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第四章 どこに足を置くのかー②

***


「交代ですよ、ルミナさん」

小さな声で起こされた。

目を開けると、焚き火はもうほとんど熾火になっていた。

赤い光が泥の上で細く揺れている。周りでは寝息だけが聞こえた。

セラも、トナーも、毛布にくるまって動かない。湿原の夜は思ったより冷えるらしく、全員が体を丸めていた。

世界が、静まり返っていた。

「二番目です。いちばん楽な時間帯ですよ」

隣でダンさんが小さく笑う。

「皆いちばん深く寝てますから。起こさないよう、静かにいきましょう」

「何も起きないのが、一番いいですね。」

「ええ。それが一番です。」

淡々とした返事。当たり前のことなのに、少しだけ安心した。

板の端に立ち、湿原を見渡す。霧が薄く漂い、水面が黒く光っている。

動くものは、何もない。

静かすぎて、自分の呼吸音だけがやけに大きかった。

その時だった。

――ひやり、と。

首筋を冷たい指でなぞられたみたいな感覚。

身体は冷え切っているのに、右目だけが鼓動する。

視界が、わずかに歪む。

瞬きを、ひとつ。

世界が、遠のいた。


板がきしむ。音が、やけに長く伸びる。

朝の光。霧が薄れている。

セラが笑っている。

今日こそ抜けたいねー、と。

その口の形まで、はっきり見える。

足が、一歩、前に出る。

板が沈む。杭が、傾く。

ゆっくりと。ゆっくりと。

抜ける。

泥が割れる。黒い水が覗く。

体が崩れる。手が空を掴む。

声は、聞こえない。

ただ、杭の先端だけが、異様に鮮明だった。

赤だ。

泥に溶け、広がる。

セラの足が、染まっていく。


「……ルミナさん?」

はっと息を吸った。夜の湿った空気が肺に流れ込む。

熾火の赤。

霧。

静寂。

何も変わっていない。

「顔色、悪いです。」

ダンが不思議そうにこちらを見る。

「……いえ。」

喉が、うまく動かない。息を吸っているのに、うまく取り込めない。息を吐くのに、吐ききれない。

「なんでも、ないです。」

胸の奥だけが、冷えたままだった。

まだ、何も起きていない。

でも、あれは。

間違いなく、未来だった。

近い未来。恐らく明日の朝。

起こる可能性の高い未来。

湿原の夜は、変わらず静かだ。今は、何も起きない。

でも、明日はーー。


魔眼が映すのは、最も合理的な未来だ。起こるべくして起こる、不幸。

変えれば、誰かが肩代わりする。

セラか。

それとも、別の誰かか。

選ばなければならない。

その事実だけが、胸の奥に重く沈んだ。


ルミナの様子を気にしたのか、少し気遣うようにダンが声を落とした。

「……本当に、なんでもない顔じゃないですよ、それ。」

小さく笑う声音だったが、視線は鋭かった。焚き火の熾火を、枝先で軽く崩しながら続ける。

「湿原が初めての人はだいたい同じ顔します。三日目くらいに。」

「……そんな顔、してますか。」

「してますね。」

即答だった。

「“自分が何か見落としてる気がする顔”。」

胸が、どくりと鳴った。言い当てられた気がして、言葉が出ない。

ダンは気づかないまま、淡々と話す。

「この土地、正解がないんですよ。」

ぱち、と小さく熾火が弾けた。

「気をつけても沈むときは沈むし、助けようとして自分が落ちることもある。何が正しかったのか、後から考えても分からない。」

泥の匂いが、ゆっくり漂う。

「だから、みんな最後は選ぶんです。」

「……選ぶ?」

「誰を先に引っ張るか、とか。荷物を捨てるか、とか。無理に助けるか、見捨てるか。」

軽く言う。軽く言うのに、やけに重かった。

「全部、後味悪いですよ。」

苦笑。

「でもね。」

そこで、ダンは初めてルミナの方をまっすぐ見た。

「迷ったまま固まるのが、一番まずい。」

静かな声だった。説教でも励ましでもない。ただ、経験則。

「決めなかった奴から沈みます。」

湿原の真ん中らしい、身も蓋もない言葉だった。

「正解なんてないんで。自分で“これでいい”って決めた方が、あとで楽です。」

少しだけ肩をすくめる。

「まあ、大抵ろくでもない選択ですけどね。」

ふ、と笑った。

「それでも、自分で決めたなら、まだ納得できるでしょう?」

その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。

納得。そんなもの、出来る未来じゃない。

でも。決めなければ、沈む。それだけははっきり分かった。

「……ダンさんは、」

喉がひりつく。

「後悔、しませんか。」

「しますよ。」

間髪入れず返ってきた。

「毎回。」

思わず目を見開く。

「でも、生きてる奴が後悔するんです。」

熾火が赤く揺れた。

「死んだ奴は、何も言いません。」

湿原の夜は、変わらず静かだった。

その静けさの中で。ルミナは、ゆっくり拳を握った。

板の杭の位置が、脳裏に浮かぶ。未来で抜けていた場所。泥に沈んでいった、あの一本。

せめて。せめて、出来ることだけでも。

理屈では意味がないと分かっている。

それでも。何もしないよりは、ましだ。

「……少し、見回ってきます。」

「おや、真面目ですね。」

「性分なので。」

ダンが小さく笑った。

「板、踏み外さないように。」

「はい。」

杖を握る。湿原の闇へ、一歩踏み出した。

泥の匂いと、霧の冷たさ。胸の奥の、消えない重み。

答えなんて出ていない。それでも、足だけは前に出た。

板の杭を、確かめるために。


足場の板は、夜露でしっとり濡れていた。踏むたび、ぎし、と小さく軋む。

霧が低く漂っている。数歩先の杭すら、ぼやけて見えた。

杖で突く。ずぶ、と鈍い音。沈まない。もう一度、突く。

確かめてから、足を出す。その繰り返し。

さっきまでダンと並んでいたはずなのに、数歩離れただけで世界が途切れたみたいに静かだった。

寝息も、熾火の爆ぜる音も、届かない。

湿原と、自分だけ。

板の継ぎ目にしゃがみ込む。杭を指で触る。冷たい。ぬめりが、皮膚に絡みついた。未来で見た光景を思い出す。

きしむ板。傾く杭。抜ける音。

喉の奥が、ひりつく。似ている。この位置。この角度。

この、わずかに浮いた杭。

胸の奥が、どくりと脈打った。

「……ここか。」

声は霧に吸われて、すぐ消えた。腰の袋から、短い木楔を取り出す。

打ち込むための簡易の杭。商人たちが予備に持たせてくれたものだ。

意味がないかもしれない。分かっている。これで未来が変わる保証なんて、どこにもない。

形が変わるだけだとしても。

それでも。何もしないよりは、ましだ。

楔を隙間に差し込む。

とん。小さく叩く。

とん。鈍い音が、湿原に沈む。

もう一度。

とん。杭が、わずかに深く入った。

手で押してみる。動かない。

未来で見た、ぐらつきは消えていた。ほんの少しだけ、息が漏れる。

安堵なのか、諦めなのか、自分でも分からない。

これで、助かる?

違う。そんな都合よくいくはずがない。

世界は、もっと冷たい。

ただ。それでも。

指先についた泥を、服で拭う。

「……これでいい。」

誰に言うでもなく、呟いた。霧の向こうで、水音がした。

ちゃぷん、と。

顔を上げる。黒い水面に、いくつかの影。低く浮かぶ、丸いもの。

目だ。じっと、こちらを見ている。

息を止める。

数秒。

やがて、音もなく沈んだ。何事もなかったみたいに、水面は元に戻る。

湿原は、何も言わない。正解も、不正解もない。

杖を握り直す。胸の奥の重みは、消えないままだった。

それでも、足だけは前に出る。

もう一本、次の杭へ。


***


ニ日目の朝

霧は、昨日より薄かった。板の上に朝露が光っている。

「出るぞ。」

短い声。荷車が軋み、板が音をあげる。

いつもと変わらない、湿原の朝。

ルミナは無意識に、あの場所を見る。

昨夜、打ち込んだ杭。

板は静かに沈まず、まっすぐ立っていた。指先の冷たさだけが残っている。

杖で突く。踏み出す。それを機械みたいに繰り返す。

「……うわっ!」

前方で、セラの声。心臓が凍りついた。

板が鳴る。

体が傾く。

未来と同じ角度。同じ位置。

時間が、伸びる。

でもーー

「セラ!」

ダンが腕を掴んだ。強く引き寄せる。

板は沈まない。杭も抜けない。

セラが足を踏ん張る。

止まった。

セラが目を丸くする。

「び、びっくりした……今、落ちるかと……。」

笑っている。足は、無事だった。

ルミナの肺に、ようやく空気が入る。

変わった。そう思った、その瞬間。

がたん、と音。

板が沈む。

セラがバランスを崩す。腕を掴んだままのダンが強く引いた。

その拍子に、肩から荷袋がずるっと滑り落ちる。

「やばっ、袋!」

泥に落ちる。

手を伸ばす間もなく、ずぶ、と呑まれた。

「ちょ、待っ……!」

セラの声。袋はもう半分以上沈んでいる。

昨日まで背負っていた、あの革袋。引き上げようと踏み出した足を、ダンが押し戻す。

「ダメです!」

その拍子に、板の縁で手を擦った。

「っ……。」

赤が滲む。浅いが、長い裂傷。

血の匂いが、湿った空気に溶けた。

ちゃぷん。

水面が揺れる。黒い影が、いくつも浮かぶ。

低い位置。

目。

じっと、こちらを見ている。誰も声を出さない。

その前に、黒い外套が一歩出た。

黒髪の男。

水際に立つ。ただ、見下ろす。何も言わない。視線だけ。

数秒。

やがて。影が一つ、沈む。また一つ。

水面は、元の顔に戻った。

「怪我は。」

金色の瞳が振り向いた。

ルミナはダンの手を掴む。

「見せてください。」

小さな魔術光が滲む。ちかちかと揺れて、焦点が合わない。それでも傷口は、ゆっくり塞がっていった。

ダンが苦笑する。

「大げさですよ。かすり傷です。」

返事ができなかった。

セラは沈んだ袋を、ただ見ている。

「……あ。」

顔は悲しみに染まっている。初めての旅でもらった、火の魔道具。依頼人からの感謝の証。

それが、沈んでいく。

「……まあ、生きてるし…しょうがない、よね。」

声が震えている。その言葉が、胸に刺さった。

全員、生きている。怪我も、かすり傷だけ。

それなのに。

胸の奥の重みだけが、消えなかった。


列は何事もなかったみたいに動き出した。湿原は待ってくれない。止まれば沈むだけだ。

「ごめんね、みんな。」

セラが、空になった背中をぽんぽん叩く。

「ちょっとドジっただけなのに、朝から大騒ぎさせちゃった。」

笑っている。いつも通りの、明るい声。でも、肩紐を握る指先だけが、白い。

「魔道具もさ、まあ……また貰えたりするでしょ。うん。」

自分に言い聞かせるみたいだった。

「次は沈まないやつにしましょ。」

トナーがひょいと顔を出す。

「浮き輪でも付けます? 荷物。」

「それ逆に恥ずかしくない?」

「目立ってワニにモテますよ。」

「やだ最悪。」

セラが吹き出す。少しだけ、本当に笑った。

横で、ミハリが黙々と板を踏み直している。沈みかけた場所に、手早く楔を打ち込む。

とん、とん、とん。無駄のない音。

「……予備の袋、俺の使ってください。」

ぼそりと言う。顔は上げないまま。

「え、いいの?」

「替えありますから。」

それだけ。もう次の杭を打っている。

「ミハリ優し……。」

「トナーも見習え。」

「俺は精神的支柱担当なんで。」

「役に立ってない。」

「ひどっ。」

いつも通りのやり取り。いつも通りの声。

それなのに。ルミナだけが、息の仕方を忘れたみたいにうまく歩けなかった。

「手、痛みませんか。」

「もう塞がってますよ。」

「でも、念のため……」

またダンの手を確認する。

「だから大げさですって。」

「……念のためです。」

自分でも、しつこいと思った。それでも手を離せなかった。

セラにも、何度も声をかける。

「足、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫! 子どもじゃないんだから。」

笑う。笑うけど。どこか無理をしているのが分かる。

胸の奥が、ぎゅっと締まる。私が、変えたから。

ふと。視線を感じた。

前方。黒い外套。

金の瞳が、まっすぐこちらを見ている。

何も言わない。ただ、観察するみたいに。

ルミナの手元、ダンの傷、沈んだ泥。

全部、見ている目だった。

一瞬、視線が合う。ぞくり、と背中が冷える。

やがて、何事もなかったみたいに前を向く。その背中が、妙に遠かった。

湿原の上を歩いているのに。あの人だけ、沈まないみたいだった。

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