第4話:跪く義母と誇り高き決別
王宮の朝は、小鳥のさえずりと共に訪れた。
最高級のシルクシーツの感触に包まれて目を覚ますと、すでに数人の侍女たちが控えており、朝の支度を整えてくれていた。
窓から差し込む光は柔らかく、今日という特別な一日を祝福しているようだ。
「おはようございます、アイリス様。本日は誠におめでとうございます」
侍女長が恭しく頭を下げる。
私は少し照れくささを感じながら、「ありがとう」と微笑んだ。
数日前まで屋根裏部屋でカビ臭い毛布にくるまっていたのが嘘のようだ。今の私は、王宮の東棟にある、王族専用の客室で生活している。
今日は、私、アイリス・フォン・リリウムが正式に「聖花公爵」としての爵位を授かり、社交界へとお披露目される日だ。
それは同時に、かつての「家族」との、最後の対面の場でもあった。
「さあ、お支度を始めましょう。本日のドレスは、アレクシス殿下が国中の職人を集めて作らせた、最高傑作でございます」
運ばれてきたドレスを見て、私は思わず息を呑んだ。
それは、私の魔力の色と同じ、淡い黄金色を基調としたドレスだった。
生地には目に見えないほど繊細な金糸で百合の花の刺繍が施され、動くたびに光を受けて波のように輝く。胸元や袖口には、朝露のように透明度の高いダイヤモンドが散りばめられ、上品かつ圧倒的な存在感を放っていた。
「……素敵。こんなドレス、私に似合うかしら」
「もちろんでございます。アイリス様の美しさを引き立てるための装いですから」
侍女たちによって丁寧に化粧を施され、髪を結い上げられる。
鏡の中に映る自分は、もはや「灰被りの令嬢」ではなかった。
亜麻色の髪は艶やかに輝き、碧色の瞳は自信と知性で満ちている。背筋を伸ばし、顎を引いたその姿は、母の古書に描かれていた伝説の女王のように凛としていた。
支度が整った頃、扉がノックされ、正装したアレクシス王子が現れた。
純白の礼服に身を包み、肩には王家のサッシュを掛けた彼は、眩しいほどの美貌で私を見つめ、優しく微笑んだ。
「……言葉が出ないな。美しいよ、アイリス。君こそが、この国の宝石だ」
「アレクシス様……。ありがとうございます。貴方がいてくださるから、私は胸を張れます」
王子は私の手を取り、甲に口づけを落とした。
「行こうか。皆が君を待っている。そして、彼らとの決着をつける時だ」
「はい」
私は大きく頷き、彼のエスコートを受けて部屋を出た。
心臓の鼓動は早いが、不思議と恐怖はない。
私の中には、母の愛と、自分で掴み取った誇りがある。それがあれば、もう何者にも揺らぐことはない。
***
王城の「太陽の広間」。
国の重要儀式のみに使用されるこの巨大なホールには、既に千人を超える貴族たちが集結していた。
天井からは巨大なシャンデリアが幾つも吊り下がり、磨き上げられた大理石の床は鏡のように人々の姿を映し出している。
空気は張り詰めており、誰もがこれから現れる「伝説の血統」を一目見ようと、固唾を飲んで待ち構えていた。
その最末席。
入り口近くの、最も身分の低い者たちが立つ場所に、レインワース伯爵家の三人の姿があった。
いや、正確には「元」伯爵家と言うべきかもしれない。
彼らは謹慎中の屋敷から、王宮の馬車ではなく、護送用の簡素な馬車で連れてこられたのだ。
「……屈辱だわ。どうして私が、こんな末席に立たされなきゃいけないの」
ベアトリスがギリギリと歯噛みしながら呟く。
今日の彼女は、いつもの派手なドレスではなく、数年前に仕立てた地味な茶色のドレスを着ていた。屋敷が王家の管理下に置かれ、資産が凍結されたため、新しいドレスを用意することも、宝石を持ち出すことも許されなかったのだ。
髪もプロの結髪師の手によるものではなく、自分で結ったため、どこか乱れている。
「静かにしろ、ベアトリス。目立つと余計に立場が悪くなる」
夫のレインワース伯爵は、顔色を土気色にして震えていた。
彼は既に、周囲の貴族たちから向けられる冷ややかな視線に耐えられなくなっていた。
「あれが、公爵家の分家だと威張り散らしていたレインワース夫人か?」
「娘を虐待していたそうじゃないか。野蛮なことだ」
「王家の血を引く方を屋根裏に閉じ込めていたなんて、不敬罪で処刑されても文句は言えないぞ」
囁き声は容赦なく彼らの耳に届く。
かつて彼らがアイリスに向けていた嘲笑が、今、倍になって自分たちに返ってきているのだ。
セシリアに至っては、恐怖のあまり涙目で俯き、母親の袖を掴んでいるだけだった。
「ふん、見てらっしゃい。どうせアイリスの小娘なんて、ドレスに着せられてガチガチに緊張して、無様な姿を晒すに決まっているわ。所詮は育ちが卑しいのだから」
ベアトリスはまだ現実を受け入れられず、歪んだプライドにしがみついていた。
アイリスが失敗すればいい。笑いものになればいい。そうすれば、自分の正当性が少しでも証明されるはずだ。
そんな暗い願望を抱きながら、彼女はホールの扉を睨みつけていた。
その時。
ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
重厚な大扉が、ゆっくりと左右に開かれる。
「――聖花公爵、アイリス・フォン・リリウム閣下、ならびにアレクシス・フォン・ルミナス殿下の御成!」
儀礼官の声が響き渡ると同時に、ホール全体が静まり返った。
そして、その静寂はすぐに、ため息のような感嘆の声へと変わった。
現れたのは、光そのものを纏ったような女性だった。
シャンパンゴールドのドレスが、歩くたびに流麗なドレープを描く。
その姿は、まるで春の女神が地上に降り立ったかのような神々しさがあった。
何より人々を圧倒したのは、彼女自身から溢れ出るオーラだった。
以前のような自信なさげに俯く少女の面影はない。
背筋を伸ばし、堂々と前を見据え、優雅に微笑むその姿には、生まれながらの高貴さが滲み出ていた。
「あれが……アイリス様?」
「なんと美しい……」
「黄金の魔力が、彼女を守るように漂っているぞ」
ベアトリスは、ぽかんと口を開けたまま、言葉を失っていた。
(あれがアイリス? あの薄汚い、ネズミのような娘?)
信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
あんなに美しく、気品に満ちた存在が、自分が虐げていた娘だなんて。
彼女が歩くたび、貴族たちが波が引くように道を開け、深々と頭を下げる。
それは、ベアトリスが喉から手が出るほど欲していた、最上級の敬意と畏怖の眼差しだった。
アイリスはアレクシス王子にエスコートされ、長いレッドカーペットの上を歩いていく。
その視線は一度も末席のベアトリスたちに向けられることはなかった。
まるで、最初からそこに誰もいないかのように。
その無視こそが、ベアトリスにとっては何よりも耐え難い屈辱だった。
***
私は玉座の前に進み出ると、国王陛下の前で優雅にカーテシー(膝を曲げる礼)を行った。
母が本に書き残してくれた図解を見ながら、夜中に何度も練習した礼法だ。
体幹がぶれることなく、流れるような所作。
「面を上げよ、アイリス」
国王陛下の威厳ある声。
私が顔を上げると、陛下は慈愛に満ちた瞳で私を見つめ、頷かれた。
「其方の身に流れる血、そして其方が覚醒させた『聖域の黄金花』の力。それは我が国にとってかけがえのない宝である。長きにわたり、不遇な環境にありながらも、その心と力を清く保ち続けたことに、深く敬意を表する」
「勿体なきお言葉でございます、陛下」
「よって、ここに『聖花公爵』の位を授け、王家の守護者としての地位を認める。……苦労をかけたな。これからは、余が其方の父代わりとなろう」
その言葉に、会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
国王陛下直々の言葉。それは私が王家の家族として迎え入れられたことを意味する。
私は胸が熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
「謹んでお受けいたします。この身にある限り、国の安寧と人々の平和のために、全力を尽くすことを誓います」
私の声は、魔力に乗って会場の隅々まで澄み渡った。
拍手は鳴り止まない。
私はアレクシス様の方を見た。彼は満足そうに頷き、私に手を差し伸べてくれた。
私はその手を取り、玉座の隣、王族のみが立つことを許される高みへと上がった。
ここから見下ろすと、会場にいる千人の貴族たちの顔がよく見える。
皆、私を称賛し、あるいは畏敬の念を持って見上げている。
そして、その遥か後方。
群衆の影に隠れるようにして、小さくなっている三人の姿も、はっきりと見えた。
「さて」
アレクシス様が、静かだがよく通る声で言った。
会場の空気が一変する。
「慶事の場ではあるが、一つ、清算しておかねばならないことがある。……レインワース元伯爵、ベアトリス、セシリア。御前へ進み出よ」
名前を呼ばれた三人が、ビクリと肩を震わせたのが見えた。
周囲の貴族たちが冷ややかな視線で道を開け、彼らが隠れる場所をなくしていく。
騎士たちに促され、三人はよろめきながらレッドカーペットの上を進んできた。
みすぼらしい衣服、青ざめた顔、泳ぐ視線。
かつて私を屋根裏から見下ろしていた彼らは、今や犯罪者のように背を丸めて歩いてくる。
玉座の階段の下まで来ると、騎士が「跪け!」と鋭く命じた。
父とセシリアは、へなへなと崩れ落ちるように膝をつき、床に額を擦り付けた。
しかし、ベアトリスだけは。
彼女だけは、膝を折ることを拒否し、震える足で立ったまま私を睨み上げていた。
「……何の真似ですか、これは」
ベアトリスが絞り出すような声で言った。
「私は公爵家の血を引く者です。たとえ爵位を奪われようと、私の血は汚れていない。あんな……あんな小娘に跪くなど、私のプライドが許しません!」
会場がざわめいた。
往生際の悪い、醜いあがき。
しかし、彼女にとっては、私に跪くことは死ぬことよりも辛いことなのだろう。
アレクシス様が不快そうに目を細め、指を鳴らそうとした。
魔法で強制的に跪かせるつもりだ。
私はそっと彼の手を制した。
「お待ちください、アレクシス様。……ここは、私に任せていただけますか?」
「……分かった。君の望むように」
私は一歩前へ出た。
階段の上から、ベアトリスを見下ろす。
彼女と目が合う。その瞳には、かつてのような侮蔑の色はなく、ただ惨めな嫉妬と恐怖だけが渦巻いていた。
「ベアトリス様」
私は静かに語りかけた。
「貴女はずっと、血統こそが全てだとおっしゃいましたね。血が人の価値を決めると」
「そうよ! だからお前は下賎なのよ!」
「ならば、その理屈に従いなさい」
私は右手をゆっくりと上げた。
瞬間、私の体から黄金の魔力が奔流となって溢れ出した。
『聖域の黄金花』の威圧。
物理的な攻撃力はない。けれど、そこには圧倒的な「格」の重みがあった。
王家の純血に近い、神聖なる魔力。
それは、彼女が誇る公爵家の分家の血など、比較にならないほど強大で、尊いものだった。
「う、あ……ッ!?」
ベアトリスの顔が歪む。
本能が理解してしまったのだ。目の前にいる存在が、生物としての格が違うということを。
重力が増したかのように、彼女の膝がガクガクと震え始める。
「や、やめ……私は……私は……」
「跪きなさい。貴女が崇拝する『血統』の前に」
私の言葉は命令として、彼女の魂に直接響いた。
彼女は抵抗しようと歯を食いしばったが、体は正直だった。
ガクン、と膝が折れる。
ドサッという音を立てて、彼女は床に這いつくばった。
両手をつき、額が冷たい大理石に触れる。
その姿は、かつて彼女が私に強要していた、最下層の使用人がする服従のポーズそのものだった。
「ひぃ……うぅ……」
ベアトリスの口から、嗚咽が漏れる。
プライドが粉々に砕け散る音が聞こえるようだった。
公衆の面前で、最も軽蔑していた相手に、自らの信条によって屈服させられたのだ。これ以上の「ざまぁ」はないだろう。
私は階段を数段降り、彼女のすぐ近くまで歩み寄った。
見下ろす視線の先で、ベアトリスが震えながら私を見上げる。
「……どうして……どうして、お前なんかが……」
「お顔をお上げください、ベアトリス様」
私は冷たく、しかし静かに告げた。
かつて屋根裏で泣いていた少女の声ではない。一人の公爵としての声で。
「貴女は私を『家門の恥』と呼びましたね。私の存在そのものが汚点だと」
彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。それは悔し涙だ。
「見てください。今の私を」
私は両手を広げ、黄金のドレスを翻した。
光が舞い、会場中の視線が私に集まる。
「私は恥ではありません。貴女がどんなに手を伸ばしても、二度と届かない場所にある『誇り』になりました」
その言葉は、彼女の心臓に突き刺さったようだった。
ベアトリスは「あ……あぁ……」と力なく声を漏らし、再び床に崩れ落ちた。
今度こそ、彼女の心は完全に折れたのだ。
私を見る目に光はなく、ただ虚無だけが映っていた。
「連れて行きなさい」
アレクシス様が冷徹に命じた。
「彼らは地方の修道院へ送られる。そこで一生、罪を償い、土に触れて生きることになるだろう」
騎士たちが三人を引き立てる。
父は「アイリス、助けてくれ!」と叫び、セシリアは泣きじゃくり、ベアトリスは抜け殻のように引きずられていく。
大扉の向こうへ彼らが消えるまで、私は目を逸らさずに見送った。
可哀想だとは思わなかった。
彼らは自分たちの蒔いた種を刈り取っただけなのだから。
扉が閉まる重い音が、私の過去との完全なる決別の合図となった。
***
儀式が終わり、夜の帳が下りる頃。
私は王宮のバルコニーに出て、夜風に当たっていた。
星空の下、王都の灯りが宝石箱のように煌めいている。
その美しい景色を、私は自由な心で眺めることができていた。
「ここにいたのか」
背後からアレクシス様が現れ、私の肩にショールを掛けてくれた。
彼の体温と、微かに香るシトラスの香りが心地よい。
「お疲れ様。……辛くはなかったかい?」
「いいえ。不思議なくらい、心が晴れやかです」
私は彼を見上げて微笑んだ。
強がりではなく、本心だった。
心の中にあった重い澱が、すっかり消え去っている。
「彼らへの未練も、憎しみも、もうありません。私はただ、自分の人生を歩みたい。この力を、母が望んだように、誰かを守るために使いたいんです」
「ああ。君ならきっと素晴らしい公爵になれる」
アレクシス様は私の腰に手を回し、引き寄せた。
彼の瞳が、星空よりも深く、優しく私を映している。
「だが、一人で背負う必要はない。これからは、僕が隣にいる」
「アレクシス様……」
「君を見つけた時から、僕の心は君のものだ。アイリス、どうか僕と共に歩んでくれないか?」
それは、実質的なプロポーズだった。
屋根裏の孤独な少女だった私が、まさか王子様から求愛されるなんて。
頬が熱くなるのを感じながら、私は彼の胸に顔を埋めた。
「……はい。喜んで、お供いたします」
彼の腕が強く私を抱きしめる。
幸せだった。
かつて暗闇の中で、本のページをめくりながら夢見ていたどんな物語よりも、今の現実は輝いている。
夜空に一筋の流れ星が流れた。
私は心の中で、母に語りかけた。
(お母様、見ていてください。私はもう泣きません。貴女がくれたこの命と誇りを胸に、誰よりも幸せになってみせます)
私の新しい物語は、まだ始まったばかりだ。
「家門の恥」と呼ばれた少女はもういない。
ここには、黄金の輝きを纏い、愛する人と共に未来へ歩み出す「聖花公爵」がいるだけなのだから。




