第1話:灰被りの令嬢と奪われた学び
屋根裏部屋の小さな丸窓から、白じんだ朝の光が差し込んでいた。空中に舞う埃がきらきらと光り、古びた木の床を照らし出す。冷たい風が隙間風となって入り込み、私の肌を刺すように撫でていくけれど、不思議と寒さは感じなかった。
私の膝の上には、一冊の古書が開かれている。
革の表紙は擦り切れ、ページは黄ばみ、触れれば崩れ落ちてしまいそうなほど脆い。けれど、そこに記された文字は、インクの褪色さえも美しい装飾であるかのように、私の瞳を惹きつけて離さなかった。
「……星辰は巡り、源流へと還る」
指先でその文字をなぞりながら、私は誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。
それは、今の公用語とも、かつて使われていた古語とも違う、もっと遥か昔の言葉。一般には解読不能とされ、ただの模様としてしか認識されない「古代文字」だ。
なぜだか分からないけれど、私、アイリス・レインワースには、この文字が意味するものが理解できた。まるで、生まれつき知っていた子守唄を思い出すように、言葉が心の中に染み渡ってくるのだ。
「お母様……」
この本は、私が五歳の時に亡くなった実母が残してくれた唯一の形見だった。
母は下位貴族の出身で、父であるレインワース伯爵に見初められて結婚したと聞いている。けれど、その身分差ゆえに親族からは疎まれ、若くして病でこの世を去った。
そして、母が亡くなってすぐに、父は名門公爵家の分家から新しい妻を迎えた。それが、現在の義母であるベアトリスだ。
私の生活が一変したのは、まさにその時からだった。
ベアトリスは、前妻の娘である私を徹底的に嫌った。彼女にとって私は、愛する夫が「身分の低い女」との間に作った不貞の証のようなものだったのかもしれない。
私は屋敷の主寝室がある本館から追い出され、使用人たちが使う別棟の、さらにその上にある狭い屋根裏部屋へと追いやられた。
食事は使用人たちの残り物。ドレスは与えられず、成長に合わせて丈を直したつぎはぎだらけの普段着。そして何より辛かったのは、貴族の娘として受けるべき教育を一切禁じられたことだった。
「文字など覚える必要はありません。どうせお前は、どこかの商人にでも売り払うつもりですからね」
そう言って笑う義母の顔を、私は今でも鮮明に覚えている。
家庭教師がつくのは、義母が連れてきた一歳年下の義妹、セシリアだけ。私は、セシリアが勉強している部屋の掃除を言いつけられ、彼女が教師に褒められる様子をただ黙って見ていることしか許されなかった。
けれど、彼女たちは知らなかった。
私が、母の残したこの一冊の本を教科書に、夜な夜な独学で言葉を学び、歴史を紐解き、そして魔法の理さえも理解し始めていたことを。
奪われれば奪われるほど、私の知識への渇望は深まっていった。暗闇の中で光を求める植物のように、私は静かに、けれど確実に根を張っていたのだ。
ギィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、屋根裏部屋のドアが開かれた。
現れたのは、不機嫌そうな顔をしたメイドのマーサだった。彼女もまた、義母の顔色を伺い、私を蔑むことで自分の地位を守ろうとする人間の一人だ。
「アイリス様、まだそんな格好でいらっしゃるんですか? 奥様がお呼びですよ。早く支度をなさいませ」
「……おはよう、マーサ。すぐに行くわ」
私は慌てて本を閉じ、枕の下の隠し場所へと滑り込ませた。
今日という日が、私にとって、そしてこのレインワース家にとって、どれほど重要な一日であるかは分かっている。
十七歳になった貴族の子女は皆、王立魔導学院で行われる「適性検査」を受けなければならない。これは法律で定められた義務であり、いかに私を隠しておきたい義母であっても、王家の命令に背くことはできなかった。
「ふん、どうせ検査を受けたところで、恥を晒すだけでしょうに」
マーサは聞こえよがしに捨て台詞を吐き、足音荒く階段を下りていった。
私は小さく息を吐き、壁に掛けられた薄汚れた鏡に向かう。
映っているのは、艶のない亜麻色の髪と、生気のない肌をした痩せた少女。けれど、その瞳だけは、母譲りの深い碧色を湛え、決して消えることのない意志の光を宿していた。
「行きましょう、アイリス」
鏡の中の自分にそう語りかける。
どんなに蔑まれても、どんなに惨めでも、今日だけは外の世界に出られる。それだけで、私の胸は高鳴っていた。
***
本館のサロンへ向かうと、そこには既に完璧に身支度を整えた義母ベアトリスと、義妹セシリアの姿があった。
部屋の中は甘い紅茶の香りと、高価な香水の匂いで満たされている。最高級の調度品に囲まれ、優雅にカップを傾ける二人の姿は、まさに絵に描いたような上流貴族の風景だった。
私が部屋に入ると、義母はカップをソーサーに乱暴に置き、カチャリと神経質な音を立てた。
「遅いですよ、アイリス。いつまで待たせるつもり?」
扇子で口元を隠しながら、義母が冷ややかな視線を向けてくる。その瞳には、隠しきれない嫌悪と侮蔑の色が浮かんでいた。
「申し訳ございません、お義母様」
「謝罪など聞き飽きました。……まったく、見てください、そのみすぼらしい姿。私の目が腐りそうですわ」
義母の言葉に、隣に座っていたセシリアがクスクスと笑った。
今日のセシリアは、目の覚めるようなローズピンクのドレスに身を包んでいる。フリルとレースがふんだんに使われ、髪には宝石を散りばめた髪飾りが輝いていた。愛らしい顔立ちによく似合っているが、その表情には母親譲りの意地悪さが滲み出ている。
「お姉様、そんなボロボロの服で学院に行くおつもり? まるで使用人が間違えて馬車に乗ってしまったみたい」
「あらセシリア、使用人に失礼よ。彼らは少なくとも、自分の役割をわきまえて働いているもの。この穀潰しとは違います」
二人の嘲笑が、サロンの空気を淀ませていく。
私は何も答えず、ただ床の絨毯を見つめていた。反論すれば倍になって返ってくることを、長年の経験で知っているからだ。
「さあ、これを着なさい。特別に用意してあげたのですから、感謝するのですね」
義母が顎でしゃくると、控えていたメイドがワゴンを押してきた。
そこに乗せられていたのは、ドレスと呼ぶにはあまりにも時代遅れで、地味な色味の衣服だった。色はくすんだ灰色。装飾は一切なく、生地もゴワゴワとして厚手のもので、まるで修道女の部屋着のようだ。
恐らく、屋根裏の倉庫から引っ張り出してきた数十年前の古着なのだろう。
「……ありがとうございます、お義母様」
「あら、不満そうね? でも仕方がないでしょう。お前のような家門の汚点に、新品のドレスをあつらえる予算なんて我が家にはないのよ。セシリアの素晴らしい才能を伸ばすために、お金は必要なのですから」
義母は扇子を閉じ、勝ち誇ったように私を見下ろした。
彼女の論理では、公爵家の血を引くセシリアには類稀なる魔導の才能があり、下位貴族の血を引く私には何の才能もないことになっていた。まだ一度も検査を受けていないにもかかわらず、だ。
「いいこと、アイリス。今日の検査はただの形式的なものです。お前が無能であることを証明し、早々に帰ってくるための儀式に過ぎません。余計なことは一切喋らず、誰とも目を合わせず、ただ空気のように存在していなさい。レインワース家の恥をこれ以上広めないためにね」
義母の言葉は、鋭利な刃物のように私の心を抉る。
けれど、私は表情を崩さなかった。心の中で、母の残した言葉を反芻する。
『誇りを持ちなさい、アイリス。誰が何と言おうと、あなたの魂は誰にも汚せない』
その言葉だけが、私を支える柱だった。
私は黙って灰色のドレスを受け取り、着替えるために隣室へと向かった。
背後で、セシリアの甘えた声が聞こえる。
「お母様、私の魔力測定、どれくらいの数値が出るかしら? 王子様もいらっしゃるって聞いたわ」
「ええ、もちろんよセシリア。あなたは私の自慢の娘。きっと素晴らしい結果が出て、王子様の目にも留まるはずよ。あの薄汚い姉とは大違いだわ」
扉を閉めると、その声はようやく遮断された。
私は大きく深呼吸をして、震える指先を抑え込んだ。
大丈夫。私はただ、見たいだけなのだ。
本の中にしか存在しなかった「魔法」というものが、実際にどのように世界を彩るのかを。
それを見るためなら、どんな屈辱にも耐えられる。
***
着替えを済ませた私は、義母とセシリアと共に馬車に乗り込んだ。
レインワース家の紋章が入った豪華な馬車だが、私が座らされたのは入り口近くの補助席のような場所だった。クッションは硬く、車輪の振動が直に伝わってくる。
対面の豪奢な座席には、義母とセシリアがふんわりとしたスカートを広げて座っている。彼女たちのドレスが汚れないよう、私はできる限り体を小さくして窓際に身を寄せた。
馬車が動き出すと、窓の外には見慣れない景色が流れ始めた。
屋根裏部屋の窓からは空と遠くの山々しか見えなかったが、今は石畳の街並みや、行き交う人々の活気ある姿が見える。
パン屋の軒先から立ち上る湯気、花屋に並ぶ色とりどりの花々、走り回る子供たち。
すべてが新鮮で、すべてが眩しかった。
私は食い入るように外を見つめ、一つ一つの光景を脳裏に焼き付けようとした。
「……貧乏くさいわね。そんなに外が珍しいの?」
セシリアが呆れたように言った。
私は視線を戻し、静かに頷く。
「ええ。とても綺麗だわ」
「ふん、平民の暮らしなんて見る価値もないわ。私たちは選ばれた人間なのよ。もっと高いところを見ていなければならないの」
義母が鼻を鳴らし、窓のカーテンを少し閉めた。私の視界が遮られる。
彼女たちは、自分たちが「高貴であること」に執着するあまり、世界の広さを知ろうとしない。血統や家柄という狭い鳥籠の中で、互いの羽を褒め合っているだけに私には見えた。
皮肉なことに、屋根裏に閉じ込められていた私の方が、本を通して世界を知り、こうして外の空気に感動できているのかもしれない。
「そういえばお母様、今日の試験官、アレクシス様がいらっしゃるって本当?」
「ええ、そうらしいわ。第二王子でありながら、魔導の研究に没頭されている変わり者……いえ、熱心な方よ。実力主義を掲げていらっしゃるけれど、やはり高貴な血筋には敬意を払うはずだわ。セシリア、あなたの出番よ」
「はい! 私、頑張るわ。お母様の娘として恥じないように」
二人の会話は、いつだって欲望と虚栄心で彩られている。
魔力とは、本来もっと純粋なものではないのだろうか。
母の本にはこう書かれていた。
『魔力とは、世界を愛する祈りの形。心清らかなる者の願いに、精霊は応える』
もしその言葉が真実なら、私利私欲のために力を使おうとする彼女たちに、精霊は微笑むのだろうか。
馬車は石畳を滑るように進み、やがて街の喧騒を抜けて、静寂な森の道へと入っていった。
木漏れ日がカーテンの隙間から差し込み、車内に縞模様を描く。
私はドレスのポケットに忍ばせた、小さな紙片を指先で確かめた。
それは、母の古書から書き写した、短い祈りの言葉だ。
もし機会があれば。
もし、たった一度でも魔法に触れることが許されるなら。
私はこの言葉を試してみたいと思っていた。
「見えてきましたわ!」
セシリアが歓声を上げる。
義母が開け放った窓の向こうに、壮大な建造物が姿を現した。
王立魔導学院。
空に突き刺さるようにそびえ立つ尖塔、白亜の壁、そして敷地全体を包み込む淡い光の結界。
空気そのものが違っていた。濃厚な魔力が大気中に満ちていて、肌がピリピリと粟立つような感覚。
それは恐怖ではなく、懐かしさにも似た温かい波動だった。
「……すごい」
思わず漏れた私の声を、義母は聞き逃さなかった。
「口を慎みなさい、アイリス。お前のような魔力のない娘が、分かったような口を利くのではありません」
馬車が正門をくぐり、砂利道を軋ませて停止する。
従僕が扉を開け、まずは義母が、続いてセシリアが優雅に降り立った。
最後に私が降りると、周囲の視線が一斉に突き刺さるのを感じた。
きらびやかなドレスを纏った貴族の令嬢たちの中で、灰色の古着を着た私は、間違いなく異質な存在だった。
クスクスという失笑、哀れみの視線、そしてあからさまな侮蔑。
「見て、あの子。どこの田舎貴族かしら?」
「レインワース家の馬車よ。まさか、あんな使用人みたいな子が?」
「ああ、噂の『家門の恥』ね。本当に連れてくるなんて、ベアトリス様も度胸がおありだわ」
囁き声は容赦なく耳に届く。
義母は扇子で顔を隠しながら、私から距離を取るようにして歩き出した。まるで、私など存在しないかのように。セシリアもまた、私のことなど知らないという顔で、友人の輪へと駆け寄っていく。
私は一人、取り残された。
広大な前庭の真ん中で、灰色のドレスの裾を握りしめる。
足がすくみそうだった。今すぐ馬車の中に逃げ込んで、屋根裏部屋に帰りたかった。
けれど、その時。
どこからか、柔らかな風が吹いた。
それは学院の奥、大講堂の方角から流れてくる風だった。
風に乗って、微かな、本当に微かな「歌」のようなものが聞こえた気がした。
それは私のポケットの中にある紙片の言葉と、どこか共鳴しているように感じられた。
『おいで』
誰かに呼ばれた気がして、私は顔を上げた。
視線の先には、巨大な水晶が安置された大講堂の扉がある。
あそこで、私の運命が決まる。
あるいは、義母の言う通り、無能の烙印を押されて終わるだけかもしれない。
それでも。
私は背筋を伸ばした。
母が残してくれたこの誇り高き血が、そして本から学んだ知識が、私の中で静かに熱を帯びているのを感じていた。
「行きましょう」
私は誰に言うともなく呟き、一歩を踏み出した。
灰色のドレスが風に揺れる。
その姿は確かに見すぼらしかったかもしれない。けれど、その時の私は、誰よりも高く顔を上げていたはずだ。
これは、灰被りの令嬢が初めて自分の足で歩き出す、その最初の一歩だったのだから。




