第四章 どこに足を置くのか
帝国の門が完全に見えなくなった頃、足裏の感触が変わった。石畳の硬さが消え、代わりに柔らかく湿った土が、ぐ、と靴底を受け止める。踏み出すたびに遅れて泥が追いかけてくる感触があった。
「……ここから先が湿原だ。」
先頭にいたベテランの商人が短く言う。名前はガルド、というらしい。
道と呼べるものは、丸太と板を渡しただけの細い一本道だった。幅は荷車一台分。黒ずんだ板がぎし、と鳴る。外れれば、すぐ泥だ。境目が分からない。どこまでが道で、どこからが地面なのかも曖昧だった。
商人が杖を突く。ずぶ、と鈍い音。杖が半分以上沈んだ。
「見た目は信用するな。必ず突け。」
全員が同じ長さの杖を持ち、一歩ごとに地面を確かめる。確認してから踏み出す。その動作を機械みたいに繰り返している。
荷車の前で声が上がった。
「止まれ。重量オーバーだ。」
袋が一つ下ろされ、秤にかけられる。
「一キロ単位で管理してるんですよ。沈むときは、それだけで沈む。」
別の商人が答えた。セラが目を丸くする。
「一キロで?」
それが当たり前らしかった。
少し進んだところで、泥の中に車輪が突き出ているのが見えた。半分以上沈んだ荷車の残骸だ。
「助けは来ないんだね。」
セラの呟きに、ガルドは即答した。
「来ない。だから沈まないようにする。それだけだ。」
簡易の足場固定術式が試される。光が走った次の瞬間、術式は歪み、逆に泥が崩れた。
「ほらな。湿原で魔術は信用するな。」
魔術すら安全策にならない世界。頼れるのは人の手と経験だけだった。
数分歩いただけなのに、汗が滲む。体力がないわけじゃない。ただ、常に足場を疑い続けるせいで、脚の筋肉が休めない。一歩ごとに力が入り、太腿が焼けるみたいに痛む。
「……地味にきつい……。」
セラがぼやく。
「戦う方が楽かも。」
セラの冗談めかした声に、ルミナも笑おうとした、その瞬間だった。
前方でガルドが杖を突く。ずぶ、と音がした。
「止まれ。」
次の瞬間、板が一枚、静かに沈んだ。ゆっくりと水面に呑まれていく。ついさっきまで踏んでいたはずの場所が、何事もなかったみたいに消えた。
「……うわ。」
もし半歩早く踏み出していたら、自分たちがそこに立っていた。ガルドが淡々と言う。
「この道は今あるだけだ。次もあるとは限らない。」
湿原は敵意も悪意もなく、ただ人間を基準に作られていない。それだけで、人間は圧倒的に弱者になる。
ルミナは杖を握り直した。ここでは、守られていない。自分で選んで、自分で進むしかない。
その事実だけが、冷たく胸に沈んだ。
湿った空気が、じわりと肌にまとわりついてくる。歩き始めてまだそれほど経っていないのに、首筋がべたつく。水と腐葉土が混ざった匂いが鼻の奥に残った。
甘いような、腐ったような、生き物の腹の中みたいな匂いだった。
耳元で、ぶん、と低い羽音が鳴る。小さな虫が何匹もまとわりつき、払っても払ってもどこかに止まる。手の甲に触れた感触に思わず身を震わせた。
霧のせいで遠くの景色は滲み、距離感が掴めない。十歩先すら曖昧だ。足を上げるたび、泥が靴底を引っ張る。ず、と吸い付く音がして、余計な力を使う。足が重い。重心の定まらなさ、足場の悪さが体力だけでなく精神力も奪っていく。
「……地味に削られるね、これ。」
セラが息を吐く。額に汗が浮いている。
「うん……。」
返事をするだけで、少し呼吸が荒れた。戦っているわけでもない。ただ歩いているだけなのに、じわじわと心身が削られていく。
ふと、前方に目をやる。商会の列の先頭。そこに、あの男がいる。
黒い外套の裾が、湿気を吸ってもほとんど揺れない。板の上を歩く足取りが、やけに軽かった。
迷いがない。他の者の靴は泥を跳ね上げているのに、彼だけはほとんど汚れていない。
「……ねえ。」
セラが小声で言う。
「あの人だけ、なんか違くない?」
ルミナも同じことを思っていた。自分たちは足場を探り、慎重に、必死に進んでいるのに、彼だけがこの土地の住人みたいに自然だ。
時折、短く指示を出す。
「右は沈む。左へ。」
「そこ、杭が緩んでいる。踏まない方がいい。」
ちらりと見るだけで言い当てる。
実際、その通りだった。
商人たちも当たり前のように従っている。疑う様子がない。信頼というより、当然という空気だった。
ルミナは目を細める。国境で、あれだけ長々と喋っていた男と同一人物とは思えない。今は、ほとんど喋らない。ただ必要なことだけ言って、静かに歩いている。その背中は妙に落ち着いていて、湿原の不安定さの中で、そこだけ別の世界みたいだった。自分たちが必死に進んでいるのに対して、彼はただ進んでいる。同じ場所にいるのに、立っている地面が違うみたいだった。
「……何者なの、あの人。」
無意識に、そんな言葉が喉の奥で転がった。
***
石畳が消えてから、もうどれくらい歩いただろう。足裏の感触が、ずっと落ち着かない。
板を踏むたび、ぎし、と嫌な音が鳴る。体重をかけると、わずかに沈む。遅れて、泥が下から押し返してくる。
沈んでいるのか、支えられているのか、それすら分からない。
太腿の痛みは変わらず主張してくる。戦っているわけでもないのに、筋肉が休む暇がない。
湿った空気はぬるく、髪の毛を重くし、肌にぴたりと貼りつく。進むほどに湿原の匂いも濃くなっていき、鼻を麻痺させてくる。虫はせわしなく耳元で唸り、五感すべてが翻弄されていく。
霧が薄く漂い、景色の奥行きを消していた。十歩先が、やけに遠い。道の両脇には、黒ずんだ木が立っている。細く、低く、枝もまばら。幹の半分は水に浸かり、根は泥の上にむき出しになって絡まり合っていた。森というより、沈みかけの残骸みたいだった。
時間をかけて腐り、朽ちていく。水も木も、腐りきれずに途中で止まっている。生きているのに、どこか死に損ねたみたいだった。
そんな景色。
「……ねえ」
前を歩いていたセラが、杖を突きながら振り返る。
「これ、ほんとにさっ。」
ずぶ、と杖が沈む。引き抜くのに一苦労しながら、顔をしかめた。
「この調子で、7日くらいだっけ?本当に7日で抜けられるの?」
商人の一人が短く答える。
「順調なら行けるさ。」
「……今これ順調?」
「そうだよ。」
「今順調なの!? これが!?」
素っ頓狂な声が湿原に響いた。
「乾いてる方だ。昨日大雨だったら倍かかっていたな。」
「倍って十四日!?」
「そうなるな。」
「うそでしょ……。」
セラが本気で項垂れる。
「もう帝国戻りたい……まだ半日しか歩いてないのに脚終わってるんだけど……。」
「戻ったらもう一回ここ通るぞー。」
「それは絶対イヤ!!」
思わず、ルミナも小さく笑った。湿原に入ってから初めて、少しだけ肩の力が抜けた気がする。
「もうー…足が棒だよー…。」
大きな声を出せばそれだけ体力を消耗するはずだが、会話は気がまぎれる。人の声があるだけで、こんなにも違うのかと思う。
その時だった。
ガルドが、ぴたりと足を止めた。
「止まれ。」
低い声。
さっきまでの軽さが、すっと消える。全員が反射的に立ち止まった。
「……右を見るな。ゆっくりでいい」
言われるほど、視線が吸い寄せられる。
水面。道のすぐ脇。
黒い水の中に、何かが浮いている。
流木にしか見えない…そう思った。しかし、それが瞬きをした。
二つ。横に並んだ、鈍い光。
目だ。こちらを見ている。
水面とほとんど同じ高さで、じっと。動かない。ただ、見ている。
呼吸の音すら憚られた。湿原の羽音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、す、と沈む。
音もなく。波紋だけが、ゆっくり広がった。
「……ワニだ。」
ガルドが小さく呟く。
「水際に寄るな。あいつら、板の上まで来る。」
さっきまでの愚痴が、喉の奥に凍りついた。湿原は、ただ歩きにくいだけの場所じゃない。
ここは、誰かの縄張りだ。自分たちは、そこを勝手に横切っているだけだ。
ルミナは、杖を握り直した。胸の奥が、ひやりと冷える。
七日。この中を、あと七日。
思ったよりずっと、長い旅になりそうだった。
それから先は同じだった。杖で突き、確かめ、踏み出す。
沈み、止まり、迂回する。景色も、匂いも、羽音も、何一つ変わらない。
ただ、足だけが重くなっていく。
気づけば、太陽は頭の真上を通り過ぎていた。板の影が泥の上に細く伸び、足元に絡みつく。光の色が、わずかに黄色くなっている。
「今日はここまでだな。」
先頭にいた男が振り返って言った。ここまで余裕な様子だったが、黒髪は湿気で額に貼りついている。同じ時間を歩いてきたのだと、そこでようやく実感した。周囲が泥ばかりであるからこそ、男の金の瞳は際立って見えた。
男の言葉を受け、商人達が野営の準備を始めた。
湿原を半日も並んで歩けば、嫌でも距離は縮まる。いつの間にか、互いに名前で呼ぶようになっていた。
中でも、トナーは今回で二度目の誓約領行きだ。まだ若いくせに妙に肝が据わっていて、セラと並んで隊の空気を明るくしている。
同じく二度目のミハリは、その隣で黙々と杭を打っていた。トナーの軽口に小さく返事をしながら、手だけは止めない。
「トナー、そっち押さえろ。」
「はーい。」
軽い返事と一緒に、板が持ち上がる。
「ミハリ、杭をもう一本ください。」
「……はい、わかりました。」
返事は小さいが、打つ速さは早い。とん、 とん、とん、と規則正しい音が湿原に吸われていく。
「なんかさあ。」
セラが荷袋を下ろしながら大げさに息を吐いた。
「今日まだ半日ちょっとだよね?」
「そうだな。」
「七日のうちの半日って、絶望じゃない?」
「数えるな。余計疲れるぞ。」
「もう数えちゃったよ……。」
トナーが笑う。
「大丈夫っすよ。前より全然マシですって。」
「前って何日かかったの?」
「九日。」
「増えてるじゃん!!」
思わず吹き出した。声が出ると、少しだけ胸が軽くなる。湿原の真ん中で笑えるとは思っていなかった。
荷車の陰で、小さな煙が上がる。湿った枝葉をくべた虫除けの煙だ。
「火ぃ小さくな。光は寄せる。」
「ワニ来るしな。」
「それはやめて怖い。」
セラが肩をすくめる。
少しの沈黙。杭を打つ音だけが続く。
ふと、セラが口を開いた。
「ねえ、そういえばさ。」
「ん?」
「青騎士って、ほんとにそんな強いの?」
手は動かしたまま、何気ない調子で。ずっと先頭の方で歩いていたガルドが鼻で笑う。
「比べる相手が悪い。あいつらは化け物だ。」
「化け物って…。」
「三十人で魔獣の群れ潰す連中だぞ。」
「人間?」
「一応な。」
「一応ってなに。」
トナーが楽しそうに口笛を吹く。
「隊長とか、もっとやばいらしいっすよ。矢が当たらないとか。」
「それもう人間やめてるじゃん。」
笑いが広がる。
その端で。黒い外套の男だけが、何も言わず杭を打っていた。
一定の速さで、正確に。まるで最初からそこに立っていたみたいに、音もなく。
ルミナはちらりと横目で見る。
あの人なら、青騎士とも渡り合えるかもしれない。
理由はない。ただ、疲れた様子がまるで見えなかった。底が知れない。
ぼんやりと眺めていたら、視線に気が付いた金の瞳がこちらを向いた。
「なんだ?」
「え、いや…とても、慣れてるなと思って…。」
「そりゃそうだ。しかし、君は旅に慣れているみたいだな。随分コツを掴むのが早い。湿原は初めてなんだろう?」
コツ……なのかはわからないが、確かに危ない場所はわかるようになってきていた。周りに興味なんてなさそうに思ったが、実はよく見ているのかもしれない。
「帝国を出たことはなかったので初めてです。正直、疲れました。」
「明日には慣れるだろう。あと、敬語はいらない。余計な気を使うな。」
オルフェンとのやり取りが嘘のように、普通の会話で拍子抜けだった。
その時。
「うわ、待って兄貴!それ沈むって!」
トナーの声が飛んだ。
振り向くと、ガルドが舌打ちして板を踏みつけ、体重をかけて押さえ込んでいる。
「だから押さえろって言っただろ!」
「いけると思ったんすよ!」
「いけてない!」
その光景をセラが腹を抱えて笑っている。
「トナー、ほんと雑なんだから!」
「いや今のは板が悪い!」
「板のせいにすんな!」
騒がしいやり取りに、自然と足がそちらへ向いた。さっきまでの静かな空気が、嘘みたいに薄れていく。湿原の真ん中なのに、少しだけ街の匂いがした。
ミハリはその横で、何も言わず杭を打ち直している。
「……ミハリ、早すぎない?」
「早く終わらせたいだけです。」
「性格出てるなあ……。」
思わず笑う。気づけば、肩の力が抜けていた。
「トナーさん、板ずらす前に声かけてください。落ちたら洒落になりませんから。」
穏やかな声が横から割って入った。
「……すみません。」
さっきまで強気だったトナーが、あっさりしょげる。
振り向くと、荷袋の横で杭を拾い集めている男がいた。泥を払って、使えるものと折れたものを手早く分けている。
「ミハリさん、そっち終わったらこちらお願いできますか。」
「はい。」
淡々としているのに、不思議と全員が素直に従う声だった。
ダンさん、と呼ばれている。契約のときに話した、あの穏やかな男だった。
野営準備は着々と進んでいく。もうすぐ夕方だ。




