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第三章 絡む意図ー⑦

***


「止まれ。通行証の確認だ。」

低い声が、朝の空気を切った。商会の列が一斉に止まる。

車輪の軋みが途切れ、急に世界が静かになる。

さっきまで流れていたはずの時間が、そこで一度凍ったみたいだった。

若い男が自然な足取りで前に出る。慌てる様子はない。懐から革製の書類筒を取り出し、慣れた手つきで開いた。

「誓約領往復便、定期契約商会です。今朝の便になります。」

声は落ち着いている。ただ事実を述べているだけ。何十回、何百回と繰り返してきた動作なのだろう。

衛兵は受け取り、紙束をめくる。ぱら、ぱら、と乾いた音。

別の衛兵が荷車の横を歩く。荷を軽く叩き、縄を確認し、形式的に中身を覗く。本当に“確認”だけだ。疑っているというより、儀式に近い。

「……商会登録番号、一致。」

「印章も問題なし。」

「積荷、生活物資および補修具。」

淡々と読み上げられていく。

その様子を見ながら、セラが小さく息を吐いた。

「いけそうだね。」

囁き声。半分笑っている。ルミナも頷く。喉の奥の緊張が、少しだけ緩む。大丈夫。堂々としていればいい。そう自分に言い聞かせる。

「……同行者は?」

その一言で、心臓が跳ねた。衛兵の視線が、列の後方へ滑る。

「補助要員が二名追加されていますね。」

紙を指で叩く音。

「名前。」

若い男が即座に答える。

「臨時契約の補助員です。こちらになります。」

新しい紙が差し出される。ルミナは無意識に指先を握り込んでいた。掌が冷たいのに汗ばんでいる。視線が、近づいてくる。

衛兵が一人、こちらへ歩いてきた。革鎧の擦れる音。靴底が石畳を踏む重い音。

一歩。また一歩。

距離が縮まるたび、呼吸が浅くなる。

(普通にして。)

自分に命じる。

(普通の顔。普通の呼吸。旅人じゃない。商会の一員。)

隣で、セラがにこっと笑った。いつも通りの、何も考えてなさそうな笑顔。その横顔に、ほんの少し救われる。

衛兵が紙を読み上げる。

「補助員セラ。」

「はい。」

元気よく返事。自然すぎる。

「補助魔術師ルミナ・エレブリス。」

どくん、と鼓動が鳴る。

「…はい。」

衛兵の目が、顔を上げる。フードの奥。影の中。

視線が、止まった。

一瞬。

ほんの一瞬だけ、長い。

「顔、見せてくれ。」

静かな声。拒否できる空気じゃない。

ルミナはゆっくりと、フードに手をかけた。布が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。

朝の光が、頬に触れた。冷たい空気が肌を撫でる。

灰色の髪が、わずかに揺れた。

衛兵の目が細くなる。

「……灰色、か。」

胸の奥が凍る。遠くで、金属が鳴った。無意識に視線を向ける。

詰所の脇。腕を組んで立っていた青い鎧の騎士が、ゆっくりとこちらを見ていた。

他の衛兵とは違う。動かない。

ただ、観察している。獲物を見定める猛禽みたいな目だった。背筋を、冷たいものが伝う。

見られている。覚えられている。

検問の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。まだ何も起きていない。誰も剣を抜いていない。

それなのに。

ここから先に進めば、何かが決定的に動き出す。そんな予感だけが、確かにあった。


青騎士がゆっくりと手を上げる。掌に埋め込まれた小型の魔術具が淡く光った。低い詠唱が漏れる。短い信号。伝令用の簡易術式。衛兵には聞こえない程度の小さな光が、ぱち、と弾けた。

「……。」

ルミナの喉がひくりと鳴った。連絡された。誰かに。胸の奥が、重く沈む。

「……問題ありません。」

書類を確認していた衛兵が、淡々と言った。

「登録も有効。契約印も正規だ。通っていい。」

拍子抜けするほど、あっさりした声だった。

「……え。」

思わずセラが小さく声を漏らす。

「いいんですか?」

衛兵は肩をすくめる。

「定期便だろ。朝の混雑前に出てもらった方が助かる。」

それだけだった。疑いも詮索もない。事務的な処理。

若い男が一礼する。

「ありがとうございます。」

門番が合図を出す。重い鎖が外れ、鉄扉がゆっくりと持ち上がった。

ぎ、と鈍い音。外の空気が流れ込む。湿原の匂い。水と草と泥の匂い。帝国の外。ほんの一歩先が、もう別の土地だ。

「……通れます。」

男が振り返り、柔らかく微笑んだ。

「どうぞ。」

荷車が動き出す。車輪が境界線を越える。一台、二台。門の影が背中から遠ざかる。ルミナの胸に、じわりと熱が広がった。抜けられる。本当に、出られる。

隣でセラがこそっと囁く。

「ほら、なんともなかったじゃん。」

笑っている。いつもの、あっけらかんとした顔。ルミナも小さく笑い返そうとした、その瞬間だった。

「――止まれ。」

低く、よく通る声が背後から落ちた。空気が凍る。

門番の動きが止まり、鎖が半ばで止まる。荷車の最後尾が、まだ門の内側に残っていた。

「青騎士権限により、再検分を行う。」

振り返る。朝日を背に、青い鎧が二つ、まっすぐこちらへ歩いてくる。

一人は背が高く、広い肩幅。無駄のない歩幅。動くだけで周囲の空気が押しのけられるような圧がある。青騎士隊長のオルフェン。

もう一人は長身の女。編み込まれた濃い茶の髪。落ち着いた緑の瞳。盾を背負い、隙のない姿勢。青騎士副官のイリス。

青騎士の紋章が、朝日に光る。衛兵たちが一斉に姿勢を正す。

「隊長。」

小さなざわめきが走る。ルミナの心臓が、耳の奥で鳴った。

近づいてくる。一歩。一歩。逃げ場がない。

オルフェンの視線が、商会の列をなぞる。荷車、商人、積荷、そして……

ルミナで、止まった。

時間が、伸びた気がした。

「……。」

オルフェンの眉が、わずかに動く。困惑の色。探るような目。

「…あなたは…?」

かすれた声だった。懐かしさと違和感が混ざった、そんな響き。

ルミナの胸が、ひどく痛んだ。初めて会うはずなのに、見たことがある気がする。遠い昔。あまり覚えていないのに、それでも残る既視感。

その時だった。

「おや。」

場違いなほど軽やかな声が、横から差し込む。

「これはこれは……青騎士様方。わざわざお忙しいところ、我々のような一介の商会にお声がけいただき、誠に光栄の至りに存じます。」

荷車の先頭から、一人の男がゆっくり歩み出た。

黒い髪が朝日に溶ける。整いすぎた横顔。優雅な所作。まるで舞台に立つ役者みたいな笑み。

しかし、瞳に宿るのは強い視線。容赦のない敵意の塊。髪の色と相反する金の瞳で、オルフェンを正面から見据えた。

空気が、変わる。

緊張の質が、別物になる。

「ですが……差し出がましいようで恐縮なのですが、ひとつ確認させていただいてもよろしいでしょうか。」

男は穏やかに首を傾げる。

「本商会は帝国商業局登録番号第三七二号、誓約領との往復定期便契約を締結済み。出立刻限、積荷内容、同行人員、すべて事前申請済みであり、先ほど検問所にて正式な通行許可および押印を頂戴しております。つまりこれは、国家間の認可を得た“正規交易”に他なりません。」

指を折って一つずつ数える。

「帝国法第十一条、認可商会の往来は軍事的緊急事態を除き妨げてはならない。加えて誓約領側との相互誓約書に基づき、定期便の遅延は契約違反と見なされ、違約金および信用失墜の責は帝国側に帰属する。」

にこり、と完璧な笑顔で微笑む。整いすぎた顔立ちゆえに、それは友好ではなく圧力に変換される。

オルフェンの唇がわずかに動いた。反論の言葉が喉まで上がって、噛み殺される。

「……さて。」

男は一歩、オルフェンへ近づく。

「この状況で、青騎士様が我々を止める理由が、どこにございましょう。」

声は優しい。だが一言一言が刃物のようだった。

「もしこれが“念のため”であれば、それは職務を超えた裁量。もし“疑いがある”というのなら、既に検問で確認済み。そしてもし“勘”でお止めになるのでしたら――」

わずかに目を細める。金色の瞳が三日月のようだ。

「それはもはや治安維持ではなく、商取引への不当干渉でございます。」

周囲の衛兵が息を呑む。

完全な正論。逃げ道のない根拠。誰にも反論をさせない、圧倒的な弁論だった。

場の空気を支配し、男は一礼する。

「我々は帝国に税を納め、物資を運び、生活を支えております。食料も、薬も、魔石補修材も。青騎士様方が守っておられる“帝国”そのものの血流です。その流れを、法的根拠なくここで止める、と?その責任が、どなたのご署名になるのか。ぜひ後学のために教えていただきたいものです。」

あまりに長い口上に、オルフェンの顔が歪む。奥歯を噛み締める音がルミナのところまで聞こえてきた。

それでも、止まらない。

「……あぁ、もちろん。青騎士様が個人のご判断でお止めになるのであれば、それはそれで構いません。後ほど、商業局と誓約領双方へ“正式な経緯報告”を提出するだけですので。」

美しい笑顔のまま、すらすらと言葉を紡ぐ。芝居がかった仕草なのに、なぜか妙に様になっていた。

衛兵の何人かが、思わず視線を逸らす。誰も、口を挟めない。

「もし我々の商会をお止めになる明確な法的根拠がございましたら、ぜひご教授くださいませ。なければ――お時間も押しておりますので、出立させていただいても?」

オルフェンは黙って男を見据える。オルフェンの青い瞳と男の金の瞳が、真正面からぶつかった。ばち、と火花が散った気さえする。

「……顔は覚えた。」

オルフェンの低い声。

「俺はオルフェン・アステリス。青騎士隊長だ。お前の名は。」

男は目を見開き、大仰に一礼した。

「これは光栄だ。かの有名な青騎士様の隊長にお会いできるとは。私のような商人風情の名など、とても――」

長い。わざとらしい。先ほどの演説の二の舞になりそうな空気を感じ、オルフェンの眉間に皺が寄った。

それを見て、男はふっと鼻で笑った。相手を完全に馬鹿にした、嘲りの笑いだ。

「知りたければ、どうぞご自身でお調べを。」

くるりと背を向ける。

「出発しますよ。」

荷車が、再び動き出す。誰も止められない。制度も契約も書類も、すべて男の味方だった。

門の外、湿原の風が吹き抜ける。ルミナは振り返ったまま、オルフェンを見ていた。青い瞳が、まだこちらを追っている。懐かしい。痛い。なのに、思い出せない。

「……必ず、捕まえる。」

オルフェンの小さな呟きが、霧に溶けた。

門が閉じる。重い音。帝国が、背後で遮断される。

ルミナはゆっくり前を向いた。湿原の道が、朝日に光っていた。


***


門が完全に閉じる音が、背後で鈍く響いた。帝国の気配が、そこで途切れる。湿原から吹き上げる風が、冷たく頬を撫でた。

それでも、しばらくルミナは振り返ったまま動けなかった。

心臓はまだ早い。指先が、じんじんと痺れている。

助かったはずだ。捕まらなかった。追われなかった。国境も越えられた。

なのに。胸の奥に残っているのは安堵ではなく、妙な疲労感だった。

さっきのやり取りを思い返す。

言葉。言葉。言葉。

刃物みたいな理屈が、延々と飛び交っていた。聞いているだけなのに、神経が削られる。

隣でセラが小声で笑う。

「すごい人だったね……なんか、商人っていうか、口で戦う人っていうか。」

「……うん。」

ルミナは短く答えた。少しだけ視線を前にやる。

荷車の先頭。あの男が、当然のような顔で商人たちに指示を出している。

背筋はまっすぐで、歩き方にも無駄がない。さっきまで青騎士と渡り合っていた人間と、同一人物とは思えないほど自然だった。

怖い、というより。近づいてはいけない相手だと、身体が先に理解していた。

「……あの。」

「はい?」

同じ荷車に乗っていた商人が振り返る。

「……あの人、誰ですか?」

自分でも驚くほど、感情の抜けた声だった。感謝でも警戒でもなく、ただ純粋な疑問。

「え?あぁ…うちの口利き役みたいな人さ。」

「口利き役?」

「そう。交渉とか面倒ことはだいたいあの人が解決してくれる。正式には商会の人間じゃないんだけどね。いると助かるんだよ。」

助かる…確かに、助けられた。

青騎士を前に、誰一人逆らえなかった空気を、あの人は言葉だけでねじ伏せた。理屈で、制度で、笑顔のまま踏み潰した。

味方のはずなのに。なぜか、背筋だけが冷える。怖いのか、頼もしいのか、自分でも分からない。

荷車の先頭で指示を出す黒髪の背中を、ルミナはしばらく見つめた。

あの人は、いったい何者なんだろう。

湿原の風が吹き抜ける。帝国はもう遠い。

それでも胸の奥のざわつきは、消えなかった。

旅は、まだ始まったばかりだ。


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