第二章 二人で歩く
道は思っていたよりも歩きやすかった。
踏み固められた土は乾きすぎず、靴底に余計な砂を噛ませない。街道の両脇には低い草と灌木が点在し、風が吹くたびに葉がさらさらと音を立てた。
空は広く、雲は高い。白い雲がゆっくり流れていくのを見ていると、時間まで緩んでしまいそうになる。
「ねえ、聞いてる?」
少し前を歩いていたセラが、振り返りもせずに言った。
「聞いてるよ。」
「絶対聞いてない顔だよそれ。」
こっちを見やしないのに、セラは笑いながら話し、肩にかけた荷袋を軽く揺らした。中の水袋が、歩調に合わせて小さく揺れる。
街道の先は緩やかな起伏を描きながら伸びている。遠くには低い丘が連なり、その向こうに、かすかな建物の影が見え隠れしていた。次の街だ。天気も良い。このまま順調に街まで着けそうだ。
「今のペースなら、日暮れ前に着けそうじゃない?たぶん。」
「怪しいなぁ…。」
「細かいこと気にしないの。旅は気分だよ、気分。」
ルミナは何も言わず、歩幅をほんの少しだけ緩めた。ひとりで旅をしていた頃なら、こんな調整はしなかった。
二人分の足音が、乾いた道に規則正しく刻まれていく。不思議と、その音は心地よかった。
「それにさ、」
セラが続ける。
「二人旅って、思ったより悪くないね。道に迷っても、話し相手がいるし。」
「迷う前提なんだ。」
「もしもの話!」
また笑う。よく笑う人だ、とルミナは思う。
道の脇、灌木が作る小さな影に腰を下ろす。石は少なく、座りやすい場所だった。遠くで鳥の声がして、風が草の匂いを運んでくる。
水を飲みながら休憩していると、セラが地図を広げて指で現在地をなぞっていた。
「ここから街まで、一本道。寄り道しなければ安全!」
「寄り道しなければ、ね。」
「しないよ。たぶん。」
「……」
昨日、セラの「近道!」は廃村と家畜を経由し、結果的に最短で迷った。
ある朝、セラは野生動物に話しかけ、真剣にうなずき、道を教えてもらったと逆方向へ進んだ。
ある夜、セラは「交代で見張ろう」と言い、最初の十分で熟睡し、ルミナが朝まで起きていた。
ルミナは小さく息を吐いた。それでも、不思議と苛立ちはない。
空を見上げる。陽はまだ高い。急ぐ理由は、今のところなかった。
「ところで」
セラが地図を畳みながら言った。
「そろそろ、お金の話をしてもいい?」
「そうだね、私も気になってた。」
「だよね。食費も宿代も、二人分になると、ほら。」
指で軽く“空”を示す。
「街に着いたら仕事を探そう。依頼とか受けて。」
「何の依頼がいいかなーっ。子どもの面倒みたりとか?戦うのは無理だけど、日常生活のお手伝い系なら得意だよ!」
ルミナはその声を聞きながら道の先を見る。穏やかな風景が変わらず続いていた。
街道の先、低い丘を越えたところで、街が姿を現した。
石造りの外壁は高くはないが、手入れが行き届いている。門の上には街名を刻んだ古い標が掲げられていた。
リュネス。
大きな街ではない。それでも、人の気配は確かにある。
門の前では、旅人が数人、順番を待っていた。荷車を引く商人、軽装の傭兵、家族連れもいる。兵士の装備は揃っているが、構えは緩い。
「……やっと街だ。」
セラが小さく息をついた。街道を越え、二人はリュネスの門をくぐった。
石造りの門は高くはないが、角が丸く削れ、長く使われてきたことが分かる。壁の色はくすんだ灰色で、ところどころ補修の跡があった。飾り気はないが、放置されている印象もない。この街は、必要なところを丁寧に守っている。
中へ入ると、道は土から石畳に変わった。靴底に伝わる感触が一気に硬くなり、足音がはっきりと響く。通りは広すぎず、狭すぎない。荷車がすれ違える程度の幅で、両脇には低い建物が並んでいる。
商人の呼び声が飛び、金属を打つ音がどこかで鳴る。焼いたパンの匂い、干した布の匂い、家畜の気配。人の生活が、重なり合って漂っていた。
「思ってたより、ちゃんと街だね。」
セラがきょろきょろと周囲を見回す。
「国境も近いし、中継地っぽいかな。」
「うん。泊まるには良さそう。」
道沿いには倉庫らしき建物と店が混在している。派手な看板は少ないが、文字の擦れた標や、色あせた布が掲げられ、どこが何の店かは一目で分かるようになっていた。
旅人向けの街だ。
通りを進むにつれ、人の顔ぶれも変わる。長居していそうな住民、荷を抱えた商人、軽装の旅人。装備の統一された帝国兵も見かけたが、数は多くない。立っている位置も街の要所だけで、過剰な緊張感はなかった。
「宿、先に取ろうか。」
「賛成ー!荷物もあるし。」
大通りから一本外れた場所に、古い木製の看板が下がっているのが見えた。文字は掠れているが、絵柄は分かりやすい。旅人用の宿だ。
建物は二階建てで、外壁は石と木の混合。窓は多く、洗濯物が風に揺れている。出入りする人間の足取りも軽く、宿としてきちんと機能しているのが分かる。
「当たりっぽいね。」
セラが言う。ルミナは無言で頷き、扉に手をかけた。まずは、ここで一息つこう。
リュネスは、そういう街だった。
***
宿の扉を出ると、外はすっかり夜の気配に包まれていた。
空はまだ完全な闇ではなく、群青色を残したまま、街の灯りを受け止めている。通り沿いの家々や店先にはランタンが吊るされ、揺れる光が石畳に柔らかな影を落とし、幻想的な風景へと変わっていく。
大きな通りでは、仕事を終えた住民、旅装を解いた商人、酒場へ向かう数人連れ。足取りは皆ゆるく、声も自然と大きくなる。街が、ようやく一日の息を吐き出した時間だった。大きくはない街だが、そのぶん人が集まっており活気が感じられる。
「にぎやかだね!」
セラが小躍りしながら周囲を見回す。
通りには屋台も出ていた。鍋から立ちのぼる湯気、焼き台の上で音を立てる魚、油がはぜる匂い。香草と塩の匂いが混じり合い、空腹を否応なく刺激する。
「全部おいしそう!」
セラは歩く速度を落とし、視線を忙しなく動かしている。
店先の看板は派手ではないが、どれも使い込まれている。擦れた文字、煤の跡、年季の入った木の扉。長くここで、同じ時間を繰り返してきた店ばかりだ。
通りの奥から、笑い声と食器の触れ合う音が聞こえる。香ばしい匂いがひときわ強く、自然と足が向いた。
「セラ、ここ良さそうだよ?」
小さな食堂だった。扉は開け放たれ、暖かな光が外に溢れている。中には簡素な木の机が並び、半分以上がすでに埋まっていた。
鍋の中では、野菜や魚が煮込まれているらしく、濃い香りが漂っている。焼きたてのパンが籠に積まれ、湯気を立てていた。
「入ろうー!」
ルミナの返事を待たず、セラが一歩踏み出した。
中に入ると香ばしい匂いが濃くなる。空腹が刺激され、唾液が口の中に溜まった。席に着いて注文を済ませると、ほどなくして料理が運ばれてきた。
深皿に盛られた煮込みは具が大きく、汁はとろりとしている。表面には油が薄く浮き、香草が散らされていた。添えられたパンは外が硬く、中はふんわりしている。付け合わせには野菜が盛られており、二人だけで食べきれるか心配なほど量が多い。
「わぁ…」
セラが、珍しく静かに呟く。
ひと口すくうと、野菜の甘みと魚介の旨みが舌に広がる。香草と魚介が味に深みを出しており、食べるほど食欲をそそる。河川が近いからか様々な魚がふんだんに使われており、食べるごとに味の違いが楽しめる。野菜はシンプルな味付けだが、煮込み料理とつり合いが取れていて箸休めに丁度よい。焼きたてのパンはそのままでも十分おいしいが、汁を含ませるとさらに絶品だった。
周囲の客たちも、それぞれに食事を楽しんでいる。誰かが今日の出来事を語り、誰かがそれに笑う。杯が打ち合わされ、また料理が運ばれる。
セラは一滴も逃すまいと、パンを汁に浸しながら口いっぱいに頬張っている。
ルミナは、ゆっくりと食事を進めながら、そんな様子を眺めていた。
皿の中身が半分ほど減った頃、店内のざわめきも耳に馴染んできた。笑い声や食器の音は遠くで重なり合い、もはや一つの音の塊のようになっている。
「……おいしいね。」
セラが小さく言った。さっきまでの勢いは少し落ち着き、パンをちぎる手つきもゆっくりになる。
「うん。」
ルミナは短く答える。言葉は少ないが、不満はない。
「こういう街、好きかも。大きすぎないし、うるさすぎないし。」
「通り抜けるにはちょうどいい。」
「住むには?」
「……考えたことないかな。」
言葉を交わしながら料理を食べ進めていると、少しずつ周りの喧騒にも慣れてきた。隣のテーブルで交わされている会話が、ふと耳に入ってくる。
「そういえば、」
男の声だ。
「最近の国境について新しい情報はないか?」
男の向かいに座っていた女が肩をすくめる。
「特殊な魔道具でごたついているみたいよ。」
「魔道具?禁制魔道具を壊して回ってる連中のことか?」
「それではないみたい。禁制魔道具の一種らしいんだけど、今までのものとは毛色が違うそうよ。帝国が国境近くの警備を強化するっていう噂もあるみたい。」
女がため息をつく。
「あまり良くない流れね。帝国のやり方を批判する声も増えてきてる。依頼も増えるわけだわ。」
周囲の卓から聞こえてくるのも、依頼の増加や帝国兵の動きに関する話題がほとんどだった。
「なんか、物騒だね」
セラが小さく言った。ルミナはスプーンを口に運びながら、黙って目を伏せる。
店を出ると、夜の空気は少し冷えていた。食堂の暖かさで火照った身体には、外の風が心地よい。通りの灯りは先ほどよりも落ち着き、行き交う人の数も減っている。屋台のいくつかは片付けを始めており、残った店だけが静かに湯気を立てていた。
「ちょっと周りを歩いてから戻ろうー。」
セラが言う。
「うん。」
腹が満たされると、足取りも自然と緩くなる。石畳に響く足音は軽く、急ぐ理由はどこにもなかった。
「明日さ、依頼見に行こうよ!」
「朝一番で?」
「うん!早い方が良さそう。」
通りの角を曲がると街の中心が見えてきた。依頼の受付については役所で取り扱っており、建物は中心のすぐ横だ。今は最低限の灯りだけがついており、人の出入りもまばらだ。
「戦う依頼は、できれば避けたいなあ。」
セラは自信なさげに笑う。
「……そうだね。平和的な依頼にしよう。」
夜のリュネスは静かで、どこか柔らかい。明日もまた、人が動き、依頼が貼られ、誰かが受ける。二人もまたその中の一部になるだけだ。




