6 笑顔
鳥でさえ立派な求愛行動をするのに、好きな人の前で上手く『笑顔』になれない。。
***
500年前の日本、戦国時代。
日出大名一族が治める日輪国。
月詠大名一族が治める夜永国。
2つの国は大きな大河、宵明川を境に隣同士に並んだ国だった。日が昇る東側に日輪国、日が沈む西側に夜永国だ。
宵明川の川上、山の麓で二股に分かれている中洲に天巡寺があった。その寺では日輪国と夜永国の両方の子供たちが集って共に学んでいた。
「鶴千代っ、お覚悟!」
「受けて立つ、烏丸!」
俺の名は烏丸。
月詠家本家の五男として生まれたが、兄弟の中で最も勉学ができて剣術も優れていて優秀だった。さらに容姿まで兄弟の中で1番に整っていた。
兄弟の中だけではない。寺どころか国1番の文武両道な美少年だった。
此奴が現れるまでは。
「考え事か?余裕だな」
鶴千代は涼しい顔で訊ねてきた。俺は眉間に皺を寄せながら答える。
「ああ!考えていた!」
カンッ!カンッ!と木刀が激しくぶつかり合う音が寺の庭に響く。
「貴様を倒すことだけをっ、ずっと考えているっ!」
俺の言葉に、鶴千代は満足気に頷く。
「奇遇だな、私もずっと同じ事を考えている!」
突如として天巡寺に現れた日出家本家の一人息子、鶴千代は涼しい顔をして俺から1位の座を奪った。
しかも容姿まで、俺に劣らないほど整っている。
神仏の如き神秘さで、見た者の魂を吸い取ると言っても過言ではない程に美しい。
しかし何より、鶴千代は内面が美しいのだ。
人には少なからず打算的なところがあり、他人に何かを施す時には心のどこかで見返りを求めるものである。他者と比べ、他者より優れていると感じることで自分の存在意義を確認することもある。
人には必ず醜い部分があるものだ。
しかし、鶴千代には無いのだ。
身分も高く、勉学も剣術も誰よりも優れていながら、驕ることなくどんな者とも対等に接する。見返りを求めず、他者に与えて他者を助ける。
俺が、どんなに求めても手に入らない真っ直ぐな善性で、鶴千代は他者を救い続けるのだ。
─────俺はそれが妬ましくて仕方がなかった。
「先日の剣術稽古ではお前に負けてしまった。しかし、此度は必ず私が勝たせてもらうっ…!」
予想外の角度で斬り込んできた鶴千代の剣さばきを、俺はすんでのところで躱す。躱しながら、次の技を繰り出して一切の隙を与えない。しかしそれは鶴千代も同じだ。一切の隙も見せない鶴千代の攻防に、俺の剣は踊らされる。
実力が拮抗していて終わりが見えない。俺の剣は鶴千代の剣を踊らせ、鶴千代の剣は俺の剣を踊らせる。
この時間が至福であった。
鶴千代の澄み渡った深い青空のような美しい瞳が、俺と同じ『妬み』で醜く濁って澱むから。
この時だけは、鶴千代の澄ました顔がほんの少しだけ歪むから。
─────貴様は俺の何を妬んでいる?
俺にあって、貴様に無いモノは何なのか。
こうして刀を交えていると、それが分かりそうに思えるのだ。結局のところ、分かったことは1度も無いのだが。
「だからっ…、お前は先程から何を考えているっ!」
ガツンッ!と真澄の刀が一際強く俺の刀を打った。滅多に感情の波が乱れることの無い鶴千代が、苛立ちを露にした。俺はこの瞬間も至福であると感じた。
「貴様の事だ、鶴千代!貴様以外に何も無い!!」
俺がこう言うと、決まって貴様は瞳に太陽を宿した。
(俺の言葉が、いつも貴様の瞳を最も輝かせる)
「ならば私だけを見ていろ!烏丸!!」
その閃光が真っ直ぐに俺を貫き、燃え上がらせ、俺の心は真っ黒に焦がれた。
鶴千代───、後の日出 真澄と。
烏丸────、後の月詠 鷹明は。
白と黒のように常に対照的で、太陽と月のように互いを追いかけながらも決して交わることはない。
しかし誰よりも互いが互いを真っ直ぐに、深く熱く見つめ続けていた。
──────そう、だったのに。
『鷹明様には分かりませんわ。真澄様の葛藤も、苦しみも』
亜麻色の長髪が真澄の袖に絡む。
『私だけにはわかりますの。だから私だけが、真澄様を救えますの』
真澄がその髪を、そっと指先で掬う。
「そうだな」
真澄の白銀髪がさらりと揺れ、隠れていた青空の瞳が見えた。
その瞳は柔らかく弧を描いていた。
俺が今まで見たことも無い、優しい笑顔で。
「そなただけだ、雛菊」
さらにその瞳には、俺が映っていなかったのだ。
***
「祷」
俺は目が覚めた。
「気が付いたか」
目の前にあったのは、真っ白なブラウスに包まれた豊満な乳房だった。
そのせいで、夢を通して過去を見ていた筈なのに全てがぶっ飛んだ。
「母君、祷が目を覚ましたぞ」
乳房の向こう側から神楽の声がした。
「あら本当?祷、大丈夫?」
少し離れたところから母の声が聞こえた。そして俺の視界に影が掛かる。
「顔色は良さそうね」
乳房の横から俺の顔を覗き込む母の顔が見えた。
どうやら俺は仰向けで横になっているようだ。母の顔の向こう側に、見慣れた天井も見える。
そして神楽の香りが俺の頭を包んでいる。さらに俺の後頭部は温かくて柔らかなものに支えられている。
もしかして。これはもしかして。
「起きられるか?」
乳房の向こう側に、神楽の宙色の瞳が見えた。
「大丈夫です」
俺は瞬時に乳房を避けながら起き上がる。すると額からズルリと濡れた布が落ちた。神楽がそれをキャッチする。
「ありがとうございます」
「気分は?頭は痛くないか?」
「何ともありません」
「それならよかった」
ホッと安堵する神楽の口角が、ほんの少しだけ上がっていた。俺がその貴重な微笑みに見蕩れていると、横から母がずいと顔を近付けてきた。
「……何ですか」
「天国だったデショ」
ニマニマと目も口も三日月の形にさせた母が、俺の頬をつつく。
「神楽ちゃんの膝枕よ〜♡神楽ちゃんってば、細く見えて実はかなりのダイナマイトボディだから、太腿も最高だったでしょ?」
俺は母を無視して周囲を見渡す。
ここは月宮家本家邸宅のリビングルームで、俺の右隣には学園の制服を着た神楽がソファに腰掛けている。
「俺は、どうしてここで神楽の膝の上で寝ていたのですか?」
「アンタ覚えてないの?下校途中に倒れたのよ。まぁ無理もないわね、私もビックリしたもの。帰ってきたら神楽ちゃんのお胸がとんでもなく成長してたんだから!」
「む。すまない。隠していた訳ではないのだが…」
神楽がしょんぼりと頭を下げる。
「動きにくいからサラシを巻いて固定していた」
思い出してきた。
下校途中、突然、神楽のブラウスのボタンが弾けて、さらにブラウスの中から細長い布が解けて落下したのだ。あれはサラシだったのか、なるほど。
「家の中にいる時くらい、サラシを巻くのはやめましょ?せっかくのたわわなお胸の形が崩れちゃうわ」
母が片頬に手を当てて首を傾げる。
心配しているように見せかけて神楽の胸をガン見している。
気持ちはわからなくもない。
とにかく視線が自然と向かってしまうほど大きいのだ。
俺としてはできれば邸宅の中でもサラシを巻いてもらいたい。
「それより祷っ!ちゃんとお礼言いなさい。ここまで運んでくれたの、ボディーガードじゃなくて神楽ちゃんなんだからね!」
母に言われ、俺は神楽に向き直る。……視線はなるべく胸に向かないようにして。
「ありがとうございます、神楽」
俺が礼を述べると、神楽はパッと青空色の瞳を大きく見開いて輝かせた。可愛い。いやいやそうではなく。
「それより、どうして神楽は俺に膝枕をしていたのですか?それに場所もリビングではなく、俺の寝室で良かったのでは?」
どうしてこんな、いつ兄たちが帰ってきて目撃されるかもわからない、執事やメイドたちの視線を浴びるリビングルームに俺を寝かせたのだろうか。
それに、神楽の膝枕まで。膝枕は本当に意味がわからない。
「ええっ!?アンタの寝室!?そんなっ……そんなのっ、こんな魅力的なカラダの女の子をっ、いくら中学生とはいえ男の部屋に入れる訳がないでしょう!?」
ケダモノよーッ!と母が叫ぶ。
さっき神楽の胸をガン見していた母の方がよっぽどケダモノの目をしていたが。
「不快にさせていたのならすまない。膝枕は仕方がなかったのだ」
「仕方がなかった?」
俺が聞き返すと、神楽は少し悔しそうに眉根を寄せる。
「……お前の力に勝てなかったからだ」
「は?」
「アンタが神楽ちゃんを掴んで放さなかったのよ」
母がニヤニヤと笑いながら片頬に手を添えて困ったような仕草をする。
「ボディーガードたちにも手伝ってもらってね、引き剥がそうとしたんだけど無理だったの。アンタがあんまりにも神楽ちゃんにしがみついて離れないから…」
「わかりましたなるほどそうだったのですねすみません神楽」
俺は早口で言い切ると、ソファから立ち上がってすぐにリビングルームから立ち去った。
そして足早に、メイドや執事たちの視線を避けながら自分の寝室へと向かったのだった。
──────
────
逃げるように慌てて立ち去った五男の背中を見送って、月宮 七織はクスクスと楽しげに笑う。
七織には5人の息子がいる。
おっとりとした長男、理系思考の次男、双子でありながら真逆の性質を持つ野生児の三男と芸術家の四男。
末っ子は五男。その五男は、末っ子でありながら5人もいる息子たちの中で1番手のかからない優秀な子だ。幼い頃から世を達観し、誰の手も借りずにコツコツと1人で努力することが出来る子だった。
だから一般的な家庭で想像される末っ子の性質が、五男には見られなかった。
転んでも失敗しても泣かずに、その原因を冷静に分析して同じことを繰り返さないように細心の注意を払う。そうして誰にも甘えることなく1人でやり遂げてしまう。
もちろんそんな五男を誇らしく思うが、しかし同時に寂しさもあった。
五男は母である七織を全く頼らない訳ではない。五男にとっては父である、七織の夫を頼らない訳でもない。顔を合わせれば気軽に世間話をするし、欲しい物があれば遠慮なく言ってくれる。
しかし、どこか上辺だけのやり取りをしている感覚が拭えなかった。
五男は完璧故に、掴みどころが無かった。
表情も常ににこにこと微笑みを崩さない。
親である七織たちに反抗してくることは無く、もちろん親子喧嘩なんてものは1度もしたことが無かった。
それは家庭外でも変わらず、学園でもお友達と喧嘩をすることも無かった。
しかし、ある日気付いてしまったのだ。
『祷』
たった1人、五男の感情を揺さぶることが出来る女の子がいることを。
『何ですか』
五男の頬が、ほんのりと桜色に色付く。琥珀の瞳に柔らかな光が灯り、微かに揺らめく。照れ隠しなのだろうか、力が入って眉間に皺を寄せている。
いつも仮面のようなニコニコ笑顔を貼り付けた五男が、崩れた顔を見せていたのだ。
その女の子に膝枕をしてもらっていた五男が、年相応に恥ずかしがって自分の部屋へと逃げて行ったのだ。
七織としては、五男のそんな姿が見られて嬉しくてたまらないのだが。
「怒らせてしまっただろうか…」
ソファに座り込んだまましょんぼりと肩を落とす神楽に、七織は首を横に振る。
「照れ隠しよ、照れ隠しっ。素直じゃないの、あの子は」
「照れ隠し?」
神楽が意外そうに目を見開く。
相変わらず、儚げで嫋やかな母によく似て美しい子だ。なのに生真面目で鈍感なところは完全に父親似だ。
「そうよ。祷は神楽ちゃんのことが大好きだから、膝枕してもらえたのが嬉しかったの」
七織はわざと真っ直ぐな言葉で伝えた。
朴念仁な父に似たこの子は、ここまで直接的に言わないと伝わらないから。
神楽はキョトンとした顔で何度か目を瞬かせると、ふっと口元を綻ばせた。
「そうか。それならよかった」
そう、この子は決まっていつも祷がいない時に笑うのだ。
祷が常に神楽には眉間に皺を寄せた顔をしてしまうように、神楽もまた祷には笑顔を見せられないのである。
「も〜〜、焦れったいわねアンタたちは」
「む?」
「可愛い私の息子に膝枕してくれたお礼に、ブラウスのボタン縫ってあげる。ほら、脱いで貸して」
七織が手を差し伸べると、神楽はブラウスの襟に刺していた安全ピンを外し始めた。
神楽は一生懸命、七織を待たせないように急いで安全ピンを抜いている。そんな集中している彼女に、七織はひっそりと囁く。
「今度こそ、あの子と幸せになってね」
誰の耳にも届かなかった呟きが人知れず消えたその後に。
「すまない。よろしく頼む」
五男が生まれ変わっても変わらず愛してやまない少女が、脱いだブラウスを持って顔を上げたのだった。
登場人物
・月宮 七織 (つきみや ななお)
祷の母親。浄瑠璃の人間国宝一族のお嬢様として生まれて月宮財閥の嫡男とお見合いで結婚した生粋のお嬢様だが、めちゃくちゃ面倒見がいい。




