8 絶叫
涙の数だけ強くなれるなら『絶叫』の数だけ冷静になれると信じよう!
***
「かーぐーらーさんっ」
花蓮が後ろから神楽の肩をつつく。
カクカクと頭を揺らして船を漕いでいた神楽は、ハッと目を見開いた。
「……すまない。また眠っていたか」
「どうしたのー?寝不足?」
「いや、大丈夫だ」
私立聖蘭学園中等部3年B組の教室は、既に生徒たちの姿が疎らになっている。
なぜなら放課のチャイムが鳴ってから15分は経過している。生徒達のほとんどが、既に部活動に行ったり帰宅したりしているからだ。
「そういえば祷くん迎えに来ないね?」
「祷は環と話があるそうだ」
「ゲェ!アイツとぉ!?」
花蓮が歯茎を剥き出しにして眉を顰める。
「何なのアイツ。どうして突然、祷くんと仲良くし始めたのかな」
窓際の前から2番目が神楽の席だ。その前の席に腰掛けた花蓮が、椅子を前後逆向きにして神楽の机に肘を置く。
「神楽さんって環とは知り合いだったの?」
「いや、昨日初めて会った。花蓮は?」
「私は幼稚舎の時に初めて会ったんだけど、初対面でイキナリ追いかけ回されてさぁ。それから気持ち悪くて仕方ないんだよねぇ」
「む。私が1発殴ろう」
神楽の瞳に鋭い光が宿ったが、花蓮が思い切り首を横に振った。
「ダメダメ!神楽さんみたいな美人に殴られたって、アイツにとってはご褒美になっちゃうから!なるべく関わらないのが1番だよ!」
「む。そうなのか」
「気持ちは嬉しいよ、ありがとね」
花蓮が微笑むと、神楽の瞳も優しく細まった。
その時だった。
「お、陽向起きたか」
剣道着を着た桐生がオレンジジュースのペットボトルを持って教室に入って来たのだ。
「義仁ぉ〜!」
パッと明るい笑顔を見せながら花蓮が大きく手を振る。
その勢いに驚いた桐生は、目を見開きながら自身の懐を探り始める。
「前田もいたのか。ではお前にはこれをやる」
桐生が投げて寄こしたものを受け取った花蓮が首を傾げる。
「ミントガム?」
「お前、最近は甘いものばかり食べてるだろう。虫歯にならないように予防だ」
「えぇ〜〜マジで義仁メロい〜!!ありがとぉ〜〜!!」
「メロい?」
首を傾げた神楽の額に、桐生がペットボトルをコツンと当てる。
「たるんでるぞ。何か悩み事でもあるのか」
オレンジジュースを受け取った神楽は、顔を上げて桐生を見つめる。
「ありがとう、やはりお前は気が利く男だな」
「話を逸らすな。寝不足の原因は何だ」
桐生が神楽の隣の席に腰掛ける。神楽はプイッと窓の方に顔を背けた。
「反応があからさま過ぎだろう」
「も〜義仁ぉ。乙女には乙女同士にしか話せない悩みがあるんだよっ」
花蓮が神楽の耳元に口元を寄せて囁く。
「祷くんのことデショ?」
図星だった神楽の肩がピクリと動く。
花蓮が得意げに笑うと、桐生は腕を組んで目を閉じた。花蓮に任せるという合図だ。
「喧嘩でもした?」
「いや、何も無かったから逆に困っている」
「何も無かった?」
首を傾げた花蓮に神楽は小さく手招きする。花蓮は頷きながら神楽の口元に耳を寄せた。
「祷が真夜中に、私の寝所に潜り込んでくるんだ」
花蓮が椅子から転げ落ちた。
「前田っ!?」
驚いた桐生が立ち上がる。
「どうした!?」
桐生は床で仰向けに倒れた花蓮を抱き起こす。
「あばばばばば」
顔から火を出しながら痙攣する花蓮に、桐生はとにかく混乱する。
神楽も混乱していた。
「む、花蓮?どうした?」
「どうしたじゃないよ!!えっっ、何っ、嘘でしょ!?神楽さんっ!!まさかそこまで進んでたなんてぇーッ!!」
「何がだ?」
「忠が聞いたら刃傷沙汰になっちゃうよォーっ!!」
花蓮の叫びで、窓のそばにあった庭木からカラスが3羽ほど飛び去ったのだった。
──────
────
「なんだぁ、抱き締められただけかぁ……ってなるかァ──────ッ!!!」
花蓮の叫びで、再び庭木からバサバサとカラスが4羽ほど飛び立つ。すでに中等部3年B組には神楽と花蓮と桐生の3人以外がいなくなっていたのが幸いである。
「む?何故だ」
神楽は誤解を解こうと、真夜中に寝所に潜り込んだ祷には抱き締められるだけで他に何もされないと説明したのだが。
「いやいや真夜中にベッドに潜り込んでくるって時点でアウトだからね!?」
尋常じゃない様子の花蓮を桐生がとても心配するので、神楽は桐生にも祷の件を説明したのだが。
「……………。」
桐生まで頭を抱えてしまった。
俯いたまま黙り込む桐生を、神楽は首を傾げながら見つめる。
そんな神楽に、花蓮が混乱で目をグルグルと回しながら訊ねる。
「それに、祷くんはそれを覚えてないって、どういうこと!?」
「私にもわからん。いつも翌朝に昨晩のことを訊ねているのだが、祷は何も覚えていない様子だった」
「え?いきなり神楽さんのベッドに侵入して、神楽さんを抱き締めて、その後は自分の足で自分の部屋に戻ってるんだよね?」
「ああ。私を2時間ほど抱き締めると満足するのか、勝手に自分の足で自室へ戻って行く」
「それを、覚えてないの!?全部、無意識でやってるってこと!?」
「そのようだ」
花蓮はますます混乱で目を回す。
そんな花蓮の前に、神楽は自身のスクールバッグから取り出した本を置いた。
「気になったので図書館で調べてみたのだが、おそらく夢遊病なのではないかと推測している」
「夢遊病…?」
本を開いた神楽が、夢遊病について詳しく書かれたページを指す。
「睡眠障害だ。無意識の状態で起き出し、何かをした後に再び入眠するが、その間のことを覚えていない状態のことらしい。祷の行動にとても当てはまっているように思える」
「なるほど…」
少し落ち着きを取り戻した花蓮は本を手に取って読み始めた。
そんな花蓮と神楽の様子を見ていた桐生が、溜息を吐いた後に口を開いた。
「…………それで、陽向。お前は月宮の行動に対してどう思っているんだ」
桐生からの突然の質問に、神楽は至極真面目な顔をして答える。
「祷は人肌恋しいのだろうか、と思っている」
桐生が俯いて盛大な溜息を吐いた。
ゆっくりと上がった顔は、呆れて言葉も出ないといった表情をしていた。
「陽向。お前と月宮は姉弟ではないんだ。万が一にでも、襲われて間違いがあったらどうするんだ」
「返り討ちにする」
真っ直ぐな瞳で神楽が言い切る。曇りなき眼で。
「いや違ぁ────うっ!!!」
花蓮が思わず叫ぶ。
「たぶん襲われるの意味を履き違えてるよ神楽さんっ!!」
「む。どんな奇襲であろうと、私が祷に負けることは無い」
キリッとした顔で言い切る純粋無垢な神楽に、桐生は覚悟を決めた。
「俺が心配しているのは性行為の話だ」
桐生が直接的に言い切ったのだ。
隣で花蓮が目を見開いて硬直する。
「ちなみに聞いておくが、性行為が何かは知っているよな?」
「無論だ。保健体育で習っている」
「だったらわかるだろう。月宮は思春期で多感な時期だ、女性の身体に興味を持つ時期でもある」
「祷が私に欲情するとは思えんが」
神楽は動揺することなく桐生を真っ直ぐに見つめ返す。
心の底から祷のことを信用しているのだと、瞳が物語っている。
「祷は私を姉のように思っている」
「夢遊病の状態で、月宮はお前を正しく『お前』として認識しているのか?」
神楽は思わずピクリと小さく肩を跳ねさせた。その挙動を見逃さなかった桐生がさらに詰め寄る。
「仮に月宮がお前を姉として思っていたとしても、夢遊病状態の月宮がお前をただの『女』として認識していた場合は危険ではないのか。女の身体に興味があって、女であるお前の身体を無意識に触っているのではないか」
「そんな様子ではなかった」
神楽は断言する。
「祷がそんなことを、ましてや私が誰かの『身代わり』だったとしても、祷が私にそんなことをする筈が無い」
神楽は否定する。
「私に抱きつく祷は必死だった。苦しそうで、寂しそうで、迷子の童のようだった」
神楽は祷を信じている。
「あれは絶対に性欲からくるものではない」
確信めいた言い方をする神楽に、「はぁ…」と桐生は溜息を吐いた。
「……そこまで言うならやるしかないか」
「へっ?」
神楽ではなく花蓮が素っ頓狂な声を上げる。
ガタリと音を立ててゆっくりと立ち上がった桐生は、黙ったまま神楽を見下ろす。
「ちょ、ちょちょちょ義仁っ!?」
義仁の灰青色の髪が夕焼けで朱く燃える。夕日が差し込んでいる藤色の瞳がギラギラと獰猛な光を宿す。
「きりゅ…」
言いかけた神楽の右膝を、桐生がグッと上半身を屈めて掴む。そのまま神楽の股を開かせ、その間に自身の膝を割り込ませる。
そこでようやく桐生の意図に気付いた神楽が桐生を押し退けようと腕を伸ばした。しかし桐生がその両腕を易々と片手で掴み、神楽の背後にある壁に縫い止めた。
「ひょァ…」
花蓮は声にならない声を上げて夕焼けに負けないくらい顔を真っ赤に染める。
対照的に、神楽は動揺することなく真っ白な顔のまま鋭く桐生を睨み上げる。
「何の真似だ」
「こういうことだ」
額と額がくっ付きそうなほど桐生が神楽に顔を寄せる。
ジッと神楽の宙色の瞳を見つめながら、桐生は神楽の右膝を掴んでいた手をするりと太腿に向かって滑らせる。
「何をする」
「月宮にこうやって動きを封じられて、身体を好き勝手に弄ばれてもいいのかと聞いているんだ」
教室内の空気が張り詰める。冷たい静寂の中、神楽と桐生は猛禽類の如き眼差しで睨み合う。
その時だった。
「おい、どうした桐生。中々戻って来ないでここで何を……」
剣道着を着た日下部が教室内に入って来た。
「ひょェッ…」
再び花蓮が声にならない声を上げる。
今度は顔を真っ青に染めて。
日下部は濃紺色の瞳を見開いて硬直した。
「……日下部。これは、その。」
面倒そうに目を細めて口を横に伸ばした桐生は、素早く神楽から離れて両手を上げる。
しかし時すでに遅し。
日下部の目はバッチリと神楽に迫る桐生の姿を捉えていた。
神楽の唇に触れそうになっていた桐生の唇も。
神楽の白い太腿を這う桐生の手も。
「ぬうぁあああああああああ!!!」
日下部は絶叫した。
──────
────
「落ち着いた〜?忠ぃ」
花蓮はプラスチックでできた下敷きを扇いで、日下部に風を送りながら訊ねる。
「落ち着けるか!」
日下部の髪は赤蘇芳色だが、その髪色に負けないくらいに日下部は怒りで顔を赤くさせている。
「武道館に戻って来ないから心配して見に来たら…!桐生、貴様っ…!!」
叫び声を上げてから20分程は経過しているが、日下部はまだ興奮が収まらないようだ。
その間、花蓮が祷の夜這いについては伏せながら事の経緯について説明したのだが、日下部は納得できていないようだ。
「どんな理由であれ神楽様に不埒な真似をするなどっ、たとえ貴様でも許さんぞ桐生っ…!」
神楽を背後に隠しながら立ち、まだ怒りを露わにする日下部に花蓮は溜息を吐いた。
「羨ましかったんだよねぇ〜、わかるよ忠ぃ〜」
「なア!?」
日下部が今度は恥じらいで耳まで真っ赤に染める。
「断じて違うっ!そんな恐れ多いことっ、私如きが思って良い筈がない!!」
「私は羨ましかったけどなぁ」
「は!?」
日下部に舌を出して見せた花蓮は、気まずそうに神楽から少し離れた場所に立っていた桐生の傍へと歩み寄る。
「私も義仁に迫られたいなぁって思ったよ」
驚きで目を見張る桐生に、花蓮が唇を尖らせながら抱きつく。
「現代日本に身分も何も無いんだからさ、忠も素直になってみたら?」
「前田…。」
桐生が花蓮に何かを言いかけた、その時。
「神楽」
教室の外から祷が声を掛けた。
「祷っ」
日下部の背後で大人しく座っていた神楽が立ち上がる。
「お待たせしてしまい申し訳ございません」
「環との話は終わったのか」
「はい。帰りましょう」
神楽が荷物を持って祷のところへ歩き出した。しかし寝不足のせいか、祷の目の前で神楽の膝がガクッと折れた。
「神楽っ!」
咄嗟に祷が、神楽を前方から抱き締める形で支える。
「!!」
珍しく神楽の顔に驚きの表情が浮かび、祷は慌てて神楽から離れた。
「すみません。不快でしたよね」
神楽がフイと顔を横向ける。
その顔を見た日下部が驚愕で目を見開いていたのだが、神楽が気付くことは無く。
「不快ではない。それに、謝るのは私の方だ。私の不注意で手間をかけさせた、すまない」
「貴方がよろめくなんて珍しいですね。長い時間、俺を待っていたせいで疲れてしまいましたか?俺が持ちますよ」
神楽の返事を待たずに祷が神楽のスクールバッグを持つ。
「不要だ。自分で持てる」
「いいから俺に持たせなさい。貴方を長く待たせてしまったお詫びですよ」
柔らかく微笑んだ祷は、ようやく神楽の後ろにいた花蓮たちに視線を向けた。
「では、神楽と共に帰ります。さようなら」
「じゃあね〜祷くん」
明るく手を振った花蓮に微笑み返した祷が、先に教室から出て行く。
「ではまた明日。相談にのってくれたこと、感謝する」
次いで神楽が花蓮たちに挨拶すると、慌てた様子で祷を追いかけて行った。
その背中をただ見つめていた日下部は、悔しそうに唇を噛んで拳を握り締めた。
「……戦国時代だろうが現代日本だろうが、時代なんぞ関係無い。真澄様の目にはいつだって、あの男しか映っていないのだから」
そう呟くと、日下部は駆け出して教室から出て行ってしまった。
その背中を見送った花蓮も、唇を噛んで手をギュッと握り込んだ。
「それはアンタもでしょーが。バカ」
「そうだな。お前も素直じゃないな、前田」
桐生が花蓮の頭にポンポンと優しく手を置く。
「どうして日下部にあんな嘘を?」
「ちょっとは嫉妬してくれるかなぁって期待。それと、背中を押してあげれば勢いで神楽さんにアタックしてくれるかもっていう期待」
桐生は首を傾げる。
「日下部が陽向にアタックしてもいいのか?」
「いっそ馬に蹴られてめちゃくちゃに砕けてくれれば、神楽さんのこと諦めてくれるかなぁって」
「…………なるほど」
桐生は納得した。だって自分もそうだったから。
(陽向は照れていた)
よろけた神楽を月宮が抱き留めた時、明らかに神楽は動揺した表情をしていた。
桐生が迫った時は、顔色一つ変えなかったというのに。
日下部の言う通り、神楽の目には月宮しか映っていない。
月宮の目もまた、神楽しか映していない。
互いを引き付け合う神楽と月宮を、引き剥がすのは不可能だろう。
しかし、日下部はどうだろうか。
前世の日下部は真澄の近侍として真澄に魂を捧げていたが。
身分制度が撤廃された現代日本であれば、日下部の目を神楽から引き剥がすことは可能ではないだろうか。
「俺と違って、前田には可能性があるだろう。諦めるには時期尚早だ」
「はぁ?余計なお世話っ、諦めてなんてないから!」
白い犬歯を剥き出しにして、花蓮はあっけらかんと笑った。
「私、前世で忍者やってた頃ね、手段を選ばずに情報を収集してたの。それこそ、…性的な接触をして。だから侍女や武士たちに、売女だの娼婦だの散々な陰口を言われてたんだよね」
桐生は前世で、花蓮の汚れ仕事について噂には聞いていた。
しかし本人の口から直接聞くのは、潔癖な桐生にとってはかなり衝撃的だった。桐生は前世で、真澄の世話係として高潔かつ清廉な行いを常に心掛けていたから。
それは真澄の周囲にいた侍女や武士たちも同じだ。花蓮が前世で侍女や武士たちからどんな扱いを受けていたのか想像に容易い。余程の酷い目に遭ったのだろう、俯いた花蓮の瞳が深い闇を湛えている。
しかし。
「でもね、そんな私を、真澄様と彼だけは守ってくれたの」
真っ赤な夕日が、花蓮の青い瞳に炎を宿す。
「此奴は非常に優れた忍者だ。情報収集において此奴の右に出る者はいない。誇りを持って任務を遂行している。貴様らは、此奴を嘲ることが出来るほど任務を遂行できているのか!ってね」
花蓮は日下部にそっくりな口調で言った。
そして笑った。
「彼はね、私を虐める奴らにそう怒ってくれたの!真澄様もね、私を蔑むことなく友人のように接してくれて、私を大切にしてくれた。だから私は忠のことも、神楽さんのことも大好きなの」
花蓮は宝物でも抱いているような表情で前世を思い出している。本当に心から2人のことが大好きなのだろう。
「……そうか」
桐生もつられて微笑む。
すると遥か昔を思い出して遠くを眺めていた花蓮が、パッと桐生に視線を戻した。
「あっ!今は義仁のことも大好きだよ!前世ではあんまり話す機会が無かったから怖そうだなぁって思ってたけど、話してみたらすっごく優しくてビックリしたよ〜!」
屈託のない花蓮の笑顔に、桐生の庇護欲が掻き立てられた。
「……俺にできることがあれば、協力する」
「えっ!?ほんとっ!?」
花蓮がぱっと花が綻ぶような笑顔になって立ち上がる。
「言質とったからね!ちゃんと協力してよね〜っ!!」
いつもの明るい調子に戻った花蓮に、桐生は自身の妹の姿を重ねて慈愛に満ちた笑みを浮かべたのだった。




