9 薬
処方された『薬』の譲渡は違法だから絶対にダメだよ!
***
今宵も『影』が私を訪ねてやって来た。
「………真澄」
深夜の逢瀬は2週間ほど前から絶えることなく続いている。
そして私の寝所へ静かにゆっくりと入って来た『影』は、また私ではない誰かの名前を呼んでいる。
「来い、祷」
私はベッドに腰掛けたまま両手を広げた。
すると影は今夜もまた私を強く強く抱き締めた。そのまま共にベッドに倒れて、2人で沈む。
「お前が会いたいのはおそらく私ではないのだろう」
必死に私にしがみつく影は、サラシを巻いた私の胸に耳を当てている。心音を聞いているのだろうか。
「私ですまんな、祷」
「真澄……」
影は、冷えきって震えている指先で私の首に触れた。そして何度も何度も確かめるかのように、そこを撫で続ける。
「ああ。好きなだけ触れるといい」
「真澄…」
泣きそうな声で、影は私ではない誰かを呼び続ける。
可哀想に。
「こんなお前を置いて、其奴は何処へ行ったのだ」
私は影を抱き締め返す。
「其奴がお前を迎えに来るまでだ」
神楽は祷の後頭部と背中を優しく撫でた。
「こうして私に、お前を抱き締め返すことを許してくれ」
神楽はぎゅう、と母親が我が子を腕に抱くかのように大切に優しく、しかし恋人を腕に閉じ込めるかのように熱情を込めて強く抱き締め続けていたのだった。
***
神楽の睡眠不足は日に日に悪化している。
何とか授業中は眠らないように気を付けているが、休み時間やHRでの居眠りが多くなってきた。
「大丈夫〜?神楽さん」
昼休憩はいつも、神楽は同じクラスである花蓮や桐生と一緒に教室内で弁当を食べているのだが。
「……すまない。また眠っていたか」
弁当を食べ終えた神楽は赤子のようにウトウトと目を瞑ってしまっていた。
「そろそろ月宮に打ち明けてみたらどうだ?」
向かい側の席に座っている桐生が眉を顰めながら神楽に提案する。
しかし神楽は首を横に振った。
「む…。それは出来ない」
「どうして?」
花蓮に訊ねられたが、神楽はどう答えればよいのかわからない。直感で、神楽は祷に打ち明けてはならないと感じていた。
「祷にとって良くないと感じるからだ」
「今の状況はお前にとって最悪だろう」
桐生に言われ、神楽は言葉に詰まる。
「このまま寝不足が続けば、絶対に体調不良になる。月宮に相談してみろ」
「うーん。それは悪手だね」
いつの間にやら花蓮の隣に環が座っていた。
花蓮が声にならない声を上げて飛び退き、神楽の背後に隠れた。
「なァっ…なんでアンタがここにっ!!?」
「神楽くんが心配だったからね」
環は外見だけは美しい男だ。
優しげな黄檗色の垂れ目は長い睫毛で縁取られていて、艷めく濃紺の長髪は青白い肌との強い明暗差で映えている。頭が小さくほっそりとした長身の体躯はパリコレモデルとしてランウェイを歩いていても違和感は無いだろう。
教室内は突如として現れた高等部の美男子のせいで騒めいていた。
そんな騒めきを気にもせず、環は神楽の机に頬杖をついて首を傾げる。
「祷くんの夢遊病、酷くなってるんでしょ?」
「何故それを」
神楽が驚愕して目を見張る。
祷の夢遊病については花蓮と桐生にしか話していないからだ。
その顔を見て、環はニッコリと笑った。
「夢遊病の本を図書館で読んでたでしょ。君のことだから祷くんのために読んでるんだろうなぁって、推測するのは簡単だよ」
チッと花蓮が舌打ちをする。
しかし環は黄檗色の瞳をキラキラと輝かせた。
「えっ?今の花蓮ちゃんの舌打ち?録音したかったなぁ〜!」
「相変わらず気色悪い男だな、お前は」
桐生までドン引きした顔をしている。
しかし環は桐生を視界に入れることなく話を続ける。
「神楽くんは花蓮ちゃんとよく一緒にいるからさ、自然と僕の視界に入るんだよ。見てたらどんどん君の寝不足が悪化してるみたいだから、心配になってきちゃってね」
環は神楽の目の前に、市販の睡眠薬を置いた。
「祷くんの夢遊病はいつから始まったの?」
「5年前、私が月宮家に迎え入れて貰った当初からあった」
意外そうに環が目を丸くする。
「そうだったんだ。でも、寝不足になったのは最近になってからだよね?」
「ああ。以前は月に1度あるか無いかの頻度だったから。それが、2週間ほど前から毎晩になった」
2週間前という時期に心当たりがあったのか、環が笑みを深める。
「……なるほどね」
「何か知っているのか」
「うん。心当たりはあるかな」
鼻歌でも歌うように言った環に、花蓮が神楽の背後から腕を伸ばして机をダンッと強く叩いた。
教室内にいた生徒たちが驚いて一斉に花蓮に視線を向ける。
「勿体ぶってないで言いなよ」
「僕は憶測だけで語れない男でね。確信を得られないと伝えられないんだ」
環は神楽の前に置いた睡眠薬の箱を摘んで軽く振る。
「多分、これが解決の糸口だと思うよ」
「毒か?」
「違うよぉ!新品未開封、ただの睡眠薬だって」
訝しむ神楽に、環は睡眠薬を手渡した。
「それを『飲む』か『飲ませる』かは君の判断に任せるよ」
環は含みのある笑顔で神楽に言うと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そしていつもの飄々とした笑顔に戻ると、軽い調子で手を振り始めた。
「それじゃあまたねぇ〜、花蓮ちゃん。神楽くん」
環は最初から最後まで桐生には一瞥もせずに教室から立ち去った。神楽は環に渡された睡眠薬をじっと見つめる。
「薬局で見かけたことがある」
「神楽さん、それ捨てよう。環のことだから神楽さんが飲むにしても、祷くんに飲ませるにしても、絶対にろくな事にならないよ」
花蓮が険しい表情で神楽を見つめる。
「神楽さんが捨てにくいなら、私が代わりに捨てる」
手を出した花蓮に、神楽は首を横に振る。
「いや、案外良い打開策かもしれない」
「え?」
神楽は睡眠薬をスクールバッグの中に仕舞い込む。
「寝言に返事をすると、睡眠を妨害して余計に寝言を悪化させてしまうそうだ」
薬を仕舞い込んだ手でそのままスクールバッグから睡眠に関する専門書を取り出した神楽は、押し花の栞が挟まれたページを開いた。
「私はついつい起きて、寝所に訪れた祷の寝言に答えてしまう。それが原因で、祷の夢遊病を悪化させているのではないかと気がかりに思っていたところだ」
神楽は紫色のパンジーが挟まれた栞を引き抜いて本を閉じる。
「だから私が睡眠薬で熟睡して目覚めないようにすれば、祷の寝言にも反応しないで済むのではないかと思う」
「だからそれは危険だと言っているだろう」
ずっと黙っていた桐生が口を開いた。
「月宮に何をされるか分からない状態で、熟睡するなど危険すぎる。やはり月宮に打ち明けて、月宮を病院に連れて行くべきだ」
「だからそれは出来ない」
神楽はスクールバッグからさらに4冊の本を取り出すと、静かに椅子から立ち上がった。
「絶対に祷には言うな。必ず私が解決してみせる」
「どこ行くの?」
教室の外へと向かい始めた神楽の背中に、花蓮が訊ねる。
「図書館だ。この本を返却してくる」
振り向くことなく答えた神楽は、そのまま教室から出て行ってしまった。
残された花蓮と桐生が溜息を吐く。
「……勝手に祷くんに言っちゃえばいいかなぁ」
「俺もそうしたいのは山々だが、俺たちがどれだけ言ったところで月宮が信じるとは思えない」
「そ、それは、確かに…」
祷は常に柔和な笑みを絶やさないが、基本的に他人を信用しない。肯定するような素振りを見せて、腹の底で疑い続けるのが祷だ。
『そうですか。でもそれは、神楽も肯定しているのですか?』
これが祷の口癖だ。
前世から変わらない。桐生が元服前に天巡寺で学んでいた頃、鷹明に何か報告がある場合は必ず真澄を通して伝えないといけないのは有名だった。
「癪だが入出から伝えてもらうのも手か?」
桐生が呟くと、隣で花蓮が頭を抱えて唸り始めた。
「それにしてもアイツ、本当にムカつく!絶対に神楽さんが『飲む』ことを確信して言ってたよね!」
「まぁ、さすが軍師殿だとは思った」
環は前世で、協力関係にあった日輪国と夜永国の両方に仕えていた軍師だ。他国に攻め入られる度に、奇想天外な策で何度も両国を守ってきた名軍師である。
日輪国と夜永国の仲が悪くなり始めた頃に失踪してしまったのだが。
「まぁ胡散臭い男ではあるが、ああ見えて何度も国を危機から救ってきた頭の良い男だ。陽向に渡した睡眠薬も、何か策があってのことだろう」
「わかってるけどマジで嫌」
花蓮が目頭と顎に皺を寄せて舌を出す。
せっかくの愛らしい顔が台無しになっている様子に桐生は苦笑する。しかしすぐに真剣な表情に戻す。
「……月宮が陽向に何もしないことを願うしかないな」
父親が愛娘を案じているような、珍しく弱気を見せる桐生に花蓮は明るく笑って見せた。
「きっと大丈夫だよ。神楽さんが信じてるんだもん、私達も信じようよ」
「……そうだな」
桐生もつられて穏やかに笑った。
─────その晩、あんな事が起きるなんて知る由もなく。
***
翌日。
いつもと変わらぬ平日の朝。
……の筈が、神楽が自室に籠ったまま出てこない異常な朝。
「神楽様は体調が優れないとのことです」
シャンデリアが吊り下げられたダイニングルームで朝食を取る月宮家本家の一家に、メイドは静かに告げた。
「……神楽が?」
誰よりも脳の処理速度が速い、五男の祷が呆然とする。
誰よりも早く起き、誰よりも早く身支度を終え、誰よりも早く朝食を取るあの神楽が。
滅多に風邪など引かず、滅多に学園を休むことのない神楽が。
月宮家に落雷のような衝撃が走る。
「かっ……かかか神楽ちゃんが!?大変だっ!!今すぐお医者さんを呼ばなきゃ!!!」
慌てふためく月宮家本家の当主、月宮 彦将。
「神楽ちゃん、心配だね…。ボク、何か買ってこようか?」
不安そうに眉根を下げる月宮家本家の長男、月宮 雫。
「すぐに検査をした方が良いでしょう。そうすれば必要な物もわかりますから」
動揺すると眼鏡を押し上げる癖のある次男、月宮 透。
「えーッ!!風邪の時はスタミナ系食べると元気になるぞ!!ニンニクのバター焼きでも食べさせてやろーぜ!!」
裏は無く完全に善意で言っている三男、月宮 肇。
「それはお前だけだ馬鹿。神楽はオレンジジュースが好きだよね。飲めるかわからないけど用意するよ」
何だかんだ最も冷静な四男、月宮 渚。
そして。
「俺っ…、神楽のこと見てきます!」
最も動揺しており慌てて立ち上がった五男、月宮 祷。
「ストーップ祷。必要ないわ。神楽ちゃんなら大丈夫よ」
そんな祷を手で制したのは、彦将の妻であり五人の子供達の母である月宮 七織だった。
「お医者さんは必要無いわ、私に任せなさい」
七織はメイドからこっそりと神楽が生理痛で苦しんでいると伝えられていた。
そんなデリケートな話を男どもに話す訳にはいかず、七織は何とか説明をせずにこの場の混乱を収められる方法を考える。
「母さまは何かご存知なんですね?」
さすがは最も優秀な五男である。七織の様子に何かを察してこっそりと耳打ちしてきた。
「そう。女にしかわからないことよ」
どうやらその一言で五男は察してくれたようだ。五男はそれ以上の質問をすることなく朝食を取り終えると送迎車に向かって行った。
そんな五男の様子を見て冷静さを取り戻したのか、夫も他の兄弟たちも大人しくなってそれぞれ職場や学園に向かって行った。
「……さて。念の為、私は今日は仕事を休むわ。あの神楽ちゃんが籠るなんてよっぽどの事だもの」
「かしこまりました」
頭を下げたメイドたちの前で、七織は胸ポケットから取り出したメモ帳に必要な物を箇条書きで書いていく。
「これを用意してきて頂戴。私は厨房を使うわ」
七織からメモを受け取ったメイドが素早く周囲のメイドや執事たちに指示を出す。
そんな中、七織は着ていたワイシャツの袖を捲り上げて笑った。
「ようやく母親代わりのことをしてあげられるのね!嬉しい〜!」
娘が欲しかった七織は、足取りも軽やかに厨房へと向かったのだった。
***
一方その頃。
「…………困った」
神楽は自室に置かれている姿見鏡の前で眉根を寄せていた。
神楽は生理痛など経験した事が無い。
きちんと28日前後の周期で、正常な量で正常な色の経血が正常な期間に出てはいるが痛みを伴ったことは無い。
しかし環から渡された薬の箱の中に、メッセージカードが入っていた。
【生理痛が酷いフリをして傷がバレないように凌いで】と。
あの男はどこまで先が読めているのだろうか。
神楽は感心せざるを得ないと思った。
昨日、帰宅してからすぐに開いた薬の箱の中には、箱に書かれていた通りの睡眠薬やメッセージカードと共に小型のカメラまで入っていた。
神楽はカメラをベッド脇のナイトテーブルに置いた。
生理痛の演技をしろと書かれていたメッセージカードの裏には、見知らぬ携帯番号が書かれていたのでそこにメッセージを送った。
『カメラで撮った映像はどうするつもりだ?』と。
すぐに返事がきた。
『ネットには繋がっていないから、カメラにしか映像は保存されない。保存期間は3日間で自動的に削除されるよ』と。
メッセージの通り、カメラは有線でLANケーブルと繋がないとネットワークには接続されない物で間違いなかった。
そして私は夕食の後に睡眠薬を飲み、ぐっすりと熟睡したのだが。
「これは…、完治まで何日かかるのだろうか」
神楽の白い手足や腹には、びっしりと噛み跡や赤い鬱血痕が残っていたのだった。




