4 夢
誤りも偽りも正しくないことだけど、それに『夢』見たっていいでしょ〜!
両手を広げて『ドンッ』と構える神楽。
まるで剣の手合わせをする前のような無骨さに脱力する。
(意識しているのは俺だけか)
神楽の脳内辞書には照れも恥も存在しないのかもしれない。
こちらばかりがグルグルと考えて変に意識しているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
(さっさと終わらせましょう)
俺はスタスタと神楽に歩み寄り、その首元に額を寄せて両手を前に出した。そのまま神楽の懐に入り込み、神楽の細い腰に軽く腕をまわす。
「……む」
神楽が戸惑って、俺の背中にまわそうとした腕を途中で止めた。
俺は小さく息を吐き、神楽の腰にまわしていた腕を上方に移動させて力を強めた。ぐっと身体が密着したところで、神楽の背中に両の手のひらを這わせる。
これが手本だ、とでも言うように。
すると神楽も、ぎこちない動きだが俺の背中に腕をまわして優しく抱き締め返してきた。
悔しいことに俺はまだ成長途中で身長が低い。神楽は女性にしてはかなりの高身長で、中等部3年生だが172センチもある。
対して俺の身長は160センチだ。
俺が神楽の腕の中にスッポリと収まってしまう。
チラと視線を横向けると、ギラギラと血走った部員たちの目が見えて背筋が凍った。まさに獣だ。先程までキャーキャー騒いでいた部員たちは、瞬きもせず、一言も喋らず、俺たちを凝視している。
部長に至っては鼻から滂沱の血を流している。
大丈夫だろうか。
「む。余所見をするな」
突然、ギュウと強く抱き込まれて頭が神楽の胸元に埋まった。鼻腔を蕩かす神楽の香りに目眩がする。
幸いなことに、神楽の胸は楚々としていてあまり膨らみを感じない。だからギリギリ理性を保てた。なるほど俺は巨乳派だったのか。いやいやそうではなく。
「神楽っ、苦しいです」
「だったら余所見をするな」
(どの口が言ってるんだ)
あんな姫なんぞにうつつを抜かして俺から余所見をした、貴様がよくも言えたな。
「貴方の方が余所見をしているでしょう」
「いつ、どこでだ?」
「今も、昔も、ずっと。何処でも」
俺は思わず神楽の背中に這わせた手にグッと力を込めて掻き抱く。
(ああ、この体勢は)
あの日、首の離れた貴様の身体を必死に抱き締めていた姫の姿が脳裏を過ぎる。忌々しい。
「貴方は誰にでも優しさを振り撒く。分け隔てなく全ての者に手を差し伸べる。平等に、皆に与える。昔からそうだ」
その優しさを向けられるのが大嫌いだった。
貴様が善意を向ける、その他大勢と一緒にされるのが不愉快極まりなかった。
俺は貴様が決してその他大勢に向けることの無い、醜い感情が欲しかった。
なぜなら貴様が、俺の『唯一』だからだ。
「私の目はいつもお前に向いているぞ」
「嘘ですね」
「私が偽りを述べたことが無いのは、お前が1番よく知っているだろう」
「知りませんよ。俺は貴方のことがわからない」
どうして俺に首を斬られたとき、貴様は笑ったのか。
最初で最後の笑顔。その意味を考えて考えて考え続けても、終ぞわからなかった。
「偽ってはいないのでしょう。でも、貴方は語らなさすぎる。言葉だけではありません、表情も、仕草も、挙動も全て。だからわからないのです」
今だって貴様の心臓はゆっくりと鼓動している。
本当に腹が立つ。大嫌いだ。俺の鼓動はこんなにも激しく逸っているというのに。
貴様の香りに包まれて、貴様の熱に蕩かされて、どうしようもなく高鳴る心臓を抑えられずにいるのに。
突然、神楽が俺の背中を恐る恐る撫でた。
「何のつもりです?」
「すまない」
「何に対しての謝罪ですか」
「私はずっと、隠している。だからすまない」
神楽の口から出た予想外の言葉に、俺は次の言葉が見つからずに黙り込む。そんな俺の背中を撫でながら、神楽はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「お前に気付かれてしまうのが怖い」
────何を?
俺の意識も神経も、全てが神楽に向く。
ずっと求めていた答えが、ようやく目の前に見えてきたような感覚だ。
神楽が唇を開く。
相変わらず桜色に艷めく美しい唇だ。
神楽が声を発する。
相変わらず耳馴染みの良い清らかな声だ。
「私は、ずっと…」
しかし次の瞬間。
バターンッ!と重いものを床に叩き付けたような音が美術室に響いた。
「ちょっとヤダ部長────ッ!!?」
次いで梛の絶叫も響き渡る。
倒れた部長はひどく青ざめた顔をしていた。まぁおそらく貧血だろう。あんなに鼻から血を流していたのだから。
「詩織っ…!」
神楽も俺から離れて部長に駆け寄る。そして慣れた様子で手早く彼女を抱き上げた。
「医務室に行く」
それだけ言うと、神楽は部長をお姫様抱っこにしたまま美術室を駆け足で出て行った。
梛も慌てた様子でその背中を追いかける。
さらに神楽たちを追いかけようとした梛以外の部員たちを、俺は手で制した。
「大勢で医務室に押しかけては迷惑になります。残った俺たちでここの片付けをしましょう」
美術室を見渡すと、床には部長が流した鼻血が溜まっていた。さらに先程の震度3の地震でイーゼルは倒れ、棚から大量の筆やらパレットやら絵の具のチューブが落ちて散乱していた。しっちゃかめっちゃかである。
俺の言葉に頷いた部員たちは、大人しく美術室の片付けを始めた。俺もそれに参加し、黙々と絵の具のチューブや筆を拾い続けた。
そしてあらかた片付け終えたところで部員の1人に声を掛けられた。
「あの、ありがとうございました!なんとお礼を申し上げたらいいか…。後は私たちでやりますので…!」
神楽が部長を医務室につれて行ってから30分は経過している。あとは落下したパレットや筆のせいで汚れてしまった床の拭き掃除が残っているが。
「……では、お言葉に甘えさせて頂きます」
俺は部員たちに軽く頭を下げ、自分と神楽の荷物を持って美術室を出たのだった。
***
「お騒がせして大っ変申し訳ございませんでしたァ…!」
俺が医務室に入った途端、鼻栓をして額に冷えピタを貼っている部長に深々と頭を下げられた。
「回復されたようで何よりです」
部長の顔色はすっかり良くなっている。
興奮で知恵熱が出ていたので頭に氷嚢をのせられながら、足元が高くなるようにふくらはぎにクッションを置いて横になっていたそうだ。
現在、部長は鉄分入りのドリンク剤を手にベッドに腰掛けている。その隣に梛が座り、その向かいに置いた椅子に神楽が座っていた。
「ごめんなさいね、祷くん…。本当にありがとう。美術室の片付けまで手伝ってくれたのでしょう?さっき副部長からラインあったわ」
眉根を下げた梛が俺に頭を下げる。
「いえ、あの地震は俺と神楽が起こしたようなものなので」
俺は美術室から持ってきた神楽のスクールバッグを持ち主に手渡す。
「帰りますよ」
神楽は心配そうに部長に視線を向けたが、梛が首を横に振った。
「神楽ちゃん、大丈夫よ。詩織のことはアタシに任せて」
「そうか。詩織、お大事にな」
「ありがとう神楽さん…」
ようやく立ち上がった神楽をつれて、俺は保健室を出ようとした。
しかし。
「あっ、えとっ、…あの!!」
突然、部長が大きな声を上げた。
驚いて俺たちは振り返る。
「ちょっと待ってください…」
「詩織?」
顔を赤らめながらも必死に俺を見つめる部長に、梛が困惑して首を傾げる。
「あの……、月宮さんに、ちょっとだけお話が…」
「………俺、ですか?」
俺も困惑して、目を丸くさせた。
──────
────
掃除が終わって綺麗になった美術室に、再び俺と神楽と部長と梛が戻って来た。
心配していた部員たちが部長に駆け寄り、1人ずつ順番に部長に声を掛ける。部長は1人1人に謝罪や感謝の言葉を述べ続けた。最後の1人に感謝を述べ終えた部長は、俺を振り返った。
「月宮さん、私と準備室に来てもらっていい?」
その真剣な様子に、俺は微笑みながら頷く。
「もちろんですよ」
「ごめん、みんな。ちょっとだけ月宮さんと2人で話したくて」
「アラ。そしたらその間、神楽ちゃんをモデルに使わせてもらっても良いかしら?」
梛が神楽の肩に手を置き、俺を見て首を傾げた。
「いいですよ。でも今度は興奮しすぎないように気を付けてくださいね」
俺の言葉に、部員たちは揃って「はーい」と返事をした。
「では、月宮さんは私と一緒にこちらへ」
部長が自分のスクールバッグを持って、恭しく美術準備室の扉を開ける。頭を垂れて、少し腰を低くしている。
「どうぞ」
俺に、美術準備室へ先に入るように促す部長の姿は、どこか別人のように見えた。
(慣れている)
現代日本の学生とは思えない、身分の高い者への敬意の示し方に慣れている様子に違和感を覚える。
「ありがとうございます」
俺が準備室に入ると、部長は静かに扉を閉めた。
「荷物はどこでも好きな場所に置いてください」
俺は部長に言われた通り、近くにあった棚の上にスクールバッグを置いた。
準備室の中を見まわすと、沢山の画材が俺の身長を遥かに超える高さの棚にびっしりと詰め込まれている。しかし整頓されていて煩雑ではない。
キョロキョロと俺が準備室を眺めている間に、部長が奥から椅子を2つ持って来てくれた。
「どうぞ、使ってください」
「ありがとうございます」
棚と棚の間で、俺たちは向かい合うように椅子に腰掛ける。
部長は自分のスクールバッグを膝の上に載せると、俺を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「単刀直入に聞きますけど、月宮さんって記憶ありますよね」
「記憶?」
俺が聞き返すと、部長は自分のスクールバッグから歴史の資料集を取り出した。そして今日の朝に俺がたまたま開いた、日月峠の戦いが特集されたページを開く。
「これ、私が描いたんです」
春日部長が指したのは、500年前に描かれた真澄の肖像画だった。
「私は日出大名家専属の浮世絵師でした。日輪城に飾る屏風の絵や、武者絵、合戦浮世絵を描いていたのです」
俺は驚きのあまり目を見開いて黙り込んだ。
そんな俺に、春日はスクールバッグからさらにスケッチブックを取り出す。
「転生してから、芸術家をやってる父に捜索を頼んだり、自分でもいろんな資料館とか巡ったりして探したんですけど、見つからなかったので復元しました」
スケッチブックに色鉛筆で描かれていたのは、花嫁衣裳を着た真澄と月詠家の家紋が入った紺色の着物を着た鷹明だった。
「たぶんあの戦で全部焼けてしまったみたいです。ま、あの戦で私も家ごと焼け死にましたし、絵なんて残ってなくて当然なんですけど」
絵の中の真澄と鷹明は、お互いを見つめ合って微笑んでいる。
「前の人生でも、今描いている同人誌と似たようなものを描いてたんです。貴方様と、真澄様が夫婦になる姿を想像した絵を」
「真澄には見せていたのか」
俺の問いかけに、春日は頷く。
「私から積極的にお見せした訳ではありません。私が趣味で描いただけのものでしたから。しかし、御依頼頂いていた風景画をお見せする際に、それが混ざっていたのに気付かなくて…、たまたまご覧になられたのです」
貴様はどんな顔をしていたのだろうか。今の俺のように驚いただろうか。
「真澄様はいつも私の絵をご称賛くださいました。中でも、この、貴方様との夫婦絵をとりわけお気に召されまして。ご所望されたので差し上げたのです」
真澄が、俺と夫婦になった仮想の絵を?
「その後、いつも懐に入れておられたと真澄様の近侍殿からお聞きいたしました」
懐に?信じられない。
だって、だって真澄の死体からは見つからなかった。
つまり、その頃には必要の無いモノだったということか。
何故?
愚問だ。奴しかいない。
あの、忌まわしき姫。
『真澄様っ…!』
亜麻色の長い髪を靡かせて真澄に纏わり付いていた、雛菊姫。
「貴方は、雛菊姫の絵も描きましたか?」
予想外の質問だったようだ、春日が眉を上げる。
「はい。姫からも御依頼がございましたので、描かせて頂きました」
「真澄と2人の絵ですか?」
「はい」
俺の胸に、再び暗流が迫り上がる。
それはまるで、あの日、真澄の首が落ちた糞のような色の汚泥と鮮血が混ざりあったような濁りだ。真澄の首を濁色に染め、真澄の首を飲み込まんと纏わり付く、あの日の粘った泥のような感情が俺の腹の底で煮え滾る。
「二度とその絵は描くな」
煮え滾る腹の底から溢れ出た呪言のような俺の一言を、春日は動じることなく受け止めた。
受け止めた上で、俺の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、何とも言えない表情になって頭を垂れた。
「承知致しました」
登場人物
・加賀美 梛 (かがみ なぎ)
聖蘭学園中等部3年生C組。大手アパレル企業の跡取り息子。ふざけているようで実は誰よりも空気を読んで行動している。実はずっと前から美術部部長のことが好き。




