第一章 正しさの側で立つ-⑥
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宿の部屋に戻ってきた。通りに面した窓から、遠くのざわめきがかすかに聞こえるだけで、灯りは弱い。
ルミナは椅子に腰掛け、外套を脱がないまま、両手を膝の上で組んだ。何度もほどいては、また組み直す。
ついていきたい。外に行ってみたい。
セラの声が、耳の奥で繰り返される。
一緒に行く、という選択。それは、誰かを守ると誓うことではない。それでも、同じ道を歩くというだけで、未来は絡み合ってしまう。
右目にそっと指を当てる。何も見えない。熱もない。沈黙している。
魔眼をなんとかしたい。それが旅の始まりだった。
未来を見てしまうことが怖かった。知らなくていいはずの死を、何度も見せられることが耐えられなかった。未来を知ってしまうことは、その未来に対して責任を負うように感じられて、自分の行動によって他人の人生に干渉することが怖かった。
右目が見せる光景は、いつも誰かの不幸だった。
未来を見たから、救えなかった命。未来を見なくても、救えなかった命。
見ても、見なくても、結局は誰かにとっての不幸へ繋がる。結局、ハッピーエンドにはならない。
でも、見てしまった以上、知らなかったふりはできない。
「……今日が幸せなら、か。」
セラの言葉を、口の中で転がす。
未来を信じない生き方。明日を考えすぎない生き方。それは逃げなのだろうか。それとも、生きるための知恵なのだろうか。
幸せな今日を積み重ねれば、いつか幸せな未来へたどり着くのか。
答えは出なかった。右目は沈黙している。だが、見なくていい未来ばかり映すこの目は、自分のはずなのに思うようにならない。
ルミナはベッドに横になり、天井を見つめたまま、目を閉じた。眠りは浅く、夢も見なかった。
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朝の光は、裏通りまで十分には届かない。だが、昨日とは違う気配があった。
重たい足音。規則的で、迷いのない音。
ルミナは通りの角で足を止めた。衛兵だった。革の胸当てをしている者、防具を着けていない軽装の者もいる。五人程度の隊だ。後方には荷箱を載せた小型の荷車もある。
裏通りの住人たちは、距離を取って様子を窺っていた。誰も騒がない。誰も抵抗しない。慣れているのだ。
「ここ一帯で、禁制魔道具の使用が確認された。」
先頭の衛兵が、淡々と告げる。
「感染症の兆候もある。帝国の判断により、臨時の対応を行う。」
二人の衛兵がずかずかと診療所へ入っていく。残りは周囲を制し、住民を下がらせる。
「没収だ。協力すれば、処罰は軽くなる。」
乱暴な振る舞いはないが、言葉の温度は冷たい。魔石の使用に関係していたと思われる人は身元確認や書類記入がなされていく。回収が進む中、診療所から声が上がった。
「……紫の魔石は、もう使われていない。」
「それでも回収する。」
衛兵はそう言い、棚や机を調べ、欠片一つ残さず布に包んでいく。持ち物もすべて確認を行い、細かいところまで捜索した。魔石や禁制魔道具以外にも、危険物と思しきものはすべて没収されていく。
続いて、荷車から荷物が下ろされた。帝国の印章が押された包みだった。
「これは帝国からの支給だ。症状が重い者は別の場所で隔離し、魔術師が治療する。症状の軽い者は清潔な物を食べて療養するといい。」
ざわめきが起こる。感謝の声も、疑いの視線も入り混じる。
荷物の量はそう多くなく、集まっている住民すべてには行き渡らないだろう。それでも、喜ぶ人々は多い。
正しい処置だ。少なくとも、間違ってはいない。ルミナはそう思った。
禁制魔道具は危険だ。依存すれば、いずれもっと大きな犠牲を生む。帝国のやり方は、合理的で、効率的で、被害を最小限に抑える。
その輪の外で、少女が立っていた。セラだ。昨日と同じ上着。同じ、明るい瞳。
彼女は、衛兵の動きをじっと見ていた。怒りも、恐怖もない。
ルミナに気づき、少し驚いたように目を瞬かせる。それから、昨日と同じ調子で笑った。
「おはよう。」
まるで、何事もなかったみたいに。
「……おはよう。」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
セラが、ぽつりと言った。
「感染症が流行りそうな時だけくるの。きっと表の住人に移してほしくないんでしょうね。」
衛兵の背中を見ながら。
「でも、これで助かる人も多い。」
ルミナは答えられなかった。昨日の子は間に合わなかっただけ。現実的にはそういうことだ。
正しさが遅れてやってくることはある。でも、遅れた正しさは、当事者にとっては意味がない。現実が失われてから動き出す、全体論でしかないのだ。
セラは、ルミナの顔を見上げた。
「……で、どう?」
問いは短い。
「考えてくれた?」
ルミナは、息を吸った。右目に触れない。未来を見ない。
ただ、目の前の少女を見る。
「……面倒をみることはできない。一緒にいるくらいなら。」
セラは一瞬だけ目を見開き、それから、ぱっと笑った。
「ほんと?」
「危ないし、守れないよ。お金だってそんなにない」
ルミナは続ける。
「それでいいよ!」
セラは即答した。すぐ笑顔になり、ルミナに近づく。
「そういえば、お姉さんの名前知らないや!」
「ルミナ・エレブリス。ルミナでいいよ。」
ごく普通の自己紹介。でもどこかくすぐったくて、セラの笑顔につられて笑った。
衛兵の号令が再び響く。裏通りは、静かに、しかし確実に変わり始めていた。
その中で、二人は並んで歩き出す。セラが元気に動き回り、ルミナがそれを見てほほ笑む。
あとは出発するだけだ。
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街を出る準備は、思ったよりもあっさり終わった。ルミナの荷物は少ない。水の魔道具、乾物、簡単な着替え。それだけだ。
宿の主人に礼を言い、余計な言葉は交わさずに外へ出る。
朝の街は、昨日より少しだけ騒がしかった。帝国の印章が押された包みがあちこちの家に配られている。人々は小声で礼を言い、頭を下げる。
誰も間違ってはいない。それが、余計にやるせなかった。
門へ向かう途中、セラは周囲をきょろきょろと見回していた。
「ねえ、あの店、前からあったっけ?」
「昨日もあったよ。」
「ほんと?私、気づかなかったな。」
セラは笑う。
「外に出るって決めたらさ、なんか全部違って見える。」
その言葉に、ルミナはセラを見つめる。
未来を見ることとは違う。今を見る、という感覚。セラといると、新鮮な気持ちになる。
門の前には検問があった。だが、昨日ほど厳しい様子はない。衛兵の視線が、ルミナ、次にセラへ移る。
「旅か?」
「そうだよ!」
セラが、ルミナより先に答えた。
「この街、やることなくなっちゃって。」
冗談めかした口調に、衛兵は肩をすくめる。
「気をつけろ。外は物騒だ。」
「はいはい。」
セラは軽く手を振り、門をくぐった。
街の外に出ると、風の匂いが変わった。川の湿り気が薄れ、乾いた空気が混じる。
「ねぇ。」
歩きながらセラが言う。
「次の街ってどんなかな?私、街の周辺しか行ったことないから、他の街は初めて!」
「んー…地図通りなら、小さな街がいくつかあると思うよ。ここからは国境が近くなるし、野宿も多くなるからね。大丈夫そう?」
「大丈夫!野宿も楽しみ!火を囲んでご飯食べるんでしょ?私、調理器具持ってきたから、ご飯作ってあげるね!」
「楽しみにしてる。」
ルミナはセラと共に前を向く。二人の足音が、街道に重なっていく。
背後で、街の音が少しずつ遠ざかる。帝国の正しさも、禁制魔道具が散る紫の光も、診療所の静けさも。
解決したわけじゃない。きっと、この先でまた追いついてくる。
それでも。
「ねえ、ルミナ。」
「なに?」
「今日は、どこまで行けそう?」
セラの声は、明るい。ルミナは空を見上げた。
右目は何も映さない。それでいい。
「…日が落ちるまで、かな。」
「じゃあさ。」
セラは、前を向いたまま言った。
「その間に、面白いこと一個くらい起こるといいね。」
ルミナはわずかに口元を緩めた。まずは今日を、この目に映して生きてみよう。




