7 雨
前髪のうねりさえ無ければ『雨』も好きなんだけどね〜。
エリートが集まる私立聖蘭学園には、国立国会図書館並みの巨大な図書館がある。
そこには世界中の法典から、最新のオシャレ雑誌まで幅広い分野の書籍が並んでいる。
神楽は図書館の1階にある休憩スペースのソファに座り、じっと夢遊病に関する研究本を読んでいた。
その時、ぴちょんと音を立てて雨樋から漏れ出た大粒の雨水が大きなガラス窓の近くに落ちる。
神楽はふと視線を上げた。
季節は梅雨に差し掛かっている。
外は薄暗くて冷たい風が流れており、しっとりとした雨の帳が校庭の庭木を濡らす。屋根のある図書館の正面玄関には、困った顔で灰色の曇天を見上げている人が立ち並んでいた。
「……む」
その人々の中に、見知った男がいた。神楽はソファに荷物を置いたまま正面玄関へと向かった。
「桐生」
神楽が声を掛けると、長身で精悍な顔立ちの少年がぱっと笑顔を見せた。
「陽向。どうした、こんなところで」
「そこの休憩スペースで祷を待っている。桐生は?」
「帰ろうとして傘が無いことに気付いたところだ」
「そうか。暫し待て」
神楽は急いで休憩スペースに向かい、自分のスクールバッグに入っていた折りたたみ傘を持って正面玄関に戻った。
「これを使え」
「ありがたいが、陽向は大丈夫なのか?」
「私は祷がいるから大丈夫だ」
神楽から折りたたみ傘を受け取っていた桐生が、ピタリと動きを止める。
「………それは、月宮と相合傘をするからか?」
「ああ。そうだな」
平然と頷いた神楽に、桐生は額を押さえながら訊ねる。
「それでは陽向と月宮が男女の仲であると、周囲の者は思うのではないか?」
「私と祷が男女の仲ではないのは周知の事実だ。それに相合傘は友人同士でもするだろう?」
神楽は首を傾げながら答える。
何か問題でもあるのか?といった顔をしている。
大アリだ。全く。
「そこの売店で傘を買うから大丈夫だ。気持ちだけ受け取っておく」
「む。遠慮する必要は無い。いいから使え」
「そうですよ。受け取ってくださいよ、桐生先輩」
いつの間にか神楽の背後に立っていた星野が神楽に加勢する。
「その方が祷も喜ぶし、陽向先輩だって貴方のお役に立てて喜びます。良い事しかないですよね?」
ニッと狐のような笑みを浮かべる星野を、純粋無垢な神楽が瞳を輝かせながら見つめる。
本当にそういうところが問題大アリだと思うのだが。
「わかったわかった。ではありがたく借りる」
桐生は諦めて神楽から傘を受け取った。
「そうか。よかった」
満足げに頷いた神楽は星野にお礼を言おうと振り返ったが、既にその姿は遠くを歩いていた。
「行ってしまったか。祷の親友だという彼と、少しだけでも話したかったのだが」
残念そうに眉根を下げる神楽の隣で、桐生は口元を引き攣らせる。
「………あまり、彼とは関わらない方がいいと思う」
「そうなのか?」
星野はいつも月宮と共に行動しているので有名だ。
しかしそれだけで有名な訳ではない。
星野は初等部5年生の時に、中等部2年生の生徒を10人もフルボッコにした伝説があるのだ。その目撃者曰く、本当に心の底から人を殴るという行為を楽しんでいるように見えたそうだ。
そんな獰猛で凶暴な性質を持つ人間を、純粋無垢な神楽に関わらせたくないというのが桐生の正直な気持ちだ。
「星野には良くない噂もあるからな」
「良くない噂とは?」
神楽が訊ねた途端、桐生の腰ポケットに入っていたスマホのアラームが鳴り始める。
「あ、すまない。妹を迎えに行く時間だ」
「呼び止めてすまない。雨で道は滑りやすい、気を付けろ」
「ありがとう、ではまた明日!」
神楽の折りたたみ傘を広げた桐生が、足早に去って行った。
その背中が完全に見えなくなるまで手を振り続けた神楽は、休憩スペースに戻ろうと踵を返した。
その時だった。
「相も変わらず、美しいお嬢さんだね」
濃紺の長い髪を後ろで1つに束ねた男がこちらを見下ろしていた。
「誰だ?」
「その話し方も相変わらずだね。もう隠す必要は無いのに」
男は学園の制服を着ているが、高等部のブレザーだ。
ちなみに中等部の男子生徒は真っ黒な学ランが制服だ。中等部の女子生徒はセーラー服が制服で、もちろん神楽はセーラー服を着ている。
「隠す?何をだ」
「そっか、覚えていないんだね。君は未練が無かったってことだ。よかったよ」
男はレモンイエローの垂れ目を細めて優しく微笑む。
「君、祷くんを待ってるんだよね?僕も一緒に待っててもいいかな?」
「まずは名を名乗れ」
神楽が警戒しながら訊ねると、男は病的な青白い手で神楽の血色の良い白い手を取った。
「僕は高等部1年の入出 環。気軽に下の名前で環って呼んでよ」
「私は中等部3年の陽向 神楽だ。よろしく」
2人はそのまま握手を交わし、休憩スペースへと向かい始めた。
儚げな長身の美少年と儚げな長身の美少女が並んで歩く光景に、周囲がざわめく。一応、図書館の中なので遠慮がちな声ではあるが。
そのざわめきを気にすることなく環と神楽は歩き続け、神楽の荷物が置いてあるソファに着くと2人は横に並んで腰掛けた。
「祷の知り合いか?私と一緒に祷を待つと言ったな」
「うん。祷くんにちょっとだけ確認したいことがあってね。それより、その本。眠りが浅いの?」
ソファ脇に置いてある夢遊病に関する研究本を指して、環が首を傾げる。
「いや、私ではない。私に出来ることがないかと思って借りたものだ」
「じゃあ、誰が…」
「キャ────ッ!!?」
突然、少し離れたところから女性の叫び声が上がった。
聞き馴染みのある声だった。
次いでドッと勢いよく小柄な女性が神楽に飛び付いた。
「ちょっとちょっと!やめてよ神楽さんに近付かないでよ!」
花蓮が神楽にしがみつきながら、毛を逆立てる猫のように目尻をつり上がらせて環に威嚇する。
しかし環は対照的に、垂れ目をさらに垂れさせた。そしてデレデレの蕩けた顔で花蓮を熱心に見つめる。
「花蓮ちゃん!!あぁ…♡会えて嬉しいよマイスウィートエンジェルゥ!!」
「マジで相変わらず気っっ持ち悪ーい!」
花蓮がオエーッと舌を出す。
「歩く成年指定が純粋な神楽さんに何の用?神楽さんが穢れるからどっか行ってくれない?」
シッシッと手で追い払う花蓮に、しかし環はめげることなく言い募る。
「はぁ嫌がる顔も可愛い可愛いねぇ花蓮ちゃん♡」
「環と知り合いなのか?」
神楽が訊ねると、花蓮は巨大な蜈蚣でも目撃したような顔をしながら全力で首を横に振る。
「ちっがう!!ストーカーよ!!」
「ストーカーなのか」
神楽は身体を前に出して自分の背後に花蓮を隠す。
せっかく握手まで交わした仲になったというのに、神楽から敵を睨むような鋭い視線を向けられた環が半べそをかいた。
「違うよぉ!ただの追っかけだよ追っかけ!」
「追いかけるということは、ストーキングだろう。」
「いやまぁそうなんだけどそうじゃなくってぇ!」
「ここは図書館ですよ、静かになさい」
祷が呆れた様子で言いながら神楽のところへ歩み寄ってきた。
神楽は花蓮を背後に隠したまま、祷の方を向く。
「委員会は終わったのか」
「ええ。お待たせしてしまい申し訳ございません。前田さんも一緒だったのですね」
にこ、と優等生スマイルを見せる祷に花蓮も笑顔で返す。
「うん。でも王子様が迎えに来てくれたなら、もう安心だねっ」
「ふふ、俺はただの隣人ですよ」
祷が神楽と花蓮だけを視界に入れて環を完全に無視する。
そんな祷に、環はしがみついて瞳を潤ませた。
「ちょっとちょっと助けてよ、祷くんっ。神楽くんに誤解されてるんだっ」
「何をですか」
「僕が花蓮ちゃんのストーカーってことになってるんだよ〜」
「あながち間違ってはいないでしょう」
グッサリと突き刺さる一言を平然と言い切った祷は、ソファに突っ伏して落ち込んでしまった環を見下ろして顎に手を当てる。
「まぁ…、言い換えるとしたら、前田さんのファン?ですかね」
「そう!!!推し活だよ!!!それそれ!!」
急に顔を上げて大声を上げた環に、「だから静かになさい」と再び祷が叱り付ける。
その隣で神楽が首を傾げる。
「おしかつ…?」
どうやら神楽には伝わらなかったようだ。
祷は溜息を吐いてから淡々と告げた。
「入出さんは前田さんに対して一方的に懸想しているのです」
「言い方っ…!」
再びソファにめり込んだ環を無視して、花蓮がキョロキョロと周囲を見回す。
「てか、義仁と一緒に帰ろうと思ってここに来たんだけど。見た?」
「桐生なら妹を迎えに行くと言ってさっき帰って行ったぞ」
「ウッソー!なぁーんだ帰っちゃったのかぁ。じゃあ私も帰るね!バイバイ神楽さん、祷くん」
「ええ、さようなら」
「また明日。雨で濡れた道に気を付けろ」
「うん!ありがとー!」
花蓮がニコッと可憐に笑い、神楽と祷にひらひらと手を振って軽やかに去って行く。
「あっ、バイバイ花蓮ちゃん!」
環が慌てて声を掛けたが、花蓮が振り向くことは無かった。
彼女に完全に無視をされたというのに、環はニマニマと満足気にその背中を熱心に見つめ続けている。
祷は毛虫でも見るような目で環を見た。
「貴方、本当に学習しませんね。戦術や将棋では貴方の右に出る者はいないというのに」
「ふふ、それは君も同じでしょ」
チラリと神楽の方へ視線を向けた環が、祷に視線を戻して微笑む。祷は呆れて溜息を吐いた。
「貴方のように嫌われてはいませんから一緒にしないでください」
「も〜、相変わらず辛辣なんだから」
環が苦笑しながら胸ポケットから古びた手帳を取り出す。
「そんなコト言う祷くんには良い情報教えてあげないよ?」
舌を出した環に、祷は余裕で笑って見せる。
「だったら俺もこちらを差し上げませんよ?」
祷がスクールバッグから取り出したのは、花蓮が描かれたイラストだった。
桃色のショートヘアは花弁のようにくるりと内側に巻かれており、小柄で華奢な見た目とは裏腹によく見ると四肢は鍛え上げれて引き締まっている。そして何より、丸くて大きなアクアマリンの瞳が印象的で可愛らしい。血色の良い健康的な肌色に、幼げにニッと笑っている唇の隙間から覗く白い犬歯が、彼女の可憐さの中に隠れた野性味を表している。
「春日さんに描いて頂いた前田さんです」
「あの春日さんに!?」
環がヨダレを垂らしながらイラストに手を伸ばしたが、祷がそれをサッと避ける。
「意地悪するならあげません」
「ごめんごめんごめんよぉ!ちゃんと教えるからぁ!」
半べそをかき始めた環に、祷はにっこりと慈愛に満ちた微笑みを見せた。そして神楽の方を向いて申し訳なさそうに眉根を下げる。
「すみません、神楽。少しだけ彼と話したいので席を外してもらえますか?」
「わかった」
無表情のまま頷いて立ち上がった神楽に祷は頭を下げる。
「ただでさえ俺の委員会で待たせてしまったのに、すみません」
「いい、気にするな。私ももう少し調べたいと思っていたところだ」
「課題ですか?」
祷に訊ねられた神楽は、すいと視線を横向けて頷いた。
「……まぁ、そんなところだ」
その一言だけ言うと、神楽はソファ脇に置いていた本を持って祷たちから離れて行った。
神楽の反応に違和感を覚えた祷が眉を顰めていると、環が納得したような様子で目を細めた。
「君のことだったのか」
「はい?」
「いいや、何でも。それより入手できたよ。お姫サマの居場所を」
手帳の中から写真と地図を取り出した環は、ソファの前にあるローテーブルにそれらを並べた。写真には先鋭的なデザインの建物が写っており、東京都内の地図にはとある地点に赤いマジックで丸が描かれていた。
「やはりあれは、真澄を暗示していたのか」
祷が呟くと、環はニッコリと笑いながら頷いた。
「はい。若殿の読み通りでございました」
環はソファから立ち上がると、祷の前で頭を垂れて床に膝をついた。
「若殿は『復讐』をご所望ですか?それとも『抹消』をご所望ですか?」
少しだけ顔を上げた環の濃紺の髪がさらりと揺れて、月色の瞳が狂気的に光る。
「この不肖、軍師に何なりとお申し付け下さいませ」
直後、ソファの後ろにある大きなガラス窓を大粒の雨がビタビタと激しく打ち付ける。バケツをひっくり返したような滂沱の雨が、一寸先も見えぬほどに校庭を白く染める。
一気に空気も湿気を帯び、じっとりと重い水気が肌に纏わり付いた。
「いえ、復讐も抹消も必要ありません」
真っ黒な曇天に、カッと閃光が迸る。
「今は、引き続き監視をお願いします」
轟いた雷鳴に周囲の人々が悲鳴を上げる中、祷はただ静かに笑っていた。
***
時刻は午前2時。
雨は止んで、分厚い雲の隙間から三日月の淡い明かりがそっと差し込む静かな夜。
月宮家邸宅の3階で、神楽は眠ることなく自室のベッドに腰掛けていた。
「………何の用だ」
ガチャリと開いた扉に向かって、神楽は静かに訊ねる。
しかし入って来た者は答えることなく、真っ直ぐに神楽の方へ歩み寄ってきた。
神楽は逃げない。
「………す、み」
何故なら、拒絶できないから。
「ますみ」
寝室に侵入してきた『影』は、そのまま神楽の胸に飛び込んだ。勢い余って神楽は後ろに倒れ、影ごとベッドに沈む。
「真澄。真澄…、真澄」
ぎゅうと強く抱き締められ、静かな夜の寝室に衣擦れの音が響く。
「………、…………。」
神楽はその影に、何と声を掛ければよいのかわからず言い淀む。否、心のどこかで識っている筈なのだ。しかし知らないので言えない。
だからいつもこうやって、震える背中をそっと撫でてやることしかできない。
「……すまない、祷」
何も出来ない自分が情けない。
神楽が歯噛みしていると、するりと伸びてきた影の手が神楽の首筋に触れた。苦しくはない。しかし、名状しがたい恐怖が背筋をせり上がって全身を凍らせる。
急所だからだろうか。
否、これは本能ではなく傷だ。
─────私は何かを識っていて恐怖している。
しかし神楽は拒絶しない。
ただ、影の思うがままにさせる。
「真澄…」
だって神楽には何も出来ない。
だから。
「………。」
何もしてあげられることが出来ない詫びに、神楽はただ黙って影を抱き締め返したのだった。
登場人物
・入出 環 (いりで たまき)
聖蘭学園高等部1年生B組。大手コンサルタント企業の最高経営責任者の次男坊。跡取りである兄よりも頭脳明晰で優秀。花蓮ちゃんForeverLove♡




