第三章 絡む意図
リュネスを出てからも、水の匂いは途切れなかった。
川沿いの道は続き、湿り気を含んだ空気が肌に残る。その点では、ここも変わらない。靴底に伝わる感触も、衣服が乾ききらない感じも、記憶の中のリュネスと大差はなかった。
それでも、街が近づくにつれて、違いははっきりしてくる。
リュネスでは、川は流れだった。水は街を貫き、人を呼び、運び、去っていく。舟は来て、また出ていく。荷は下ろされ、別の形になり、再び動き出す。人の暮らしが川に寄り添い、川の流れに時間が溶けていた。
だが、河港国境都市ステイラでは違う。
河は同じように広がり、流れも穏やかだ。それなのに、水面の動きが街に届いていない。川霧は朝になっても消えきらず、風は吹いても抜けていかない。匂いが滞り、音が遠くへ逃げない。まるで、この場所だけが大きな容器に入れられているようだった。
街そのものは小さい。建物は低く、空を遮るものもない。だが、視界に入るのは住居よりも倉庫だった。木箱が積まれ、帆布がかけられ、封を待つ荷が並んでいる。人の姿はあるが、生活の気配は薄い。聞こえてくるのは、値を確かめる短い声と、帳簿をめくる乾いた音、荷を引きずる規則的な足音ばかりだ。
「リュネスとは全然ちがうね。」
セラが、ぽつりと言った。
声のトーンは軽いが、その言葉には実感がこもっている。
ここでは、人は留まらない。
留まる前提で作られていない。街は過ごす場所ではなく、すぐに離れるための場所だった。
河岸には船着き場が連なっていた。
大小さまざまな船が係留され、帆を畳んだまま静かに並んでいる。どの船も出航の準備は整っているように見えるのに、動く気配がない。船乗りたちは甲板に腰を下ろし、川を見つめるでもなく、空を仰ぐでもなく、ただ合図を待っていた。陸でたむろしている者も多く、停滞した空気が肌にまとわりつく。
「国境、なんだよね。ここ。」
セラの言葉に、ルミナは黙って頷いた。
帝国の街特有の、息苦しい統制感は薄い。人の動きも、表情も、どこか柔らかい。
だが、街路の要所には兵が立っていた。数は多くないが、配置はよく考えられている。人の流れを止めるのではなく、流れそのものを作り替えている。どこへ行けて、どこへ行けないのか。それが自然に分かるよう、道が絞られていた。
船着き場へ向かう道は限られている。
通れるのは商人と、その荷だけ。通行証を持たない者は街の内側に留め置かれる。検問は形式的ではなかった。人の顔を見るのではない。条件を照合している。
「一時的な国境閉鎖、だって。」
聞き込みから戻ったセラが言う。
「船は出るけど、誰でも乗れるわけじゃないみたい。」
ルミナは河の方を見た。
霧の向こうは見えない。それでも分かる。あの先に、帝国の外がある。
リュネスでは、流れが人を運んでいた。
ステイラでは、流れそのものが止められている。
湿り気は同じだ。水の匂いも、川の音も、変わらない。それなのに、この街では、時間だけが足を止めている。
「今日は無理そうだね。宿、探そっか。」
セラの声は、いつも通り明るい。
ルミナは頷きつつ、河を見つめて静かに息を吐いた。
***
まずは、ステイラの現状を詳しく把握する必要がある。
宿に落ち着いたあと、情報を集めるため、二人は食事を兼ねて店へ向かった。
ステイラの食堂は、港に近い一角にあった。外観は簡素で、看板も控えめだ。だが中に入ると、思っていたより人がいる。商人、船乗り、港で働く人間。どれも長居をする顔ではないが、腹を満たすために集まってくる。
木製のテーブルは年季が入り、床には水を含んだ靴跡が残っていた。河港らしい匂いが染みついている。魚と香草、少し焦げた油の匂い。
「いらっしゃい。」
店員は年配の女だった。声は落ち着いていて、余計な詮索をする気配がない。こういう店は、情報が集まる代わりに、深入りもしない。
二人は奥の空いた席に案内された。
「今日は港の方、静かだね。」
セラが、料理を待ちながら何気なく言う。問いというより、独り言に近い。
店員は肩をすくめた。
「静かっていうか、止められてるだけさ。国境閉鎖だろ。」
「やっぱり?」
「一時的、って話だけどね。こういうのは、だいたい長引く。」
言葉は淡々としていてどこか諦めたような響きがあった。
「魔術がどうとか、聞いたけど。」
明るい口調のままセラが続ける。声のトーンは軽い。だが、店員の目が一瞬だけ鋭くなった。
「ああ。魔術の不具合だの、変な魔石だの。」
それ以上は言わず、皿を置いた。
「詳しいことは、知らないな。私らにとっちゃ船が出るかどうか、それだけさ。」
それで会話は終わった。追及しないのが、この街の流儀なのだろう。
料理は温かく、味は素朴だった。食べている間も、周囲の客は短い会話しかしない。皆、耳を立てているような、妙な緊張感があった。
早々に食事を終えて店を出ると、外はもう薄暗くなり始めていた。河から立つ霧が街路に流れ込み、灯りがにじむ。薄暗い中でぼんやりと光る灯りは穏やかだが、その弱さには心もとなさを感じる。
「……ねえ、ルミナ。」
歩きながら、セラが言う。
「この街は帝国の国境なんでしょ?」
ルミナは頷き、河の向こう側を指さした。
「この河を越えた先に、誓約領がある。正確には、その前に湿原が広がってる。ここは、帝国と誓約領の境界に一番近い街なんだ。」
「……じゃあ、この河の向こうが、もう誓約領ってわけじゃないんだ。」
「うん。」
「すぐには辿り着けない。だからこそ、国境として成り立ってる。」
セラは河面を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「思ってたより、遠いんだね。」
セラは遠くを見るように目を細めて呟く。ルミナもまた、セラと同じ方向に目を向けた。
「帝国は魔術について、徹底的に管理することで安全な道具とした。その代わり、魔術師はすべて国の維持・繁栄のために生きることになる。」
ルミナは淡々と続ける。
「誓約領はね、魔術禁止主義の国なんだよ。未来を弄ることは神への冒涜だっていう思想のもとに建国されたんだ。」
セラは少し迷ってから、問いを口にした。
「…ルミナは誓約領の方がいいの?」
「そうでもないよ。誓約領は魔術師を認めない。迫害し、排除する。どっちがいいか、とかはわかんない。」
帝国は魔術を手段とし、魔術師を駒として扱う。
誓約領は魔術を迫害するが、少なくとも、駒にはしない。
「…セラはどう思う?」
「えぇ。どうだろう…よくわかんないかな。」
難しい顔をしたセラが、ぱっとルミナを振り返った。
「わかんないけど、ルミナが少しでも楽しく旅ができたら、それでいいかな!」
楽しい旅。虚を突かれたように、ルミナは目を瞬かせた。
ルミナはセラの言葉を胸の中でなぞった。わかりやすく、優しくて、何ひとつ間違っていない答え。
楽しい場所はどういうところなのだろう。
帝国は息苦しい。管理され、縛られる。けれど、自分で選んで進むことはできる。
誓約領は静かだ。安全で、整っていて、正しい。けれど、停滞している。
どちらが良いか、そういうことではないのだろう。簡単には答えは出せそうにない。
いつも、心のどこかで考える。ルミナにとって魔術とはなんだろう。
『魔術とは、未来に存在するはずの体力・魔力・運・可能性・環境的余力といった諸要素を代償とし、現在における現象として発動させるものである。』
昔見た資料に書かれていた。こんな文章、当事者にとっては何の意味もない、文字の羅列だ。
そっと右目に触れた。セラと旅を始めてから、右目は沈黙している。そのままでいてほしい。どうか、セラは何も知らないでいてほしい。知らないまま、ルミナにまた笑いかけてほしい。そうすれば、ルミナもただのルミナとして一緒にいられる気がした。
「……セラらしいね。」
ようやく口にできた言葉は、それだけだった。




