5 巨乳
『巨乳』の子が言う肩こり酷いんだよ〜って煽りにしか聞こえないのですが?え??
顔を上げた春日が、真澄とかつての俺との夫婦絵が描かれたスケッチブックを俺に差し出す。
「差し上げます」
俺はそれを受け取り、絵が描かれたページを引っ張ってスケッチブックから切り離した。俺はスケッチブック本体を春日に返し、切り離した絵はスクールバッグからクリアファイルを取り出してそこに仕舞った。
「真澄の死体からは、この絵は見つかりませんでしたよ」
死体という言葉に春日は顔を上げた。
「貴方様が討ったのですよね?」
春日の目に怒りは宿っていない。悲しみだけがそこにあった。
「はい」
俺が静かに頷くと、春日は俯いた。しかしどこか安堵したような表情でもあった。
「不幸中の幸いですね。あれはもう、誰にも止められない戦でした。真澄様の御命を頂戴したのが、何処の馬の骨ではなく、貴方様であったことが唯一の救いです」
それに、と部長が続ける。
「今を生きる神楽さんに、前世の記憶が無さそうでよかったです」
「……何故ですか?」
俺にとっては純粋な疑問だったが、部長にとっては予想外の質問だったようだ。
「そりゃあ、死の記憶なんて無い方が良いに決まってます。真澄様の最期がどのようなものであったのか存じ上げませんが、私はやっぱり死ぬのは物凄く怖かったですから」
本当に恐ろしかったのだろう、部長は口元を引き攣らせて無理に作った笑顔を見せた。
「私だったら、どんなに愛していたとしても前世の自分を殺した人と再会するのキツいなぁって思いますので……」
(キツい、か)
もし。俺があの時、真澄に負けていたら。
今世で再会した神楽に何を思っただろう。
神楽が恐ろしく見えただろうか?
それは、否だ。
「いいえ。記憶が戻ったとして、神楽が俺を恐れることなど有り得ませんよ。むしろ斬りかかってきます」
俺だったらそうする。神楽もやる。確信がある。
「解釈違いですね」
俺が笑顔で言うと、部長は「眩しい!!尊い!!」と叫んで合掌した。
「突然の顔面宝具ありがとうございます!あとご指摘も!今後の作品作りの参考にさせて頂きます!マジでありがとうございます!!」
そう言って部長は自分のスクールバッグから同人誌を取り出すと、俺に掲げて見せた。
「かつての私が真澄様と貴方様のお幸せを願って夫婦絵を描いたように、今の私も神楽さんと月宮さんにはお幸せになってもらいたいのでね!」
部長はニッコリと明るく笑った。その笑顔につられて、俺も思わず笑ってしまう。
「残念ですが、神楽が俺に恋することは有り得ませんよ」
「またそれですか!!何でですか!?」
「神楽にとって俺は、弟みたいなものだと本人から言われていますから」
あれは俺が初等部1年生だった頃。
『貴方にとって俺は、何なのですか』
俺には4人の兄がいる。3番目と4番目の兄は双子で神楽と同い歳なのに、神楽はやたらと俺の面倒を見たがった。その理由が知りたくて、俺は神楽に直接訊ねたのだ。
『もしかして、覚えているのですか?』
『ああ、覚えている』
まさか。
頷いた神楽には、俺と同じように前世の記憶があるのかと思ったのだが。
『お前が赤ん坊の頃、転けて泣いた時。兄たちを差し置いて真っ先に私のところへ来てくれたことを』
神楽は誇らしげに頷きながら言った。
『そのとき気付いたのだ。お前は私を、姉のように慕ってくれているのだと』
違う。
『それから私は勝手に、お前を弟のように思っている』
俺は訂正するのも面倒で、『勝手にどうぞ…』と言って会話を終わらせてしまったのだが。
過去を思い出して死んだ魚のような目をしている俺に、部長は全力で首を横に振って見せた。
「そんなの分かりませんよ!女心と秋の空って言いますし!月宮さんが本気になれば惚れない人なんてこの世にいませんから!!」
知っている。事実、そうだったから。
「真澄様があの夫婦絵を懐に入れておられたみたいに、神楽さんだっていつかは…!」
「そもそも俺に、神楽と幸せになる資格なんてあるのでしょうか」
「え…」
拳を握って力説していた部長が、戸惑って言葉を失う。
「真澄は阿呆ではない、話の通じる相手でした。それならば。日月峠で対峙したとき、剣を持って闘うのではなく、俺は剣を置いて交渉すれば良かったのです」
あの戦は日輪国と夜永国の武士や百姓たちの誤解が幾重にも積み上がり、雪が転がるように小さな諍いが次第に大きくなっていったことが原因だ。
その誤解を解くために真澄と協力していれば、そもそもあの戦乱は起こっていなかった。
「国を守ることよりも、私情で真澄を殺すことを優先した。そんな俺に、神楽と幸せになる資格なんてありませんよ」
貴様から恋などされなくてもいい。
貴様から愛など得られなくてもいい。
ただ、俺にだけ、俺にしか向けられない感情を独占させてくれればいいのだ。
「遅い」
突如、扉の向こうから神楽の声が聞こえたと同時に、ドカンッと勢いよく準備室の扉が開いた。
「さっきからコソコソと2人で何の話をしている?」
背後から突き刺すような冷たい神楽の声が聞こえた。
振り返ると、開いた扉の前で神楽が珍しく不機嫌を顔に出して腕を組んでいた。その迫力に怯えたのか、部長はガタガタと震えて手や顔を全力で横に振る。
「かっ…かかかかか神楽さんッ!べっ、べべべべ別に私はなななな何もッ!」
「ただの世間話ですよ。貴方はモデルの仕事は終わったのですか?」
動揺しておかしな挙動をする部長を背後に隠しながら、俺は神楽に訊ねる。
「終わったから声をかけた」
「そうですか。では帰りましょうか」
俺がそう言うと、神楽は機嫌が直ったのかジットリと細めていた目を丸に戻して静かに準備室から出て行った。
俺は胸ポケットに入れているメモ帳とペンを取り出し、ササッとメッセージを書いた。そして手を後ろにまわして部長に渡す。
「絵のお礼に、いつでも協力します」
空想の中であれば、俺は神楽と幸せになれる。
いや、空想の中であればこそ許されて欲しい。
「……あっ、ありがとうございますっ!」
勢いよく頭を下げた部長を背中に、俺は神楽を追い掛けて準備室の外へと歩み出たのだった。
──────
────
「神楽さんが不機嫌になってるところなんて、初めて見たよ…」
美術準備室に1人残った春日は、頭を抱えて盛大な溜息を吐く。
「真澄様がご機嫌を損なわれた御姿だって、1度も見た事が無いっていうのに。…………もぉ〜〜〜〜!!!」
「どうしたの詩織っ!」
私の叫びを聞きつけた梛が慌てた様子で準備室に駆け込んで来た。
「祷くんに話って、何を話したの?」
心配そうに私の顔を覗き込んできた梛の両肩を、私は思わず思いっきり掴んでしまった。
「キャッ!?何っ!?」
「やばいどうしよう、梛ちゃんっ!創作意欲湧きまくりだよ!未だかつて無いほどのやる気に満ち溢れてるよ私はっ!!」
「ちょっ、イキナリどうしたのよっ!?」
「天啓だよ天啓!わかっちゃったんだよ!!月宮さんの名前が『祷り』である理由が!!私の名前が『詩織』である理由がっ!!」
「はぁっ!?」
「月宮さんは神楽さんとの幸せを『祷り』続けてっ、私はそんな『2人の物語を詩のように美しく織り成す』のが宿命なんだよ!!」
春日は泣いた。ダバッと音が聞こえてきそうな程に滂沱の涙を流した。
「何なのあの2人!!沼過ぎるんだけどぉ〜〜!!今日も推しカプが尊くて世界が輝いてるゥ〜〜〜!!」
「キャ──ッ!?ちょっとちょっと落ち着きなさぁ──いっ!!」
部員たちが慌てて止めに来るまで、春日は梛の肩を掴んでガクガクと前後に揺さぶり続けていたのだった。
***
神楽がずいっと顔を寄せてくる。
「詩織と何の話をしていた?」
徒歩での下校中、神楽から同じ質問をもう5度もされている。
俺は思わず溜息を吐いた。
学園の校門に出ると、3人の月宮家専属ボディーガードが門の前で待っていた。神楽と徒歩で帰るために、俺が美術室を出る時に連絡したからだ。
屋敷へ向かって歩道を歩く俺と神楽から、少し離れた場所でボディーガードたちが見守ってくれている。
「だからただの世間話です。最近は休みの日に何をしているかとか、オススメの飲食店のこととか、一般的な会話ですよ」
「む。……そうか、そうなのか」
神楽はまだ納得いかないといった顔をしている。
俺は再び溜息を吐いて神楽を見上げる。
「何で貴方がそこまで気にするんです?」
俺が逆に問い掛けると、神楽は顎に手を当てて眉間に皺を寄せる。
「詩織がわざわざお前を別室へと連れて行くなど、よっぽどの話があったのだろう?世間話で終わる訳がないと思うのだが」
「作品作りのために、俺と2人でゆっくり話したかっただけみたいですよ。他の部員たちの目があるところでは、落ち着くことはできませんからね」
あながち嘘は吐いていない。『作品作りのため』で間違いない、同人誌を作るためなのだから。『2人でゆっくり話したかった』のも事実だ。前世の話など、他の者に聞かせる訳にはいかないから。
「何が心配なんです?何が気掛かりなんですか?」
俺が重ねて訊ねると、神楽はふるふると首を横に振った。
「む。お前を信用していない訳では無い。ただ単に、お前に隠し事があると私が寂しいだけだ」
え、と声にならなかった声が俺の口から漏れる。
「…………………つまり、貴方は、部長に、嫉妬を?」
「違う」
即答だった。
「私はお前の姉のような者として、いつも一緒だったお前が私の知らない世界を知って、私の手から巣立っていくのが寂しいのだろう」
(姉、か。)
俺と夫婦になる仮想の絵を懐に仕舞っていたくせに。
いや、最期は懐に入れてはいなかったのだった。やはり姫に夢中になった時から懐に入れていなかったのだろうか。
記憶が無くとも、貴様の心は姫を求めているのだろうか。だから俺の事は弟として見るのだろうか。
(姫だけは許さない)
あの忌々しい姫にだけは絶対に貴様を渡さない。
でも。
もし、別の者だったら?
もし、貴様の仏頂面も無骨さも受け入れる、手も血で染まっていない誠実で堅実な者が貴様の前に現れてしまったら。
もしその者が、貴様を心から愛し、貴様がその愛に応えるようなことがあったら。
──────否。
そんな者はこの世に存在させない。
貴様の視線は、常に俺に向いていなければいけない。
貴様の意識は、常に俺に向いていなければいけない。
貴様の心は、常に俺に囚われていなければならない。
矛盾している、わかっている。
自分には神楽と幸せになる資格が無いとわかっていながら、神楽が自分以外の者と幸せになることが許せない。
もうグチャグチャだ。でも止められない。
「俺は貴方を姉だなんて思った事は一度もありませんよ」
ビルとビルの隙間から、燃えるような赤い夕日が差し込む。
俺は振り返って、太陽を受け止めた。
「貴方の手から、絶対に離れるつもりはありませんので」
俺の琥珀色の瞳に真っ赤な火が灯され、焦がれるような黄昏が神楽を真っ直ぐに貫く。
神楽は目を大きく見開いた。
差し込む夕日が、宇宙を湛えた瞳に真っ赤な太陽を浮かばせる。その儚げな黎明が、真っ直ぐに俺を貫き返す。
俺たちは暫しの間、見つめ合った。
黄昏と黎明がぶつかり合い、昼と夜の境界が朧気になっていく。このまま溶け合って、溺れて、2人だけの世界に沈んでいきたい。
そう、思ったのに。
突如、神楽が視線を落とした。
黎明を宿していた瞳が暗い影に覆われる。光が強ければ強いほど、影も濃く深くなる。
神楽の瞳は、真っ暗になった。
「今は、そう思っているのだろう。でも、でもきっとお前は…、いつか……」
パツンッ!!!
突如、神楽のブラウスから破裂音がした。
「え?」
カツーンと俺の足元で固くて小さいものがコンクリートでできた歩道に当たった音がした。俺は転がるそれを追いかけて、街路樹の根元で止まったそれを拾い上げた。
「ボタン…?」
俺の指が摘んでいたのは、学園の制服のボタンだった。
次いで再び、神楽の方からパツッパツッと小さな破裂音が響いた後にシュルシュルと布が擦れるような音が聞こえた。
パサリと神楽の足元に包帯のような白くて細長い布が落ちる。
「……………………………………………は?」
顔を上げた先、神楽のはだけたブラウス。
その隙間から、まあるく、ふっくらと、たわわに実った胸が顔を出していた。
神楽は、爆乳だった。
俺は、倒れた。
登場人物
・春日 詩織 (かすが しおり)
聖蘭学園中等部3年生C組。芸術家両親のサラブレッド。ベタだが分厚い瓶底メガネを外すと美しい顔をしている美術部部長。祷と神楽のカップリングが命。




