えていない。

必死だった。

泥を蹴り、杭を振り、荷車を押し、叫び、引きずり。

気づけば。水面は、静かになっていた。

荒い呼吸だけが残る。

「……生きてるか。」

ガルドが笑う。片目を閉じたまま。

「かすり傷だ。」

どう見ても、かすり傷じゃなかった。

ルミナは膝をつく。震える手で、光を灯す。

応急の治癒。血が止まる。腫れが引く。

でも。

「……しばらく、使わないで。」

声が掠れた。ガルドは鼻で笑う。

「片目くらい、どうってことねぇ。」

その言葉が、胸に刺さる。

本当は両目だった。助けたはずなのに。守ったはずなのに。

代わりに、削れた。

また。命は助かった。

それだけ。


火は小さく焚いた。

湿った枝でも、昼間なら煙は上に逃げる。薄い湯気が、霧に溶けていく。鍋の中で、干し肉と固い豆が、ことこと鳴っていた。

「……腹減った……。」

トナーが地面に座り込む。

「お前さっき食ってただろ。」

「それは朝飯っす。今は昼飯の腹です。」

「うるせぇ。」

ガルドが鼻で笑う。

ミハリが黙々と水を配る。手つきが妙に几帳面だ。ダンが鍋をかき混ぜながら言った。

「予定より進んでますよ。天気が持ってくれて助かりました。」

「昨日の霧が嘘みたいだな。」

「この調子なら、明日の夕方には抜けられます。」

「え、本当に?」

セラがぱっと顔を上げる。

「途中で遠回りしたし、八日コースじゃなかったの?」

「六日半ってとこですね。」

「短縮じゃん!やった!」

両手を上げて喜ぶ。

「もう泥見たくない……靴の中ずっと湿ってるし……。」

「それは俺も同意だな。」

「帰ったら絶対風呂入る……三回入る……。」

「三回は意味わからん。」

笑い声が広がる。

鍋が回され、湯気と一緒に塩の匂いが立ちのぼる。

久しぶりに、人のいる音がした。生きている音だった。

ルミナは、少し離れた場所に座る。視線が、無意識にガルドへ向く。

片目に巻いた布。血は止まっている。でも、痛まないはずがない。

それでも。

「だから言ったろ。かすり傷だって。」

片手で椀を持ち、普通に笑っている。まるで何もなかったみたいに。

その横で、セラがトナーにスープをこぼして怒鳴っている。

「熱っ!お前わざとだろ!」

「違うって!」

「絶対わざと!」

「ミハリ助けて!」

「自分で拭いてください。」

また笑い声。いつも通り。何も失っていないみたいに。

胸の奥だけが、重かった。


***


五日目の夜

夜になると、霧が戻ってきた。湿原は、昼よりも静かだ。虫の音も、水音もない。ただ、底のない暗闇だけが広がっている。

板の端に立つ。隣に、黒い外套。

足音も、気配もない。最初からそうだったみたいに、並んで立っている。

言葉はない。

杖で地面を突く音だけが、規則正しく続く。

ひとつ。また、ひとつ。

夜番は、何度もやった。ダンとも、ガルドとも。

でも。こんなに静かなのは、初めてだった。

息をする音まで、聞かれている気がする。

隣の男は、何も言わない。それなのに、全部見透かされている気がした。


野営地から少し離れたところで、黒髪の男は足を止めた。

振り返る。金色の瞳が、霧の中で光る。

次の瞬間。距離が、詰まった。

いつ近づいたのか分からない。気づいた時には、目の前だった。

近い。息がかかるほど。

本能的に後ずさる。背中が板に当たった。

逃げ場がない。呼吸がうまく吸えない。

男は何も言わない。ただ、見下ろしている。

完全に、捕まった側の位置だった。

沈黙。

心臓だけがうるさい。

やがて。

「……お前。」

低い声。

「未来が見えるのか。」

問いというより、確認。答えなんて最初から分かっている顔だった。

喉が鳴る。言葉が出ない。

男の視線が、ゆっくりと右目へ落ちる。そのまま、指が伸びた。

眼帯の上から触れる。布越しに、そっと押す。確かめるみたいに。熱を測るみたいに。

「……やっぱりな。」

低く呟く。

「外すぞ。」

そのまま、指が縁にかかる。

次の瞬間、もう外れていた。

するり、と。湿った空気が、直接右目に触れる。

「湿原は、未来の選択肢は増えるが、最悪な状況は限られる。」

男は淡々と言った。

「……ずいぶんな立ち回りだったな。」

外した眼帯を、無造作にこちらへ押しつける。思わず受け取った頃には、もう背を向けていた。

「せいぜい利用してみせろ。」

霧の中へ溶けていく背中が、やけに遠かった。

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